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25.中国人支配を学習した契丹族「遼」と女真族「金」

「漢」の時代の「匈奴」以来、歴代中国王朝は中央アジアや北東アジアの遊牧諸民族の侵入に苦しめられてきた。中国周辺の異民族である「胡族」に開放的に接してきた「唐王朝」も節度使として優遇した胡族の首領達による反乱によって衰退している。

926年中国北部から満州に掛けて広大な領土を持つ「渤海」を滅ぼした契丹族は、947年東西に広域な領土を持つ「遼」を建国、自国の南側にある列国に対して圧力を強化している。

 外交的な圧迫を受けた国あるいは民族を中央アジア寄りの西側からから挙げると、「ウイグル族」、「西夏」、「宋」、朝鮮半島の「高麗」の順になる。

しかし、ここで注意しなければならないポイントが、契丹族の「遼」が放牧狩猟を主とする「匈奴」や「モンゴル」等と異なり、単純な「騎馬民族」では無かった点である。

古代中国からの文化的影響を強く受けてきた中国周辺民族の中には、例えば渤海のように、大きな都城を何カ所も築いて、定住農耕民的要素を濃厚に持つ民族も多く存在していたのである。

以前から、日本では中国周辺の農耕民では無い諸民族を間違った知識かも知れないが「騎馬民族」や「狩猟民族」と一括して呼ぶ雰囲気(笑い)があり、学生時代から強い疑問を個人的に抱いていた。

そんな折り、出合ったのが2012年の「契丹展」だった。


(巧妙な異民族統治機構を持つ「契丹族」の登場)

古代に大活躍した「匈奴」や「元」を建国したモンゴル族等を放牧狩猟が主の勇猛な「騎馬民族」と呼ぶ点に関して異存は無い。

そういう意味では、本格的な中国に対する最初の「征服王朝」である契丹族の「遼」も「騎馬民族」と大枠で捉えても大きな問題は無いようだ。

しかし、内モンゴルを主な根拠地として勢力を満州や中国東北部(燕雲十六州)に拡大した「遼」の政治機構と行政組織は単純に騎馬民族では割り切れない複雑さを感じさせる。

人種的にも契丹人に加えて、旧渤海人や中国人が傘下に加わった上、従来の遊牧民の他に「半農半牧」の女真人や完全な農耕民である定住中国人が「遼」の支配下に次々と加わったのである。

そう考えながらも、契丹族がどの様な民族で、どの様な文化を持っていたのか実感出来ないモヤモヤを相当昔から抱えていた。

その漠として形にならない状況をスッキリさせてくれたのが、2012年の「契丹展」であった。


その主体は、トルキ山古墳や陳国公主墓、慶州白塔などからの数々の出土品の展示だったが、10世紀前半の「彩色木棺」や耳飾りなどの装飾品を見ても、単純な「騎馬民族」の埋葬品とはとても思えない豪華さだった。もう少し穿った見方をすると滅亡した「唐の文化」の継承民族の一つでは無いかとさえ感じさせる、多くの展示品だった。

本によると契丹族は4~14世紀に内モンゴル、中国東北地方から中央アジアに掛けて勢力を維持していた民族とある。特に、「遼(916~1125年)」の建国後は、北宋を「澶淵せんえんの盟」で圧迫、中国北部の「燕雲十六州」を自国領として承認させ、今日の北京周辺の中国と満州全域に及ぶ広大な支配領域を確立、強勢を誇っている。


「遼」が支配下の広大な地域に「遊牧狩猟民族」を初め「半農半牧民族」、中国人である「定住農耕民族」等々の多くの異なる民族を包含する国家だった点は前述した。

その為、遼は国内統治に関して柔軟に「二重統治体制」を敷いている。即ち、支配下の国民を遊牧・狩猟民と定住農耕民に分けて異なる法制機構下に統治したのだった。

もう少し、詳しく「二元的な遼の国制」を述べると遊牧民の統治機構として部族制を基本とした「北面官」を設けると同時に、漢人を主とする定住民の統治機構として中国風の州県制を維持した「南面官」を設けて国内を統治している。

