17.膨張と収縮の国家中国㈢元~明~清まで
千年以上に渡って「人口の膨張と収縮」を繰り返してきた中国だったが、永年のジンクスを破り、「宋」の時代に漸く人口1億人に迫る所まで躍進できた背景には、漢族が衰退した華北に替わる華中、華南の経済的な大発展があった。
政治的にも唐代のような、貴族や節度使が権力を独占した政権と異なり、「宋」の時代は古代から続く貴族層が没落し、科挙による士大夫層と生産力の向上したエネルギィッシュな庶民層が大きく躍進した時代だったのである。
以前にも触れた北宋の首都開封の繁栄を描いた「清明上河図」を見ると日本ではまだ古代の尻尾を引きずった平安時代なのに、「宋」の巨大首都の経済活動は近代の様相と呈していて、先進国中国の時代的な凄さを感じさせられる。
しかし、繁栄を極めた北宋だったが、その一方、古代春秋戦国時代からの中国領だった、現在の北京周辺の「燕雲十六州」は宋の国土では無かったのである。今回は、燕雲十六州を中心に華北に於いて異民族と中華民族が混在した「遼」の時代に遡って勉強を始めたいと想っている。
(異民族支配の変化)
異民族支配の兆候は、「宋」の前の「五代十国」の中の後晋の時代に始まったとみてよい。
後晋の石敬瑭は軍事的に協力してくれた礼として、「遼」に現在の北京周辺の「燕雲十六州」を936年に贈っている。燕雲十六州は当然ながら、古代以来の漢人の定住農業地帯であった。
その結果、満州を根拠地する「遼」は、その支配領域に中国の一部を加えた上、人種的にも契丹人、女真人などの満州人と朝鮮人、そして多くの中国人農民を支配下に持つことになった結果、定住農民主体の中国人支配のノウハウを徐々に蓄えていったのである。
次に登場した「金」は、北宋を滅ぼし、「遼」の持っていた中国人支配のノウハウの吸収と征服者に協力的な中国人官僚の力もあって華北を確実に支配している。即ち、「金」によって本格的な異民族支配の方式が確立された訳である。
素人の感覚かも知れないが、従来の遊牧民族と漢民族の混血や文化の融合による華北での短命王朝の建設とは大きく異なって、少なくとも、女真系の「金」以降の「元」や「清」の征服者は、中国を「植民地」とした異民族支配を確立した征服王朝と呼んでも良いような気がする。
夷狄と軽蔑する契丹や女真、モンゴル人による支配と収奪は、中国人庶民にも知識階級層にも強烈な反発を生んだが、絶対的な武力に反攻する力は文治主義を遵奉する「南宋」の中国人には全く無かったのである。
(「元」の中国支配)
華北を手中に収めた「金」だったが、ジンギスカンの率いるモンゴル軍とジンギスカンの子、第二代皇帝オゴデイによって瞬く間に攻略され、滅亡している。
オゴデイの時代、一つの逸話が残っている。
麾下の有力者が、
「中国人を皆殺しにして中国全土を緑の放牧地としてモンゴル人にとって快適な草原に変えたい」
と皇帝に進言した際、ジンギスカン以来モンゴルに仕えていた耶律楚材が次のように提案して、虐殺を留めている。
「中国全土の中国人を殺して掠奪するよりも、多数の中国人から税金として豊富な物資を毎年収奪する方が、全モンゴル人が得られる利益は遙かに大きい」
と説得したのであった。
ジンギスカンの孫フビライは第五代皇帝となった際、その考え方を継承拡大して己の本拠地を今の北京、当時の「大都」に定めて「元」を建国している。
「元」の建国こそ、異民族による本格的な中国全土支配のスタートであった。中国人は卑しみ軽蔑してきた夷狄の膝下に屈し、被殖民地となったのである。
それでは、本題の元の時代の人口の変化について調べてみよう。
(被征服民族としての元朝支配下の中国の人口)
元の至元年間(1267~1294年)の人口が6千万人との記録があるので、何度も記述した西暦2年の「前漢後期の原点の人口6千万人」にやっと戻ったわけである。
折角、「北宋徽宗」の時代に1億人に迫る所まで増加した人々の数も、北宋の滅亡に続く戦乱によって、3割が失われたと推定される。中国の場合、王朝の滅亡が、戦乱での死者や餓死者の急増によって、人口が激減する現象が今回も起きていたのである。
元時代、約百年間の通期の中国の人口の変動の数字が手元に無いので、明確な事は言えないが、人口の原点の6千万人前後を維持していたのでは無いかと考えられている。
しかし、元も後半になると全土に対する色目人の統制も緩み、紅巾の乱を始めとする全国規模の争乱の多発によって、人口は大きく縮小していったと思われる。
即ち、元末、明初期の動乱期の人口は、この国の通例に従って、5千万人か、あるいは5千万人を下回る所まで低下していたと考えられる。それは、貧農の子に生まれた明の建国者朱元璋の幼少時代の貧困による一家離散の状況を見れば、明らかであろう。
(被征服民族としての中国人の意識と中華思想)
絶対的な強権の前での「面従腹背」を中国人は「遼」から「金」、「モンゴル」による異民族支配の間に骨の髄まで理解したと考えたい。自分の首が地面に転がるよりは、妻を犯され、娘を掠奪されても、生き残って系譜を伝える方が重要だとする庶民感覚が深く根付いていったのも「元」による異民族支配の強化されたこの時期だったと考えるのは無理であろうか?
