23.中国化した騎馬民族の時代(「北魏」~「唐」まで)
漢代の「万里の長城」を歩いた次の日、敦煌近くの「莫高窟」を訪ねた。敦煌の東南にある「鳴沙山」の東側の崖に掘られたこの有名な600余りの石窟群の製作された期間は驚くほど長い。
最初に造られたのは300年代中頃の「前秦」の時代だったと聞く。南北朝期を経て「盛唐」から「中唐」の時代に莫高窟は最盛期を迎えている。
更に唐が滅亡しても石窟の造成は続き、「宋」から最終的には、「元」の時代まで約1千年間に渡って建設され続けた。
このように長期に渡ってインドからの仏教伝来の中継基地としての役割を敦煌の莫高窟を中心とする石窟群は果たしている。その役割は、中国だけで無く、朝鮮半島の諸国や倭国への影響も含めて極めて大きかった。
敦煌から莫高窟は思いの外近い。
駐車場で車を降りて大きな葉のポプラ並木の下の道を広大な石窟群に向かうと、やがて、左右に長く続く崖の石窟群の中央に高い九層の屋根の建物が見えてきた。
観光写真で良く見る初唐則天武后の命によって造営された35m余の巨大な「弥勒菩薩像」を覆っている建物である。この莫高窟を代表する巨大な石仏は、何処か女性的な仏像で、一説には則天武后に似せて造られたという。この他にも、盛唐の時代に造仏された高さ26mの「弥勒菩薩座像」がある。こちらの方は、尊像の顔の高さまで登ることが出来たので、どこか身近に対面できた印象が深く残った。
この二つの大きな石像の周囲を歩く際に注意してみると壁に近い、余り人の歩かない部分に唐時代の塼が残っていて、表面の模様に実際に手で触れて時代の感覚を味わうことが出来たことを嬉しく思った。
二つの大仏を離れて次の石窟に向かう途中、日本語の堪能な女性学芸員がこれから案内する石窟の内容についてアナウンスしてくれた。我々は、仏教伝来初期の「北涼時代」の石窟から始まって年代順に仏教伝来の中期、そして、盛唐期の華麗な壁画まで、時代的な変化を理解できる13の石窟を拝見出来るとのことだった。
最初に入った「北涼時代(397~439年)」の石窟の弥勒菩薩座像の両足は、インド風に「X字型」に組まれていて異風な印象を受けた。
これまで我々が見慣れてきた中国風とも和風とも大きく異なる仏様の姿態こそ、インドから中国に仏教が伝わった初期の頃の仏像の姿なのだという。
次の「北魏」から南北朝時代の仏像になると少しずつ、伝来仏教が中国独自の道教や古代神の要素を加えて中国伝統文化と融合して独自の変化を遂げていった様子が伝わってくる。この頃になると我々の身近に感じる飛鳥仏に近い雰囲気である。
それに続くのが、最初に見た二つの大きな初唐と盛唐の石仏で、同時代の他の石窟の華麗な壁画と塑像群を見ると我国の遣唐使や仏教僧が憧れた大唐文化の香りは、このような物であったのかと強く感じた。これらの諸仏の存在する石窟の小宇宙を巡っていると、我国の古代仏教が如何に中国仏教の強い影響下で発展したのかを如実に感じた。
中国仏教完成期の「唐代」の華麗な壁画と塑像群も、唐末の戦乱以降、急速に衰微して、「五代十国」から「宋」に掛けての石窟は精気に乏しく仏教文化の明らかな衰退を感じさせた。
石窟と石窟を結ぶポプラ並木の下の道を再び歩きながら女性学芸員から、時代を追って甘粛省敦煌のこの場所から、「北魏」や「南朝」に仏教が伝わった説明を受けた。
更に、北魏から高句麗を始めとする古朝鮮三国に伝わり、高句麗や百済から最後に我国に伝わったかと思うと深い感慨を覚えるのだった。
(華北の統一と「南北朝時代」)
そう言えば、敦煌莫高窟を含む「中国三大石窟」といえば、山西省大同市の「雲崗石窟」、河南省洛陽市の南にある「龍門石窟」がある。
雲崗石窟は北魏の460~494年に建設され、龍門石窟は、北魏が都を洛陽に移した494年からの建設と本に書いてある。莫高窟を除く何れの石窟も「北魏の時代」が一つの重要な因子になるような気がしている。
鮮卑族の拓跋氏が華北を統一して建国した「北魏(386~534年)」は、少数騎馬民族による短命王朝の頻繁な交替を繰り返した「五胡十六国時代」を終了させた王朝の印象が強い。
華北での安定政権の誕生は地域に平和と長期政権の予感を抱かせるに十分だった。加えて北魏は、王家の出身母体が異民族という点もあって、中国古来の道教や儒教では無い、西域から伝来した外来の仏教を熱烈に崇拝して多くの磨崖仏や寺院を建設した結果が、先に述べた雲崗や龍門の石窟となって結実したのだった。仏教が北魏を起点として広く北東アジアの諸国に伝わった様子は、前述した通りである。