即ち、中国系住民、あるいは漢人化して農耕民となった諸民族と旧習のままの放牧狩猟生活を営んでいる契丹族やその他の民族に対し、異なる二つの統治システムを柔軟に運用して、安定した最初の「征服王朝」を中国北部で確立した民族が「遼」だったのである。

しかし、「遼」では自分達の権力の根源である軍事と政治両面の実権は、「北面官」のみが掌握していたのに対し、漢人を長官に据えた農耕民支配の「南面官」には軍事権は無かったのである。更に、伝統文化の異なる二つの集団に適用する刑も両者では異なる巧妙さで施行されていたという。


(中国東北地方の女真族の「城郭都市」と「山城」)

契丹族や女真族を単純に「騎馬民族」あるいは、「半農半牧の民族」と表現する点に反論したいと常日頃思っていたところ「契丹展」の次に出会ったのが、次の著書だった。

『東アジアの中世城郭』―女真の山城と平城―と題する本で、著者は、札幌学院大の臼杵勲教授である。

詳細はお読み頂くとして、プロローグの「日本海対岸の中世城郭」では、日本の中世城郭に似た山城や中国の城郭都市の縮小版のような方形で枡形式城門を持つ平城の幾つかが地図や測量図と共に載っている。

『金代女真族の城廓建築の背景には、(中略)中央集権的要素と部族連合的要素の双方が共存していたと考えられる』と先生は述べておられる。

古代中国東北部と朝鮮半島で強勢を誇った「高句麗」は、多くの山城や堅固な平城によって、隋や唐の大軍を何度も撃退しているし、高句麗の後継国家ともいわれる「渤海」の首都「上京龍泉府」を始めとする五京は、整備された矩形の城郭都市として日本でも良く知られている。

平面図を見ても唐の長安城や奈良の平城京と同様の碁盤の目状の区画(正確には長方形だが)に分けられており、現存する城壁も約2~3mの高さがあるという。

高句麗の滅亡や渤海の衰退を経験した満州各地の諸民族だったが、各部族が見た歴代の山城や都市城郭の印象は、満州民族の記憶に長く残ったと考えても大きな間違いでは無いと思っている。

壮大な都城や堅固な山城は地域を支配する有力部族が交替しても、後継の権力者によって継承されるケースが多い。


10世紀、「後晋」から燕雲十六州(現在の北京を中心とした16州)を譲られた「遼」は、本格的な「二重統治機構」を整備して漢民族支配を確立していく。

そうなると従来、「半農半牧民族」等と表現されていた「契丹人」や「女真人」だが、臼杵教授のおっしゃるように、その様な単純な表現では説明が付かなくなってくる。

強いて推論を述べれば、漢人農耕民に対する支配制度を学習して、異民族支配の実績を徐々に構築していった「遼」や女真族の「金」は宋の領土を蚕食して、自国領に組み込むのに、難しさを然程さほど感じなかったのかも知れない。


(その頃、南の中国「宋」では!)

その頃中国再統一を達成した「宋」では、軍事力による国土拡大よりも科挙を基盤とする皇帝権力の確立のよる「文治政治」に舵を切っていた。

 当然ながら、内乱が終息し外征の絶えた宋による「文治政治」の安定は内政の充実をもたらし、国内経済の大発展期を迎えていたのだった。

中でも、人口が増えた江南の生産性は大きく向上して、蘇州や杭州、揚州の発展には著しいものがあった。加えて、京杭大運河を利用した南北の大物流システムは、首都開封を初めとする大都市の繁栄を背後から支えていたのである。

当時の宋の首都開封の様子を調べてみるとヨーロッパや日本、朝鮮がまだ古代の後半か中世の前半を漂っていた時代なのに、宋の文化や社会の発展は著しく、特に経済は、中世というよりも近世段階の経済レベルと呼んでも良い位の活況を呈していたのだった。治安の良かった開封の商家や酒家では24時間営業の店も多く、その点でも現代の日本を見ているようである。


さて、話は変わって、良く、古代の中華文明の素晴らしさを表現する時に引き合いに出されるのが、羅針盤、火薬、紙、印刷等の「古代中国の四大発明」である。しかし、これらの世界的な多くの発明を継承して、改良、発展させたのが「宋」の時代だった。

