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18.「武の視点」から日韓中世史を見るⅠ

日韓の違いや中国と日韓の違いを探すため、幾つかの視点から日韓の歴史を見てみたいと以前から考えていた。

そんな中で、まず、第一に誰でも考え付くのが、「儒教」の三国への浸透度と国家としての考え方への影響の大きな違いであろう。この点に関しては、多くの著書も出ているし、歴代の優れた論説も多いので、後回しにさせて頂き、今回は、日韓両国の古代末期から中世に於ける「武の視点」からの日韓史を紐解いてみたいと考えている。


最初に両国間に起きた「武」による大規模な衝突は、唐・新羅連合軍との「白村江の戦い」であった。天智2(663)年、滅亡した百済を復興すべく百済軍救援に駆け付けた4万余の倭国水軍は、白村江に於いて唐・新羅連合軍と交戦したが大敗、水軍の将の殆どを失って自国に撤退している。

日本と朝鮮半島の「武の第一ラウンド」は、復興百済軍内部の統制の乱れと、倭国水軍の稚拙な戦術面でのミスも重なって、動員兵力の四分の一近くを失う倭国軍の敗退で終了している。

皇帝の意志一つで数十万の大軍を派遣できる大帝国唐と高句麗、百済との長年の戦闘で鍛えられた新羅連合軍との戦いでは、個人の武勇を第一とする古代倭国の軍勢は最初から勝負に成らなかったと見て良いだろう。

そもそも、日本が、まだ倭国と称していた飛鳥時代、唐に先行する隋は、既に東アジアの中心国家としての地位を確立しており、高句麗に大きな圧迫を加えていた。隋に続く唐は、西域を含む周辺諸国との交易を活発化させ、東アジア最大の国際国家の地位を確立していたのである。

もっとハッキリ表現すると、律令制を柱とする国家体制が確固として成立している先進国唐に対して、半島の新羅と倭国は、まだ古代の大きなしっぽを引きずりながら改革を急ぐ、豪族による集団指導体制を脱しきれない中途半端な発展途上の古代国家だったのである。

それでは、最初に朝鮮半島の「古三国時代」からスタートしてみたい。


(古代朝鮮の英雄時代:古三国時代~統一新羅まで)

我国の戦国時代以上に朝鮮半島で名将、豪傑が大活躍した時代が、朝鮮半島の「古三国時代」であった。古三国とは、高句麗、百済、新羅の三国である。高句麗は、三国の内でも最も強大な武力国家であり、現在の北朝鮮から中国東北部の広大な領域を国土としていた。国土、人口共に高句麗に劣る百済と新羅は、その圧迫に何時も苦しんでいたのであった。

百済は、今の韓国の西半分を主な領域とする王家であり、新羅は東半分を領土としていた。百済は常に北からの高句麗の侵略に苦しみ、よしみを倭国に通じて、その支援を期待して通交していた。その証として、石上神社所蔵の「七支刀」が例として良く挙げられる。

古三国時代の前半、新羅は三国の中で最も小さく微弱な国であった。しかし、半島南部の加羅を吸収してからは、めきめきと実力を付けて行き、6世紀の真興王の時代には、高句麗、百済と対抗する強国に成長していったのであった。


一方、古三国随一の強国高句麗には、常に大きな悩みが付きまとっていた。それは、大国中国と国境を接している関係で、中華帝国の圧力を肌で感じる国情にあった。

まずいことに、古三国時代末期、中国では長い間続いた南北時代が終り、久方ぶりの統一王朝「隋」が出現している。

隋の煬帝は大帝国隋の威信に賭けて高句麗を滅亡させようと三次に渡って大軍を派遣、高句麗の首都、現在の平壌に迫っている。

最初に明記すべき英雄は、大帝国隋の百万の大軍と戦い、これを撃破した高句麗の乙支文徳ウルチムンドクである。乙支文徳将軍は隋の大軍対し「清野作戦」をとり、険阻な山城に食料と共に住民を避難させ、残った家屋、井戸その他、生活に必要な全てを破壊させている。住民に大きな負担を強いる作戦だったが、飢餓と疲労により、隋の大軍は撤退を開始、遼東城を出発した時の30万の大軍で、清川江を渡河して帰国できた者は、僅かに、2,700人だったと伝えられる惨敗を喫している。


