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19.「武の視点」から日韓中世史を見るⅡ

ここまで、日本最初の国際戦争、「白村江の敗戦」から、日韓両国に於ける律令制の浸透と国家体質の変化について見てきた。朝鮮半島では、最初の半島統一国家「新羅」末期の混乱期を経て、新しい王朝「高麗」が誕生、中国からの儒教導入によって、王朝創建時に活躍した武臣よりも文臣が優遇された結果、虐げられた武臣達の王や文臣に対する不満が鬱積、爆発して、「武臣政権」が突如誕生している。

一方、同じ律令制を導入して国家体制の整備を図った日本だったが、東北地方の蝦夷との軋轢を除くと国内も外交も大きな問題が少ない平和な時代を迎えた結果、律令制による諸国の軍団や城柵制度が徐々に廃れて、それに替わって、自然発生的に「武者」の出現が見られた。

中国文化導入の停止と共に、和風文化が発達、王朝貴族の恣意を受けて行動する「侍」や坂東の開拓地主的な武装集団である「武士」が登場して来る。やがて、天皇家、摂関家の抗争に巻き込まれた源平両家による「保元・平治の乱」を勝ち抜いた平清盛によって平家政権が誕生する。


この様に、奇しくも中世の我国と朝鮮半島において、同時期に、武人が最高権力を掌握する「武人政権」の政権の誕生を見た訳である。

我国の「初期武家政権」の誕生を何時にするか難しい問題だが、仮に、平清盛が太政大臣に就任した1167年と仮定すると、高麗の武臣の反乱による「武臣政権」が誕生した1170年とは、極めて近接した年代である点は、議論の余地が無いであろう。

今回は、両国に於ける初めての武人による政権成立の経過と、その後、百年間に政権が遭遇した権力抗争や王家との軋轢、国際関係も含めた歴史の流れを学んでみたいと思っている。表現的には、我が国の場合、「武家政権」という表現が一般出来であり、一方、韓国では、「武臣政権」が多く用いられている。

本稿では、この両方を用いて表現させて頂くので、予めご注意頂きたい。始めに、「高麗」の「武臣政権」から経過を勉強していきたい。


(高麗に於ける「武臣政権」前半の流れ)

日本中世の身分制度がどの様な実態だったのか、不勉強で良く解っていないので、個人的な想像でスタートしてみたい。宮廷貴族を除く、当時の日本人の9割以上を占める農民とそれに近い都市在住の工人、活動を開始したばかりの武士層内での身分意識は、一部の賎民層を除いて、古代社会以来の何処かおおらかさを持ったゆるい身分制度の中で生活していたように、勝手に考えている。

一方、高麗の場合、建国と共に儒教が徐々に浸透し始めた結果、身分制度にも中華流の堅牢さを持った強固な階級社会をよしとする雰囲気が次第に支配的になっていったと思われる。

その原因の一つに、光宗以来の中国式の「科挙」の高麗での導入があった。

良く知られているように、中国に於ける「科挙」の出題問題は儒学が基本であり、必然的に科挙受験者は、儒学を学ぶことになっている。当然ながら、中国に倣った高麗の科挙の出題問題は、「四書五経」を主とする漢以来の儒教関係の古典からの出題であった。

結果として、科挙合格者を中心にした高級文臣の基本思想は、時間の経過と共に「儒家思想」最優先に思想が固定化していくことになる。

ところが、高麗に於ける「科挙」は文臣にのみ適用されている。「武臣」の科挙が実施された時期もあったが、実施直後、文臣の猛反対によって廃止されて以降、「文臣」のみの科挙となっている。

その流れで、武臣の場合、軍隊内部での武功以外、昇進の機会は少なく、儒学の素養の少なさもあって武臣職の最高位の軍の最高司令官の官職も文臣が占めることとなり、武臣は、自分達の分野に於いても常に、次席以下の地位を甘受しなければならない低い地位の文臣優先の政治体制が続いた。

何故ならば、「文」を最高位とするのが儒教であり、中国歴代王朝では、覇権(軍事力)によって、天下統一を成し遂げても、治世は「礼=儒教」に従って行なわなければ成らないという習慣が、「漢王朝」以来、連綿として伝統文化となっていたのであったからである。

