22.「匈奴」から始まった中国への騎馬民族侵攻
前項で騎馬民族モンゴルによる東アジア三ヶ国、高麗、日本、大越の「元寇」とその後の各国の国情と民心への影響に触れてみた。
そう言えば、我国でも「騎馬民族説」が古代史の世界を風靡した時期があった。素人の私が学説の細部に踏み込むつもりは無いが、「騎馬民族」という単語で、直ぐに思い出すのが、「匈奴」、「モンゴル」の二大騎馬民族であり、もう少し幾つかの民族を加えると突厥、契丹、女真、満州等の諸部族が思い浮かぶ。
今回は、実力不足は承知で、中国北方の騎馬民族を中心に中国史を見てみたいと思っている。
「夏」、「殷」、「周」と安定して発達した中原の漢民族だったが、「東周」の後半の「戦国時代」なると北辺からの匈奴の侵入が目立ち始める。
騎乗して冬期に北辺を襲い、穀物を始めとする貴重な財産を風のように奪っては去って行く遊牧民族に二頭立て、四頭立ての馬の引く戦車を主戦力とする中国戦国時代の諸侯は手も足も出なかった。何故ならば、平原での戦闘に恐ろしい力を発揮する戦車も複雑な地形の山岳地帯や砂漠では騎乗して騎射する異民族に対抗出来なかったからである「戦国の七雄」の中でも明敏な趙の武霊王は中国古来の戦車戦を否定、「胡服騎射」を採用して異民族との戦争に備えている。この時代、北辺の騎馬民族の中で、「匈奴」が着々と実力を付け、強大化していた。
その匈奴から国を防衛するために中国の北部に位置する東から、「燕」、「趙」、「秦」の三ヶ国は、「長城」を独自に建設して匈奴に備えるのだった。この三ヶ国の長城を連結・整備、延長したのが始皇帝の有名な「万里の長城」であり、秦の次の「漢」も、秦の長城建設を引き継いで秦の長城の西域部分を延長して、匈奴対策をきょうかしたのだった。
それでは、漢の武帝が現在の蘭州から陽関まで延長して建設させた「漢代の万里の長城」を歩いた折の記憶からスタートしたい。
(漢代の「万里の長城」を歩く)
何年か前、快晴の続く8月後半の数日を甘粛省敦煌で過したことがあった。日本出発時には、強烈な暑さを感じた旅も北京、蘭州、敦煌とゴビ砂漠に近づくに従い大気に爽やかさが増してくるのを感じた。
敦煌では、幾つもの遺跡を訪ねたが、最も印象に残っているのは「陽関」近くに二千年以上を隔てて未だに残っている漢代の「万里の長城」と小高い丘の上にある「烽火台」だった。
古の烽火台近くの「陽関博物館」には漢の武帝頃の遺物だろうか、匈奴と漢が対峙した頃の主要武器である「戈」や「剣」、「矢尻」が数多く展示されていた。剣や大刀が鉄製だったのに対し、戈や鏃等の形状の複雑な武器は、鋭利さよりも量産性を最優先した為か、青銅製の鋳物が主流だったことが印象に残っている。大刀は無反りの直刀で長さは、70cm~1m近くに及ぶ実戦向きの刀で、見た瞬間、騎乗する匈奴との戦闘を考えた長さだと直感した。
その後、陽関を離れて砂漠の中の漢代の「万里の長城跡」を歩いた。周囲を見渡しても荒涼とし緩やかにうねりが続く単純な地形以外見えず、彼方に「天山山脈」が望めるのが唯一のアクセントのような気がした。
ゴビ砂漠に残る漢の長城は、北京近傍に現存する明代の万里の長城とは大きく異なる「版築」による土の長城で、今残って居る残存部の高さは、2m弱、幅約3m少しだった。断面を見ると10数cm、砂漠の土を積んで、棒で突き固めた上に、地元で採れる葦やタマリスク(赤柳)だろうか草を2cm程敷き詰めた上に、また、土を積む作業を繰り返して、当時は、3.5m程の防壁を築いたのだろうと思う。3.5mあれば、騎乗を得意とする匈奴の騎兵集団も容易に突破出来なかったと想像される。今日では残っていないが、匈奴に対峙する長城の北側の塁上には、胸壁も築かれていた。加えて、一定の守備範囲を定めて、守備用の堡塁や先に挙げた烽火台を設置し警戒は厳重を極めたという。
匈奴の最盛期には北の草原地帯から漢の国境を超えて、長安近くまで南下して猛威を振るっていた。特の楚の項羽に勝利して意気挙がる漢の高祖数十万の大軍を「白登山」に包囲、高祖始め全軍を飢餓状態に苦しめて勝利している。
その為、高祖以来、歴代の漢の朝廷は匈奴の中国侵攻を恐れた結果、匈奴への貢ぎ物を絶やさずに都長安に近い国境線を守って、匈奴の勢力範囲である現在の甘粛省西部までの進出は考えてもいなかった。
漢王朝の守りの姿勢を大きく転換して、今日の蘭州を通過、敦煌を越えてゴビ砂漠のこの地まで進出して、漠北の地から勇猛な匈奴を一掃したのは漢の武帝だった。
(中国古代史と「匈奴」)
