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24.最初の多民族国家「唐」から文治主義国家「宋」へ

ここまで、「匈奴」から始まる北方騎馬民族と漢民族との関係を騎馬民族の視点から訪ねて、「唐」まで略述したが、本項では若干視点を変えて、古代からの漢族国家、「漢」や「晋」と大きく異なる「唐王朝」の世界を勉強したいと思っている。

古代中国を牽引した「漢民族」の中原王朝は、日本人の好きな「三国志」の時代に半壊状態となり、続く、「西晋」の末期に中国の北半分を占める華北で崩壊した状況は前述した。

西晋の滅亡後、淮河から北の華北では古代から中原を中心に活躍した漢民族の子孫達と新しく移住してきた五胡(匈奴、鮮卑、羯、氐、羌)と呼ばれる狩猟放牧民族との混血が進んだと推測される。


それは、「南北朝時代」の中国に対して表現を変えて見ると、「古い漢族達」の一部は江南に逃れて南朝を建設し、華北に侵入した異民族と居残った漢民族間で混血の進んだ「新しい中華民族」による王朝が北朝という見方も出来よう。

結果的には、「南北朝」、「隋」、「唐」と続く時代は軍事的にも華北が優勢な時代だった。歴代南朝政権は、漢民族文化の正統な継承者ではあったが最終的に騎馬民族王朝の子孫である漢民族化した「新しい中華民族」の王朝である北朝に吸収される運命にあったのである。

その原因の一つに南北の人口の格差があった。南北朝時代の華北の人口は動乱により漢の時代よりも激減したとはいいながら、まだ、未開拓地の多い江南の人口よりは遙かに大きかったのである。

人口の希薄な江南と人口の多い華北との力の格差は、時代が唐に変わってからも解消されていない。唐の国内政治が安定した太宗、高宗の治世を経た唐の中期に至っても南北の人口格差は大きく、圧倒的に北の人口比率が大きかったのである。

それでは、「唐」を取り巻く国際環境から見てみよう。


(中央ユーラシアから見た「唐王朝」)

中国が「南北朝」の時代、中央ユーラシアで最大の勢力を誇っていたのは、「突厥(とっけつ」であった。突厥はテュルク(トルコ)系遊牧国家で、北はバイカル湖、南はゴビ砂漠、西はアラル海、東は渤海に接する広大な領域を支配していた。

その支配領域だけで見ると建国当初、華北だけだった「唐」とは比較出来ないほどの広大な地域を支配下に置いた遊牧国家だったことが分かる。

その実情を理解していた唐の高祖は膝を屈して突厥に臣従、突厥の協力の下、華北支配を万全なものとしていったのである。

しかし、唐の中国全土支配が確立した太宗の時代になると突厥の内紛もあって突厥と唐の関係に変化が訪れる。貞観4(630)年、唐の遠征軍は突厥に大勝、鉄勒(トルコ系)等の諸部族は太宗に草原諸部族の王である「天可汗」の称号を献上している。


もう一歩踏み込んでユーラシア大陸全体で考えると大河を発祥の地とする古代文明の他に、ユーラシア大陸の大部分を占める草原の文明が古代から存在していた。

例えば、紀元前8世紀から同3世紀に栄えた遊牧騎馬民族「スキタイ文明」から続く「遊牧騎馬民族の文明」がユーラシア大陸中央部には脈々と存在していたのである。

この遊牧騎馬民族の文明を最近中国では、「草原の文明」と呼んでいるようだが、この文明を含めてイスラム圏の「ペルシャ文明」が中国に本格的に流入した時代が、「唐」の時代ではなかったかと個人的には感じている。その証拠の一つに我国の「正倉院御物」の多彩な国際性を持った品々がある。

漢の時代に活躍した「匈奴」はもちろんのこと、先に挙げた「五胡」を始めテュルク(トルコ)系民族である突厥、鉄勒てつろくを含めて「唐」を取り巻く多くの民族が、この文明の信奉者だったのである。

「遊牧騎馬民族の文明」に属する中央アジアから北東アジアの草原地帯を本拠地とする諸民族と融和という形で正面から向き合った最初の中国王朝が「唐」だったのではないだろうか!