その流れで高麗建国時に大活躍した「武人」の朝廷内での地位は、平和な時代の経過と共に大きく後退、文官優位な時代が始まっていく。

更に、高麗では、隣国日本の藤原氏が歴代に渡って常套手段としたように、娘を王妃として嫁がせて門閥貴族化する家も出てきた上に、大平の世が続くと逸楽を好む王も出現、時代の経過と共に王を取り巻く門閥貴族層に属する「文臣」の力が次第に増大するのに対し、戦争の無い「武臣」の地位は大きく低下していったのである。


その原因の一つが、政治権力を握った門閥貴族層が独占した「科挙」出身の「文臣」に対して、「武臣」階級の出身階層の低さだった。

科挙の本家の中国でもそうだったが、儒教の世界観では、「文」が尊く、「武」が卑しまれる傾向が異様に強かった上に、科挙を経験していない武臣は、同等の位階でも一階級低い臣下に見られて冷遇されたのである。

新羅の名将金庾信キムユシン等の英雄伝説は遠い過去となってしまい、高麗王朝における武臣達は、王と門閥貴族層出身の「文臣」に仕える下級臣下に過ぎなくなって行ったのである。  

特に、享楽的な毅宗の時代、文臣の横暴は、あたかも武臣を文臣の酒席に於けるおもちゃ扱いするが如き行為が横行している。しかし、王や文臣のおもちゃ扱いされてはいても高位の武臣の官位は、文臣同様、三品や五品の位階を持ち、武器と兵を掌握している存在だったのである。

文臣の武臣に対する揶揄や悪戯は徐々にエスカレートして、老将軍の見事な髯にロウソクで火を付けたり、酒宴の余興で、力の弱い大将軍(三品)が、「手搏戯しゅはくぎ」と呼ばれる一種の格闘技で負けた際、傲慢な文臣の平手打ちを食らって階下に落下、文臣一同がその無様な姿を見て、手を打って大笑いする辱めを受けている。

この様子を見て憤慨した上将軍の鄭氏が武臣の主立った者達を語らって蹶起して、手近な文臣の虐殺を開始した結果、日頃の鬱積もあって目にする文臣全てを武臣達は瞬く間に虐殺している。

高麗に於ける「武臣政権」の登場である。同時に享楽的な王毅宗は廃位され、弟明宗を立てて傀儡とすると一方、将軍達上層部は政権の合議機関「重房」を設けて実権を掌握している。


長年の宿怨を晴らした武臣達は、自分達が執権する「武臣政権」を立ち上げたのであった。

しかしながら、日頃の鬱積の大爆発による「武臣の乱」は、政権移行のための構想も無く、絶対的な権力者も存在しない、突発的な事件であった為、政権掌握直後から、武臣相互による自滅的な権力争いによる殺し合いが続き、20数年に渡り何人もの権力者が忙しく交代した結果、高麗の初期武人政権は非常に不安定な政権であった。

武臣政権が漸く安定したのは、1196年に、「崔忠献」が執政の座を得てからであった。時期的には、同じ我国の初期武家政権である源頼朝による鎌倉幕府が安定期に入った頃であろうか。

日韓両国共に面白いことに、同じような時期に武人の政権は安定期に入った気がする。個人的な見解だが、崔氏政権は、源頼朝の政権よりも、何処か執権北条氏による政権に似ている所があるように感じている。

崔氏が、実質的な王国の最高権力者でありながら、表面上は国王を奉戴しつつ、実権を手放さない姿は、鎌倉幕府ナンバーツーの執権職に拘った北条氏に、何処か似ている所が多い印象がある。

崔忠献は、それまで、反乱以降、一方的に阻害されていた儒学者や文臣層の中から有能者を重用して、武臣と文臣のバランスを巧みに執りながら政権を運用している。

その結果、執政者が頻繁に入れ替わった武臣政権も、この後、崔氏による安定期へと変化して行く。崔氏政権は、武臣政権初めての父から子、子から孫への権力委譲を果たして、このまま行けば、長期政権に移行していくかに見えた。

しかし、突如、崔氏政権と高麗王朝の前途に地球規模の「強大な武力」を持つ大災厄が襲い掛かってきたのである。

残忍で貪欲な、「大モンゴル軍」による高麗侵攻であった。


武力によって政権を掌握した高麗の崔氏政権だったが、モンゴル軍という何百倍も強大な恐怖の大魔王の第一次高麗侵攻が、1231年、開始されたのである。

翌年、崔氏政権は、モンゴル軍との正面対決に見切りを付け、首都開城ケソンでの抗戦を諦めて、海戦の不得手なモンゴル軍の弱点を突く形で、首都を開城の間近の島、江華島に遷都し、全土でモンゴルに対する徹底抗戦を指令したのであった。