中国の古代史を勉強していると「中原」という単語に何度も出会う。どうやら黄河中流域の現在の河南省の省都鄭州辺りを中心に山西省、河北省の南側、山東省の西側を含む地域のようである。もっと簡単に表現すると大黄河によって黄土層が厚く堆積した黄土高原の東側の地域を「中原」と呼ばれる地域で、最初の黄河文明(古代の中国文明には、もう一つ長江文明があった)が産声を上げた場所である。
司馬遷の「史記」によると「夏、殷、周」と続く古代王朝だが、「夏」が中原の最初の王朝と仮定すれば、「殷」は東から、「周」は西側から中原に攻め込んで、中原で王朝を建設した印象が強い。
この時代、中原は遊牧民と農耕民が混在する時代だったと想像される。何故かというと漢字の「美しい」という字が、「羊が大きい」と書くからであると示す学者の方が多い。若しかしたら、漢字が創造された時代、農耕民よりも遊牧民の側に主権と祭祀が掌握されていたのかも知れない。
「漢字」が祭祀や政治の重要な道具として登場し始めた、この頃、既に、「天命」によって悪王を徳のある王が懲らしめて新しい王朝を開くという「革命思想」中国古代思想の中に登場して来る。
身も蓋も無い表現をすれば、権力者を惨殺して、新しい権力者(簒奪者)によって建設された新王朝こそ、正しい天命を受けた王朝であり、「中原」の正統の後継者であるということである。
周の武王が殷の紂王を自殺させて建国した周代後半の中国国内では、「戦国の七雄」と呼ばれる七つの強国が果てしない勢力抗争をする一方で、北の騎馬民族の侵入を防ぐ為に、各国個別に「長城」を建設している。当時、戦国の七雄の内、騎馬民族「匈奴」の住む北側に接している国が三つあり、東から順に示すと「燕、趙、秦」の三ヶ国になる点は上述した。
燕の長城は、現在の遼東半島から北京の北の地域を囲むように建設されており、燕の長城に続く西側に趙の長城が、最も西の長城が現在の甘粛省蘭州付近まで伸びている秦の建設した長城であった。
戦国七雄の時代、断続的ながら中国北部に、東の遼東半島から西の蘭州まで、匈奴を含む騎馬民族に対する防壁として素朴な長城が建設されていたのである。これを以てしても、中原の農耕民を主とする歩兵主体の漢民族にとって北方の騎馬民族は脅威であった。
戦国時代末期、七雄の一つ「秦」の始皇帝が始めて中国を統一する。秦は楚と共に七雄の中でも始めは中原の国とは認めて貰えなかった蕃夷の邦であった。しかし、遠祖は西戎であろうとも始皇帝が覇権を確立すると中国全土の人民は、始皇帝の下に平伏したのである。
ここに、二千年以上続く中華皇帝システムが誕生したのであった。
その始皇帝の頃に匈奴は北の強敵としての重圧を増して登場して来る。始皇帝は信頼する長子扶蘇に名将蒙恬を付けて北郡に派遣して「長城」の建設と騎馬民族匈奴からの中国防衛に当たらせる。
蒙恬は戦国時代に七雄の各国が造った長城を繋げて、東は朝鮮半島に近い遼東半島から西は現在の蘭州付近まで繋がる秦の「長城」を完成させている。世に言う秦の始皇帝の「万里の長城」の建設である。
蒙恬と扶蘇の努力により秦と匈奴との対決は一定の成果を得たが、始皇帝没後の側近の謀略によって扶蘇は自殺、蒙恬は殺されてしまい秦の匈奴対策は崩壊してしまうのであった。
(漢帝国と最強の騎馬民族「匈奴」との対決)
騎馬民族匈奴の王を「単于」と呼んだ。秦末、漢初の中国国内混乱の時代、「冒頓単于」は騎馬軍団を率いて中国に侵攻、歩兵を主とする大軍を率いて迎撃した高祖が苦しんだ状況は前述した。
匈奴に大敗した上、高祖は包囲されて飢餓に陥る始末で、高祖の側近が冒頓単于の妻に手厚く賄賂を送って辛くも高祖が脱出する苦杯を喫している。
「匈奴」は、アルタイ系民族の中のテュルク系と一般に分類されているが、その実態は、良く解らない。紀元前4世紀から5世紀に掛けて、ユーラシア大陸東部の一大勢力で、一説には、ローマ帝国を滅亡させた「フン族」と同じとされるが、もし、そうだとすれば、ユーラシア大陸の東側で漢と対等に戦った匈奴は、西に大移動してヨーロッパを侵略、イタリア半島にまで軍を進めたことになる。
農耕民族と大きく異なり遊牧民族=騎馬民族の匈奴は土地に執着が薄く、放牧や略奪の適地があれば速やかに移動して、牧草であり穀物等の望む物を手に入れる慣習がある。加えて農耕民とは大きく異なり、狩猟時や放牧時の手段として騎乗、騎射が日常化している関係で、平和な遊牧民が瞬時にして恐ろしい騎馬戦闘集団に変身できたのである。
その結果、騎馬民族の最大の特徴が、定住地を持たず神出鬼没であり、勃興する時は周辺の少数部族を吸収して、信じがたい程に急速に勢力を拡大、衰退する時期には農耕民族では考えられないくらい、風船が急速にしぼむように小さくなる点では、無いだろうか!