遠祖を辿れば草原の民が漢化した混血中国人王朝である北朝の系譜に連なる「唐」は、中央ユーラシアの騎馬民族達とは、純粋な漢民族とは違う親近感を持っていたのかも知れない。その唐が周辺諸民族を手なずけて領域を拡大して行った政策が、「唐」の太宗、高宗時代の代表的な異民族政策である「羈縻きび政策」であった。


(「羈縻きび政策」と唐王朝の興亡)

唐王朝が新しく版図に組み入れた領域に対する対応策に、有名な「羈縻きび政策」を含めて、大筋で次の三つの政策があった。


1)自国領編入 :新しい占領地に州県名を付けて自国領に編入する

2)羈縻政策   :地元の王や首長に唐の都督、刺史等の官職名を下付する間接支配

3)冊封体制   :遠隔地の王や首長を冊封して唐への朝貢を促す


中国と地続きの占領地を自国の領域に編入する行為や、遠隔地の王を冊封して朝貢関係を維持する行為は中国の歴代王朝が良く実施した政策だが、唐朝の場合、広く「羈縻政策」を実施して帝国の版図を拡大している。

これは、各地域の王国や部族長の古くからの支配形態をそのまま承認しつつ、唐の都督、刺史、県令等に任命する政策で、各地の権力者の呼称や権限をそのまま認めると共に、唐朝の官職に任命することにより、唐朝の派遣した各地の都護府のゆるい管理下に置く巧妙な両属制度であった。この政策は唐朝初期の時代に良く実施され、唐の領域拡大に大きく貢献している。


唐の建国当初は「突厥」の力が強く、唐の高祖も突厥に屈服していた状況は前述したが、やがて、突厥を圧迫して、シルクロードの東側の覇権を唐が掌握、ユーラシア中央部でイスラム圏と接触することになる。

初唐、盛唐に於ける羈縻政策の成功により、「唐」は漢民族国家「漢」や「西晋」と異なり、多くの異民族を包含する「国際国家」に変貌している。シルクロードを中心とした西域との交易を含めて、東アジアの中心国家としての唐は、多くの異民族と宗教を自国の領域内に許容する多民族国家の様相を呈していくのだった。

華北を基盤とした北朝系の王朝「唐」にとって、中国以外の周辺諸国との交流に大きな垣根は無かったと考えられる。即ち、先に述べたように、唐の太宗が、「天可汗」として鉄勒を始めとする周辺騎馬民族の王や部族長達によって、王中の王として推戴された点も違和感なく受納出来る称号だったのであろう。

国際都市長安の繁栄とソグド人を始めとする多くの異民族も交えた交易の活発化は、「羈縻政策」の成功もあって「唐王朝」に安定と空前の繁栄をもたらしている。即ち、漢王朝時代とは違う胡漢併存の政策が帝国領域の拡大と優位な人材の集聚を促したといって良いだろう。

次に、高句麗出身の武将高仙芝を参考に唐が多くの異民族の有能な人材を用いた一例として挙げてみたい。


(「唐」での異民族出身者の優遇と「高仙芝」)

「隋」滅亡の原因を造った三次に渡る煬帝の高句麗遠征の失敗は、隋を継承した唐の太宗の心の中にも大きな解決すべき政治課題として建国当初から残っていた。

 そもそも高句麗の領域の大半は、漢代の楽浪郡の地であり、中国にとっては古来の自国の領域であったのである。当然なことに、中国人にとっては故地奪回であって侵略では無かったのである。

しかし、慎重に準備した太宗の高句麗遠征も高句麗の淵蓋蘇文ヨンゲソムンの巧妙な防衛策もあって大失敗に終っている。しかし、太宗の子の高宗の代に新羅との連携が成功して、「唐」は宿敵高句麗を滅ぼし、百済を屈服させた上、百済に協力した日本水軍を白村江に於いて潰滅させている。


唐は他民族出身者でも有能な人材を優遇した例は多く、一度敵対関係にあった我国の場合も唐は大国の度量を見せて遣唐使を許容している。中でも阿倍仲麻呂は朝廷で優遇されて安南都護として今のハノイに赴任した経験があるくらいで、最後は従二品の高位で没している。

そんな中、長年の敵国高句麗出身の将軍「高仙芝」を唐の玄宗は大いに活用して中央ユーラシア地域の唐王朝の領域拡大に起用している。

 高仙芝は騎射に長けて容貌麗しい人物と史書にあるが、当時、西域で優勢を誇った吐蕃チベットを攻めて西域72ヶ国を従わせる功績を挙げている。

天宝10載(751年)唐の高仙芝を将とする派遣軍が、アッバース朝の軍と今のキルギスの「タラス河畔」で戦ったが、地元部族の裏切りによって唐は多くの捕虜を出す惨敗を喫している。この中の捕虜になった技術者の一人がイスラム圏と西欧に「紙の製法」を伝えた東西文明交流の一例は有名である。