高麗本土と江華島は流れの急な狭い海峡で隔てられており、草原の民モンゴルにとっては、侵入しにくい安全地帯であった。

江華島は、高麗の都開城ケソンからも、後年の李氏朝鮮の都、漢城ソウルからも近い島で、緊急時の王家や貴族の避難先として良く利用されている。後年、李朝の仁祖の時代、清朝の侵入時に用いられたが、その時、仁祖は逃げ込むことに失敗して屈辱的な降伏を味わっている。

モンゴル軍の侵攻は日韓両国にとって歴史的な大事件で、「武の視点」から見た両国の後世の歴史への影響も想像以上に大きいものがある。

ここでは、39年の長期間に渡って大モンゴルの攻撃と徹底的に戦った高麗王朝と民衆の戦いに入る前に、我国の初期武家政権について振り返って見たい。


(「平氏政権」から「鎌倉幕府」成立まで)

学生時代以来、鎌倉の高徳院の阿弥陀如来座像を何度か参拝しているが、皆さんよくご存知のように、親しみやすい露座の尊像で、東大寺の大仏様と違い、この大仏様は相当遠い所からでも拝見できる有難さがある。

その理由は、皆さんご存知のように室町時代の明応年間の大津波によって、当初建設された大仏殿が崩壊して以来、露座のままで長い年月を過されて来た為である。

そう言えば、この阿弥陀仏は、その成分分析から、鎌倉時代、大勢の人々からの寄進施入された宋銭を溶かして製作されたと考えられている。

清盛の「日宋貿易」によって積極的に輸入され出した宋銭は、鎌倉時代になっても大量に輸入されて、それまでの物々交換経済から、「宋銭」による経済へと大転換を果たす役割を担った。

清盛によって始められた全く新しい、如何にも中世的な流通経済の基盤となった「宋銭」の使用は、平家一門の滅亡後も益々発展して、室町時代後期まで、約400年間、日本の経済を引っ張り続ける事になる。「宋銭経済」という単語が存在するかどうか、知らないが、もし存在するとすれば、平清盛による「初期武家政権」が、その先駆者であった点は間違いないと思う。


稀代の政治家平清盛は後白河法皇に接近して、保元・平治の両乱を勝利者として乗りきった後、北宋貿易によって平家一門の蓄財と経済的繁栄を図っている。

本拠地を京六波羅に置いた平家一門は、最高権力者である後白河法皇と妥協した上で、朝廷の旧勢力である摂関家や貴族層を取り込みながら、片方の手で全国の武士達を掌握し、もう片方の手で北宋貿易の采配を振るう、巧妙な政治経済システムをスタートさせている。

しかし、この巧妙な政治と経済を両立させるシステムは、運用方式は最初から無理があった。


政治の実権を手放さない後白河法皇と平清盛の政治的な相克が順次エスカレートした上、初期輸入段階の為、絶対量の少ない宋銭経済は、不安定であった。加えるに、「養和の大飢饉(1181年)」の前後の天候不順は大きく、特に、平家勢力の基盤の西国は大打撃を受けていたのであった。

清盛が起死回生の手段として実施した「福原遷都」の策が貴族層の猛反発で頓挫する中、以仁王の「平家追討の令旨」が全国に潜伏する前回の敗者源氏の元へ廻った結果、諸国源氏の旗揚げにより、元暦2(1185)年、平家は壇ノ浦で滅亡してしまった。


このように、日本最初の平家による初期武家政権は、僅か20年弱で消滅してしまったのである。しかし、全国の武士、特に坂東のつわもの達にとって、武家政権が不必要だった訳で決して無かった。彼等の本音は、京の武士政権には興味が薄かったが、平将門のような「坂東を本拠とした武家政権」には、異常な興味と成立のために骨身を惜しまない情熱を持っていたのである。その大きな願望の受け皿になったのが、反平家の旗揚げの成功と共に父義朝の旧居坂東の要地鎌倉に入った源氏の嫡流源頼朝であった。


そういえば以前、萩の花が満開の知らせに9月のある日、鎌倉の宝戒寺を訪れたことがあった。宝戒寺のこんもりと豊かに茂った白い萩を満喫した後、頼朝の「大倉幕府跡」と頼朝の墓を訪れたことがあった。

