21.ベトナムの元寇 : 「武」と「外交」の両立
ここまで、大モンゴルの侵攻によって大きく国全体が揺さぶられた日韓両国の歴史と「武の視点」からみた日韓の中世世界とその後の国家形成の動向について調べてきた。
28年余に渡る執拗なモンゴル軍の進攻に耐えながらも、最終的には「武臣政権」を廃棄して王室外交を展開、起死回生策の大元皇帝フビライの駙馬と成ることに成功して王室の権威を回復した高麗王朝。その結果、国家自立の基本の一つである自国の「武力」に全面的に頼ること無く宗主国第一主義へと大きく舵を切った高麗だったが、この決定は、その後の朝鮮の歴史を方向付ける極めて重要な決断だった。高麗の末期から次の李氏朝鮮全期を通じて、高句麗や統一新羅が古代で示した独立の気概とほど遠い「事大主義」を遵奉する国と人民へと朝鮮は大きく変身していくのであった。
一方、武力第一主義の頑なな外交姿勢を貫いた鎌倉幕府だったが、勇猛な鎌倉武士の力戦と幸運なことに天候の急変にも助けられて、二度の元寇撃退に成功している。その成果は長く国民の意識として記憶されることとなった。
亀山上皇を始めとする多くの国民の願いと賛意を得た元の撃退だったが、恩賞への不満が鎌倉幕府崩壊の道を加速させ、建武の中興によって第二次武家政権である鎌倉幕府はあっけなく倒壊してしまう。後醍醐天皇の新政権は全国民の求める理想的な政権とは程遠い存在だった。その結果、全国武士階級の武家政権を求める要望を受ける形で、第三次武家政権「室町幕府」が成立するのであった。
鎌倉から室町、江戸と続く幕府政治の流れによって、東アジアでは珍しいヨーロッパ諸国と良く似た封建制社会構造が日本では定着して、江戸時代には、日本独特の東アジア世界では特殊な「武士道」と呼ばれる倫理観が国民の間で発達することになるのであった。
しかし、ここで、高麗と日本の二ヶ国の元寇だけを挙げて終了するのは、「東アジアの歴史散歩」という表題から言っても極めて一方的で寂しい気がしている。
この時期の東アジアで、モンゴル軍の大襲来と正面から対決した最大の国が中国の「南宋」である点は、誰も異存は無いと思うけれども中国の周辺諸国の中で、小国ながらも敢然とモンゴルに抵抗した国が、高麗、日本以外にも、もう一つあったのである。それは中国と地続きのインドシナ半島、現在のベトナムにあった大越であった。
その国は朝鮮半島の高麗と同じように中国と地続きの極めて不利な地政学的位置にあった。当時の、ベトナム北部にあった「大越国」は、「陳朝」(1225年~1413年)の支配下にあり、加えて、現在のベトナム中部には、占城と呼ばれる別の王国が存在した。
当然ながら、中国と地続きのインドシナ半島にはモンゴルの騎馬軍団が北や東から容易に侵入できる国であったのである。また、南宋が元に残した大船団を用いれば海上からの水軍の侵入も簡単で、当時、昇龍と呼ばれた現在のハノイを流れる紅河あるいは、ハロン湾に河口を持つ白藤江から遡上して、国都である昇龍近郊に侵入することは極めて容易だったのである。
その、現在のベトナム、当時の陳朝が支配していた大越をモンゴル軍は、三度に渡って侵攻し、国都昇龍を毎回占拠しながら、最終的には征服に全て失敗する惨めな結果を味わったのであった。
元寇に関して、高麗と日本、大越の三ヶ国がモンゴ軍に侵攻された時期を比較すると次のようになる。
高麗への侵攻 1231年~1260年
第一次モンゴル軍の大越侵攻 1258年
日本二度の元寇 1274年、1281年
第二次モンゴル軍の大越侵攻 1283年
第三次モンゴル軍の大越侵攻 1287年~1288年
