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20.「武の視点」から日韓中世史を見るⅢ

史上初めての世界帝国と呼んでも良い「モンゴル帝国」の支配によって、ユーラシア大陸全体が東西交流を含めて活性化した影響は非常に大きかった。

中でも、ジンギスカンの正当な後継者である第五代大ハーンに就任したフビライが建国した「元」は、周辺の東アジア諸国に歴史的に大きなプレッシャーと文化的な影響を与えた。

フビライが元王朝を建設した中国自身にはもちろんのこと周辺諸国の高麗やベトナムの陳王朝、我国の鎌倉幕府も「大モンゴル」による侵略と掠奪の歴史の大波を真面から受けている。 

この項では、フビライの指示した日本への第二次遠征(弘安の役)も失敗に終り、彼の海外侵略の野望が空しくしぼんで行く時代を「武の視点」から、観察してみたいと考えている。


(大中華思想という妄想に執着したフビライ)

ジンギスカンの優秀な孫達の中でも中華文明を最も理解した人物が、第五代大ハーンとなったフビライであった。

従来、草原の狩猟、牧畜集団だったモンゴル族の慣習を改めて、中国風の帝国「元」を建国したフビライは、己の本拠地として、従来の上都(夏の首都)の他に、現在の北京の地に冬の首都「大都」を建設している。

大都の都市計画にもフビライは中国人官僚の勧める「周易」に基づく都市計画を採用、今日の北京の基礎作った彼の功績は大きい。

大都に腰を据えて、回教徒と優秀な中国人官僚を重用して、国家としての「元」の政治機構の整備に努めている。一言で言うと元の政治運営策は遊牧民族的で、税の徴収には征服した西方の回教徒達を信任して任せている。一方、国としての行政制度や経済運営策に関しては、耶律楚材以来の伝統があるのか、南宋の形態をそのままに近い状態で、継承しているようだ。

どうも、ここら辺は、優秀な征服王朝や新興勢力は、旧王朝の使い易い部分は、そのまま使って住民への負担を軽減する策をとっている。元を倒した明の洪武帝にしても、元の施策で自分に都合の良い点を残すのに躊躇しなかったし、このやり方は、後年、「清朝」の中国征服時にも多くの部分で明の遺制が用いられている。明の旧制度を多く残しながら、明末の悪政による大増税の部分を免除することによって、異民族「清」は、人口の膨大な中国民族大多数の協賛を得て中華の地に満州族の植民地帝国を完成させている。


高麗を属国として隷下に置き、南宋を滅ぼして中国本土を手中にしたフビライは、中華思想に従っていよいよ海外の諸王国の征服に乗り出している。騎馬民族の首領であるフビライに大量の水軍を必要とする海外遠征を進言した阿諛迎合の徒は居たはずだが、手元の資料では残念ながらハッキリしない。

いずれにしても、フビライは中国皇帝として、大乗り気で周辺諸国への攻略部隊と海外遠征軍を送り出している。最初に、高麗と同じ頃に攻撃を受けて滅亡したのが、元建国前にモンゴル軍の攻撃を受けた現在の雲南省にあった大理王国であった。

続いて、現在のベトナム北部にあった陳朝が三次に渡って執拗な陸と海から攻撃を受けて、一時、首都のタンロン(現在のハノイ)も陥落して、苦戦を強いられている。しかし、国民的英雄興道王陳国峻チャン・クォック・トアンの活躍によって滅亡の危機を脱出して、最終的には奇策によって元軍に勝利している。


その他にも、現在のジャワや琉球、樺太にあった諸王朝が元の海外遠征軍の攻撃を受けたが、各国共に幸いな事に撃退に成功している。東アジア全体から見ると地元の小王国の民族の自立心が巨大な元の欲望に打ち勝った構図に見えて幸せな気分にさせてくれる。