何故そうなるかと考えると、土地に拘る農耕民族とは異なり、略奪できる穀物や家財に魅力を感じて襲撃を繰り返す騎馬民族にとって、農産物が豊富で機動力に劣る農耕民ほど魅力的な略奪先は無かった。逆に考えれば、自己に倍する戦力を持つ強大な軍事国家程危険な侵攻先はなかったのである。
その点、秦末、漢初の国内が大混乱状態の中国程、騎馬民族にとって好ましい略奪先は無かったのである。漢の高祖が苦杯を嘗めたその時期は、当に匈奴が急速に勢力を拡大した時期だった。大勢力となった匈奴に対して歴代の中国皇帝はその場を取り繕う彌縫策に終始、貢ぎ物や公主を漠北の地に送って平和を購っていたのである。
(「漢」の最盛期と武帝の登場)
高祖以来、歴代の漢王朝の皇帝で初めて正面から匈奴と対決したのが第七代の武帝であった。武帝は高祖のひ孫にあたり、父景帝と祖父文帝の善政による国庫の充実を背景に名将衛青とその甥、霍去病を用いて強敵「匈奴」の軍臣単于を遠く漠北に追いやっている。その結果、さしもの匈奴も弱体化して分裂、漢の国境から遠ざかったと伝えられている。
著者が歩いた漢代の万里の長城はこの時代に、秦が築いた蘭州まで建設した長城を、更に遙か先の西の「陽関」を越える地点まで延伸させた歴史的な痕跡だった。
天山山脈が望めるゴビ砂漠の中の漢の長城周辺は、遠くまで眺望が利き騎馬民族を威圧する効果も高かったと想像される。
当に、武帝の時代は「漢」の国威を国の内外に示した漢民族高揚の時代だった。しかし、冷静に一国の国家財政の視点から観察すると全く別の見方が出来る。
武帝の祖父の文帝や父の景帝は秦末から漢建国当初に全国で起きた争乱の大きな傷を癒やすべく、民力の休養と減税に努めている。文帝には露台一つ新設する費用さえも慎重に検討して中止させた逸話さえ存在するくらいだったし、文帝時代の皇后の衣裳も質素だった。
その結果、前漢時代の中で穀物も銭貨も国庫に溢れる最も平安な、「文景の治」が出現したのだった。
賢明な父祖の長年蓄積した国家的な余剰財政と英雄的な武帝の性格がマッチした結果、「高祖」以来の屈辱を拭い去るための大々的な匈奴征討が実現したのであった。
しかしながら、国家財政の蓄積には長年の歳月と賢明な努力が必要だったが、武帝の放漫な財政策と連年の外征によって、国庫は瞬く間に空となり、重税が全国民に課せられたのであった。
武帝の場合もそうだし、中国歴代王朝の殆どが、そうだが、王朝の絶頂期の皇帝によって、王朝衰退の大原因が造られている傾向がある。
唐の玄宗の時代も、然り、宋の徽宗の文化愛好の偏執的な政策も両国を滅亡に導く道標であった。中国歴代皇帝の愛する「覇権主義」によって、多くの中華帝国は、平均寿命約250年で終焉を迎えている。
このように、連年の外征と国防への膨大な出費は、前漢王朝の財政状態を急速に悪化させ、中国全体を疲弊させている。餓えた国民は流民となって各地で暴動を起こし、王家の威信は瞬く間に低下していった。その状況は、強大な中華帝国を史上初めて築きながら短時間に国を滅亡させた秦の始皇帝と経過時間は異なるものの良く似た行為と評しても誤りでは無いと思う。
秦と漢の滅亡までの経過時間の差は、「前漢」には高祖から景帝に至る中国人の好む「徳」の蓄積時間があったが、秦には、国民に寛容を示して「徳」を施す時間が全く無かった結果であろう。
武帝の没後、漢は急速に衰退に向かって驀進するのだった。そうはいっても、武帝一代の積極的な外征策によって、騎馬民族匈奴の脅威は薄らいでいる。
加えて、前漢に続く光武帝の後漢の時代、匈奴は南北に分裂して更に弱体化したのであった。更に、分裂した一方の「北匈奴」は遠くユーラシア大陸の西に去って行ったし、残った「南匈奴」も勢力が衰えて、漢に投降した為、漢の北辺は静かになっている。