時期的には、高麗へのモンゴルの侵攻が最も古く、ついで、高麗で徹底抗戦していた武臣政権の「崔氏政権」が斃れた時期に、南のベトナム陳王朝はモンゴル軍の最初の攻撃を受けている。
そして、高麗の降伏と南宋の屈服により勢いを増した「元」のフビライは、島国に日本を二度に渡って攻略しようと大船団を編成して攻撃、鎌倉武士の力戦と悪天候により艦隊は壊滅状態になって敗退している。
日本で言う「弘安の役」の二年後、陳朝は第二次の元寇を受け、更に1287年から1288年に掛けて、それまで以上に大規模な海陸からの元の大軍の侵攻を受けて、国土は荒廃している。
このように、日本列島に所在する鎌倉幕府とは大きく異なり、中国の北と南に位置する地続きの朝鮮半島、インドシナ半島にあった高麗王朝と陳王朝の場合、双方とも約30年の長きに渡ってモンゴルの大軍の侵攻の恐怖と戦わなければならなかったのである。
地政学的に見て、島国のイギリスや日本と違い、中国と地続きの恐怖が常に二つの半島の国家は受け続けていたのである。それも、日本の元寇のように短期間の激戦では無く、長期間の戦闘と外交交渉を伴う長い戦いの歳月であった。
今回は、ベトナム陳朝における、モンゴル軍の侵攻と撃退の物語を掻い摘まんで、振り返ってみようと思っている。
(アジア最強のベトナム人?)
第二次世界大戦後のベトナムを振り返って見てもベトナム人の勇敢さと粘り強さは世界的に見ても卓越している。大戦後、直ぐのフランスとの戦いに於いても、近代兵器装備のフランス軍をディエンビエンフーで包囲、勝利している。その後の粘り強い外交交渉で、仏植民地からのいち早い独立を達成している。
続いて起こったのが、第二次世界大戦最大の戦勝国アメリカとの直接対決であった。「ベトナム戦争」と呼ばれるこの長期の戦争によって、大国アメリカの威信は大きく傷つきサイゴン(現在のホーチミン市)からの無様な撤退の姿を全世界に晒すことになった。
長いベトナム戦争の終了によって平和が訪れたかに見えたベトナムだったが、今度は隣国中国が侵攻してきたのである。中越戦争の開始である。膺懲の意味を込めての中国軍の侵攻だったが、ベトナム軍に連戦連敗、中国人民解放軍に全く良いところ無しで、戦争は終結している。
このように、アジアに於いて、ヨーロッパの大国フランス及び世界の大国アメリカ、加えてアジアの大国中国の何れの国との戦争にも勝利した国はベトナム以外には存在しない輝かしい勝利の記録である。
この点は、ベトナム国民が永遠に誇りを持って語り継げる名誉であり、民族の栄光の歴史であり、東南アジア史における輝かしい一ページである。
現在最強の軍事大国アメリカに正面から戦いを挑んだ国は第一次世界大戦後、世界でも日本とベトナムの二ヶ国しか存在しない。その原点の何割かは、大モンゴルの元寇に対して国を挙げて果敢に抵抗した両国の歴史と精神が拘わっているように私は感じている。
モンゴル軍来襲時にベトナム陳朝が都と置いていたのが昇龍、現在のベトナムの首都ハノイであった。昇龍は、1010年、ベトナム李朝の太祖によって首都と定められてから約800年に渡ってベトナム諸王朝の首都であった。阮朝時代の1802年から約140年間、中部ベトナムの都市フエに王宮が移ったが、ベトナム戦争による南北統一後、再びハノイはベトナムの首都の地位を確立して今日に至っている。
ハノイが北部ベトナムの中心地として発展した最初は、唐による北部ベトナムの占領と安南都護府の設置からである。