高句麗侵攻の失敗によって、国力を消耗した隋は滅び、「唐」が建国される。唐は最初、高句麗との平和外交を維持するが、二代太宗の治世の後半、新羅からの救援要請もあって、高句麗に侵攻する。

太宗20万の大軍と正面から対決することになったのが、容貌魁偉な淵蓋蘇文ヨンゲソムンであった。淵蓋蘇文は遼東半島の遼東城、安市城を中心に防衛線を構築、頑強に抵抗戦を開始した。そして、開戦の初期段階で遼東城を失うものの、安市城を守り抜き、冬の到来と共に反攻を開始、太宗の率いる大軍を本国に追い返して勝利している。

しかし、隋、唐の二つの巨大帝国に勝利したとは言っても、高句麗の民と国土が受けた被害は甚大であった上、王や貴族層の動揺も大きかった。戦争は勝った側にも負けた側同等の大きな被害を生じる場合が結構多いが、二度の大戦争に勝利した高句麗の国力の低下は予想以上に大きかったのである。


この中国と朝鮮半島の古三国の関係を根底から覆すべく努力を続けたのが、弱小新羅の王族金春秋(後の武烈王)であった。

金春秋は、始めに高句麗、次に倭国と同盟を結ぶべく両国に赴いているが、最終的に同盟の相手を唐に絞って長安に赴き、新羅の生き残る道を探っている。そして、遂に、唐・新羅同盟を結んでいる。もちろん対等な関係の同盟ではなかったが、大帝国唐の後ろ盾を得た新羅は、堂々と百済、高句麗と対決する名聞と立場を確立したのであった。

更に、新羅にとって幸せだったのが、武烈王(金春秋)の妃の兄が不世出の名将金庾信キムユシンであった点である。武烈王と名将金庾信の名コンビによって、古三国初期の頃、弱小国だった新羅は唐との同盟を生かして、唐と共に百済を夾撃、滅亡させている。


百済滅亡後、百済復興を求める旧臣達が頼ったのが、倭国の斉明大王と中大兄皇子だった。その結果、斉明大王と中大兄皇子は、百済を支援すべく、遠く筑紫まで赴き、那の津(後の博多)から百済支援の軍勢を送り出している。

その背景には、6世紀初めの継体大王期に、大伴金村によって新羅に割譲を認めた朝鮮半島「任那」に関する利権回復の思いがあったのである。その一方、急速に変化する朝鮮半島を取り巻く国際情勢に疎い、島国独特の外交感覚の欠如があった。三国の内、まだ強国高句麗が残っているとはいえ、唐と新羅の大連合軍と正面から戦うだけの戦略も装備も倭国首脳部と半島に派遣された水軍の将達は持っていなかったのである。


(「白村江の敗戦」と天智大王の恐怖)

倭国の歴史始まって以来の初めての国際戦、唐・新羅連合軍との戦いに臨んで、中大兄皇子(後の天智大王)が数次に渡って半島に出兵した軍は兵4万2千人、軍船800余艘を越える。倭国としては、動員できる最大規模の大軍だったと想像される。

それも、大王家の兵と見るよりは、中大兄皇子が重臣、豪族層を説得して、豪族の家人や支配下の部民を出して貰った小集団の集合体だったと考えられる。

百済救援のための大増援軍を動員した主な地域は、それまで都のあった飛鳥、摂津を中心にした畿内と西国(現在の西日本)が中心だったが、一部、上野や陸奥から参加した記録が残っているので、当時の大和朝廷支配地域の全域からの召集だったことが解る。