しかし、安定した繁栄を謳歌して国域を拡大した唐帝国だったが、「安史の乱」によって事態は一変している。

前政権以来の「貴族政治」が主体の唐の政治体制に盛唐以降、深く食い込み始めたのが各地の「節度使」だった。軍事権を持った有力節度使が各地の節度使を兼務することによって、瞬く間に支配領域と軍事力を手中にして勢力を拡大させていったのである。

玄宗政権の宰相、楊貴妃の縁類の楊国忠と対立した最大の勢力を誇った節度使「安禄山」が起こした反乱が、「安史の乱」である。

 因みに安史の乱を起こした太っちょの節度使の安禄山はソグド人と突厥の混血で、部下の史思明も突厥とソグド人の血を引くと伝えられている。ソグド人はペルシャ系のオアシスの住民で、商業を得意とし、当時、シルクロードの実質的な経済はソグド人に握られていたともいわれている。

 西域で大活躍した高仙芝だったが、「安史の乱」に於いても将軍として反乱軍と戦っている。しかし、洛陽の陥落時の対応と潼関守備策の意見の相違から玄宗側近の監軍宦官の讒言により高仙芝は刑死している。 

 玄宗の失政の一因に寵姫楊貴妃の無能な一族の重用と側近の宦官達に重要な判断を任せすぎた結果とも伝えられている。西域での唐の勢力を拡大させた有能な高仙芝を死に追いやった宦官達は朝臣からは人間として見られていなかった。その宦官を重用しすぎた玄宗の失政は明らかであろう。安禄山攻勢時の戦局全体を見ること無く自己の権限の拡大を図って、高仙芝を死に追いやった宦官は後に敵の安禄山に降伏している。

 結果として、「唐」の貴族政治が衰退し、武力第一の節度使が台頭した玄宗の治世の後半から、各地の軍閥である「節度使」の軍権が拡大、朝廷の威光は急速に低下している。

 一方、中央アジアから北アジアに掛けて「ウイグル」が勃興、「唐朝」は「安史の乱」では、ウイグルに救援を求める事態になっている。

 ウイグルに救援を求めた段階で、唐朝の繁栄は終わり、一地方政権として唐は細々と余命を保つのみとなったのである。


(短命王朝林立の「五代十国」を経て豊穣の「宋代」へ)

 「黄巣の乱」以降、一地方政権として余命を保つに過ぎなかった唐の末期、中国各地では節度使等の軍閥が蟠踞して勢力を拡大しつつあった。

 その各地方の軍事勢力が弱小王朝を建国して自己主張を始めたのが、907~960年の間の半世紀少しの「五代十国」と呼ばれる混乱の時代だった。

 五代と呼ばれる諸王朝の何れもが短命な王朝であり、その他の十国も全中国を統一できる資質に欠け、絶対的強者の存在しない時代だった。

 後に後代の中国史家達が、どの王家を正統の中国王朝とすべきか大いに困惑する混迷の時代だったのである。この問題点に関しては、後で、北宋から南宋時代の知識人の見解も含めて調べてみたいと思っているので宜しくお願いしたい。

 この混乱の時期、中国再統一に向けて始動したのが五代十国最後の王朝「後周」の英傑世宗だった。中国統一を着実に進めていた世宗だったが、惜しむらく若くして没したため世宗の「殿前都点検(近衛軍司令官)」だった趙匡胤に衆望が集まり、後周の幼主から禅譲を受けて建国したのが「宋」だったのである。


 諸将に推戴されて「宋」を建国した趙匡胤は、前代の「五代十国」時代に政変が相次いだ原因の一つが各地の有力節度使に有った点を考慮して、節度使から兵権を奪い皇帝の独裁制を強化する方向で政策を実施している。そして、皇帝の補佐役としての官僚の育成の為に「隋」以来の「科挙制度」の強化も図っている。

 隋や唐の「科挙」が、どちらかというと貴族層育成の手段としての側面があったのに対し、「宋」の科挙は純粋に高級政治官僚の選抜手段としての傾向が顕著になっている。

 その結果、宋では知識層を中核とした皇帝支持の「士大夫層」が形成されて、科挙出身の高級文官が政治を主導する「文治政治」が発展、徹底されて行く。


(内向きの王国「宋」の繁栄と北方騎馬民族対策)