唐の南方支配の拠点となった安南都護府は日本と深い関係がある。唐に遣唐使に同行して留学、遂に帰国の望みを叶えることが出来ずに彼の地で没した阿倍仲麻呂が長官として一時赴任していたのが安南都護府であった。
その後、上述したようにベトナム各王朝の首都として昇龍は繁栄を続けてきた関係で、市内には歴史を感じさせる建物や遺跡に事欠かない。
(ベトナムの古都ハノイを訪ねて)
安倍仲麻呂の郷愁もあり、ハノイに行ってみいることにした。空港からハノイ市内へ向かうと中国ほどではないが、日本企業の看板が目に付き、やがて紅河を渡って都心部が近付くと大きな湖(タイ湖)が見えてくる。湖畔には、緑が多く、歴史のありそうな中国風の寺院もちらほらと見え始める。市内に入っても緑の多いその印象は変わらず、東南アジアの首都の中でも最も緑の多い町だとハノイの人は言っていた。緑と共に大小の湖も市内に多く、湖岸や湖の中の島に寺院が建っていて、如何にも古都らしい風情が感じられる。
特に、旧市街の通りを歩くと、ごみごみとはしているものの何処か懐かしい雰囲気があり、商店の店先も活気に満ちていた。歩いている人々は、どちらかというと小柄で、スリムな印象ながら、東南アジアの他の国々の人達よりも理知的な感じを受けた。
肝心の陳朝時代の遺跡は殆ど残っていないとのことだったが、近年、同時代の建物跡と城壁の一部が発見されたとのことで、何故か理由も無いのに安倍仲麻呂のせいか懐かしい気がしたのだった。(笑い)
昔の雰囲気を良く残している場所として、観光客が行く先に、ホーチミン廟の近くの「一柱寺」や「文廟」、「旧市街」がある。一柱寺は、字の通り池の中に柱一本で支えられている御堂で、ベトナムの人達が順番良く並んで静かに何事か拝んでいた。
「文廟」は、李朝の時代に建設された孔子廟と付属する学校で、歴代の科挙合格者の氏名が彫刻された多くの石碑の林立する中国の一部を移したような静かな空間だった。文廟に行った当日、女子大学生だろうか、アオザイ姿のスリムな若い女性の集団が訪れていたが、如何にもベトナムらしい美しい光景に感じた。
それから、ベトナムの元寇で忘れてならない遺物の一つに、戦場となった白藤江の川底から掘り出された大きな3~4mの長さの木の杭がある。置いてある場所は、「ハノイ歴史博物館」だが、現在でも白藤江周辺の川や元川だった場所に残っているのだという。博物館の杭の展示の後ろには、元軍の船が杭によって座礁する様子を描いた絵画が掛かっていた。伝説では、この陳国峻の設置させた大きな杭によって元軍400艘の戦船が引っ掛かった所を陳軍の無数の小舟によって包囲、各個撃破されて降伏したという。
ハノイの後、港を見たくて、ハイフォンとダナンに行ってみたが、港には、ロシアから供与されたらしい旧式の小型艦がひっそりと停泊している程度で、大きな船はロシアの補給艦なのか中型の艦艇1隻だけであった。日本の地方の港で良く見る海上保安庁の大型巡視船クラスの船の姿は認められなかった。
そういえば、軍事博物館の展示もアメリカ軍から奪った陸軍用兵器主体の展示で、海軍関係の展示品は少なかった。陸戦に滅法強いこの国が海に目を向ける日は相当先になりそうな印象を二つの港の風景から受けたのだった。
(高麗、日本、大越を「武の視点」からを見直してみると)
モンゴルというユーラシア大陸最大の暴風雨を経験した東アジアの国々は多いが、中でも高麗、日本、大越の三ヶ国は元寇に於いて特異な体験をしたと思っている。