この中国周辺の海外領土拡大に対するフビライの欲望と執着を見ていると現在の中華人民共和国の南シナ海全域の領域権主張要求に極めて似ている雰囲気が感じられる。

逆に、冷めた目で見れば、中華覇権思想の妄想にジンギスカンの孫のフビライも取り憑かれてしまった感が深い。海外領土拡張の誇大妄想に益々執着したフビライは、小国日本征服に固執して、征東行省府長官である高麗国王を督促して、第三次日本遠征軍の整備を急がせるのであった。

しかし、老齢のフビライの足下が大きく緩み始める事件が多発、親族からの反抗も目立ち始め、当時73才で高齢のフビライ自身の親征により平定する一幕もあった。日本の永仁2(1294)年、英雄フビライの死によって、三度目の日本遠征を含めた全ての海外遠征計画は停止、元によって、これらの計画が新たに立案実施されることは二度と無かったのである。


(「武の視点から」モンゴル軍を見る)

ジンギスカンの征西以来、モンゴル民族は、自分達が持たなかった最新技術や新兵器の導入を領土拡張時に積極的に用いている。

元々、草原では多くの物資が不足しており、中国や西域の広い地域からのたような物資に憧れを抱いたり、依存していたところがあった。

そして、ホラズム王国の征服や中国の北半分を領域としていた「金」を滅ぼした段階で、勝利者であるモンゴルは、占領地域の全ての物と最新技術を自由に活用できる巨大な裁量権を手中にしたのであった。

その結果、従来のモンゴル軍が得意とした平原での騎馬戦闘手法の他に、金軍が保有していた火薬を用いた火槍や火箭、爆裂弾である震天雷等の世界でも最新鋭の兵器を自国の物としている。戦術面の応用では、中国の堅固な城郭都市攻撃用の大型投石機や包囲戦、降伏した南宋軍水軍の活用など、草原の騎馬民族が従来思いもしなかった広範囲の戦闘に対応できる人材と技術を傘下に組み入れていた。

他国の有する最新技術と兵器の導入によって国土拡大のスピードアップに成功したフビライ指揮下のモンゴル軍は、長い間、モンゴル軍の南下を阻止してきた南宋の要、「襄陽」包囲戦の最終兵器として、遠くイスラム圏から、最新の大型投石機を製作、操作するための人材の派遣を求めて襄陽攻略に成功している。


「元」は、高麗と南宋をモンゴルの領域に併合することによって、東アジア全域への水運ルートと大型艦船の建造技術、それを運用する為の人材を手に入れたのであった。元々、宋以前から中国による民間レベルでの海外貿易は盛んで、イスラム圏の遠い国々とも絹や陶磁器を盛んに交易して来た経緯があった。この結果、イスラム圏に建国したモンゴル系の各家々との連絡や交易でも、草原ルートよりも物資の運搬に有利な海上ルートで繋がったのである。

その結果、降伏した南宋軍を軸とした海軍力を手に入れたフビライは、大好きなおもちゃを手にした子供の様に、東アジア各国に対し表向きは「進貢」の要請、実質的な降伏の為の威圧を実施したのであった。

フビライにしてみれば、降伏した南宋水軍その他の再利用と新しい艦船の建造は、自分の腹が全く痛まない上、新たな領土拡張にチャレンジ出来る好ましい機会だったのである。

だから、「弘安の役」において江南軍10万人の殆どが潰滅した事態に関してもフライドが若干傷付いた程度で、国家としての痛痒を殆ど感じ無い事件だったのである。

しかしながら、「武の視点から見た」、日本遠征の二度の失敗や第三次ベトナム陳王朝攻略戦の敗退は、大元帝国の威信を徐々に低下させる端緒だった点は考慮しても間違いでは無いと思う。

それ以上に大きかったのが、フビライ没後の元朝内部の混乱であり、後継者問題を含む政争や有力将軍同士の抗争によって、皇帝の威信は低下し、元王朝の衰退は始まっていたのであった。