 「北宋」の時代は久方ぶりの漢民族文化が高揚した時代だった。古代に連なる漢民族文化を継承してきたと自負する知識層も「科挙」の採用により、政権への参画の可能性を保証された上、武官よりも文官を尊重する宋の政治姿勢も相まって、儒学愛好の士大夫層が政治上層部を掌握する時代が来たのだった。

 新しい「科挙」によって生まれた士大層出身の高級文官によって、宋の「文治政治」が安定した結果、「宋」の時代に中国は東アジアでいち早く古代を脱して、近代的な経済大発展を遂げるのだった。

 しかし、その反面、「文治主義」を標榜する新しい中国人国家として成立した「宋」は、軍事力が脆弱であるばかりで無く、対外的には極端に内向きの印象を感じる国家だった。

 紀元前の「戦国七雄」の一国「燕」の故地であり、漢や唐の領域だった現在の北京周辺の「燕雲十六州」でさえ契丹族の遼に占拠されたままで、奪い返すだけの軍事力も決断力も宋には欠けていたのである。


 逆に国内の安定を第一に国家経営をスタートした宋の国内経済と文化は前代の唐以上に華やかに開花することになる。唐の文化は貴族層中心の文化だった一面があるが、宋の文化は生活が向上した一般庶民によって支えられた文化のような気が最近している。

 宋の繁栄を支えたのが、唐の時代とは比較にならない中国全体の生産性の飛躍的な向上であった。地方独特の産業も次々と興り、全国的な市場経済も活発化した様子は、今に残る首都開封の繁栄を描いた絵巻の傑作、「清明上河図」を見ることによって身近に感じることが出来る。

 宋の経済を下支えしたのが豊かな江南の生産力だった。江南の水稲栽培と違い小麦等の畑作中心の華北の生産性は低く、南北格差には大きいものがあった。

 しかし、政権のあった生産力の低い華北の繁栄を支えた一つに隋の煬帝の建設した「京杭大運河」の流通性があったし、その結節点に宋の都開封が位置していた地理的環境も大きかった。

 また、市場経済を支えた重要な基盤である大量の宋銭の鋳造も忘れてはならない。宋は建国当初から銅銭や鉄銭の鋳造に熱心で、特に、真宗から神宗の時代の1004年~1078年の間に国内需要を充分満たす「宋銭」の飛躍的な増産を実施して国内経済の活性化を図っている。

 「宋銭」は、宋国内だけで無く、宋と関係する東アジア諸国にも輸出されて各国の経済活動に大きく影響することになる。

 我国でも平清盛以降、対宋貿易によって膨大な量の文物が輸入されたが、後世に大きな影響を与えた重要な文物の一つが「宋銭」であった。宋銭の流通は鎌倉時代に入ると本格化し、中国で銅銭の流通が禁止されてからも、日本では益々銅銭経済が活発化して後の室町時代はもちろんのこと江戸時代前期の寛永年間まで、宋銭あるいは永楽通宝等の明銭に依存した経済は続いている。

 この時代は、我国や朝鮮半島の高麗では、まだ古代の雰囲気を濃厚に残す時代だった。しかし、アジアの先進国、「宋」では、既に近代的な様相を一部の産業で呈し始めていた。

 例えば、ヨーロッパで遙か後年に出現した石炭を用いた溶鉱炉が出現しており、安価で均質の鉄が全国に供給されていたのである。唐代に発見された「火薬」も兵器として改良が進められて各種の実戦的な兵器が宋によって装備され始めた時代だった。

 余談だが、後年、宋代の火薬兵器を更に改良した「金」の「鉄炮てつはう技術」を手中にした元軍によって、鎌倉武士が「文永・弘安の役」で大いに苦しむことになる。


 一方、外交面では軍事力に劣る宋は、北辺の敵、契丹族の「遼」や女真族の「金」に苦しめられた結果、財貨を贈って平和を購う外交策を「宋」は執り続けている。その時間的な経過を年代順に挙げると次のようになる。


 1004年 :「遼」の聖宗に財貨を贈って北辺の平和を購う

 1044年 :「西夏」に財貨を贈って西北地域の平和を購う

 1115年 :女真族の新勢力「金」が建国、1121年、遼を滅ぼす

 1127年 :「金」の侵攻により「北宋」滅亡、「靖康の変」


 1004年に「遼」の聖宗との間で結ばれた、「澶淵せんえんの盟」と呼ばれる和約は、遼が宋を兄として立てる代わりに、宋は「歳幣さいへい」として毎年、銀10万両、絹10万匹を遼に贈るという内容だった。これ以降、宋は北辺の遼や金、西夏に毎年、莫大な「歳幣さいへい」を贈って軍事力の不足を財貨で購ったのである。北への歳幣は北宋に続く南宋時代も通じて実施されて、徐々に重くなって宋朝の財政を圧迫することになる。