高麗、日本の両国は、元寇によってその後の政治体制や文化にも大きな影響を受けている。特に高麗では、それまで日本と同様の文化圏の色彩が濃厚だったのに対し、儒教導入後の朝鮮半島では、仏教文化の圧迫や食文化の転換等、大きく国民生活も政治環境も変わっている。特に、高麗の後を継承した李朝では異常なほど「儒教」を尊崇し、儒教絶対の政治風土が出来上っている。
その流れで、「両班」とはいいながら、文臣優先の国風が固定して、武臣は貶められ冷遇された結果、国難遭遇時には十分な対策を自国で立案できない宗主国依存の体質が出来上ってしまったように隣国から見ると感じられる。
逆に二度の元寇を幸運にも撃退できた日本は、「武家政治」肯定の国風が徐々に醸成された結果、近代国家明治の成立に至るまで、封建武家政治の流れが確立、約680年に渡って「幕府政治」が国家の最高決定機関として機能し続けることになる。
しかし、日本が古からの「武の国」かどうかと考えてみると、その可能性は限りなく低い気がしている。各時代を通じて武士の人口に占める比率は、一割を超えず、近代以前の日本をもし表す言葉があるとすれば、「稲作信奉の邦」とでも呼べる水稲栽培が主軸の民族だったと思っている。天皇家の新嘗祭始めとする米の収穫を祝う各地の秋祭りや多くの神社の神事にしてもそうだし、第一、武士の身分や俸給の表示でさえ、「何石」という米の収穫高表示が、つい百数十年前まで使用されていた点を見ても明らかであろう。
強いて言えば、全国民の一割に満たない武士階級は常に勇武の対象者として全国民から見られていた。逆にみると温順で大多数を占める農民から、「卑怯」、「未練」の振る舞いがあると武士として認められない厳しい国民感情に常に晒された存在であった。戦国期の「イエスズ会報告書」の訳を読むと確かにそう感じる。
ベトナムを歩いても当に、米作り重視の伝統国家で、水稲栽培に必須の水の配分に関しても国家に全ての優先権がある訳では無く、農村毎に存在する「村落共同体による自主運営機構」によって運用が制限されているのだという。
ここで、ベトナムの歴史を理解する上で留意しなければならないのが、ベトナムで古代から続く「村落共同体による自主運営機構」である。
唐の時代を含む何度かの中国によるベトナム支配に於いても、中国の支配権が直接掌握していたのは国の上層部組織までで、「村」レベルまで含む完全な支配では無かったのである。
中国支配が終了した後のベトナム独自の李朝の時代でも、王の権限は村落の中の自治組織には及ばなかったといわれている。李朝に続く、モンゴルが攻めてきた陳朝の時代にも、この「村落共同体による自主運営機構」は生き生きとして活動していたと考えられる。
逆に考えれば、モンゴル軍の侵攻をがっちりと受け止めて最終的な勝利を手中に出来たのは、この「村毎の自主運営機構」が陳朝の反モンゴル政策を根底からしっかりと支えていたからだと思われる。
多分、この村の自主運営機構の賛意があった為に、あの長い苦しい反米戦争を勝ち抜く事が出来た件と同根ではないかと改めて思った。
話が飛躍して申し訳無いが、
ハノイ訪問の折、ベトナム政府関係者との会議でベトナムにおける新規公共事業実施の際の成功のポイントをお聞きしたところ、第一に政府関係官庁間の合意、第二にベトナム共産党の賛同、第三に建設予定地の「村の自主運営組織」の賛成を得ることが出来れば、その事業は半ば成功した物と考えても良いと言われたのが印象的だった。
今日の中国共産党政権と異なり、ベトナム共産党は、「村の自治組織」の存在と重要性をしっかり把握して、政治を行なっている姿勢を肌で感じた瞬間であった。
ベトナム人民と政府は、庶民の底辺からの心からの賛同を得て、フランス、アメリカ、中国との過酷な戦いに勝ち続けてきたのだった。