これだけの大軍を朝鮮半島に送り出した背景には、上記の様に、朝鮮半島にあった古来の倭国の領地、「任那」の失地回復が、中大兄皇子と中臣鎌足の倭国政権首脳部の念頭にあった点は疑う余地が無い。

しかしながら、勝利の自信に満ちて送り出した倭国史上最大の軍勢は、白村江の干満の差を巧みに利用した唐側の作戦と唐の大型軍船の防壁によって弾き返されたのであった。多数ではあったが小型の倭国の船は、次々と突破出来ずに沈められ、前述のように1万余人の兵と兵船の半分400艘を失う大惨敗を喫してしまったのであった。


敗報に恐怖した中大兄皇子は、戦勝国唐・新羅両国軍の倭国への来寇を想像、翌天智3(664)年、対馬、壱岐、筑紫に「防人さきもり」と「とぶひ」を設置、那の津(博多)の内陸部には巨大な土塁と水堀を持つ水城みずきを建設して防備を強化している。

「防人」の件は後述することにして、中大兄皇子及び時の政権が如何に、唐・新羅連合軍の倭国上陸を恐れたか、年代を追って見てみたい。

水城構築の翌年、水城の背後の山上の「大野城」を建設。大野城の他、筑紫、長門にも同様の山城を建設して西国の防備を強化、万一の筑紫失陥に備えている。

白村江の戦いから4年後の天智6(667)年、都を今までの飛鳥から、更に内陸の近江大津宮に遷都、大王以下朝廷及び重臣の安全確保に重ねて邁進している姿は、涙ぐましいほどである。

同年、国境の最前線対馬に「金田城」を建設。同様の山城を四国の「屋嶋」と畿内の「高安」に追加して設けている。この他にも記録に無い朝鮮式山城も多く、その代表例として、城門の一部が復元された岡山県の「鬼ノ城」等がある。

これらの山城の多くは、百済系遺臣の技術指導と協力の下に大急ぎで構築された。これら一連の朝鮮式山城の幾つかと水城を実際に歩いてみると実感されるのだが、中世後期に至っても土塁と堀で構成されていた日本の城廓に対して、この時期に急造された朝鮮式山城は、格段に進歩した大陸様式の城塞であった。


まず、国境最前線の城、対馬の「金田城」から見てみたい。城は浅茅湾に面した急峻な崖の上に築かれ、海から直接登ることが困難なように急峻な石垣を構築していて、朝鮮半島からの船舶の停泊に都合の良い港からは予想以上に遠い場所に位置している。更に、金田城の外郭の城壁から内郭に向かって歩いてみると海岸線の複雑な屈曲と構築された石垣によって、何重もの防御線が設けられている点が理解できる。これらの諸点から、金田城は、攻撃型の拠点というよりは、専守防御を目的とした逃げ込むための避難場所的な要素の強い山城に感じた。

次に、水城と水城の上の山上に構築された「大野城」の場合だが、大きな山上に無数の食料備蓄倉庫や兵舎、武器庫を有する巨大城廓で、山の中腹を取り巻くように土塁が一周していて、要所々に朝鮮式石垣を築いて防御している。特に、那の津方面からの侵入経路と想定される谷間の出入り口の城門付近は厳重で、千数百年立った現在でも、その遺構を充分推測出来る。また、大野城周囲の大部分の城壁は一重なのに対して、那の津方面の城壁は厳重な二重城壁になっている点を勘案しても、海岸から侵入した敵に対する防御戦を主目的とした城だった点は明瞭である。また、これは、那の津方面の石垣ではないが、北口の宇美口城門跡に連なる100数10m続く、「百間石垣」は壮大で一見の価値がある。

「水城」と太宰府側の「大野城」、反対側の「基肄城きいじょう」の三つの城塞は一体となって筑紫を守る為に構築されたと考えられる。


この点は、天智大王政権が瀬戸内海沿岸や近畿に建設した朝鮮式山城群を見ても同様である。岡山県の「鬼ノきのじょう」や奈良県の「高安城」を見ても、海岸線から遠い山上にあり、敵との融和や直接対決を目的とした後年の陸奥の多賀城や出羽の秋田城のような城塞群では無い。