大倉幕府の旧地は鶴ヶ丘八幡宮から見ると朝比奈切通に寄った所で、現在の清泉女学院小学校の建つ辺りで、六浦に続く重要な通路の六浦道に面していたといわれている。

「大倉幕府跡」の石碑の前に立って周囲を見渡すと、現在の「若宮大路」を見慣れた目には、少し、山寄りに偏り過ぎて、偏狭な気がしないでも無かった。

しかし、鎌倉入りした現実主義者の頼朝の目には、しっかりとした組織構想があったと思われる。挙兵以来の地盤である坂東の有力豪族全てを傘下にまとめ上げると同時に、武士達の切実な要望を吸い上げて斟酌する一方、幕府の組織構築についての京都の中級貴族層の政所を中心とした家政機関を基本に準備を始めている。


最初に連絡を取った一人に、源頼朝が流人時代から長年音信があった下級貴族の中原親能が居る。親しい中原親能を鎌倉に呼び下すと共に、弟義経上京の折には、親能を目付役として自分の替りに上洛させて弟の監視役とするところなど頼朝らしく抜け目なく手を打っている。

次に、鎌倉に招いたのが、親能の弟大江広元と三善康信である。大江広元は政所別当として、三善康信は問注所執事として重用している。これら京都から招いた有能な下級貴族達によって鎌倉幕府創建時の組織や坂東武士の求める体勢が着々と進行していったのである。

京から呼び寄せた彼等下級貴族は、在京時に於いて既に、従五位下程度の位階は持っていたが、鎌倉下向後も官位は頼朝の奏請により昇進している。中でも、大江広元は頼朝没後にも昇進を重ね、晩年には将軍家に次ぐ、正四位下まで官位が上がっている。

この一点から見ても、広元の沈着冷静で的確な判断力は、頼朝だけで無く、後の執権北条義時を始めとする幕府重臣層に厚く信頼されていた人材だった点は理解されよう。

高麗の「武臣政権」や「平家政権」と違い、苦労人、頼朝の「鎌倉政権」は創建初期の段階で、早くも組織体系が整備されていることが解る。


更に、「鎌倉政権」最大の特徴は、崔氏政権とも平家政権とも違い、都の貴族達と距離を保ちながら、実質的な権力の掌握に異常な執念を持ち続けた点にある。その一つが、「守護・地頭」の設置であり、二つ目が、頼朝の奏請を経ない武家の任官を全面的に認めない姿勢をとった点である。

このように、第二次武家政権である「鎌倉幕府」の創生に熱心だった頼朝は、武家の欲望と下級公家の見識を充分に活用しながら着実に鎌倉幕府を成長させていったのである。


(日韓両国の「初期武人政権」)

ここまで、日韓両国の中世における「初期武人政権誕生」の経過と両国の国情の違いについて若干、調べて来たが、もう少し、両国の武人政権の成立時の年代的な近似性に着目して比較してみたい。

高麗に於ける「武臣の乱」が、1171年、武臣政権の崩壊が、1270年なので、成立から約100年間、高麗の「武臣執権」の時代が続いた訳である。

一方、日本の場合の初期武家政権の成立を平清盛の太政大臣就任の年の1167年と仮定すると、第二次武家政権の鎌倉幕府滅亡が1333年なので、日本の初期武家政権は、凡そ170年弱続いた勘定になる。


     高麗武臣政権           1170年~1270年  

     平氏政権+鎌倉幕府       1167年~1333年  


この成立時期が良く似た日韓両国の「武人政権」継続期間の相違は、言うまでも無く、モンゴル軍の侵攻時期の地政学的な違いに大きく影響された結果と考えて大きな問題は無いだろう。大陸と地続きの半島国家高麗ヘの最初の侵入が1234年、海を隔てた列島日本への元寇が1274年なので、約40年の時間差が生じている。

この大きな時間差の原因は、言うまでも無く高麗武臣政権が39年の長きに渡って、がっちりとモンゴル軍の防波堤になってくれた結果と考えて良いと考えたい。

「武臣政権」のモンゴル軍ヘの抵抗の中核部隊が、崔氏によって整備された私兵勢力である、「三別抄さんべつしょ」であった。三別抄は高麗王家とモンゴルとの和議成立後も抵抗を継続、最期は済州島で1273年にモンゴル軍によって潰滅されている。

その点を考慮すると、完全に、高麗全土がモンゴルに屈服するのは、1273年と考えても大きな間違いでは無いような気がする。

これは架空の話だが、高麗での「武臣政権」の抵抗が無く、モンゴル軍の日本侵攻がフビライの構想通り順調に進行した場合、「文永の役(1274年)」か「弘安の役(1281年)」より以前に第一次元寇があった可能性は相当に高い。若しかしたら、「文永の役」が第三次の本格的な元寇に成っていた可能性もありそうである。そうなると、第三次元寇によって、鎌倉幕府が滅亡した可能性も僅かではあるが存在しそうな気がしてくるから不思議である。