南は長安、洛陽、襄陽を掌握し、北は「北部六鎮」によって草原の柔然や朝鮮半島の高句麗と接していた「北魏」は、西の敦煌を経由して入ってくるインドからの仏教の最新情報に接しやすい国でもあったのである。
北魏様式の仏教文化は、古三国時代の朝鮮半島の高句麗や百済を経由して、我国にも伝来している。日本人にとって親しみのある古寺法隆寺の仏像は北魏様式といわれ、日本が最初に遭遇した「仏」とは、北魏様式の仏像であり、仏教文化だった。
(騎馬民族の中国化と仏教文化の伝搬)
北魏が華北を統一した439年から、隋が中国全土を統一した589年までの150年間を「南北朝時代」と呼ぶ。因みに日本の南北朝時代は、中国のこの時代を参考に名付けられた。
この時代、華北では主に異民族による王朝が、華南では漢民族の王家が建てられては、簒奪されるサイクルを短期間で繰り返している。
北辺の騎馬民族が漢民族の王朝を倒して華北に建国した五胡十六国時代から南北朝に掛けて、異民族王朝内部の殆どで、騎馬民族の中国化が徐々に進行していった可能性がある。
何故ならば、中原の人口の多くは漢民族であり、少数の騎馬民族自身も発達した中国文化に憧れる気持ちが強かった為ではなかったかと推測されるからである。
その代表例として、北魏の第7代孝文帝を挙げたい。母親が漢族であった孝文帝は、都を洛陽に移すと公文書の文字を漢字に統一し、鮮卑族独特の服装も禁止している。先に挙げた「龍門の石窟」も孝文帝の洛陽への首都移転の産物である。
鮮卑族は元々姓に対して淡泊で、姓を持つ者も無姓の家もあったらしいが、姓に格付けをして官人採用の際に査定したのも孝文帝であった。誰しも、高位の姓を好むのは人の常で、鮮卑族、漢族を問わず時代と共に騎馬民族独特の風習は廃れて、中国風の姓を持つ中国化した門閥貴族が増えていったのであった。
中国にインドから仏教が初伝されたのが漢代だったが、先に挙げた甘粛省敦煌を経由して中国や朝鮮、そして日本を含む北東アジアに広く仏教が浸透したのが、前述したように、北魏に続く南北朝時代であった。
先に上げた「北魏」の崇仏は有名だが、同じ頃の南朝の仏教寺院建設も最高潮に達している。
江南の南朝も仏教尊崇の姿勢では北朝の諸王朝に負けていなかった。江南の南朝政権(420~598年)は一般に六朝と呼ばれるが、特に、東晋の後を受けた宋、斉、梁、陳の各王朝は建業を首都として仏教の擁護に熱心だった。後年、江南の仏教の隆盛を詠んだ唐の杜牧の絶句に、「南朝四百八十寺」の詩句で有名な「江南の春」があることは良く知られている。南朝時代に多数創建された仏教寺院は、唐代になっても人々の尊崇を維持して、数多く残っていたのだ。
ここまで騎馬民族の末裔の建設した北朝の出来事を中心に述べてきたので、江南の漢人亡命政権、「南朝」の概略について少し触れてみたい。
(江南の王朝、「南朝」)
前述したように、中原の「中華文化圏」が漢民族主体で曲がりなりにも継続できたのは、古代から、「三国時代」を経て「西晋」の時代までだった。「東晋」の時代になると「漢族」の多くは中原の荒廃と異民族の流入に絶えきれず、豪族を中心に淮河以南の未開で平和な江南の地を目指して移住している。
「古代黄河文明」とは異なる「揚子江文明」の発祥地だった長江流域は未開地が多く広大で、人口密度も低い為、北からの漢族流民を充分に吸収発展させることが出来る広大な空間を持っていたのだった。
それに、降雨量の少ない淮河以北と違い江南の湿潤で温暖な気候は稲作栽培に適していた。華北に適した粟や稗、黍、小麦等の畑作作物と違い、長江流域の稲の単位辺り収穫量は高く、中原からの移住者を吸収した結果、江南経済は「東晋」の建国以降、大きく発展していったのである。
420年に「東晋」が滅びても、その流れは替わらず、華北と異なって江南では、「漢族」主体の王朝が続いていた。
どちらかというと軍事的には北朝が優勢だったが、南朝諸王朝には「正統な漢族王朝」の系譜に連なるプライドがあり、文化的にも漢民族文化の伝統を継承しているのは自分達だとの大きな誇りがあったのである。
一方の華北一帯が、騎馬民族の侵入によって、後のモンゴル族が一時夢想したような荒涼たる牧草地になってしまったかと見ると、そうでは無かった。