加えて、日本、ベトナムだけで無く、海上からの東アジア諸国への遠征も悉く失敗した結果、陸上ではともかく、海上での「元」の権威の限界を周辺諸国は冷静に観察していた可能性は否定できない。


けれども、モンゴルの誇る「武の凋落」は、高麗が一部講和をモンゴルと結んだ1260年に、既にモンゴルの進出していたユーラシア大陸の西方で始まっていたのである。

シリア駐留のキト・ブカ率いるモンゴル軍とエジプトのマムルーク軍が、シリア・パレスチナの「アイン・ジャルート(ゴリアテの泉)」で激突、それまで無敵だったモンゴル軍が初めてイスラム教徒軍に破れて潰滅したのである。

マムルーク軍によるモンゴル軍の西進阻止の初めての成功は、イスラム諸国とキリスト教諸国に大きな勇気を与えた。これ以降、モンゴル軍による領土拡張戦略は限界に達して頓挫、モンゴル帝国の支配領域は分裂と縮小の時代に入って行くのであった。

古代ヨーロッパの地中海世界を中心とした広大な領域を支配したローマ帝国にしても、近代のナポレオンにしても、その卓越した武器の運用技術と独創的な戦術によって、一時代を画す勝利者の称号と広範な領土を自分の物としている。

しかしながら、ローマ帝国の場合でも、古代ローマ軍団の所有する武器と同等の優れた剣や槍を周辺の蛮族達が所有し始めて以降、ローマ軍団の勝利の比率は徐々に低下していったし、ナポレオンの有名な砲兵活用戦術も英国を初めとするヨーロッパ諸国に知れ渡ってからは、少しずつナポレオンの戦場での勝利は遠ざかり、権威は急速に失墜している。


同様に、「武力により急成長した巨大国家」モンゴル帝国は、武力主体の領土拡張による急成長が止まると同時に、徐々に、分裂と衰退の坂道を転落する危険性を常に秘めていたのである。

モンゴル軍の得意とした戦法や騎射弓兵の活用技術や偽って退却して逆包囲する戦術もトルコを初めとする敵陣営に知られ始めてからは、戦場でその威力を発揮出来なくなっている。

加えて、東方フビライの「元」内部では、騎馬民族らしいイスラム系商人に依存した徴税システムと際限の無い中国人民に対する苛斂誅求に依存した怠惰なたかり体質が帝国の力を損なっていった。加えて、中国人民に寄生する吸血鬼同様の体質は、モンゴル軍自体の戦闘能力を急速に低下させたし、それよりも「元帝国」自身の余命を自分達の手で縮めていったのである。

そして、元の衰退と共に何時もの様に中国全土で混乱による内乱が多発、明の建国までに飢餓と戦闘によって、一説では三千万人の人命が失われたという。


(朝鮮半島の「武」の凋落)

過去には、古三国時代の高句麗や新羅に代表されるように、大帝国隋や唐と堂々と渡り合って独立国の気概を発揮してきた朝鮮半島の誇らしい歴史があった。

だが、高麗王朝中期に至り、今までとは比較にならない凶暴な大モンゴルの侵入により、信じがたい程大きな被害を国家も人民も受けた点は既に述べた。

当時、政権を掌握していた「武臣政権」を中心に30余年に渡って朝鮮人民は徹底的に抵抗を続けている。たが、最期は、ユーラシア大陸内で卓越するモンゴルとの「武力」の差に押しつぶされる形で講和を結んでいる。

この朝鮮民族が示した民族闘争の経緯と結末ほど、その後の朝鮮民族の考え方に心の深淵で大きな影響を与えた歴史的大事件は無かったと思っている。


講和後もモンゴルによる搾取と強権は止まず、「強大なモンゴル帝国に対する抵抗の虚しさ」を国王も臣下である両班貴族層から一般庶民に至るまで心底味わわされた屈辱的な記憶となって民族の中に残ったのであった。