仮設の積み重ねで申し訳無いが、数次の度重なる元寇によって鎌倉幕府が、「文永の役」頃に滅亡して、日本が元の属国になっているとすると、日本の武家政権の開始と終焉は、次のように変化する可能性があったのである。(笑い)


高麗武臣政権         1171年~1270年  

平氏政権+鎌倉幕府    1167年~1274年  (文永の役の元寇が成功した場合?)


このように仮定すれば両国初めての武人政権は、日韓両国共に、凡そ100年程で終了してしまった可能性も僅少ではあったが存在したのである。

逆に、「もし」、モンゴル軍の度重なる侵略が無ければ、高麗の「武臣政権」が高麗王の禅譲を受けて、新しい王朝を創始した可能性も零では無い気がする。

これらを勘案すると高麗の崔氏率いる武臣政権時代は、朝鮮半島の命運を賭けて当時の超大国「元」とゲリラ戦的ではあったが、朝鮮民族の誇りを掛けて戦った時代だったと考えられる。

これは、古代から続く中華帝国と朝鮮民族が戦った最期の時代であった。この時代以降、現代に至るまで朝鮮民族が大国と正面切って単独で戦う事が二度と起きていない史実から勘案しても、モンゴルの侵入と圧力が、その後の朝鮮民族の生き方に大きな影響を及ぼした点は疑いようも無い。

それでは、民族の誇りを掛けて大モンゴルと戦い続けた「武臣政権」の抵抗の軌跡を辿ってみよう。


(「武臣政権」のモンゴルへの抵抗と崩壊)

執拗なモンゴル軍の攻撃に対処する為、「江華島」に遷都した崔氏政権だったが、無事だったのは、島に避難した王と武臣政権幹部を含む両班層だけであった。高麗全土至る所で王家と武臣政権に見捨てられた庶民は、モンゴル兵の殺戮、掠奪に対して各地の城に籠もって飢餓に苦しみながらも抵抗するしか方法はなかったのである。各地での決死の抵抗運動は、断続的に長期に渡って続くことになる。

この間、何次にも渡って執拗に繰り返されたモンゴル軍の侵攻と掠奪は、高麗全土に深刻な爪痕を残している。惨禍の大きかったとされる第6次の侵入は足かけ5年に渡って続き、捕虜になってモンゴル兵に連行された男女は20万人を越え、殺戮された者は多すぎて数えることも出来なかったと当時の記録にあるという。

高麗全土が受けた膨大な人的、物的被害以外でも朝鮮半島の多くの貴重な歴史的文化財がモンゴル軍によって破壊されている。第2次侵入では、高麗が誇る貴重な「初彫大蔵経」が戦火で焼失、第三次侵入では、新羅時代に建設された慶州皇龍寺の壮麗な九層塔が焼失している。どちらも残っていれば、韓国の貴重な文化財として、間違いなく「ユネスコ世界文化遺産」に登録される東アジアの歴史的重宝であった。


全土が、モンゴル軍の侵略と掠奪に苦しむ中、仏の加護とモンゴル撃退を祈って、崔氏政権は、焼失した「大蔵経」の復興に私財を投じて注力している。苦しい中での崔氏父子の熱意は報いられて三代目崔氏によって再彫は完成した。8万枚以上に及ぶ「再彫大蔵経」の版木は、現在、ユネスコ世界遺産に指定されて伽耶山海印寺ヘインサに残っている。

何年か前の7月のある日、「武臣政権」が籠もった江華島を見た足で、京城から南下、伽耶山に登った。人影のまばらな緑陰の坂道を進み、海印寺の高麗大蔵経の版木の収蔵庫を訪ねた。山上の収蔵庫は思いの外涼しく、江華島で感じた陽射しの強さを全く感じさせなかった。

白樺の木に彫られたと聞く、膨大な数の版木の棚の間を歩む時、戦乱の中に心の平穏を求めた高麗人の魂が、今でも篤く生き続けているような深い感慨を覚えるのだった。


崔氏政権の強靱な対モンゴル姿勢があってこその遷都と国家としての意思の貫徹であったが、高麗の受けた被害は予想以上に大きく、多くの国土が荒廃し、全土に餓死者が散乱する中、悲惨な国家の実情を無視して、島に居続ける武臣政権への批判も水面下で進行していったのである。