天智政権の大城塞群であるこれらの城は、どれも籠城用の食料備蓄倉庫と兵器庫を備えた緊急避難所的な山城群に思えてならない。

これらの対馬から北九州、瀬戸内海、畿内と続く朝鮮式山城群を観察した後に、近江大津宮跡を訪ねると、実感として、天智大王と中臣鎌足の体験した恐怖感が実感出来る気がする。

独裁者ほど、猜疑心が強く、自己の暗殺と滅亡を恐れて、暗夜密かに心の奥底から湧き上がって来る恐怖感と戦っている人は多い。

天智の恐怖心は敗者特有の猜疑心からだけではなかった。事実、長い称制を辞めて天武が大王として即位した天智7(668)年、70年に渡って、大帝国隋と唐に抵抗してきた「高句麗」が、遂に唐・新羅の連合軍によって滅亡し、国王以下貴族達は長安に拉致されている。

天智の恐怖心で建設した大津宮の地は、今、訪れてみても狭隘で、飛鳥や難波の旧都に比べても、とても天下を治めるに足る立地条件を備えているとは思えない地形だった。天智の逃避の為の宮、大津宮は天智の子弘文の死と共に忘れ去られ、日本史上、近江に都が戻ることは二度と無かったのである。

後年、平忠度たいらのただのりは和歌の師、藤原俊成に次の名歌を託して戦に赴いている。

  『さざ波や志賀の都は荒れにしを、昔ながらの山桜かな』


しかし、各地に防御用の朝鮮式城塞群建設が進む中、天智政権は重大な問題に直面していた。対馬、九州北部を中心とした防衛線を構築しようにも充当する兵力が都のある近畿から西では、充分に調達出来なかったのである。

その結果、白村江の戦いに於いて出兵の少なかった東海から坂東の兵に白羽の矢が立ったのである。北九州沿岸諸国を守る為、遙か遠い東海や坂東の諸国の人々が、「防人さきもり」として遠路派遣される、辛く困難な任務を押しつけられるのである。

防人の勤務は、三カ年だったが、その間、働き手を取られた家の税は、従来通り納付せねばならず、防人の食料や持参する武器も全て自弁であった。更に、悲惨だったのは、坂東から遠く九州までの往復の食事も全て自弁という過酷さであった。この為、無事勤めを果たした防人達が、帰り道で困窮して餓死する者が跡を絶たなかったと伝えられている。「万葉集」には防人の詠んだ歌が、百数首載っているが、四割が妻や恋人を恋する歌であり、残りの歌も故国に残した母や父、我子を想う歌であった。国家権力の横暴によって長い防人の勤めを果たしながら、帰国途上、路傍に斃死した万葉人を想うとき、哀悼の念を禁じ得ない。


(「大王おおきみ」から天皇へ)

大王天智の没後、天智の子大友皇子と天智の弟大海人皇子の間に「壬申の乱」が起きる。この内乱は、「白村江の敗戦」から長く続いた国内外の混乱の終わりを締めくくる古代最大の武力抗争で、乱後、政権を掌握した大海人皇子は、律令制度を本格的に推進して、天皇制の強化に邁進していく。

従来、大王おおきみと呼ばれた大王家の呼称を改めて、国際的に重みのある「天皇」に改めたし、国名も従来の「倭国」から、「日本」に大きく変換して、国際的な威信の向上に努めている。

都も、飛鳥の地、「飛鳥浄御原宮」に戻し、大和系豪族の信頼回復に努めて、「飛鳥浄御原令」等の法整備にも熱心に取り組んでいる。天武天皇の後は、皇后だった持統天皇が事業を引継、藤原鎌足の息子不比等と共に律令制強化を推進している。不比等は律令の実施を口実に武力を古代豪速から徐々に奪い、天皇家の強化に努めている。この後、朝廷は全国各地に数百人から千人規模の軍団を設け、弩を始めと優秀な武器や武具を備蓄して万一に備えている。


