26.「南宋」の滅亡と本格的異民族帝国「元」の登場
まだ、中国に行き始めの頃、上海の明代の名園、「豫園」を友人と二人でブラブラと散策していた折のことである。
庭を歩いていて新しい一角に入った時、少し先に目をやると、離れてはいたが白く大きい穴だらけの奇岩が池を前景に屹立しているのが視野に入ってきた。
その石が立っている配置も塀の前の丁度頃合いの位置に、奇岩単独では無く左右に脇侍を従えた三尊仏のように他の石と共に据えられていたのである。
近寄ってみるまでも無く目に入った瞬間、これは、中国の名園で良く見る「太湖石」だと思った。
太湖石は上海から遠くない蘇州近くの太湖の周辺の丘陵から採れる奇石であり、産地からの距離から見ても上海にあっても可笑しくない石だった。この奇岩は中国人には昔から好まれていて、北京その他の蘇州から遠い庭園でも見る機会の多い石なので、上海で見ることに違和感は無かった。
しかし、この奇石を見た瞬間、何故か、余りの見事さに、若しかしたら、あの有名な徽宗の「花石綱」の中の一つではないかと思った。花石綱は徽宗が贅にあかして、中国全土から、名木や珍奇な花、奇石を収拾して、人民に大きな迷惑を掛けた行為の代表と聞いている。巨岩の運搬で邪魔になる民家や橋は壊される一方、掛かった膨大な費用も含めて国民生活への影響ははなはだ大きかったと伝えられており、民衆の怨嗟の声は後の世まで残る迷惑な国家事業だったのである。
近寄って石の傍の案内板をみると、当に徽宗の「花石綱」の名石の一つで、この石には立派な「玉玲瓏」という名前も付いていた。
豫園の建設は徽宗の時代から見ると遙か後代の明代の1559~1577年頃の建設といわれるが、宋の滅亡から430余年以上後代の名園の象徴的存在として花石綱の名石が徽宗の遺産として飾られているのを見ると、北辺の地で斃死した徽宗の真情よりも北宋滅亡以降、「南宋」が歩んだ激動の歴史と中国人民の遭遇した苦労を思ってなんとも表現しようのない感情が溢れてくるのだった。
徽宗は奇岩、名木だけで無く、古代の青銅器の収拾にも血道を上げている。現在、台北の「故宮博物院」に収蔵されている古代の青銅器の大コレクションの基礎を築いたのは徽宗だと聞いたことがある。
しかし、繁栄を誇った北宋を滅亡させて、華北一帯の国民を混乱の淵に引きずり込んだ文弱な皇帝の過去の遺産など、庶民にとっては一顧する価値も無いような想像に囚われつつ徽宗遺愛の太湖石に後にした記憶がある。
(本格的征服王朝「金」とそれからの宋朝、「南宋」)
「北宋」を滅ぼした金の太宗は、新たに占領地となった華北支配の方法に当初、大いに戸惑っている。初めの構想では、華北一帯に宋の旧臣を王とする傀儡政権を樹立させて、金としては従来通り「歳幣」を傀儡政権から入手する方向で戦後処理をして終りたかったようだ。
所が、拉致した欽宗の弟「高宗」が建康(南京)で亡命政権を樹立、金軍の執拗な追跡を逃れて、最終的に西湖の辺の「臨安」に行在所を設けて「南宋」の建国を果たした為、金としても中国政策の根本的な見直しをする必要に迫られたのだった。
北宋があっけなく崩壊した背景には、宋の募兵制による軟弱な国軍の実態があった。当時世界最先端の火器を初めとする各種新兵器を保有しながら、文弱に流れた宋の優秀な人材は、決して軍の将軍になろうとはしなかったし、一般庶民でも兵になろうとする人間は、最低限のクズ人間だと一般に見られていたのである。
しかし、首都開封が陥落すると各地で夷狄の金軍に抵抗する勤王有志の将軍達が輩出する不思議な現象が起きている。けれども、そうはいっても各地で反撃を開始した将軍達も自軍の兵を損なうような本格的な北伐には極めて消極的だったのである。
そんな中、失われた華北の奪回を熱心に主張する中心に「岳飛」が居た。岳飛は、初め、義勇軍に参加して頭角を現わし、1133年以降、長江中流域の防衛を指揮して南宋を代表する軍司令官の一人として注目されている。北伐に情熱を注ぐ岳飛は、一時、旧都開封に迫るところまで進出するが、友軍の撤退によって孤立し、後退せざるを得ない苦渋を経験している。