今でも中国人は宋の時代に印刷出版された宋版の古書を稀観本として尊ぶ傾向があるし、我国でも当時舶載された多くの「宋書」が「金沢文庫」等に現存している。更に、印刷で思い出すのが世界最初の紙幣「交子」の発行である。宋の時代に初めて出された紙幣は、次代政権の「元」によって大々的に施行実施されることになる。

その他にも、大型船の造船技術や航海術の発達、景徳鎮を中心とする「宋」の陶磁器の完成度も忘れては成らないし、火薬兵器の改良にも力を入れている。他にも今日、各地の名産品と呼ばれるような地元の特産品も、宋代に生まれたものが多いと聞く。


「唐」が貴族を中心とした繁栄だったのに対し、「宋」の繁栄は、皇帝と士大夫、そして庶民に至る広範囲な繁栄だったと考えられている。その繁栄を根底から支えたのが、農業生産力の向上だった。その際、耕作地の増大と共に重要な安価な鉄製農具の普及に貢献したのが、宋代の鉄の生産性の向上であった。

この時代、既に石炭を使用した高温の「高炉」が使用され始めた結果、安価な鉄を大量に供給できる体制が整ったのである。年間生産量15万トン前後に達する宋代の鉄の全国生産量は、18世紀末の全ヨーロッパの生産量に匹敵する状況から見ても、当時の宋が繁栄を推察する一助となろう。


外征を止めて、内政の充実に国の資材と人材を集中させた結果、宋代の文化レベルは、当時、世界最高レベルに達している。当時の中国文化の充実度は中世のヨーロッパ諸国の比肩出来る内容では無かった無かったのである。

「宋代」に到達出来た中華文明の高さは、漢代、唐代と共に、永久に中国民族が歴史上誇りうる内容だったと思っている。

我国に与えた影響の順位から見ても、宋代は唐代に次ぐ高い影響力を持っていた。特に、宋代の芸術や文芸が室町前期から桃山期に掛けて日本文化に与えた影響は大きく、足利義政や織田信長、豊臣秀吉等、影響を受けた文化人や武将の数は多い。

文学の面でも、「唐宋八大家」と呼ばれる唐代2人、宋代6人の名文家達の文章は我国でも愛好され、長い間、漢文の手本として尊重されている。詩文以外でも「徽宗」を初めとする宋代の画家の神韻漂う名品は、足利将軍家を初めとする管領家や有力守護大名の垂涎の的となったし、それ以上の禅宗絡みで伝来した唐物の茶器は、ヨーロッパ人が奇妙に感じるほど高価に評価されている。それ以上に影響の大きかったのが「宋銭」で、平安末期から江戸初期の日本経済の根底を支えた功績を忘れてはいけない。


「宋」の時代は、中国史上、士大夫も庶民も自由にものが言えた最高の時代だったように感じている。初代太祖も二代太宗も前王朝「後周」の世宗の遺児を優遇しているし、明の洪武帝のように絶対権を行使して、自分に反対する廷臣を殺しまくるような独裁権を振るわなかった帝国だった。

しかしながら、国内的な平和と繁栄を謳歌した反面、国防に対する配慮が最も欠けていた時代でもあったのである。

政治家や知識人の上層部の中、誰一人として夷狄と蔑称する契丹や西夏、女真の軍事力の実態の調査、分析を行い、対策を立案しようとする人材は存在しなかったし、異民族と結んだ外交上の約束も夷狄を軽視して誠実に守ろうとしなかったのである。


(「北宋」の財政と軍事)

話の途中ながら、前回までの内容を読まれた親しい友人のOさんから有り難いご指摘を頂戴したので、次に要約を挙げてみたい。


『五代から宋の時代は、従来からの「漢民族」に、新しい血が入り、現代中国人の北方人、南方人の基本が出来たような時代だった。けれども、「宋」は不思議な国で、貨幣経済、塩の専売、活字印刷、火薬兵器も持ち、思想的にも新しい朱子学や禅宗による哲学的な飛躍を生んだ時代だった。それなのに、異民族には連戦連敗。金も技術も有るのになぜだろうと、何時も疑問に思っております』


当に「北宋史」に対する的確なご指摘であり、この問題の十分な答えを見いだすには相当の研究と現代中国人に至る中華文明の根本に対する深い洞察力を必要とする大きな課題に感じられた。