強大な騎馬民族の武力に屈服しながらも、中国人はしたたかな国民性を遺憾なく発揮して、自分達の文化を水面下で維持し、血脈を伝えていく重要性を内に秘めて自分達の伝統としていった。その傾向は、「南人」と呼ばれて最下層に位置付けられた旧南宋の地域で顕著であったかも知れない。そんな折り、旧南宋の系譜を引く知識階級は、司馬光の「資治通鑑」や朱熹の大義名分論を読んで、古代以来続く中華帝国の正当性を暗夜反芻していたと考えるのは想像しすぎであろうか!
「閑話休題」、話が突然、とんでもない方に行ってしまって申し訳無いが、中国の古い物は我家に数点しか存在しない。
そんな中、「元」の時代の唯一の物は、当時、古い石碑の拓本を採った物、僅か一点である。石碑は、唐の時代の政治家であり、書家として高名だった「顔真卿」が、家の来歴を記述した「顔氏家廟碑」である。顔真卿72歳の書ながら豊満で筆力が充実している書で、何処か完成度の高い篆書を見ているような骨太の楷書である。
モンゴルに国を支配、蹂躙された中国人だったが、古の唐の時代の盛時を慕い、顔真卿や欧陽詢の書を求めて、残った石碑からコツコツと拓本を採った当時の文化人が存在した証として、時折、机の上に広げて親しんでいる。
拓本の背面には、「精拓」とある。
(皇帝独裁の強権国家「明」の誕生)
その後、念願の殖民地帝国「元」を北方の草原に追い払って、中国人による久方振りの中華王朝が復活した。朱元璋による南京を首都とした「明」の建国である。
漢民族の貧民階層出身の朱元璋の周囲には漢人知識層が蝟集して政権強化に協力している。しかしながら、初代洪武帝の執った施政方針は、「漢民族国家の復興」でも無く、懐かしい「唐王朝」の復活再建でも無かったのである。
元代に増加した非漢民族の存在や税制を含むモンゴル時代のシステムを全廃する行為は、創建したばかりの「明王朝」の土台を揺るがしかねない物があったのである。飲食一つとっても、モンゴル式肉食の普及や中国に従来無かった焼酎の一般化があった。これは、中国だけでは無く、モンゴルの強い影響を受けた朝鮮も同様で、仏教国である同国でも肉食や焼酎の飲酒が浸透している。特に、焼酎の場合、中国北部や朝鮮では、従来の国産醸造酒よりも高級な酒と位置付けられる傾向は長く残り、現代までで続いている。
即ち、異民族のモンゴルに百年間支配されたことによって、多民族国家としての骨格が、人種、食習慣を含む多方面に浸透し、国全体の体質が唐の時代とは大きく変わってしまったのである。その結果、洪武帝とそのブレーンは、元の旧習でも利用価値のある物は残し、不都合な政策は捨てる現実策で対応している。洪武帝始め政府首脳の誰も、漢族の旧習に戻す政策、言うなれば復古政策に言及せず、現実追認主義のような国体で政治を開始したのが明であった。
(明代の人口の推移)
当然の事ながら、どの王朝も建国初期の正確な人口記録は残っていない。朱元璋が即位してから10年以上立った、洪武11(1381)年頃の人口が6千万人だった記録があるらしいので、中国の人口は、またもや西暦6年の「6千万人」の原点に復帰したのであった。
しかし、久方振りの中国人による本格的な王朝「明」の人口は、明代(1368~1644年)約270年間を通じて、6千万人前後を行き来して、ピーク時でも6千5百万人程度だったと記録されているらしい。
これらの事から、推定される事実は、異民族支配下での凄まじい収奪下でも、中国人王朝の下での一見平和な統治下でも、一般庶民にとっては、そう大きな差異は無かったのかも知れない。平和が続いて食料が豊富にあり、仕事にも困らない豊かな国は、世界中どの国の歴史を紐解いても、人口は増加傾向になっているのに対し、明の国勢は大きく発展しなかったであろうか?