 その詳細は、後で、「遼」と「金」の項で学んでみたいと思っている。


(「華北」と「江南」)

 ここで、「唐王朝」の初期から「北宋」末期までの約510年間で中国の何が変わったかを素人なりに考えてみた。

 唐の太宗や高宗の時代、唐は中央アジア方面や北東アジアの周辺の多民族との関係構築に「羈縻政策」を中心に用いて広範囲な外交関係樹立に成功した結果、イスラム圏と接触するところまで版図を拡大したが、武力を掌握した「節度使」の台頭により唐が崩壊した状況は前述した。

 それに対し、「北宋」の内向きの国内政策は安定をもたらし、外交も含めて「文治主義」の徹底により庶民の生活も豊かになり、皇帝徽宗の趣味もあって国民の文化水準は大きく向上した。

 けれども、「武」を忘れた自己中心の「中華思想」は、夷狄と蔑んだ遼や金によって無残に破壊されて皇帝皇女を含めて、殆どの皇族は北の大地で悲惨な最期を迎えている。

 この「唐」から「北宋」約510年間の中国の大きな変化について、ここでは、時代による「華北」と「江南」の差の変化を中心に考えてみたい。


 まず、南北の人口の大きな違いから始めたい。日本人が大好きな三国志の時代、華北を本拠地とした「魏」と江南に蟠踞した「呉」の人口には大きな差があった。岡田英弘先生によると三国時代初期の魏の人口を約250万人、呉の人口を約150万人と推測されている。

 この傾向は、「南北朝時代」を経て、「唐」になってからも変わらず、唐中期の南北の人口比率は、35対65で圧倒的に華北の人口が多かったと中国文学者青木正児氏の著書から引用された中砂明徳氏の本に出ていた。

 この南北の人口比率が大きく転換したのが、「北宋」になってからの11世紀後半、「元豊年間」だという。この時代、南北の戸数比率が65対35と逆転したらしい。


 それだけ、三国志時代に未開地が多かった江南が、北からの漢民族の移住もあって、500年の間に大きく発展した様子が想像される。

 江南の功績は、それだけでは無かった。古代からの漢民族特有の文化が北から亡命した貴族や豪族層によって滅びること無く保存されて次の時代へと引き継がれた功績も大きかった。

 その傾向は、北宋が滅亡して南宋の時代になっても変わらず、華北が女真族の「金」に占領された時代にも、中国民族の文雅の流れは「江南」で脈々と流れ続けたのである。

 その流れは、中国全土が大モンゴル帝国の支配下に置かれ、江南の中国人が「南人」として、「元」の最下級の人種として位置付けられても大きく変わることは無かった。その背景には、北とは違う豊穣の江南の大地のバックアップが大きく貢献していたと考えたい。


 そうした「宋」全体が政治的な安定と繁栄を享受した時代に帝位に就いたのが「徽宗」だった。父6代神宗の6男に生まれた徽宗は皇位に就く可能性の低い存在だったが若い兄の死によって第8代皇帝と成ったのだった。

 徽宗の時代、宋を北から長い間圧迫してきた「遼」の勢力が衰え、新興の女真族「金」の勢力が急速に拡大している。金と外交関係を結んだ宋だったが、軍事力の低い宋と決断力に乏しい徽宗は、夷狄金との共約を裏切り続けるのだった。

 それを助長したのが貪欲で外交手腕の低い蔡京さいけい以下の大臣達であった。何度もの違約に激怒した金軍によって都開封は陥落、上皇徽宗と皇帝欽宗を始めとする殆どの皇族は北に拉致され悲惨な末路を辿ることになる。


 そのように「徽宗」は、政治失格者の落胤を押された皇帝だが、文化面では北宋時代最高の芸術家の一人といわれている。確かに、我国に伝来している徽宗筆の国宝「桃鳩図」や台北の故宮博物院所蔵の「痩金体そうきんたい」で書かれた徽宗筆の詩帖等の書風を見ても、芸術家としての類い希な素養を充分に持っていたことが理解できる。

 しかし、自分自身に政治能力が欠如していた上、信用できる有能な臣下を見いだす力も不足した皇帝と王朝の末路は惨めだった。


(参考資料)

1.江南 中国文雅の源流  中砂明徳  講談社     2002年


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