特に、実権を奪われて久しい高麗王家にとっては、起死回生の絶好の機会でもあったのである。王権を凌ぐ武力の所有者、「武臣政権」の没落こそ、王と文臣が心から願う目標となったのである。

何時ものように暗殺によって、1258年、「崔氏武臣政権」は崩壊した。崔氏支配が終焉しても武臣政権は継続したものの武臣の力は急速に衰えていった。当然ながら、モンゴルへの抗戦体勢は弱体化して、都を開城に戻す「出陸講和派」が台頭、高宗の太子をモンゴルの朝廷に入朝させて講和を求めている。

1270年、最期の武臣政権となる林惟茂イムユムが暗殺されて、百年続いた朝鮮半島の「武臣」の時代は終了、その後、武臣政権が復活することは二度と無かった。

しかし、武臣政権が斃れ、モンゴルとの講和は成立したものの高麗の民に本当の意味の平和は「元」が存在する限り訪れることは無かったのである。


元に降伏した高麗では、代々の世子をフビライの宮廷に差し出した結果、太子の服装も髪もモンゴル風に改めることを要求されている。国王が逝去して、新国王である太子が帰国の際には、モンゴルの服を着てモンゴル風の弁髪姿の太子を出迎えた全高麗貴族は、属国に転落した自国の惨めな姿を実感させられたのであった。この新国王の屈辱的な姿を見た高麗の臣民はどの様な感慨を覚えたのであろうか?

しかし、高麗王家もしたたかであった。モンゴル宮廷に於いて高麗の太子はフビライの娘婿となり、従来、散々高麗を苦しめていたモンゴル武将達に優越する立場を確立しての帰国である点に、朝鮮民族の大国と付き合う上での巧妙なしたたかさを感じる。

 しかしながら、元帝の駙馬となって帰国した高麗王の高等戦術には、従来以上の重い負担が付随していた。それは、日本征服を準備するフビライの「征東行省府」長官の役職を国王が兼務した上での帰国であったからである。


絶対的権力者皇帝フビライの至上命令とは、言うまでも無く、

「日本征服の為の海を渡る軍船の建造と兵と糧食の準備のであった」

期待される高麗の貢献は、高麗がモンゴル軍の先鋒を勤めるだけで無く、日本渡海のための戦船の建造と船を動かす水夫の調達、それに兵と水夫の糧食の準備も全て長い間の戦乱によって全国民が飢餓にあえぐ高麗に求められたのである。南宋が健在のこの時期、日本侵攻の全ての負担は、高麗の民の上に重く覆い被さってきたのであった。

モンゴルに降伏した高麗は、これまでの自国の防衛戦から立場が大きく変わり、これまでモンゴルに向けていた矛を逆しまにして、長い間友好的だった日本へ向けるのだった。

 敗者の運命は何時も過酷なものがあるが、今度は、統一新羅建国以来、約600年以上に渡って平和な時代を過して来た日韓両国に大きな波乱を招く、元寇の先鋒としての重圧が全国民にのし掛かって来たのであった。

それでは、次に、「鎌倉幕府」のモンゴルに対する外交姿勢から始めてみたい。


(元の国書と幕府の対応)

 蒙古の最初の国書は、文永5(1268)年に到着しているが幕府は完全に無視。その後もフビライは6回に渡る使者の派遣を行ない、日本政府の帰順を求めている。しかし、第八代執権北条時宗を初めとする幕府執行部は悉く元の提案を拒否、回答さえしない断固無視の状態を堅持している。

その背景には、鎌倉幕府の執権を始めとする要人達が南宋から鎌倉に招いた禅宗の高僧達ヘの帰依と信頼の上に立脚した南宋経由のモンゴル情報があったと思われる。

執権時宗が南宋から招いた無学祖元自身にしても、寺に乱入したモンゴル側の兵によって白刃を突きつけられた実体験があり、南宋を滅ぼしたモンゴルについて、好ましい助言を時宗にしたとは、とても思えない。

今に残る「鎌倉五山」だが、北条得宗家の支援による創建された寺院が多い。鎌倉五山第一位の建長寺は時宗の父時頼の開基だし、第二位の円覚寺は元寇時の執権時宗の開基である。