日本もそうだが、豊かな自然と温暖な気候に恵まれたベトナムでは、武力による地域全員の抹殺に類する大虐殺事件は、歴史上、稀にしか記録されていない。しかし、民族の危機に直面する時、温和な農耕民族といえども勇猛な騎馬民族を殲滅し、国外に追い返すだけの勇猛心を発揮するのである。
(第一次モンゴル軍の大越侵攻:1258年)
モンゴル軍のベトナムへの侵入は、朝鮮や日本と違い、最初、征服を意図したものでは無かった。長江のラインを堅守して襄陽を中心に頑強に抵抗する「南宋」を背面から攻撃するため、モンゴル軍は現在の雲南省の「大理国」を攻略、占拠している。
その余勢を駆ったモンゴル軍はベトナムを経由して「南宋」を背面から攻撃すべく、陳朝に三人の使者を派遣している。陳朝側は断固、回答を拒否、使者の一人を処刑したのに怒ったモンゴル軍はウリャンハダイ率いる3万の軍を侵入させている。
これより先、モンゴルが侵略の準備をしているとの情報を得て、国王は国中に武器の準備と武芸の訓練を指示している。後に活躍する王族の陳国峻はまだ若く作戦会議に参加する資格が無かったが、家に帰ると一族郎党を集めて、「破強敵、報皇恩」の戦旗を作り戦争の準備を急いでいる。このことからも、当時のベトナム「大越」では、先進国南宋のような国軍は無かったか、あったとしても微弱な戦力でしか無く、我国の武士団と同様の「一族郎党」の力を結集した親族単位の戦闘集団が主体だった状況が理解できよう。
首都昇龍、現在のハノイを守る為の防衛線をモンゴル軍に次々と突破された「陳朝」は都城を抛棄して、家々を破壊、食べ物を残さない撤退策、「清野作戦」を実施して天幕地方に後退して戦いを継続している。
モンゴル軍は、都を陥落させて占領したものの、南国の炎暑と食糧不足に苦しみ、反撃に転じた陳朝の攻勢もあって、軍は1ヶ月と立たずに撤退している。
モンゴル軍にしてみれば、南宋攻撃が主目標の中、ベトナムでの戦闘の長期化は臨むところでは無った以上、早期に撤退したと考えられる。
この第一次のベトナム元寇の時期は、高麗に対する執拗な約28年に渡る侵略戦争に双方が疲れて和議を真剣に考え始めた時期に相当する。
しかも、1258年という年は、高麗「武臣政権」の中でも、最も安定した政権運営だった「崔氏政権」が崩壊した年でもあったのである。北の朝鮮半島で武臣の権力が凋落して、王権が復調しつつある時、南のベトナム陳朝では、日本の鎌倉幕府に似た「武威」を重んじる陳王朝がモンゴルと正面から対決することになったのであった。
ここで注意したいのが、自己の武力に見切りを付けて、王室外交に唯一の活路を見いだそうとし始めた高麗、武家政治の考え方を前面に押し出して、武力での正面衝突も辞せずと外交手段を全て断ち切ってモンゴルに備えた鎌倉幕府の北の二国であったが、この北の両国とは全く異なる対応をインドシナ半島の国ベトナム陳朝は展開するのである。
モンゴル軍を撃退した陳朝は、翌年、使者をモンゴル朝廷に派遣して、講和を懇願、以後、三年に一度の入貢を条件に和を結んでいる。この、硬軟両様の外交手法をベトナムの陳朝は、大モンゴル相手に駆使している点が、高麗や日本と違って如何にもベトナム人らしい感じがしている。
全力を挙げて戦い、敗れると直ぐ討ち死にを好む日本人や大国の意志に唯々諾々と従い、属国となり、儒学上の独自の論理を立ち上げて自己満足に逃避し、真実から眼を背けようとする朝鮮民族とは異質の超現実主義者のベトナム人の今日に繋がる政治姿勢を垣間見るような気がする。