その後、桓武天皇の平安遷都と共に天皇の目は、朝鮮半島から古代東北に向けられたのであった。何故、東北かと言うと、海外からの侵略の可能性が無くなり、内外に天皇家と日本の武威を示す弱小な対象を求めた結果、古代東北人である蝦夷に白羽の矢が立てられた感じがする。

8世紀には、今の宮城県南部に多賀城が建設されて、朝廷の北進政策は規定の方針となっていった。その後、全国各地に設けられていた古代軍団が順次廃止されたが、国防最前線と位置付けられた陸奥の国府多賀城や出羽柵には、有力な軍団が配置されている。出羽の軍団が1個だったのに対し、蝦夷の大きな抵抗が予想される陸奥には、6個から7個の軍団が配置され、多賀城、胆沢城(岩手県南部)を中心に強固な防衛体制が構築されていた。軍団には大中小があったようだが、陸奥に配置された軍団は、どれも大きく、1軍団千人規模を越えるものだった。

最北端の志波城(岩手県中部)の発掘例で見ると、どうやら城柵の守備兵の半数は現地東北の人々で、残り半数は、東国などから派遣されてきた人々の混成部隊だった様子である。勇猛の定評のある坂東を中心とする東国の兵達に対する指揮官の信頼も厚かったのだろうし、当然ながら、現地の古代東北文化と東国文化の相互交流も急速に進んでいった気がする。この点からも、古代東北人を蝦夷として、別人種扱いする桓武天皇以来の都人的な考え方に私は賛成できないし、今後の考古学的発掘成果に期待したい。


平安時代前期の朝廷は、陸奥、出羽の各地に連なるように古代城柵を建設し、軍団を配置、最新の武器と武具を備蓄して、蝦夷の抵抗に備えている。

この時代を代表する武勇の人を挙げるとすれば、古代東北人の英雄阿弖流為と帰化系の武人坂上田村麻呂であろうか。征夷大将軍となった田村麻呂は陸奥での戦勝後、清水寺を建立したことでも知られている。清水寺は、一説には、刑死した阿弖流為の菩提を弔うために建てられたとも聞く。

陸奥とは違い出羽は比較的平安だったようだが、それでも朝廷は、国府のある城輪柵(山形県酒田市)始め、払田の柵(秋田県大仙市)、秋田城を整備、特に、最前線の秋田城には多くの兵と最新の兵器を大量に備蓄して蝦夷人に備えていた。

元慶2(878)年、蝦夷が秋田城を襲い、掠奪と放火によって朝廷は備蓄していた膨大な穀物と武器、武具を失った。「元慶の乱」の勃発である。

この中で、気になるのが、失った武器の中に、おおゆみ29具、手弩100具がある点である。当時の記録には弩の射手についても記載があるので、弩の射手は特殊技能の戦士として優遇されていたことが理解できるし、先に述べた軍団制と共に、律令制がしっかりと維持されていた辺境陸奥や出羽の最前線には、中国式の新兵器弩も充分に配備されていた様子が認められる。


それに対し、蝦夷(古代東北人)は乗馬を良くし、弓の達者であると述べられている。新兵器である弩と優秀な弓の射手が対決した実戦での状況を現地の敵味方双方の人々が実見している。その中には、もちろん東北へ出兵させられた坂東諸国出身の兵士達も間近に蝦夷の活躍を見たり、伝聞したと考えられる。

その結果、貫徹力に優れていても速射性と機動力に劣る弩に比較して、速度と変化に富んだ乗馬姿勢からの弓射を見て、騎射の優位性を体感したと推測される。戦場に於ける身近な体験ほど、その後の方向性を決定づけるものは無い。

従来の律令制軍団の歩兵主力の編成よりも、騎乗で弓射に練達した武勇の集団の方が、人数は少なくとも圧倒的優勢である点が、その後の坂東や東北の人々の心にしっかりと根付いていった気がしている。