しかし、強大な勢力だった「匈奴」の分裂と衰退は、権力の空白地帯を生み草原の各地で遊牧民族の勃興を促している。大きな空洞の一つモンゴル高原では、鮮卑族の勢力が拡大したし、中国北部に居住した南匈奴以外の羯、氐、羌の少数民族の自立と南下が進んで行くのであった。
(漢民族の弱体化と遊牧諸民族の中国への流入)
紀元前8年、「新」の王莽によって前漢は滅亡する。混乱する中国を再統一して、漢を再興したのが、景帝の子孫光武帝劉秀であった。「後漢」の成立である。
光武帝のバランスの取れた政策により「後漢」はスタートするが、やがて、中国王朝特有の「宦官」の跋扈によって、安定した政治体制は崩壊、内乱の時代へと突入するのだった。
この内乱の時代が、日本人が中国史話で最も愛好する英雄大活躍の「三国志の時代」である。
しかし、劉備や関羽、張飛、趙雲の英雄譚や諸葛亮孔明の知謀だけに感心していると、この大動乱の時代を大きく誤ることになる。
長安、洛陽を中心とする中原の動乱は、当然ながら漢族の心の故郷、「中原」の漢族人口を激減させている。前漢後期に約6000万人だった人口が、三国を統一した「晋」の建国当初には、1000万人以下にまで激減した悲惨な状況だった。全人口の八割以上の人々が餓死するか戦乱の内に死亡したのであった。この人口大激減の現象は、中華王朝滅亡時に何度も繰り返されることになる。
晋による統一後、数十年も経過しない内に王族間の権力闘争、「八王の乱」が発生、華北の漢民族の人口減少は、追い打ちを掛けられる悲惨な状況であった。人口が激減した華北の空間を北方の遊牧諸民族が急速に埋めていった。
この遊牧民族流入の遠因の一つは三国志の英雄の一人曹操にあった。騎射戦に優れた南匈奴や鮮卑、チベット系の氐族を傭兵として配下に組み込んで華北を制圧した曹操だったが、魏から政権を簒奪して建国した「晋」の時代にも同様の異民族の傭兵が用いられたという。その結果、華北では、北方から流入した多くの少数民族が漢民族と一つの地域に雑居する事態が発生したのだった。
「八王の乱」以降の晋国内が不安定な隙を突いて、南匈奴の首長劉淵が「漢」(後の前趙)」を建国、劉淵の子が、316年、「晋」を滅ぼしている。
漢の武帝によって、徹底的に虐められて南北に分裂した匈奴だったが、南匈奴の末裔が建国した漢(後の前趙)によって、漢人の王朝「晋」が滅ぼされたのである。初代皇帝劉淵は、古に冒頓単于が漢の公主を娶った故事から、漢の後継者を自認して最初の国名を憧れの「漢」と伝えられている。
漢の武帝の派遣した大軍に苦戦を強いられて、空中分解寸前まで追い詰められてから約400年、北辺の民、騎馬民族「匈奴」の末裔は、宿敵漢族の王朝「晋」を滅ぼすことが出来たのであった。
しかしながら、劉淵の建国した漢(後の前趙)には悲しいながら騎馬民族と農耕民の双方を完全に把握して統治するノウハウに欠けていた。それ以上に不十分だったのが、匈奴以外の「五胡」と呼ばれる鮮卑を始めとするその他の少数異民族集団を圧するだけの絶対的な武力にも不足していたのだった。
これ以降、華北では少数異民族による短命王朝が、建国しては滅亡を繰り返す「五胡十六国」と呼ばれる混乱の時代が始まるのである。
一方、漢民族の晋王家は長江南岸の建業に逃れて、亡命政権「東晋」を建国することになる。人口密度が低く、未開の豊饒な地が多い江南は、夷狄である五胡に中原の実権を掌握された「晋人=漢族」にとって好ましい移住先だったかも知れない。この時代、長く続いた中原の漢族王朝は滅亡し、長江流域を中心とする新しい中華文明が再スタートしたと考えても可笑しくない歴史の大転換の時代だった。