国土に侵入する敵は大モンゴルといえども容赦しないが、外交交渉は大国のメンツを立てながら柔軟に行う大越外交のスタートであった。
(第二次モンゴル軍の大越侵攻:1283年)
南宋が滅亡(1279年)して4年、「元」の建国によりフビライの東アジア外交は大きく変わりつつあった。
北では、日本という海を隔てた小国の二度目の征服事業(文永の役)に失敗した結果、フビライは、第三次日本侵攻の為に遠征用の兵や軍船、食料を再度準備する命令を高麗に下していた。他方、南方では、東南アジア諸国、占城、ジャワ、スマトラ等の国々に入貢を促す使者を派遣している。覇権国家「元」による東南アジア海洋世界への進出である。
その際、ベトナム中部の王国「占城」には、行省を設置して東南アジア諸国統括の機関設置を構想したのだった。しかし、占城王国は、その要求を決然と拒否した為、元は陳朝に占城攻撃の道案内と出兵を求めたのであった。
この要求を陳朝は拒絶、元は最初に占城王国に兵を送って攻略、その余勢を駆って、大越国を北東と北西、そして南のチャンパ方面からの三方向から攻略しようと軍を進めたのが、第二次モンゴル軍の大越侵攻である。
国王仁宗は国軍の総帥に陳国峻を指名、全土で徹底抗戦の体勢に入った。しかし、名将陳国峻と雖も怒濤の元の大軍を阻止出来ず、またも都昇龍を大越は明け渡すことになったのであった。
再度の首都陥落の事態に陳朝の王族や重臣層の中には元軍に降伏した有力者も複数現れる始末で、陳朝は亡国寸前の状況に追い込まれるのであった。
たが、総司令官陳国峻は弱気になる国王を叱咤して、元軍全ての国外退去まで戦い続けている意志を徹底させている。その背景には、首都陥落の敗戦に屈しないベトナム人の強固な抗戦意志とモンゴル軍に対する全国民の敵愾心の高揚があった。
元軍侵入から4ヶ月、粘り強い各地での反撃の結果、首都昇龍を奪回、昇龍の南、西結に集結した元の大軍を陳朝の総力を挙げて大破、残余の元軍は、二方向から国境を越えて撤退している。
しかし、世界最強のモンゴル軍を陸戦で二度も打ち破った輝かしい大越の成果は、逆に皇帝フビライの怒りを招くのだった。
(第三次モンゴル軍の大越侵攻、白藤江の戦い:1287~1288年)
前二回の失敗に激怒したフビライが本格的にベトナム陳朝の攻略を開始したのが、「第三次モンゴル軍の大越侵攻」である。フビライは高麗その他に命じて準備していた「第三次日本遠征」の資材、兵力も投入して、「大越」の征服事業に本格的に取り組み始めたのである。
「他人の不幸は自分の幸福」と心無い人達はいうが、大越に新たに降りかかる災厄は日本の危機回避に直結する国際情勢の大変化であり、日本は知らない内に三回目の元寇を回避出来たのであった。
トゴンの指揮する主力の陸軍部隊を中国南部から大越に進攻させる一方、ウマルの率いる水軍を海から遡上させて大越中心部を突く作戦計画であった。また、前二回の大越攻撃で食糧不足から撤退を余儀なくされた元軍は、水軍に食料を満載した補給部隊の船団を同行させる慎重さも準備しての第三回大越攻撃だった。
トゴン率いる主力軍は1287年12月、国境を越えて大越に侵入した。他方、ウマル指揮する水軍は白藤江から都昇龍を目指す作戦だった。白藤江はベトナム有数の観光地ハロン湾に注ぐ最大の河川で、ベトナム史を彩る多くの合戦に登場する大河である。
白藤江を遡上したウマルの水軍は、萬劫でトゴンの主力軍と合体、
昇龍に向けて進撃を開始した。しかし、ウマルの船団に後続していた糧秣を満載した供給部隊が雲屯で、大越軍の待ち伏せ攻撃を繰り返し受けた結果、船団の船の多くが沈没した上、残余の船と糧秣が陳軍の奪うところとなってしまった。