大刀たちに関しても、中国伝来の真っ直ぐな直刀片刃の大刀よりも、若干反りのある東北地方を主とした「蕨手刀」や蕨手刀を原型とする、反りのある太刀(原初日本刀)の方が、坂東や陸奥の人々に愛好され始めた可能性も高かったと根拠は極めて薄弱ながら推論したい心境である。


余談ながら、平安時代中期のこの時期は、貴族の衣装や武人の武具に関しても大きな転換期だった。遣唐使の頻繁な行き来と共に、奈良朝以来、唐風の衣装、調度が大流行した様子は、「正倉院」に残る遺物の数々を見ても理解できる。9世紀頃、活躍していたとされる小野小町などの着ていた衣装も平安貴族を代表する「十二単じゅうにひとえ」では無く、奈良時代の貴婦人同様の唐風の衣装だったといわれている。当然ながら、武器や武具も含めて唐の律令制に憧れた時代の風俗は唐風の強い物だったと考えられる。

しかし、律令制が徐々に解体し、東北各地に連なるように建設された城柵も主要地点の城柵を除いて抛棄され、残った城柵も行政機関としての機能が優先し始めると、城柵に詰める官軍の兵員も減少する傾向になっていった頃、勤務する官人の服装も和風へと変化して行ったと想像される。

そして、武具の世界では、唐文化を模倣した横刀たちから、日本独特の片刃の湾刀が自然発生的に生まれて、次の時代の太刀、毛抜き型太刀や兵庫鎖太刀に繋がったと考えたい。

鎧の方も、裲襠式の挂甲から発達した騎射に適した大鎧の祖型が出来上りつつあったのも、10世紀初頭の延喜の頃かと想像している人も多いかも知れない。(笑い)


(武者の発生と「保元・平治の乱」)

地方官軍の武備が衰退する一方、都の警備も衛門府や検非違使に委ねられて、官軍と呼べる程の軍備は徐々に失われて、警察権のみが残る事態となってしまった時代の京を中心とした治安の悪化が、「今昔物語」や「宇治拾遺物語」、「古今著聞集」の中に散見する。

その間隙を埋めて活躍しだしたのが、受領層を中心とした中級公家の一部であった。中でも清和源氏や桓武平氏、藤原氏庶流等の腕に自信のある一門の台頭が目覚ましかった。

特に、陸奥多賀城での鎮守府将軍や征夷大将軍の勤めには、これらの中級貴族達が重用され、武門の家の萌芽が見られる。

また、陸奥以外でも騒動が起きそうな国や起きてしまった国々の国司には、平安時代を通じて、このよ自家に武力を持つ受領層以外、就任を望む貴族は少なかったらしい。

やがて、闘争に己の価値を見いだした中下級貴族の一部は、朝廷の権力者に直結して勢力を伸ばしている。藤原摂関家と一心同体になって勢力を伸ばした清和源氏の源頼信系、院政の協力者、伊勢平氏の平忠盛系等が主なところであろう。

代々の清和源氏は、摂関家に密着することにより、四位、五位の諸大夫層として諸国の国司に任ぜられて、多くの富を手にしている。


一方、坂東では、天慶年間(938~947年)の「平将門の乱」以降、桓武平氏の一門や将門を討った藤原秀郷(俵藤太)一門等が在地領主として成長している。開墾と武力によって周辺の弱小勢力を吸収して成長した坂東武者達が頼ったのが、京に本拠を置く、受領層の中級貴族達であった。中でも、源頼信の子の源頼義や孫の八幡太郎義家の幕下には、陸奥に於ける「前九年の戦い」や「後三年の戦い」の成果と名望もあって、多くの坂東の「在地領主」である武者達が参集、伺候している。

諸国の在地領主達は、都の源氏や平氏に仕えることにより、四位、五位の諸大夫層の部下として、六位止まりの官位を与えられて、貴族の家人や侍身分として遇されて組織に組み込まれていった。古代に於いては、武といえども都に直結できた勢力こそが主導権を執れたし、官位を保持できたのである。