「五胡」と一括で表現されることの多い中国化した少数民族だったが、彼等なりに先進的な文化である中華文明の吸収に努力している痕跡がある。先に挙げた異民族の中国姓保有の促進等もあって、見えないところでも異民族の中国化は進行していったのである。
加えて、この時代、中国の華北と江南の両地域に共通する新しい文化の波が西域を通じて中国に流入して来たのが、先に挙げた「仏教」だった。「仏教文化」の中国全土への浸透は、南北中国の一体化になにがしかの貢献をした気がしているが、個人的な思い込みだろうか?
古代西ローマ帝国が滅びて以降、古代ローマ文化は、コンスタンティノープルの東ローマ帝国や中東のイスラム圏で保護、伝承されて、十字軍以降にヨーロッパに還元された歴史的な経緯があるが、当時の中国でも、同様の事が起きたような印象を持っている。江南の南朝で保存されてきた漢族の文化が、隋、唐の中国統一王朝の時代に遭遇した結果、還元されて盛唐で大きく開花した気がしてならないのである。後に挙げる「王羲之の書」等もその典型であろう。そういう意味では南朝諸王家における「漢族文化」の保存と発展は見逃すことは出来ない。
(中国化した騎馬民族による歴代の「北朝王朝」)
先に述べたように、「五胡十六国」時代を終らせた「北魏」は鮮卑系の騎馬民族の国家だった。鮮卑は匈奴の衰退に伴って蒙古高原を勢力下に納め、次第に南下して、華北を手中にして「北魏」を建国している。
北魏の後は、西魏―北周―隋と続いて、国際国家「唐」に至るが、北朝系の諸王朝の中で、少なくとも、北魏、西魏、北周の公用語の主体は鮮卑語であり、中国語が併用されていた可能性が高い。言うなれば、南北朝時代の華北は、雑多な胡族と漢族が混在する多民族王朝の時代であった。
北魏を建国した当初、鮮卑系の拓跋氏には北に警戒すべき敵「柔然」があった。北魏は首都平城を柔然から防衛するために北方に対して横一列の通称、「北部六鎮」を設けて精鋭を配置して警戒態勢を執っている。しかし、時代と共に辺境の武力だけの六鎮は朝廷の主流から蔑視される存在になっていった。
ところが、時代とは不思議なもので、一時卑しまれる存在だった軍事集団「北部六鎮」から、「西魏」の頃になると、「八柱国、十二大将軍」と呼ばれる有力軍閥集団が出来上って行ったのである。この軍指導者達の出身の多くが鮮卑系拓跋氏系統の北部六鎮の一つ「武川鎮」を出自とする武人であった。
北魏、西魏、北周に続く隋の文帝と唐の高祖の父は、この武川鎮系軍閥集団、「八柱国、十二大将軍」の出身であった。隋の文帝楊堅の父は十二大将軍の出身であり、唐の高祖の家系は八柱国の系譜だったのである。
隋の楊堅の家系に付いては、鮮卑系と中国系出自の二つの説があるが、少なくとも数代に亘って鮮卑系国家北朝の軍閥の家系に属する家だった点は明らかである。
一方、隋の次に巨大な中華帝国「唐」を築いた李氏の家系についても、同様に鮮卑系拓跋氏系貴族出身の八柱国との説と鮮卑化した漢族との二つの学説がある。鮮卑系の説には日本で支持者が多く、鮮卑化した漢族説には中国の学者に賛同者が多いと聞く。
最終的な判断は、専門の研究者の方々にお任せしたいが、唐の高祖、子の太宗にしても個人的には鮮卑系貴族出身の可能性が高いと思っている。
その理由の一つとして、唐の高祖、太宗、高宗三代の母親全てが漢族では無い異民族出身である点と太宗の皇后の長孫氏が鮮卑系拓跋氏の出自であることから、その様に考える次第である。
では何故、武川鎮系の軍閥が南北朝時代の中国の西魏、北周、そして隋、唐で政治の実権を掌握出来たかと考えると、「隋」の煬帝や建国当初の「唐の太宗」の行動には騎馬民族の血を感じさせる動きが多いと個人的には思っている。
根拠は薄いが、唐建国時の全国的な混乱期において、太宗自ら、騎乗長駆して難敵を敏速に各個撃破している様子からも騎馬民族のリーダーの雰囲気を感じさせものがある。加えて、太宗は中国国内だけの統一だけでは無く、突厥や吐蕃、ウイグル、チベット等の周辺民族を臣従させている。
唐の次に中国人によって建国された「宋」が、漢族主体の国土と守備範囲を手堅く守っている国体の姿に比較して、何処か騎馬民族出身らしい国境を感じさせない大きさが太宗にはあるような印象を昔から持っているが、如何であろうか!