同様の圧政はモンゴルが支配したユーラシア大陸の広範な地域で起きており、中でも、ロシアでの圧政を表現した「タタールのクビキ」は有名である。

朝鮮民族の心に染み込んだ、「モンゴル(元)の圧政の歴史的な洗脳効果」は深刻で、元が崩壊して北帰した後も、「強大な中華帝国に対しては、永久に従順でありたい」とする王家初め、政権上層部の根本思想として、後代の朝鮮半島の政治家の心の奥底に定着していった感は否めない。

大中華帝国に対しての抵抗の空しさを実感した朝鮮民族が、次に考えた事は、「中華帝国の根本思想の忠実な信徒」になることによって、中国からの圧迫の低減と「小中華」しての中国の認定を得る方策に気付いた学習効果だった。

「武力」で敵わないなら、中華文明の精神的中枢である「儒教」を徹底的に学び、模倣することによって巨大な中華帝国に愛されないまでも虐げられない、「小中華」の実現のために国を挙げて邁進する姿の出発点が、武臣政権崩壊後の高麗後期の元との外交関係に苦悩した王と重臣層の中に、その萌芽が生まれたような気がしている。


このような経過を辿って一時、全盛を誇った「武臣」の地位は、高麗王朝前期の「文臣」優位、「武臣」下位の状態に逆戻りしてしまった結果、朝鮮半島に於ける「武臣政権」復活の可能性は、永遠に潰え去ってしまったのである。

後年の李朝の武備を見ても、中国との国家間の大戦争に耐えうる大規模な国軍と見るよりは、北からの蛮族、女真族や契丹族の侵入軍の撃破や南部沿岸地域での倭寇撃破用の「水師」の整備が主となり、地方駐屯軍主体の「武力」になっている。

この小中華思想と国防ヘの消極策が、豊臣秀吉の「文禄・慶長の役」の初戦での敗退原因に繋がる一因になっているかも知れない。


(「高麗王朝」の衰退と李氏朝鮮の建国)

本題の高麗王朝後期の政情に入る前に、王室と両班層に関係する「元」によって朝鮮半島にもたらされた二つの新しい文化について考えてみたい。気の早い人は、「焼酎と焼肉」文化だろうとおっしゃりたいだろうが、残念ながら、そうでは無い。(笑い)

その二つとは、「朱子学」と「宦官制度」である。王権が建国した当初、高麗は、「儒学」と言えば、「漢学」に続く古いタイプの儒学であったし、「内官」と言えば、国内有力豪族の子弟であった。当然ながら内官といっても髭を生やした男子で、中国王朝の宦官とは別の存在であった。

所が、「武臣政権」の成立によって、王は常に武臣の監視下に置かれて、心休まる暇が無かった影響で、それまでの健全な男子の内官に替わって、元王朝と同じ去勢した中性の宦官を身辺に用いるようになったのである。

元朝の影響を受けた宦官は瞬く間に王室内部に普及して、従来の「内官」の呼称が、宦官の名称として、高麗中期以降、用いられる事になる。この制度は、高麗の後継王朝である李氏朝鮮でも用いられて、宮廷の裏面での宦官の活躍は中国王朝同様に陰湿に拡大していく事態となっていく。


もう一つは、元から伝わった「朱子学」である。後世の鮮民族の精神面に対して、「朱子学」程、大きな影響を与えた学問はない。

朱子学の祖、「朱熹」は、従来の儒学に加えて、「仏教」の論理体系と宇宙観を加味した上、「道教」の気も導入して、儒教を壮大な新しい学問体系に造り直している。

元から伝来した朱子学の考え方が朝鮮民族の性格にも合っていたこともあって、高麗後期の知識層の中に浸透すると共に、一般の両班階級に徐々に普及して行くのだった。

新儒学とでも呼んだ方がぴったりする「朱子学」は、この後、朝鮮半島の人々独特の理論探求が行なわれた結果、党派党争の激化と共に「正邪分別論」が、李氏朝鮮の中で次々と先鋭化して行く。