これらから考えても南宋から来朝した臨済宗の禅僧に対する鎌倉武士の信頼の厚さを強く感じるし、峻烈な禅僧の助言を得ての元との断行だった印象が深い。

その結論が、フビライの要求に対する問答無用の対応であり、鎌倉、博多での使者の斬首であった。


しかし、この点に関しては、昔から批判が多かった。特に、一国の国書に対して、たった一度の返書も送らず断固無視した上、使臣に危害を加える行為は、国際外交上も非難されるべき非礼な行為である等々の意見が出されている。

それに対し、京の朝廷では穏当な返書を起草して幕府に送ったが、幕府内部での評定の結果、朝廷の準備した返書を握りつぶして回答しなかった経緯がある。北条時宗を中心とする幕府は穏やかな朝廷の意向も完全に無視して拒絶外交を最期まで貫いている。

確かに、ジンギスカン以来のモンゴル外交を観察すると外交使節は事前偵察のスパイ活動の場合が多く、使臣の処刑を口実に戦闘を開始して、敵を完膚なきまでに殲滅した例は非常に多い。

敵国を滅ぼさないまでも、搾取に応じる弱小国では高麗のように際限無い元の要求に苦しむことになる。

礼儀をわきまえた外交に徹した方が良かったのか、武断的な峻拒が良い結果を導いたのか、後世の我々も判断が難しい問題である。しかし古今の歴史が証明しているように、武備の無い平和外交ほど亡国の近い道であることは、幾多の史書と史実が証明している。


しかし、遣唐使の廃止以来、正式の国際外交の経験が無かった朝廷も幕府も、積極的な対モンゴル外交を展開しようとはしなかった。ここら辺にも島国独特の唯我独尊的な外交技術の未熟さが垣間見えるし、現代外交の拙劣さに繋がる部分も少なく無い気がしている。

もし、日本が、ヨーロッパの一国であれば、外交手段を振る活用して、相手の戦力や動員兵力を事前に情報収集するよう鋭意努めたと考えられるのに、誠に残念である。

モンゴルの襲来に対し、朝廷の貴族達は神仏にご加護を祈り、鎌倉武士達は、当時、馳射はせゆみあるいは、騎射うまゆみと呼ばれた騎乗からの弓射を日々錬磨して備える以外、明確な戦法も思い付かない状況にあったと想像される。


けれども、「文永の役」緒戦の敗退を反省した幕府は、モンゴル軍の第二次攻撃に備えて、博多湾を中心とする沿岸各地に、今も一部が残る、モンゴル軍上陸阻止のための「石築地いしついじ」を延々と構築している。この石築地の効果は抜群で、二回目の元寇、「弘安の役」のモンゴル軍、「東路軍」、「江南軍」併せて14万2千余は、本格的な日本上陸を果たせぬまま、日本軍の夜襲や小舟による奇襲攻撃によって損耗し、幸いな事に最後は大暴風雨によって肥前の鷹島付近で潰滅している。


(日韓中世史の転換点「元寇」)

このように、高麗に於ける「武臣政権」は、巨大な武力を最上とするモンゴル帝国の侵攻に果敢に抵抗したが、成立から百年で敢え無く崩壊してしまった。

その結果、漸く軌道に乗りかけた高麗の「武臣」による政権掌握と我国の鎌倉幕府に良く似た政治機構の構築に失敗して、中国とは異なる朝鮮独自の軍事国家建設の可能性も永久に潰え去ったのである。

逆に、息も絶え絶えだった高麗王家は、モンゴル王家と姻戚関係を結ぶことによって、息を吹き返したのである。


ここで、高麗の「武臣政権」崩壊の時点で、熟慮しなければならない点が、少なくとも二つ存在するように考えている。

一つは、韓国史に於いて、武力による政権の奪取が行われても、権力構造の面で、二度と「武臣政権」の復活が見られなかった点である。

後年、高麗王室の衰微に乗じて李成桂が「李氏朝鮮」を建国するが、国内体制整備の根幹思想として、高麗末期に元から伝搬した新儒教である「朱子学」を導入している。それ以降、儒教思想、特に朱子学の朝鮮半島内での普及が徹底して、常に、「文」による支配が最高位を占めた結果、「武」優先の権力構造が朝鮮半島で出現する事は無かったのである。


第二点目は、日本国から見た場合で、巨大国家モンゴルに39年の長きに渡って熾烈な抵抗を続けた高麗「武臣政権」に対して、幾ら感謝しても、感謝しすぎることは無いような気がする。