(中国化した騎馬民族による王朝の完成形:「隋」と「唐」)
このように南北朝時代の歴代の華北王朝は異民族、特に鮮卑系の王朝が主流だったが、南北朝期の東晋以来の長い戦乱と短命王朝の時代を克服して中国を再統一した「隋王朝」によって、中国の新たな再スタートが切られている。
「隋」の初代皇帝楊堅は久し振りの中国統一王朝として、手堅い国家運営方針を次々と実施している。
従来の歴代北朝の多くが実施してきた公用語の鮮卑語と中国語の併用を止めて宮廷内の言語を中国語に統一、法律としての律令の整備や官僚を選ぶ為の科挙の実施など騎馬民族政権からの脱皮を図ると共に、新しい中華帝国として官僚層の育成にも力を注いでいる。
文帝楊堅の子の二代皇帝煬帝の功罪は相半ばするが、後世に残る最大の功績は、華北と江南を結ぶ大運河の建設であった。これまで中原を含む北の地域は、慢性的な食料不足に悩まされていたが、豊穣な江南と直結する大運河の建設により広大な華北全土が食糧危機に陥る危険性を免れる可能性が高まったのである。
このように、文帝、煬帝の二代の隋の皇帝によって、後世の為になる優れた施策が次々と実施されていったのである。
しかし、統一後の国内安定を最優先とすべき時期に、煬帝によって三度も強行された高句麗征討に何れも大敗した結果、隋は僅か30数年の短命で滅亡してしまう。
隋の末期、長安を占領し、隋の禅譲を受けて建国した「唐」の高祖は、隋と同じく「武川鎮」の出身軍閥である「八柱国」を父に持つ李淵であった。
鮮卑系の「武川鎮」を出発点としながらも中原の地に定着して久しい唐の王家は、生粋では無いにしても、地方から移住してきた三代目の江戸っ子のように、漢人に極めて近い中国人らしさを持った騎馬民族の後裔だった可能性が高い。
前述のように、唐の政権創設期の出来事を見ていくと騎馬民族の末裔らしい果断さと機動力を感じる部分が多いが、施政面では最大の人口を誇る中国人に密着した文化性を持って施策に当たっている様子が窺える。
それでは、騎馬民族らしい「唐」建国当初の状況を最初に観察してみたい。
煬帝の失政により中国全土が争乱の巷になった隋の末期、高祖が率いる唐政権は、長安を占領したものの地方軍閥の一つにしか過ぎなかった。
長安の東の同じ中原の洛陽には王世充の建国した鄭国があり、江南には梁が王国の形を整えつつあったのである。それらの周辺の敵国を騎馬隊の機動性を生かした軍隊によって次々と潰滅させていったのが、高祖李淵の次男李世民であった。
加えて、敵勢力の掃討戦に於いて李世民は優れた敵将を許して麾下に加える度量も示している。降将の一人で、後に名将と謳われた「李勣」は後年の高句麗征討でも大きな功績を挙げて、長年の宿敵高句麗を滅ぼしている。このような旧敵を厚遇する行為も騎馬民族には良くある習慣で、ジンギスカンのモンゴルが急速に勢力を拡大できた要因の一つでもあった。
建国に抜群の功績を挙げた世民だったが、李淵は長幼の序を大切にして、長男建成を皇太子にした結果、建成と弟の元吉は声望の高い世民を除く策謀を企てたと伝えられている。その企てを漏れ聞いた世民は電光石火、宮廷の玄武門で二人を待ち構えて惨殺、直後に両人の子供10人を全て葬っている。これなども、騎馬民族的な果断さと取れないことも無い行為である。
襲撃に成功すると世民は直ちに、父高祖に禅譲を迫り第二代皇帝太宗として即位、朝廷の全権を掌握している。
(騎馬民族系中国王朝のコンプレックス)
隋末の混乱の中で急速に頭角を現わし、太宗(李世民)の元で安定した政権を確立できた「唐」だったが、先祖が騎馬民族出身の大きなコンプレックスを繁栄の裏で抱えていた節がある。
