2.日本米のご先祖さま(長江文明と日本)
前回、古代黄河文明が始まった時代の中原の気候は暖かく、象やサイ、水牛が林の中を闊歩していたようだと書いたので、今回は、黄河文明よりも、もう少し発生が遡りそうな古代中国の長江文明に関連して、日本の水稲の先祖に当たるジャポニカ種の米の起源も絡めて考えてみようと思った。
■長江文明
中国各地を少し歩いただけで、考古学上の文献を当たった訳でも無い個人的な感覚に過ぎないが、古代中国では長江文明と黄河文明が中国の広大な国土の南北の異なる地域で別個に発達したと考えている。
しかも、長江文明の方が黄河文明よりも最初の萌芽と初期段階の農業的成長段階では早かったのではないかと密かに思っていたので、少し、長江文明について調べてみた。
年代的に長江の中下流域に7~8千年前頃に発生した稲の文明が、更に大きく発達して4~5千年前頃には、黄河との中間にある北の淮河流域や山東省の南部にまで稲の栽培が広がったと考えられるらしい。
この頃の長江の南の遺跡の出土品に、前回、古代の黄河の所で触れた象や水牛が再び登場してくる。
発掘される農具の中に象や水牛の骨を加工した物があり、特にその中でも、水牛の肩甲骨の加工品が目立つようだ。やはり、黄河流域と同様に古代の長江流域でも象や水牛が生息していて、特に、水牛は水稲栽培の古代人にとって身近な動物だったようだ。
一昨年、ラオス南部ののどかな農村地帯を歩いた際に、道端で見る水牛と牛の比率は、丁度半々かやや水牛が多かった。ラオスから国境の峠を越えてベトナム中部に入ると若干、牛の比率が多くなる印象だった。
当時の長江流域の気候は、丁度、ベトナムやラオスのような亜熱帯性の気候だと考えると生息している象や水牛達にとって、快適な環境であり、大型動物達が照葉樹のクスの大木が茂る森の小道を歩いている南国らしい豊かな風土が想像できる。
どうも、古代長江流域ではクスの茂る照葉樹林の間を歩く動物達も牛などよりも水牛が主役だったような気がする。
それでは、水牛の骨を農耕具に加工していた古代長江の人達と古代の米の関係はどのようだったのだろうか? 近年の研究では、インデイカ種の米もジャポニカ種の2つの米の原種は、どちらも長江中流域が原産地であり、栽培され始めたと推定されている。
長江中流域で発生した水稲栽培の農耕技術が、やがて、長江下流域、淮河流域、山東省方面と河川や、沼沢、湿地の多い地域に広がっていった。
それでは、それらの中国本土から、当時、古代日本にどのようにして伝搬したのであろうか?
海外から日本への水稲栽培技術と金属器の伝来ルートは4つか5つのルートが考えられるようだ。その中で代表的なルートを2つ挙げると、山東半島から朝鮮半島南部を経て北九州地域に伝来したルートと中国本土から直接九州北部に伝わった流れが想像される。
多分、水稲栽培を主要な生活の基本としている古代の人々にとって、稲に最適な気候と風土こそが移住のための絶対条件であっただろうし、そこに昔から住んでいる住民達から友好的に歓迎してもらえる環境下であれば、更に好適だったと思考するのが普通であろう。
確かに、中国南部の長江流域の気候、風景と朝鮮半島南部の慶州の農村風景、北九州の水田地帯、例えば柳川周辺の水郷地帯の景観は、地形が異なるもののどこか共通な要素を持っている気がする。言うなれば、温暖な気候と後世の三カ国の水墨画に共通する『水蒸気を多く含んだ風景』である。
その為、長江流域で見たい史跡や風景は多いが、取りあえず、多くの時代に日本人が目指した長江河口を見たいと思った。それに、近代化著しい上海近郊でも、古代と余り違わない風景を長江河口は見せてくれるのではないかと期待して出かけた。
■長江の河口
上海市内から揚子江の河口までは、そんなに時間は掛からない。ホテルから車で出発して、1時間もしない内に揚子江河口にある上海側の島、長興島へ渡る地下トンネルに入る。
揚子江河口には上海側に近い長興島とその何倍も大きい対岸の崇明島という大きな二つの島がある。その二島の間を長江の本流は流れて、海に注いでいる。今回、長江の本流を見るために長興島に向かった。
短いトンネルを抜けると目的地の長興島だった。島の長江本流側の堤防の上に立つと遙か向こうに崇明島が晴天の下なのに何故か遠く霞んで見える。上海から長興島までは地下トンネルだったが、長興島と対岸の崇明島の間は長い、長い連絡橋で繋がっている。
さすがに本流の河幅が余りに広いせいか連絡橋が崇明島に到達する先端部分はおぼろに滲んでいて、全く、島と連絡橋が識別できない。
初めて見る長江本流の水は濁ってはいるが、薄い草色を帯びているように見える。蘭州で見た荒涼たる山塊の中を流れてきた黄河の濁流とは全く異なる色彩である。蘭州市の周囲の山並みも黄河の周辺の平地も全て褐色の大地だったのに対して、ここ長江の河口部は緑の色彩が多い。
トンネルから堤防に至る道も雑草が生えているし、煮物用のパパイアだろうか? 堤防の下には樹木も散見され青い果実も生っている。広東省やベトナムのハノイなどの河川の岸や河原と余り変わり無い風景に見える。
長江の本流を良く見ようと対岸の崇明島から視線を海の方に移しても、島影が無い以外、色彩的に何の変化も無く、茫洋としているだけである。
聞く所によると長江の濁った水は、何10kmも先の海上まで到達する圧倒的な流量とスピードが有るようで、中世に日本から来た遣唐使船や南宋との貿易船は、海面の色の褐色の変化で、陸地が見える以前に敏感に長江が近付いたことを察したらしい。