もちろん、この大きな疑問に対する十分な答えを、この項で用意できる可能性が極めて低いことは、Oさんもご承知の上での叱咤激励と理解したい。

そんな訳で、回答にならない事は承知の上で、幾つかの点を列記してみたい。


「宋」の建国事業は太祖趙匡胤が中国北部の「北漢」や「燕雲十六州」への侵攻前に没した為、中国統一事業は未完で弟の太宗に引き継がれた。

新興国家「宋」の威信を賭けて太宗は大軍を動員、北漢を併合、更に、燕雲十六州を奪還すべく契丹に挑んでいる。しかし、北漢の併合には成功したものの肝心の契丹には大敗して「燕雲十六州」を含む北方領土の回復に失敗している。それ以降、「宋朝」は軍事行動に自信を失って益々内政思考の国家になっていくのだった。

そうかといって、宋の「国軍」が縮小された訳では無かった。太祖の時代の宋の軍隊の人数は約40万人と推定されるが、契丹との敗戦により、兵員数は増加、後年の第4代皇帝仁宗が常備軍を強化した結果、120万人に達したという。

当然なことに、軍隊の人員増加は国家財政を圧迫、仁宗時代以降、国家収入の半分近くを軍事費が占める苦しい財政運営が続くことになる。

それだけ、財政を傾けて育成した宋朝の軍隊だったが、北の強敵「遼」の精鋭に対抗出来るだけの組織だったか判断は難しい。

第3代真宗の景徳元(1004)年、「遼」が大軍を率いて南下、宋朝と直接対決する事態になった。けれども、前述したように宋朝は軍事的解決を避けて、莫大な財貨を遼に贈る「歳幣」による解決を図っている。「澶淵の盟」である。

これ以降、「宋」は北の異民族とは常に財貨の贈与による解決を優先して、軍事力を本格的に行使することは無かったのである。

前述した真宗の次の仁宗が整備した軍勢が120万人もの驚異的な人数に達しても、その大軍を北上させて憎むべき遼に攻め込むことは宋の滅亡まで、全く無かったのである。


(「新法」と「旧法」)

しかしながら、繁栄を謳歌した「宋」にとっても、連年の莫大な「歳幣」と巨大な軍隊維持のための支出は、国家財政を根底から揺るがしていたのだった。

支出の増大は、この二つだけでは無かった。文治政治は科挙の拡大に繋がり、必要以上の科挙合格者に対し割り当てるだけの充分な役職の不足に政府は悩む事態となっていったのである。所謂、冗官が官界に溢れ出していたのだった。

もちろん、歴代の政権も無策では無かった。生産の増加と高価な流通価格に着目した政府は「塩」、「茶」、「酒」等の専売制の実施と課税対策を強化して税の増収策も実施していた。


しかし、小手先の税制改革では財政不足を糊塗出来ない段階で登場したのが「新法」を掲げる「王安石」だった。第6代神宗と王安石のコンビは、諸改革を強力に実施して国家財政の安定と諸矛盾の是正に努力している。しかし、古い慣習を重要視する「旧法派」の反撃も大きく、宋朝では、

「新法」と「旧法」両派の争いがこの後延々と繰り返されることになるのであった。旧法派の領袖の一人が有名なのが司馬光である。

司馬光のことは後で述べるとして、王安石の改革の中で軍事改革に関してだけ触れておきたい。その骨子となった法律は、「保甲法」と「保馬法」であった。保甲法は軍隊を補強するための民兵訓練の規則であり、保馬法は軍馬の育成面での強化を謳った規制だった。

しかしながら、騎馬での狩猟、放牧に常時従事している契丹人や女真人と異なり、馬にも乗れない豊かになった宋の農民をいくら訓練しても、騎馬民族とは違って有力な軍隊を育成することは全く困難だったのである。この問題点に関しては、「靖康の変」を含む北方民族王朝と「宋」の抗争の結果が明確に示している。


(塞外の民「遼」を引き付けてしまった「宋」の豊穣と「歳幣」)