隋、唐の大帝国を築いた煬、李両氏の出自は、いずれにしても鮮卑系の拓跋氏出身者を先祖に持つ一族か、あるいは、先祖は中国系ながら鮮卑系の北朝王朝に従属して栄進した軍閥の後裔である可能性については、両王朝の歴史書が幾らきれい事を記載しようと、完全には否定できないと思う。
晋が滅亡したといえ、漢族の重臣層にとって、漢、晋時代からの名門貴族層に属する出自であることは最大の名誉であった。例えば、山東の王氏等と公に名乗れることは、何と言っても家門の誉れだったのである。
その点、鮮卑系の拓跋氏等の出身者を先祖に持つ一族や鮮卑化した中国系官僚層を遠祖に持つ人達は、早い時期に、如何にも中国人らしい苗字に改名して先祖の出身を糊塗していたものの、表面はともかく朝廷の裏側では肩身の狭い思いを感じていたとされる。
同様では無いが良く似た事象は古朝鮮三国時代末期の朝鮮半島新羅でも起きている。新羅王家を始めとして有力な新羅の名門は、挙って中国風の「金」や「王」、「李」に改姓して国全体の中国化政策に邁進した結果が、現在の韓国に至っている。
一方、中国でも改姓して数代経つと本人も周囲も先祖が騎馬民族出身者か漢族の系統か不分明になっていったとしても不思議では無い。しかし、漢族の名門貴族達のような明確な本貫と有名な先祖は、簡単には用意できなかった。
そういえば話が戻るが、玄武門の変は、「道教」崇拝者にそそのかされた太宗の陰謀との一説もある。確かに、唐が政権を執るまでは、南北朝時代の宗教として仏教が全盛であり、加えて道教と儒教が中国の精神世界を三分していたが、南北朝時代の道教は仏教に比較すると低い位置に甘んじていた点も確かだった。
そこで、漢族出身者では無い唐王朝一族の劣勢コンプレックスを道教の使嗾者は見逃さず、王家の姓が「李姓」である点を最大限に利用して、道教を売り込んだといわれている。
何故か!
それは、「道教」の創始者「老子」の姓が「李姓」だったからである。
唐の王家は相当以前から、「李姓」を名乗っていたものの本貫もハッキリしない李姓だった為に、高名な先祖を持つ漢族出身の貴族層からは、陰で出自の低さをあざ笑われていた形跡があった点は、既に述べた。
しかし、李姓の中で最も古く、且つ、有名な道教の祖老子を先祖として担ぎ出す効果は予想外に大きかった。
老子を遠祖として尊崇することは家柄と王家のプライドを満足させるだけで無かった。
それは、科挙の出題が孔子を中心とする儒学の諸経から出されていた関係で、孔子に対する中国人の尊敬の念は後世ほどでは無いが当時でも相当に高いものがあった。しかし、古代の伝説では、孔子は老子に教えを受けたことがあったのである。
加えて、道教の始祖を自家の先祖に祭り上げた関係もあったのか、南北朝時代の仏教偏重ともいえる宗教体勢を脱して、道教を重視しながらも、仏教、儒教とのバランスの取れた宗教政策を「唐朝」は維持出来たのであった。
(「貞観の治」の太宗と「唐文化」)
第二代太宗の時代は、「貞観の治」として、後世まで安定した治世として称讃されているし、その時代の様子を記した「貞観政要」は、帝王学の教科書として、近代に至るまで用いられている。
統一国家「唐」の安定と周囲の諸外国との国際的な交流は、ユーラシア大陸東部の統一文化圏の成立に大きな役割を果たしている。
朝鮮半島の統一新羅を始め我国も律令を始めとする政治学その他の唐文化の導入を積極的に推進している。「遣唐使」の派遣によって日本が得た文化や芸術、最新技術は「正倉院」に残る聖武天皇時代の御物だけから判断しても、信じがたい程、広範囲で高度なものがある。
古代日本が受けた最大の恩恵の一つが唐文化だったと言っても良い過ぎでは無い。そして、また、日本人も唐文化を愛して、日本人の生活や習慣、文化として吸収し発展させてきたのであった。