また船中が長期の航海に飲み水が欠乏した状態であっても、桶で海面の水を酌んで、喉の渇きを潤せたと読んだ記憶がある。
この草色を帯びて褐色の水の流れを遡れば、マルコポーロが赴任したこともある、モンゴル時代の国際貿易都市だったチャーハンで有名な揚州まで、そう遠くは無い。揚州に到れば、北宋の首都開封や刺繍で有名な蘇州へも大運河を通って、容易に通行出来た。
黄河上流部と長江河口の両方を見た後での個人的な印象としては、荒漠たる黄土高原の褐色の世界よりもこの長江河口の草色の世界の方が日本の古事記や日本書紀の神話時代の記述や古代人の生活環境、古代日本人を取り巻く色彩感覚に合うと感じた。
江蘇省や浙江省の農村風景や水郷の景色が日本の村や田んぼの光景と全く同一と力説するつもりも無いが、極めて近似する水稲農業を生活基盤とする色彩感覚に彩られている環境風景であると感じた。
後日、上海市内の外灘で食事をした。
人数は少なかったが、日本語の堪能な上海生まれの方もいて、最近の上海料理と米について、日頃聞きたかったことを聞いてみた。
「私には北京料理も上海料理も良く実態が理解できない」、「逆に、山東料理や杭州の西湖料理等は分かり易いし、好みにも合う」
と述べると、彼の答えは、
「元々、北京料理は存在しなかったと思う」、「あれは、山東料理をベースに北京で発達した寄せ集めの料理さ!」
上海料理について彼は、
「幼い頃から上海で育ったが、以前に比べると上海料理は、相当、変わった」、「最近も、日本に3年行って、上海に帰って来て食べると、まるで違う料理を食べているような感覚に襲われる位、以前とは変ってしまっている」
どうも、彼が言いたいのは中国各地の郷土料理と違って、大都市の料理は、時代や、都市に住む人の嗜好と共に大きく変わるものらしい。よく言えば、流行と共に自在に変化するのが大都市の
中華料理であり、それが、中国らしさのようだ。
次に、最大の興味の米について、聞いてみた。
「中国は広大で、米の種類も多いが、貴方が食べて最も美味しい米は、どの産地のものか?」
この質問に対する彼の答えは、2つだった。
「中国人は、米の炊き方が下手だ」、「だから日本の炊飯器が売れている」
「余りそんな話をしたことがないが、桂林のご飯と東北三省の米は美味しいと聞いた気がする」
「桂林とは、あの風光明媚な桂林ですよね?」
彼の顔を見ながら聞き返したが、何となく、桂林の米の美味しさに自信を持っていないように感じた。日本で長い滞在期間を経験している彼は、日本米の味も良く理解していると思ったからである。
後日、桂林の米というのを広州食べる機会があったが、私には蘇州や杭州、広州で食べた、ご飯と大きな違いがあるようには感じなかったし、遼寧省で食したご飯も日本と比較して美味しくは感じなかった。
逆に、カリフォルニアのサンフランシスコ近くの寿司屋で食べたご飯は、全く日本と違わない味がして美味しかった。
さて、この項の本題の『日本の米のご先祖様』の話に入ろう。
■ジャポニカ種のご先祖さま
最近の中国に於ける長江流域の発掘と出土品のDNA分析から、日本で栽培されているいわゆる『ジャポニカ種』の水稲のルーツが、揚子江中下流域で7000年前頃に栽培され始めた古代米にあるらしいことが解ってきた。
従来、米の起源に関しては、『アッサムー雲南起源説』というのがあった。しかし、中国の長江流域の発掘の進展と発掘試料のDNA分析などによって、日本の米の源流であるジャポニカ米の誕生地について、確定では無いものの強く推論出来る根拠が見つかりつつあるように感じ、大変興味を感じた。
どうも、私が探していた『日本の米のご先祖さま』は、長江の中流域にいたらしい。
当然なことながら中国から水稲栽培技術を持った人と種籾が一体となって、いくつかのルートを伝わって日本列島に移動して来た結果であることは前述した。長江流域から、以外に早い時期に古代日本へ水稲栽培技術は到達しているようだ。
もしかしたら、黄河流域での米の栽培開始と日本での水稲栽培の開始時期は、時代的にそんなに隔たっていなかったかもしれないと考えると思わず、微笑んでしまう。
あの孔子でさえ、まずい粟や黍を主食としていたのに、我々の先祖は既に日本米の先祖を食べて生活していたのである。
また、興味ある話題として、『朝鮮半島で出土しない、古代長江流域と古代日本共通のDNA米が出土』、していたり、『北部九州等出土の古代弥生人骨と長江流域出土の古代人骨に共通点が認められる』等のニュースが伝えられている。
どうも古代から、中国大陸と日本は、人的にも農業技術でも深い交流があったようだ。少なくとも弥生時代日本人生活基盤の形成に果たした米の役割はどの様に大きく評価しても誇大すぎる評価では無いと思う。
今日でも、天皇陛下が苗代に種を蒔かれ、自ら田植えをされ、秋の収穫時には鎌を手に稲刈りされるお姿は、古代から連綿と続く我が国の歴史的な習慣と日本という国土の地球上の位置関係と自然環境を改めて認識させてくれる。
いまでも、数千年前に長江流域で見つかったジャポニカ米が日本の食生活を支えているのである。
(参考文献)
1)イネが語る日本と中国 佐藤洋一郎 農文協 2003.8.25
2)イネの歴史 佐藤洋一郎 京都大学学術出版界 2008.10.15