モンゴルの第一次侵攻直後に高麗が、降伏していれば、一回目の元寇は、文永11(1274)年ではなく、相当早まって、1240年代から1250年代に実施された可能性も無い訳でなかった。もし、そうなれば、フビライの執拗な性格から見て、第三次、第四次の元寇の可能性もあった。

更に、支配下の国々から無制限に何度でも兵員を動員できる元と、最大数万も下の方の御家人を動員するのが限界だった鎌倉幕府では、長期戦になった場合の結果は目に見えるような気がする。

幸いな事に、「武臣政権」の反モンゴル挙国体勢の堅持と高麗全国民挙げての長期間の抵抗運動の継続は、隣国日本にとっては、大いに貢献した事実は、当時の国際情勢を分析すると容易に理解できる。

いずれにしても高麗の武臣政権の存在は、鎌倉幕府と日本人がモンゴルに勝利する一因になった可能性が高い。更に、南宋から渡来した臨済宗を初めとする禅僧の助言が幕府中枢の人々への精神的励ましや判断の一助となった点も忘れ難い。


(元寇の跡を歩く)

 これまで元寇関連では、北鎌倉駅近くの北条時宗開基の円覚寺や鎌倉五山第一位の建長寺を訪ねて堂塔を巡りながら、南宋伝来の臨済宗の北条得宗家と時宗個人への影響を想像してみたりしたし、瀬戸内海大三島の「大山祇神社」や博多の「元寇史料館」に残されているモンゴル軍の武具を見学して、当時のモンゴル軍の武器や武具を考える一助とさせて頂いた。

また、博多近辺の「石築地」の跡を歩いて、「弘安の役」の鎌倉武士の奮闘の跡を偲んでみたりした。元の首都大都、現在の北京の散策では、大帝国「元」を偲ぶ遺跡は少なかったが、元の時代に創建が遡る「鼓楼」とその周囲を歩いてモンゴル時代の考えてみた。


 しかし、この時代を考える時、是非、行きたい所が、まだ多く残っていたので、文章を書く前にその中から三ヶ所を今回訪れてみた。

その第一は、武臣政権が王と共に遷都して、元への39年間の抵抗運動を主導した島、「江華島」である。そして第二が、崔氏政権二代によって復刻された「高麗大蔵経」の版木が収蔵されている伽耶山海印寺であったし、第三が、モンゴル軍が高麗軍と共に最初に上陸して宗助国が戦った対馬の小茂田浜である。

海印寺については、前述した。


「江華島」へは仁川空港から広く平坦な道が繋がっており、バスで1時間程の所要時間で到着する。本土と江華島の間の海峡は極めて狭く、本土と繋がっている江華島大橋の辺りでは、1kmに満たない感じがした。橋を渡る地点の右には、小高い山があり、往時は重要防御地点の一つとして、文殊山城があったと記憶している。

島にあった宮殿や山城は、モンゴルに降伏後、破却されて、当時の面影が残るところは少ない。現在見学できる遺構は、李朝時代の17世紀に建てられた建物の一部が残っていて、王朝時代の雰囲気を時代は違うが味わわせてくれる。

開城から避難した当時の高麗宮殿を防御するために、武臣政権は、内、中、外の三重の城壁を持つ江華山城を構築している。一度破壊されたものの山城跡は、李朝時代になっても再利用されたらしく城壁の跡を容易にたどることが出来る。更に、南と東の城門が復元されていて、武臣政権当時の緊迫した雰囲気を偲ぶ、よすがとなっている。

江華島はそれ程大きな島では無いが、本土との間は狭い水路によって隔てられており、緊急時の避難場所としては、水に弱い騎馬民族との対決に極めて有効な場所であった。後年、後金(清)軍の攻撃時にも、李朝の王族始め上級官僚層は江華島に避難している。


「文永の役」の最初の戦闘が行われた対馬の小茂田浜は、厳原から山越えして平地に出たところにある想像以上に小さな浜で、守護代宗助国が一族家臣80騎でモンゴル軍、高麗軍及び、金の降伏兵の混成部隊3万2千余の大軍を迎え撃ったかと思うと鎌倉武士の勇壮さと悲壮感が胸に迫るものを感じた。

当時の鎌倉武士にとって、敵が何万人居ようとも、「ご恩」の為には、単騎突撃して討ち死にすることは、当然の「奉公」だったのであろう。

 モンゴル軍、上陸の跡地には、宗助国を祭った小茂田神社がひっそりと建っていた。


(参考資料)

1.歴史物語 朝鮮半島      姜 在彦      朝日新聞社    2006年


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