ここでは、朱子学の詳細な検討分析は省略するが、ポイントとして、「武臣政権」が終った後の高麗時代後期に「元」から朱子学が伝わって来た点と知識層に普及し始めた状況はご記憶頂きたい。


さて、本題に戻って、高麗王家では第25代国王忠烈王以来、元の皇帝の駙馬(婿)となる高等戦術によって、従来の際限無い殺戮と略奪から解放されるのだった。

その結果、高麗全土で破壊と収奪を重ねてきたモンゴルの将軍や使臣達も、王の前での無礼な振る舞いは出来無くなっていた。

講和後、表面上は高麗王家の威信回復により、高麗の民は戦乱による殺戮から逃れることが出来たのであった。

しかし、講和成立後も元は、多数の高麗の若い女性を貢物として連年、要求しているし、その他にも朝鮮の貴重な物産を大量に貢ぎ物として強制的に献上させている。

領土的にも、元に隣接する北部地域と済州島がモンゴルの直轄地として、元の直接管理下に長く置かれることになり、今日まで続く済州島出身者への差別待遇の朝鮮流の論拠となっている。

更に、大きな負担となったのが、日本へのフビライの第三次侵攻の準備であった。「弘安の役」の大敗にも関わらず、フビライは、第三次日本侵攻の準備を征東行省府長官である高麗国王に命じている。

幸いな事に、三度目の「元寇」は、皇帝フビライの死去により回避されたが、もし実施されれば、日韓両国にとって前回以上に大きな惨禍と後遺症を残した可能性があったのである。


フビライの死後も続く元の強引な要求によって、高麗国内では全土の疲弊を無視して元に追従して、一門の富貴だけを得ようとする「附元勢力」が台頭している。彼等は国家の財政難と大多数の国民である農民層の窮乏化を無視して、己と自分の一族の栄達に腐心している。

一方、肝心の宗主国「元」の衰退と元内部での内乱の頻発と共に、従来の高麗王家の政治方針も大きく動揺して、政治姿勢の変革の時期を迎えている。

1351年に即位した恭愍王は従来の国策を変更、「反元政策」を実施、附元勢力を一掃して、自身の弁髪や胡服も旧習に戻している。

しかし、恭愍王の復帰策の大きな障害となったのが、元の衰退に乗じての北からの「紅巾族」の侵入と朝鮮半島南岸への「倭寇」の襲撃であった。

「紅巾族」と「倭寇」討伐に起用された武将達の何人かは、武勲を挙げた結果、混乱する高麗内に新しい武人勢力が、台頭してきたのであった。

その中の一人に、後に、李氏朝鮮を建国する「李成桂」がいた。李成桂は、着々と高麗内部での自己勢力の拡大に努める一方、対外的には、衰退する元に見切りを付けて、新興の朱元璋が建国した「明」によしみを通じて、1392年、遂に、「李朝」を建国して国王に即位している。


ここで注目されるのが、武将李成桂の建国が、「武力」だけによる王朝簒奪では無かった点である。もちろん、強大な武力によって新王朝を打ち立てた李成桂だったが、新王朝建設の理論武装を優秀な儒学者達による、元から新着の「朱子学」に拠った所が多分に見られる。

更に、中国本体の王朝交代期における、徐々に衰退期に向かう、「元」と新興の「明」の力関係の変化を慎重に勘案する判断力も李成桂は持っていた。

大きく変動する中国の騎馬民族と漢民族の歴史的な交代期を良く観察して、最終的な結論に達した李成桂は、自国の国名の決定に対し、勃興期にある「明」の洪武帝に使者を派遣して、洪武帝の裁可を求めて、その決定に従う慎重さを示している。

洪武帝は、李成桂から上程された二つの案から、「朝鮮」を国名として裁可している。自国の国名の最終判断を中華帝国に求める従順な姿勢こそ、小中華としての「李氏朝鮮」500年の歴史の始まりであった。