しかし、戦力で勝るトゴンは、都昇龍の占拠を目指して進撃、三度目の占領に成功している。これに対し陳軍は、前回、前々回と同様に「清野策」で対抗している。
敵の首都を占領して、兵数で勝るトゴンだったが、遠路中国から運んだ食料の殆どを失った結果は甚大で、急遽海陸の二手に分かれて帰国する方針を決定している。
撤退を準備する元軍に対し、陳国軍の総帥陳国峻は、白藤江に待ち伏せして、元水軍の潰滅を図ったのであった。
陳国峻が戦場に想定した白藤江は多くの川が流れ込む大河川で海に近く、現在のハイフォン市を通って海に注いでいる。陳国峻は海の満潮と干潮の影響を受けやすいこの川の特徴を利用して元軍殲滅作戦を立案している。
元軍の船が通りそうな水域にハノイの歴史博物館で見た、あの長い杭を無数に打ち込んだのだった。この列をなして打ち込んだ杭は、満潮時には水面下に隠れて見えず、干潮時には現われて船の航行を妨害する大きな障害物となるのだった。
毎日の潮位を調べさせた陳国峻は、ウマルの戦船が攻めてくる時間を満潮時に設定して、小型船を出して上流に誘導、干潮時になると川の両岸から陳軍は無数の小型船によって、攻撃を開始したのであった。慌てたウマルの船団が河口に向けて撤退しようとしても、水位の下がった水面には無数の杭が突き出ていて身動きがとれなくなってしまったのである。
立ち往生の元軍の船に対し、陳軍は上流から火の付いた筏を流して火攻めにする一方、逃亡を図る敵船を小型船で包囲して破壊、拿捕している。乱戦の末、大将ウマルも生け捕りにされている。
総大将トゴンも萬劫から逃亡、陳軍の度重なる攻撃、特に国境付近での激戦で多くの兵を失ったが、残兵と共に命からがら広西に逃げ帰る醜態を示している。
(巧妙なベトナム外交)
ここまで徹底した勝利を挙げれば、高麗や日本ならば、虜とした敵将以下の捕虜の首を切って勝利を全国に示したと考えたい。しかし、外交巧者のベトナム人は、敵の元朝に直ちに外交団を送って朝貢を開始したのであった。
また、翌年には捕虜とした元の将兵達を丁重に送り返している。しかし、水軍司令官のウマル将軍は、陳朝側の深刻な恨みを受けたようで、帰りの乗船に穴を開けられて水死したと伝えられている。
しかし、三度の失敗に懲りないフビライは、陳朝の朝貢では満足せず、直接支配を画策、陳朝使節を拘留した上、陳朝国王の大都への進貢を執拗に求めている。
若しかしたらフビライは、高麗国王が征東行省府長官として日本征討準備機関の長を引き受けたように、インドシナ半島全域を支配下に置く「行省府長官」の職を大越国王に引き受けさせたかったのかも知れない。
大元の皇帝として覇権主義に取り憑かれたフビライは、第四次大越進攻を画策するのだった。
けれども、皇帝フビライの飽くなき領土欲も、老皇帝の死によって出兵は永久に取りやめとなってしまった。
フビライの死の6年後、陳国の英雄陳国峻も死去した。病床を見舞った英宗に陳国峻は要約すると、
「敵が一気に攻撃してくるようならば、敵の撃滅はたやすいでしょう。しかし、敵が辛抱強く勝利を急がない戦法の場合、民衆に心優しく接して、民衆の力を育まなければなりません」
と、述べている。
このベトナムの国民的な英雄陳国峻の言葉を噛みしめてみると、先に挙げた古くからの「村落共同体による自主運営機構」の底辺からのベトナム政府へのバックアップもあって、戦力の全く段違いな大国アメリカを駆逐した勝因とモンゴル軍を三度も撃退できた要因が根底で繋がっているのだと確信させる陳国峻の逸話だった。