しかし、金側も南宋に対して全く無策だった訳ではなかった。中国人文官の無力感を巧みに利用した妙手を打ってきたのである。
一時、金に対して強硬派だった為に、徽宗と共に北に拉致された重臣の一人「秦檜」を懐柔して高宗の下に送り込んで来たのだった。
金に籠絡されて、金から脱走したと自称して高宗の足下に逃げ込んだ秦檜は、対金恐怖症に囚われていた高宗の心理を巧く掴んで南宋の宰相に就任している。
十分な資料が少ないため断言は出来無いといわれているが、秦檜を送り込んだ金の目的は、「南宋」との間の和議の締結と美味しい「歳幣」の復活にあったと考えられる。
高宗の暗黙の了解の元、秦檜は反対派筆頭の忠臣岳飛に無実の罪を着せて獄中で毒殺、その他の将軍連中の権力も奪って、強引に金との和約を成立させている。
中国の歴史を読むと敵国と好みを結び、自己の栄華を達成するために自国の良将や政敵を謀殺する大臣や宦官が良く出てきて寒気を催すケースがまま有るが、その代表選手の一人が南宋の秦檜であった。
けれども、「忠臣岳飛」を謀殺し敵国に魂を売った悪人「秦檜」の政治的な駆け引きの実態は、そう単純では無かった。岳飛を初めとする北伐派の武臣が勢力を得て、北伐を開始すれば金との戦闘行為は何時までも終ることが無く、建国早々の南宋の脆弱な国力は消耗、国家としての滅亡を早めた可能性が高かったのである。
高宗の暗黙の了解の元、秦檜の外交力能力と陰湿な政敵への粛正策によって、南宋と宿敵金の間の和平が成立出来たのも悲しい現実だった。特に、百数十万人もの巨大な軍隊を持ちながら、あっけなく崩壊した北宋の過去を引きずりながら建国した南宋の政権担当者にとって、阿諛迎合と非難されようと政権の安定こそが絶対的な国是であったのでは無かったかとその心理の裏側を推測してみたい。
(二人の名君、「金の世宗」と「南宋の孝宗」)
北宋に変わって華北を占領した「金」だったが、前述したように、最初、占領した淮河から北の華北全域を自国の領土として編入する自信が無く、中国人の傀儡政権を樹立させて支配しようとして失敗、秦檜を用いて南宋との和約に成功した経緯もあって、次第に本格的な華北支配に踏み切っている。
特に、太宗に次いで皇位に就いた甥の第3代皇帝熙宗は王朝の漢人化政策に熱心で、中国風の行政組織を採用して施政面での充実を図っている。
金が参考とした統治機構は「唐」の「三省制」による組織の一元化だった。唐の三省制とは、あの門下省(立法)、尚書省(行政)、中書省(法案作成)から成る組織形態で、金は皇帝権力を強化しつつ本格的中国王朝への変身を図ったのであった。
しかし、「金国」自体の中国化の推進は、次の「世宗」時代なると女真族特有の気風の衰えを徐々に招くようになっていった。騎乗による急襲や騎射が得意だった女真族の中国化は相対的に周辺の遊牧民族との軍事力との格差を拡大し、金の弱みに付け込むモンゴルの侵入を招くのだった。
それに加えて、巨大な人口を持つ中国北部を自領に組み入れたことにより、領国の中の人口比で女真族の少数化を招いてしまったのである。中国最大の強みの一つが古代から変わることの無い膨大な中国人の人口であった。漢人文化を採り入れて融和を図る名君世宗の政策は少数民族の女真人が中国の巨大な人口に飲み込まれる危険性を含んでいたのである。
一方、南京で建国した「南宋」は、やがて西湖の辺の風光明媚な現在の杭州(臨安)に「行在府」を移して、国情の安定化を第一に国の再建を進めるのだった。
しかしながら、一度亡国の淵を彷徨った南宋と金の関係は、「歳幣」という金品の上納だけでは済まなかったのである。
それは、金と南宋の間の身分関係の大変動だった
当初(「澶淵の盟」)、金の前の北方民族「遼」と「北宋」の身分関係は宋を兄として遼を弟とする関係からスタートしている。けれども敗戦国「南宋」と「金」の関係は中華民族として最悪の従属関係からのスタートだった。
1164年、蛮族「金」を主君とし、中国王朝である「南宋」を臣下とする国辱的な関係で、「隆興の和議」が締結されている。