藤原摂関家との緊密な関係を背景に順調に勢力を拡大してきた清和源氏に立ちふさがったのは、桓武平貞盛系を祖とする伊勢平氏の一門であった。

平忠盛、清盛父子は、摂関家から政治の主導権を取り戻そうとしていた後白河法皇の意向に沿う形で急速に勢力を拡大していったのである。

その時点で起きた争いが、「保元・平治の乱」の二つの争乱であった。京で起きたこの二回の戦いでは、皇室及び摂関家が二つに割れて争った結果、武者の家々も源氏と平氏の両派に分かれて血戦を展開したのである。

その結果、両度の戦に勝利した平清盛は、実質的な政権を掌握、京六波羅に日本最初の武家政権を樹立したのであった。更に、清盛は、仁安2(1167)年太政大臣に就任し、朝廷内の権力も掌握する。

しかし、一見華やかに見える平氏の隆盛は、院による独裁権力の構築を目指す後白河法皇の反発を招き、極めて不安定な「武家政権」となってしまった。


(「統一新羅」の建国と衰退、「高麗」の建国)

 長々と「白村江」以降の日本に於ける律令制下の武備の展開と律令制衰退後の武者の発生の概略を掻い摘まんで、述べてきたが、もう一度、話を朝鮮半島に戻して半島の古代史を振り返って見たい。

白村江で唐と連合して、倭国の大軍を撃破した新羅は、既に述べたように、三国時代最大の強国「高句麗」を668年、唐と共に滅ぼしている。

更に、新羅は唐が、高句麗、百済の旧地に設けた統治の為の出先機関、安東都護府、熊津都護府を攻撃、唐の勢力を大同江以南から排除、唐は都護府を遼東に撤収している。

その結果、新羅の国境線は、現在の北朝鮮の大同江の線まで拡張されて、不完全ながら新羅武烈王の子文武王の下に古三国の統一が達成されたのであった。(因みに、現在の北朝鮮では、新羅による統一を認めず、高麗が初めて朝鮮半島を統一したとしているらしい)

大帝国唐に対抗して一歩も引かず武威を内外に高めた新羅は、これ以降、一般的に「統一新羅」と呼ばれている。

平和の到来と共に、新羅の商業と交易は活発化、国内に於ける農業生産の増加と共に対外交流が促進されていった。

この時期、黄海を隔てた唐の沿岸諸地域や対馬海峡を渡った太宰府を含む東方三国の広大な交易圏を主として担ったのは新羅であり、唐からの帰国に新羅船を利用した日本の僧侶も多かった。


このように平和と繁栄を享受した新羅も8世紀末以降、各地で争乱の時代を迎え、10世紀の初期段階には全国規模の争乱に発展している。その影響で百済の故地には「後百済」が創られ、高句麗の跡には「後高句麗」が建国されている。昔の「古三国時代」と識別する意味で、「後三国時代」と呼ばれる新たな三国抗争の時代が始まったのである。

最終的に「後三国時代」を征したのは、高句麗の故地に拠った王建ワンゴンであった。王建は、都を開城ケソンに定め国号を「高麗」としている。

国王王建は統一新羅同様、「仏教立国」を謳って国政をスタートさせる一方、唐伝来の中国の律令制を参考に行政組織を整備している

このように建国当初の高麗は、仏教を国家の主軸としながらも、政治思想は儒教を採り入れて運営し始めている。

しかしながら、王建に続く世代の光宗の時代には、中国式の「科挙」を導入し、成宗の時代には、「勧農」と「勧学」を奨励している。

皆さんよくご存知のように、科挙の問題は儒学系の書物から出題されるし、勧学とは、儒教の勉強を勧める点にポイントがあった。歴代中国の王朝が儒教を推奨した背景には、異常なまでの秩序維持思想を儒学が持っていた為で、一度政権を執った王朝にとっては、儒教は極めて都合の良い思想であった。