「朱子学」の導入と遵奉こそが、中国と朝鮮半島の近世の両民族の精神史を決定づけた大きな因子の一つであることは間違い無いと確信する。「朱子学」の導入により、これ以降、朝鮮半島では王家が続く限り「武臣」が権力を握る可能性は永久に絶たれたのであった。


(「北条政権」と元寇)

ここまで、元と高麗に於ける元寇前後の「武」の力の時代的な推移を簡単に触れてみた。一方、日本の朝廷及び、「北条執権政権」は、遣唐使廃絶後長い間の正式外交喪失期間を経て、強大な「元」の領土拡張政策に巻き込まれる形で、「北条政権」は、未曾有の国際外交の大問題に否応なく引きずり込まれていく。

「元」よりの最初の国書は、和親の提案と共に文末で武による恫喝を言外に秘めた内容であった。執権北条時宗と幕府首脳部は協議の結果、断固拒否の強硬な外交方針を決定した。

特に、若年で執権となり国の未来を双肩に担った時宗の苦悩は大きかったはずである。南宋から招いた無学祖元等の禅僧の心強い精神的な助言と南宋滅亡の経過に関する最新情報は、幕府首脳部の「強硬路線」の覚悟を何度も強く励ましたことであろう。

更に、京の朝廷の長袖衆とは異なり、「武家政権」である鎌倉府の執政官一同には、「元」の日本侵略の本当の姿は見えなくても、武者としての敗者の覚悟があったはずである。

頼朝による幕府成立以来、鎌倉政権内部での度重なる暗闘は数年置き、あるいは十数年置きに繰り返されて来た血に染まった暗黒の歴史があった。

過去に全盛を誇った強者の一族が時の流れと共に敗者となった結果、市中の辻に一門の首が共に梟首される惨状を見たことの無い鎌倉武士は少なかったはずである。敗者の悲惨な姿を常に目の当たりにして来た当時の鎌倉武士には、生死に正面から向き合う相応の覚悟が定まっていたと考えたい。


幸いなことに「承久の乱」以降、太宰府を含めた諸国の情報が、朝廷では無く鎌倉に届くようになっていたし、南宋の名僧達が主に目指したのも都の京では無く、武家の地、鎌倉であった点でも時宗には幸いした。

加えて、南宋と鎌倉を繋ぐ貿易の窓口となった博多在住の南宋の貿易商謝国明等の存在が大きかったと思われる。彼等貿易商は南宋滅亡後も寧波その他との交易を継続していたし、元も大国らしく日本からの貿易船を拿捕する行為は慎んでいたのである。

南宋出身者の貿易商に対する幕府の厚意の根拠となりそうなのが、「弘安の役」の後の膨大な戦争捕虜の扱いである。モンゴル、高麗、南宋それぞれの囚人は、明確に分けられ、モンゴル人、高麗人、漢人(北半分の中国人)は即、斬首、南宋人は「唐人」と呼ばれて奴とされたものの助命されたと伝えられている。

鎌倉府も最前線司令部である博多でも、侵入軍捕虜に対して元々の国籍によって、生死がハッキリと分ける判断をしている。博多在住の交易商の幕府との友誼によって、旧南宋人は日本攻撃に参加して捕虜となりながらも、命だけは許されたのであった。


いずれにしても、北条時宗の強硬策とモンゴル混成軍に対応できるだけの日本武士の戦闘能力に加えて、「石築地」と二度に渡って発生した大暴風雨により、日本の「武家政権」は、外圧による幕府崩壊を免れたのであった。

しかし、喜んでばかりは居られない暗い将来が幕府を待ち構えていたのである。

試みに、「元寇」後の鎌倉幕府や敵であった元、高麗三ヶ国の政権の終焉時期を短命な順に挙げてみると、


 鎌倉幕府     1185年~1333年

   元        1271年~1368年

 高  麗       918年~1392年


となる。

三ヶ国の政権の中でも、勝者であったはずの「北条執権政権」が最も短命で、第二次元寇の「弘安の役」から約60年後には滅亡している。

日本以外にもベトナムやインドネシア、琉球、樺太にまで遠征軍を送り込んだ強大国「元」自身も、90年弱で中華帝国としては滅亡している。一番しぶとく生き残った長命の高麗にしても約110年余で、李成桂の朝鮮王朝にバトンを渡すことになったのである。