南宋の知識人にとって屈辱的な内容ではあったが、「淮河」を国境として取り敢えず、南北中国は平和な安定期を迎えたのだった。
両国間の平和が実現した背景には、両国にほぼ同時期に名君が出現した点も忘れてはいけない。金の「世宗」(在位1161~1189年)と南宋の孝宗(在位1162~1189年)である。
両者の在位期間も近似しているが、平和を求める阿吽の呼吸の一致もあって両国は、それぞれが軍事的な対立期を終了して、内政に勤しむ時期を迎えたのである。
金の世宗は、新しく領域となった華北支配の充実に注力して、農耕地域の中国人支配を確実にしている。一方の南宋の孝宗は養父高宗から譲り受けた国家の問題点の整理を急いでいる
その第一は、国家規模に比較して多すぎる官吏の人員削減であったし、第二は、発行しすぎて問題が顕著になり始めた「会子(紙幣)」乱発の引き締めと江南経済の安定化だった。
孝宗はこの二つの問題点の修正と改善を図りつつ、南宋の経済基盤である江南の農村地帯の体力回復に努力している。農村と庶民の生活面の向上は南宋全体の経済の活発化に直結する重要な課題だった。
幸いな事に、失った華北と異なって、江南の地味は豊かな上に、気候も温暖であり、行在所がある臨安の南の地域も漸く発展時期を迎えた背景もあって、南宋は北への歳幣の重い負担に耐えつつ国家体制整備に成功している。
華北と江南の間に平和が戻った結果、宋本来の交易主体の国家運営が復活して、海外との通商も活発化している。この時期、宋船は博多を初め我国にも多数来着して、膨大な宋で不要になった宋銭を初めとする文物を届けるだけで無く、多くの禅宗の高僧の来日に貢献している。
(「金」の衰退と「モンゴル」の侵入)
しかし、両国間に於ける平和の到来は、結果的に軍事国家「金」の中国化と軍事基盤である女真族全体の戦闘力の低下を招いてしまったのである。
南宋から毎年到着する安定した「歳幣」によって、金朝の王家を初めとする貴族層に奢侈が蔓延し、北から侵入しつつあるモンゴルの弓騎兵に対抗出来る軍事力を既に失っていたのである。それでも、西の隣国、「西夏」が存在する間は、まだ幸運だった。
ジンギスカンがイスラム圏の征西から戻り、本格的に西夏攻撃を実施した結果、1227年に西夏が滅亡すると金朝は大モンゴルの重圧を単体で直接受けることとなった。
金もモンゴルからの重圧に無策だった訳では無かった。金朝版万里の長城とでも呼んだ方が良い、「界壕」と呼ばれる草原を横切る長い空堀を建設してモンゴル軍に金朝は備えている。その全長は、7,000km以上に達し、重要部分は幾重にも壕を掘って用心はしていたのだった。
しかし、膨大な経費と人力を費やした長大な界壕だったが、最終的にはモンゴル軍の阻止に役立たなかった。モンゴル軍の脅威に耐えかねた金は、首都を現在の北京から北宋の旧都だった開封に移して延命を図ったものの、1234年、モンゴル軍に滅ぼされている。
その結果、文弱な官僚国家の「南宋」が、金以上の強敵、モンゴルと直接対峙しなければならない非常事態となったのである。
しかし、愛国心に鼓舞されて南宋各地で群雄がモンゴル軍に抵抗を開始した為、皇帝モンケ・カンのモンゴル軍は南宋攻略に手こずり、モンケ・カンは南宋包囲網構築の為、弟フビライに現在の雲南にあった「大理国」の征服を命じたのだった。フビライの大理国征討は成功に終ったが、その間に兄のモンケが病死して、時代はフビライが主役を務める時代へと移っていくのだった。
1260年、フビライは即位するにあたって国号を中国風の「元」と定め、後に現在の北京の地に冬の首都として「大都」を建設している。
その後、本格的な南宋征討を命じた元軍が南宋と対峙した地点は、漢江の川岸にある巨大な城郭都市「襄陽」とその対岸にある「樊城」 だった。襄陽と樊城は浮橋で連絡されていた兄弟都市で総司令官呂文煥の知略と勇戦により両城は数年に渡って堅守された。