「宋」の建国から40余年の1004年、契丹族の建てた「遼」の聖宗が大軍を率いて富裕な「宋」を目指して南下して来たのである。

契丹族の国、「遼」は内モンゴルと満州を中心とした広大な領域を支配する強国であったが、「宋」攻撃開始の前に、周辺民族であるモンゴル族やウイグル族、西夏を圧迫し、東方では朝鮮半島の高麗に数度に渡って侵入して、背後の安全を確保した上での侵攻であった。

遼の聖宗が20万と号する大軍を率いて豊かな「宋」の冨を略奪すべく南下したのに対し、宋の真宗も親征軍を率いて北上している。

黄河を挟んで南北の両大国が軍事衝突寸前の切迫した状況に至ったが、「遼」と「宋」の間で交渉の結果、「澶淵せんえんの盟」と呼ばれる和約が締結されたのだった。

遼は宋を兄として立てる代わりに、宋は「歳幣さいへい」として毎年、銀10万両、絹20万匹を遼に贈ることが約束されたのである。

豊かな経済と国家財政を背景に宋は、平和を財貨で購ったのであった。

この遼への歳幣は、40年近く後に銀20万両、絹20万匹に増額されて、健全だった宋の財政を大きく圧迫することになっていく。


一方、濡れ手で粟の膨大な歳幣を毎年手に入れた遼内部では、徐々に王族から南方の文化が普及、奢侈な文明の浸透は次に貴族層へと広まっていった。

支配階級である「契丹族の貴族層」の奢侈化は契丹族自体の軍事的な軟弱化を急速に推し進めた結果、傘下の満州族である「女真族」の台頭を許してしまったのである。


(女真族「金」の勃興と「遼」の滅亡、そして度重なる「宋」の背信)

約200年に渡って東アジア北部で繁栄した「遼」だったが、満州で勃興した女真族によって建国された「金」によって、弱体化した遼は北から次第に圧迫され始めたのだった。

この国際情勢大変化のチャンスに飛びついたのが文弱な「宋」であった。長年、遼への歳幣に苦しんだ宋は、新興の金と提携して北方領土の回復を図ると共に長年負担となっていた歳幣の廃止を目指して金と軍事同盟を締結したのである。

この南北の同盟は金軍の軍事力によって大成功したが、弱体な軍事力の宋は、出兵の遅れもあって、何ら成果を出せずに終了している。しかし、活躍の場が無かった宋だったが、外交交渉により報奨金を「金朝」に支払う約束で、燕京を中心とした北方領土の受領に成功する。


更に、徽宗を中心とする朝廷は、一度は裏切った「遼」が微弱化すると再び遼と連携して、盟約相手の「金」の夾撃を画策、金への報奨金の支払いに応じなかったのである。当時の金朝の皇帝は第2代の太宗だった。太宗は勇猛な上に果断で実行力に富む人物で、性格的には軟弱で優柔不断な徽宗の反対側の人材だったのである。

その太宗を怒らせた結果、1125年、遼を滅ぼした金軍は余勢を駆って南下、首都開封に迫ると徽宗は恐慌状態となって息子欽宗に譲位、報奨金の増額と領土の割譲を条件に再度、盟約を結んだ為、太宗率いる金軍は翌年3月に撤退している。

これだけの恐怖を味わった上皇徽宗と欽宗皇帝だったが、金軍の撤退と共に宋国内の強硬派が台頭して「金」との約束を再び破棄したのだった。

度重なる宋の背信行為に金の太宗は激怒、同年後半、大軍を率いて再度「宋」に侵攻、瞬く間に宋の首都開封に迫った結果、開封は40余日の攻防戦の末、陥落したのだった。「北宋」の滅亡である。

淮河以北の華北を占領した「金朝」は、長年蓄積した放牧民族と農耕民族に対する「遼」の二重支配体制を学習した成果を効率よく用いて、中国の北半を占める新しい占領地の支配に成功する。「遼」に続く征服王朝「金」の成立である。