いずれにしても、民族の存亡を賭けた大戦争で国の体力を消耗した勝利者、敗者双方共に、組織としての生命力が急速に失われていく冷酷な歴史的事実が待ち構えているのである。


(恩賞への不満と幕府の衰退)

短命の大きな原因の一つとして考えられるのが、「文永の役」、「弘安の役」の二度に渡る元寇に対する鎌倉幕府の恩賞給付に対する全国的な不満であった。

戦勝後、九州で力戦した武士達はもちろんの事、「敵国降伏」の祈願をした朝廷、「神風」を吹かしたのは自分達だと鼓吹する全国の有力寺社が挙って、幕府に莫大な恩賞を要求したのであった。

中世の濃厚な呪術信仰が残っている時代、「神風」によるモンゴル軍覆滅を誇大に吹聴する大寺院や神社の恩賞要求を全く無視することは鎌倉幕府といえども出来なかったのである。

それに対し、家人や家の子郎党を失いながらも力戦奮闘した御家人層からは、寺社への恩賞の前に、血を流した自分達一族への十分な恩賞を求めて止まない強い働きかけがあった。

しかしながら、往年の「平家追討」時や、「承久の乱」の際のように、没収した敗者側の広大な所領が有った為に恩賞支給に困らなかった状況に反し、今回の元寇では元の大軍を痛破した戦勝後の時点でも、元や高麗の尺寸の土地も日本の物とはなっていなかったのである。恩賞に給付する一寸の土地も手に入っていない現実を幕府首脳部は痛切に思い知るのであった。

各方面に細々とした彌縫策的な恩賞を幕府は用意した物の全国の武士と朝廷、寺社全てを満足させる充分な恩賞を支給することは幕府にとって全く不可能な状況であった。

時間の経過と共に、恩賞支給に対する幕府への不満は高まる一方であり、全国に広まった幕府への不満の広がりは、幕府崩壊の端緒となっていったのである。

要は、幕府指導層に対し、朝廷も寺社も御家人も不満を募らしていったのが、「弘安の役」以降の日本国内の状況であった。

中でも気の短い九州沿岸の水軍の一部は、「倭寇」となって、モンゴルの手先、高麗に報復すべく、朝鮮半島南岸への報復と掠奪に出発する者達が後を絶たなかった。


こうして元寇後の各国の歴史を見てみると国民の生産能力の小さかった中世で、国力を出し切って戦った大戦争の結果、各国それぞれに大きな爪痕を残しただけで無く、その国の権力機構そのものを60年から110年で崩壊させていることが良く解る。

翻って日本の「武家政権」を考える時、恩賞に対する「北条政権」に対する不満は鬱積していたものの、「武家政権」の存在そのものへの不満では無かった気がしている。

「武家」の力によって、「元寇」を食い止めた実績は大きく、武力が朝廷を初め庶民の信頼を広く受けることが出来たと考えられる。外交面でも元寇前後が、武家による初めての国際外交デビューであったが、「弘安の役」の成功により、歴代の武家政権が外交を主導する道が開かれて行く点も日本史の大きな潮目と考えたい。

この「武家外交」の伝統は、約590年後の徳川幕府による大政奉還の時まで維持されて、近代明治国家の軍事重視に継承されている。


(中世ヨーロッパと中世東アジア史を比較する)

最期に、この項を締めるに当たって、ヨーロッパの中世と東アジア、特に日韓の中世史を「武の視点」から比較してみたい。

「暗黒時代」と呼ばれたヨーロッパの中世、ギリシャ、ローマの偉大な文明は遠い過去のものとなり、身近にある文明国としては、コンスタンティノープルにある東ローマ帝国位であった。