両城の攻略に際してフビライは無用な力攻めを避ける一方、両城の周囲に大土木工事による堅固な包囲網を築くと共に、多分、これは想像だが、既に占領した旧金国領で入手した攻城兵器の全てを投入して攻略を急いだと考えられる。
中国製の投石機や火薬を用いた最新兵器を投入しても広い城壕に囲まれた襄陽と樊城の二城を攻略できずに4年が経過している。
その状況にフビライが打った手は、如何にも世界帝国の王者らしい奇策だった。中国製の兵器の力不足に対し、攻城兵器では当時、世界最高の性能を誇るイスラム圏からの新兵器製造技術者の到着を甥に依頼したのだった。
フビライが兵器製造技術者の派遣を依頼した先は、現在のイラク、イランを領有するフラグ・カン国の甥アカバだった。アカバはそれに応じて、イスマイールとアラー・ウッディーンの2名を襄陽に派遣している。到着と共に二人はペルシャ式攻城兵器の「平衡錘式投石機」の製作に着手、間もなく完成させている。
投石機の完成と共に元軍は、襄陽の姉妹都市樊城に、まず、攻撃を開始したのだった。伝説では、重さ約90kg以上の巨石を500m以上、飛ばすことが出来たという投石機の威力は絶大で、今までに無い圧倒的な破壊力を示した。
従来の中国製投石機では到達が難しかった幅広い城壕を難なく超えて飛来する無数の巨石が城楼や城壁、城門を瞬く間に破壊する様子を見た人々は、このペルシャ式攻城兵器を「回回砲」と呼んで恐れたという。その結果、5年に渡って堅守した樊城は、あっけなく陥落している。
樊城陥落後も巨大投石機の攻撃下に抵抗を続けた襄陽だったが、「回回砲」から降り注ぐ巨岩の強襲に恐慌を来した全住民の命を助ける為、城将呂文煥は元軍への降伏の道を選んだのだった。
死を覚悟した呂文煥以下の敵将に対し意外にも、フビライは元の官位を与えて厚遇する過去のモンゴル軍らしくない対応策をとっている。
この「襄陽戦」の結果は予想以上の成果をフビライにもたらしたのだった。
5年以上に渡って頑強に対抗した襄陽が陥落した事実は南宋全体に落胆と共に伝わったし、敵将呂文煥を自軍に組み込んで優遇したフビライの行為は、南宋軍の自壊現象を加速したのである。これ以降、有力な南宋軍の元への投降が続く。
結果論だが、南宋攻略戦のピークは、「襄陽の戦い」だったのである。
南宋は、1276年、臨安を占領されて事実上、滅亡している。
長かった「宋」の支配(960年~1279年)に終止符を打ったフビライだったが、世界で初めて、広大なユーラシア大陸の中央から東の主要部分を統治したジンギスカンの孫にとって、皇帝一人で全てを統治するには余りにも広すぎる世界帝国の規模だった。
良く知られているように、ジンギスカンの孫達の代には親族間で、本家が統治するモンゴルから中国を領域とする「元」と、その西に位置するチャガタイ・ハン国、更に西のロシアを含むキプチャク・ハン国、カスピ海の南側に位置する現在のイラクやイランを含むイル・ハン国に分割統治されている。
モンゴル族の統治した各ウルスはモンゴル人独特のアイデンティティを保ちながらも、宗教的に極めて寛容であり東西交易に熱心であった。そして各ウルス間には、「ジャムチ」と呼ばれる駅伝制度によって連絡網が整備されて従来難しかった東西の人的、物的交流に大きく貢献している。
過去に強大だった「古代ローマ帝国」にしても、中国の「唐王朝」にしてもモンゴル帝国ほど広範囲な東西交流に貢献した帝国は、それまで存在しなかった。
このように、モンゴル帝国は、これまでの世界帝国とは異なる「草原ルート」を中心とした史上空前の広大な帝国をユーラシア大陸に実現させたのである。
本稿では、未知の領域が多く、多数の方々の著作にお世話になった。中でも、杉山正明先生(京都大学教授)のご著書からお教え頂いた部分は膨大で厚く御礼申し上げたい。
何時もの事ながら、素人の歴史散歩を可能にしてくれる日本の学術研究者層の厚みと自国語で異国の歴史に触れることの出来る幸せを感謝したい。
(参考資料)
1.遊牧民から見た世界史 杉山正明 日本経済新聞社 1997年
2.モンゴル帝国長いその後 杉山正明 講談社学術文庫 2016年