加えて、「金」は長年、遼が北宋から得ていた「歳幣」の恩恵を北宋滅亡後も、途切れること無く継続させる幸運に恵まれたのである。

北宋の滅亡時、幸いにも開封に不在だった徽宗の子、欽宗の弟高宗は、遠く長江の南、臨安(現在の浙江省杭州)の地に逃れて亡命政権「南宋」を建国したのだった。

その南宋に金は和議を条件に、「歳幣」の再開を要求している。

その後、北伐を唱える忠臣「岳飛」を謀殺するなど、高宗の大臣秦檜が遼との間を卑屈に調整して父祖の仇、金に臣礼を執ることによって和約を結んでいる。

父や兄を斃死させ、殆どの后妃や皇女達を娼婦として暗黒の中に死に至らしめた「金」に対し、北宋時代の領土を半減された「南宋」は、増額された「歳幣」銀25万両、絹20万匹を毎年贈って平和を購ったのであった。

 更に3年後の1141年の「紹興和約」によって、絹も25万匹に増額される屈辱を味わっている。

20年後の和約によって、歳幣が銀20万両、絹20万匹に減額されたが、1206年の北伐の失敗により、歳幣は、これまでの最高額の銀30万両、絹30万匹に増額された上、多額の賠償金を金に納めざるを得ない窮地に立たされるのだった。


(文人皇帝徽宗の無能が生んだ「靖康の変」の悲惨な実態)

夷狄と蔑んだ「金」に何度も嘘をつき続けた中国王朝「宋」の終末が、1126年に起きた「靖康の変」だった。度重なる違約に激怒した金の太宗による「宋」の首都開封への略奪と宗室への仕打ちは過激だった。

上皇徽宗と皇帝欽宗以下、宋の皇族と皇后を含む皇女、宗族等数百人に加えて、王室関係者、女官等に加えて重臣とその家族を含む数千人、一説には1万人以上の宋朝の貴人全てが北に拉致されている。

4才から28才までの皇女を含めて、捕獲した女達全員に身分と美醜、年令によって金額が付けられている。その際、后妃を含めて高貴な女達を含めて全ての女性が上半身裸にされて値踏みされたようだ。略奪した財貨をふんだんに持っている女真族の兵達は、気に入った女達を買いまくって享楽に耽っている。


拉致された宋の皇后を初めとする高貴な女達は金の太宗や王族達の慰安用として後宮に入れられた後、殆どの者が拉致されて一年半後、金の王族や貴族用の売春宿「洗衣院」に娼婦として下げ渡される凄惨な処遇を受けている。

欽宗の皇后朱氏は余りの悲惨さに投身自殺し、徽宗の皇女35人の内、多くが娼婦として酷烈な一生を北の大地で終えているが、中には、南宋の初代皇帝高宗の生母韋妃のように娼婦の生活を送りながらも生き延びて息子高宗の元に帰った幸運な女性も希有には存在した。

後年、ジンギスカンが敵を徹底的に殺戮した後、泣き叫ぶ敵国の妃や王女を陵辱する楽しみは堪えられないと嘯いたが、金の太宗も騎馬民族の一員として、敵国の皇族の女性達を膝下に弄ぶ快楽を一族や重臣達と共に存分に味わったのだった。

亡国の主徽宗は自活を強要されて窮乏の生活を送ったが、拉致されてから9年後の紹興5(1135)年、五国城、現在の黒竜江省の地にて56歳で没している。


長年、権力を掌握して栄華を誇った一族の最後に関して我国の場合、少し時代が下がるが、「元弘の乱」に於ける「北条執権家」の滅亡時の「太平記」の記述が個人的には非常に印象に残っている。

最後の時を迎えた執権北条高時は一族と共に、第3代執権泰時開山の東勝寺に退き、一族、家臣283人と共に腹を切って果てているし、京の六波羅探題北方の職にあった北条仲時の場合も、仲時以下432人悉く近江国番場の蓮華寺本堂の前で自刃している。

当然ながら当時の鎌倉武士なので、自刃の前に落とすべき者は知る辺を頼って落とし、足弱の女や幼児は、自殺を見届けるか自身で手に掛けたと思われる。

この日中の文化の差を、どちらが正しいと述べるつもりは無いが、両国のその後の文化に大きな影響を与えたことは紛れもない事実のような気がしている。次稿では、その辺に関して、力不足を承知で勉強してみたいと思っている。


(参考資料)

1.東アジアの中世城郭   臼杵 勲  吉川弘文館   2015年


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