他方、朝鮮半島と日本にとっても同様で、文明国として周辺諸国から古代以来注目されていたのは中国であった。

中国の歴代王朝は古代以来、「武力」によって天下統一を完成すると同時に、「儒教」による文治主義を徹底させて、中華帝国の後継者を標榜する不思議な思想体系を中世にはハッキリと確立していた。

朝鮮半島の高麗は、建国直後から儒教と科挙の導入を始めて中国に倣った文治主義を王朝の基本姿勢として治世を行なっていたが、文臣優先の政治体制が禍して、武力による「武臣政権」が発足した経過は前述した。


同じような時期に、平安貴族による王朝体制が長く続いた我国でも武力を保有する武士が台頭、最初の武家政権である「平氏政権」が成立、続いて第二次武家政権である「鎌倉幕府」が誕生している。

高麗の「武臣政権」と日本の第二次武家政権、「鎌倉幕府」は永続するかに見えたが、巨大な武力集団である大モンゴル帝国によって、大きく揺さぶられた結果、高麗の「武臣政権」は、百年で挫折している。

朝鮮半島では、その後、「武力」によって政権を奪取することは、あっても、新しい王朝創設後、速やかに中華式の「文治主義統治機構」に大転換して文臣優先の政治体制を整備、武臣が政権を握る可能性は、李氏朝鮮500年の歴史と通じて全く無かったのである。


他方、島国日本の「鎌倉幕府」も元寇後、短期間で滅亡している。しかし、北条政権の否定は、日本人全体としての「武家政権」の存在否定では無かったのである。

「鎌倉幕府」滅亡後、短期間の内に、足利尊氏による「室町幕府」として、武家政権は復活している。それ以降も日本の政治機構として「幕府機能」は維持されて近代日本に繋がっている。

中世から近世に至る日本独特の「武家政権」による政治機構は日本人独特の思考を生み出して、「朱子学」に準拠する政治思想基盤の中国や韓国と大きく異なる、武家思想の庶民全般への浸透となって行く。

その点では、東アジア諸国の中でも、ヨーロッパの騎士階級から始まる封建社会と侍による日本の武家社会は、極めて似ている点が多い。国家の基本システムが両者共に軍事中心の傾向のため、良い物は何でも採り入れないと周囲から遅れる危険性が大きく、先進文明に対する尊敬と新しい学問導入を喜ぶ傾向がある。

その一方で、軍事の中核を担う騎士や武士は、一種の社会規範となる毅然たる態度を矜持し、自分達の文化的な個性を伝統として保持して現代に至っている。

「武の視点」から東アジアに於ける日韓の中世史を考える時、中華思想に心酔して朱子学に傾倒して武を従の立場でしか見なかった両班と、自己の思考に忠実に従い、加えて古代以来の民族の思想を信じきって生きた日本武士の考え方の違いの大きさに驚かされる。


高麗王朝、李氏朝鮮、現代を通じて、朝鮮人民の「文治主義思想」は、「儒教思想」と共に徹底している。古代はともかく、「武人」が政権を掌握した時代は希で、中世以降の朝鮮半島千百年の長い歴史の中でも、この高麗の「武臣時代」約百年を除くと現代の朴政権時代くらいしか存在しない。希有の時代であり、現象であったのである。

今、目の前の出窓に、高麗末期の「高麗青磁象嵌」の鉢が置いてある。如何にも末期の作品らしく、何処か象嵌にも力が無く、青磁の色にも盛期のような冴え冴えとしたところが無い。それらの諸点から推測すると元の侵攻によって高麗の国力が衰微した当時の作品と思い、ガラクタながら時代の雰囲気を持っているような気がして愛蔵している。(笑い)


(参考資料)

1.世界史  ウィリアム・H/マクニール 増田義郎、佐々木昭夫  中央公論社   2001年


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