日本や朝鮮半島の古代に大きな影響を与えた「唐」は中国化した騎馬民族の優秀な後裔によって創設された中華帝国だった可能性が高く、漢のように「万里の長城」などという、無粋な国境線を儲けること無く、周辺の騎馬民族と広く平和な外交を展開している。
唐の太宗の文化面での功績を一つ挙げると、「中国の書の歴史」の中でも画期的な時代が、「貞観の治」だった。
例えば、「晋」の王羲之の書に心酔した太宗は、自身が死去した際、王羲之の行書の最高傑作、「蘭亭の序」を自分と共に埋葬するように希望した結果、太宗の陵墓「昭陵」に太宗の死後納められた伝えられる位、愛玩していたという。
中でも、「漢字」における「楷書」の芸術性の確立は、唐の太宗の存在無しには考えられない気がしている。晋の書聖「王羲之」によって完成した「行書」と違い、楷法の極則といわれる欧陽詢の九成宮醴泉銘や虞世南の孔子廟堂碑、褚遂良の雁塔聖教序は、太宗の時代だったからこそ出現した文化だったと思っている。
これら三人の楷書は謹直でありながら、完成度が高く、それでいて微妙にそれぞれが持つ芸術性は異なり、唐文化の厚みを満喫できる「書」の傑作群である。
その背景には太古から続く中華文明の古代の完成期が「初唐から盛唐」に掛けての時代だったことを示しているように思う。
翻って、我国の古代を考える時、最も影響の大きかった外国文化が、「唐の文化」だった点は論を待たないと思う。今日、観光で来日する中国人の多くが京都を訪れた際、日本に残る唐文化の香りを感じて感動するのも古代のある時期、同じ文化圏に属して居た共有のノスタルジアがある為であろう。唐の文化を千数百年に渡って伝え、熟成させてきた国は日本を於いて他に無いのである。
第一、現代日本語表示は、「漢字の楷書」と我国固有の「ひらがな」から構成されている点は誰でも知っている。小学生の低学年から習い始める漢字の原型が、上に述べた、初唐の「欧陽詢、虞世南、褚遂良」の三人の楷書と少し後の時代の中唐の「顔真卿」を加えた四人の楷書であることは、余り一般に知られていない。個人的な印象かも知れないが、この四人の名筆を総合した姿が楷書の出発点のように思える時さえ有るくらいである。
同じ漢字文化圏に属して、千年以上に渡って漢字文化を育んだ朝鮮やベトナムが今日、漢字を安易に捨て去ったのに対して、我国では、唐時代に伝来した「漢字」を大切に育んできた伝統が今日でも確実に息づいているのである。
漢の武帝の徹底的な「匈奴」掃討作戦によって漠北は平和になった。しかし、それは、漢民族側、それも朝廷から見た平和であり、平和の代償は国民への鉄と塩の重税となって帰ってきて「前漢」を疲弊させ、惹いては漢王朝の崩壊を加速させる結果となっている。
他方、南北に分裂した匈奴だったが、南匈奴の末裔によって漢民族の「晋王朝」は滅亡。江南に亡命した晋の王族によって亡命政権が建業に建てられて余命を保つ存在に過ぎない状態となってしまったのである。
一方、華北では匈奴に続き中国化した騎馬民族によって次々と短命王朝が林立しては、滅亡する長期の争乱状態が続いた。最後に、中国化した異民族による「隋」によって中国全土の統一が完結して、続く「唐王朝」によって古代からの中華文明の完成期を迎えるのだった。
視点を変えてユーラシア大陸の歴史から見ると、古代からの漢民族の血に騎馬民族の血が混血した結果、漢代よりも一回り大きな中華帝国が「唐代」に出来上ったと見ても可笑しくない躍動感のある時代だった。
東アジアの大国、中国は何度も周辺諸国に吉凶共に大きな影響を及ぼしているが、島国日本にとっては、「唐の時代の文化的な影響」の大きさを考える時、東洋文明のダイナミズムを感じる時代は無かったと言っても過言では無い。