言い換えると皇帝あるいは国王を頂点とする身分制のピラミッド構造を頑ななまでに堅持することを最大の特徴とする考え方、それが儒教であった。

片方では儒学信奉者にとって、同じ品官の位階であっても、常に「文官」が上位であり、「武官」は常に下位なのであり、文弱な文官が力のみを誇示する武官を常に下に見られる快感は、儒教ならではのものであったのである。


中華思想の根幹である儒教の積極的な導入により、既得権益の尊重と武臣よりも文臣が幅を効かす朝廷が高麗では出現したのである。「儒礼」の浸透が徹底した高麗の姿は、儒教の本場、「宋朝」の使臣から見ても周辺の蕃夷な国々と大きく異なり、中華に近い礼儀の国と映っている。

しかしながら、島国日本と大きく異なり、常に、隣国の女真や契丹の侵入を受ける朝鮮半島での文臣尊重は、危険な賭であったし、時代の経過と共に、儒教に裏打ちされた文臣の増長は異様に増大していったのである。

国王や文臣が連日の宴会に浮かれる中、武臣は警備を名目に冷遇され、「両班」と呼ばれながらも酔った文臣の悪戯の対象にさえ時の経過と共になっていったのである。中には文臣の小悪な悪戯によって、その見事な髯に火を点けられた武将さえ出てきたのである。

建国から、約250年立った毅宗24(1170)年、武臣達の文臣と王に対する我慢は限界に達した。

「武臣の乱」の勃発である。日頃の武臣達の鬱積は大きく、文臣は手当たり次第に殺戮され死体は累々と床や通路に転がったと記録にある。文臣寄りで享楽な国王毅宗は廃され、新国王として都合の良い弟の明宗を擁立、政治の実権は完全に武人の手中に落ちたのであった。

朝鮮半島に於ける「武臣政権」の誕生である。

しかし、武臣政権誕生初期の武臣達には連携して安定した政権を維持するだけの見識も度量も全く欠けていた。その結果、私兵を蓄えた暴力集団同士の争いは絶えず、主権者は20数年に渡って目まぐるしく交代している。

その混乱に終止符を打ったのが、崔忠献で、強力な私兵を手元に集める一方、有能な文臣を登用、武臣と文臣相互のバランスを執りながら政権運営を行なってから、初めて武臣政権は安定期に入っている。


古代朝鮮史を読んでいると古代日韓両国の神話の持つ雰囲気の近似性や伝説に登場する人物のおおらかさを含めた古代人の気質の類似に感動することがある。

人間としてのスケールも、古三国時代から統一新羅初期の人々は、実に大きく、生き生きと行動していて、儒教浸透後の因循や小ささを全く感じさせない。

隋の煬帝を追い返した高句麗の乙支文徳ウルチムンドクしかり、王を殺して唐との徹底抗戦の自己主張を貫いた容貌魁偉な淵蓋蘇文ヨンゲソムンしかりである。新羅の武烈王と不世出の名将金庾信キムユシンとの黄金コンビの素晴らしさも大きな感動を呼ぶに十分な内容を持っている。二人の後事を託された武烈王の子文武王は、初めての朝鮮半島統一という偉大な業績を完成させている。

しかし、古代からの個性豊かな英雄の素晴らしい流れも、中国からの本格的な儒教の導入と共に衰退し、文臣による武臣虐めが過激になっていった結果、「武臣の反乱」が起きている。

一方、日本では、摂関家や天皇家の走狗として成長してきた武士達が、「保元・平治の乱」を契機に、自信を持ち始めてきて、やがて、「平氏による武家政権」の誕生となる。

平清盛の太政大臣就任が1167年、武臣の反乱が1170年と日韓両国は、奇しくも同じような時期に「武人政権」の誕生を見た訳である。

次項では、日韓両国の「武人政権」の消長と両国に対するモンゴルの巨大な影響を観察してみたい。


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