ところが、である、明代のピーク時の人口に関しては2番目の説があるようで、明最盛期の万歴年間、日本でいう信長全盛期の天正頃の人口が1億6千万人を越えたとの主張がある。6千5百万人説と1億6千万人説のどちらに正当性があるか手元の資料では、今一つ、はっきりしないが、もしそうであれば、中国の人口1億人突破の栄光は、明の時代に輝くことになろう。
この点を含めて明代の人口に関しては、学識のある方々のお教えを請いたい。
(「明」の内部崩壊と「清」の侵攻)
洪武帝の後の第三代永楽帝によって、洪武帝の定めた明朝の皇帝独裁権は強化、整備された。加えて、長い間騎馬民族に支配されてきた燕雲十六州も自国の国土として確立することが出来たのである。
洪武帝は首都を自身の基盤であり、モンゴル族や満州族と直接対決する北の最前線である北京に(南京の政治機構を名誉職的に残しながら)移している。
その結果、明最後の時、孤独と猜疑心の塊リのような崇禎帝が北京で李自成の反乱軍に追い詰められて自殺に追い込まれた際、頼みの明軍を率いた将軍呉三桂は、北京の直ぐ北の山海関で、「清軍」と対峙していたのであった。
崇禎帝の自殺と李自成軍の北京乱入の知らせを聞いた呉三桂は敵の「清」に投降、清軍を教導して北京に進攻して瞬く間に首都を奪回している。
漁夫の利を得た「清」は、北京を殆ど無傷で手に入れた他、華北を掌握、続いて華中、華南に侵攻して、中国全土の支配を強固なものとしている。
(複合多民族国家「清」の成立)
少数の満州族で広大な中国全土を幸運にも手に入れた「清」は、本来の自国の領域である満州の他に満州に隣接するモンゴルも自国の領域として組み入れて、元の後継者としての地位を確立している。「清」は、国土の広さからいっても支配する民族の数から考えても、多民族国家中国の姿を、また一歩進化させていった。
急激に広大な領土を獲得した上、複数の異民族を傘下に持った「清朝」は、巧妙な施策を実施して中国の民心を急速に獲得している。明末、皇帝の奢侈や満州族ヌルハチ(清の初代皇帝)との交戦、李自成を始めとする内乱鎮圧の為、明朝が実施した増税に次ぐ増税を全て一律に撤廃したのである。これによって、庶民の税負担は半分から三分の一に成ったといわれている。
これこそ、中国全土の人心を一瞬にして得る行為であろう。
税の軽減で人心を得た清が次に執った政策が有名な「弁髪の強制」であった。頭の髪の前半部を剃り上げて、後半部の長く伸ばした髪を三つ編みにして背中に垂らす、満州人の男性独特のあの髪型であったが、この強制策によって、清に投稿した民衆は全て弁髪にすることを強要され、拒否した人民の首は直ちに斬られて地面に転がる事になったのであった。
その効果は抜群で、瞬く間に全中国人の満州化が全土に浸透している。19世紀から20世紀に掛けて多くの欧米人の見た中国人の最大の特徴が、満州化した弁髪姿であった。
加えるに、読書層や知識階級の反発を抑え、協賛を得るために明代に引き続いて科挙を継続して、高級官吏への知識層からの登用を採用している。特に、雍正帝は出自では無く、「徳」の有無が重要と満州族による中国支配の正当性を強調、反清運動の中心である知識層にも、科挙の実施の他に、名誉ある史書編纂事業や利権に繋がる仕事を与えて懐柔している。
この他にも、モンゴル時代の反省を込めて、「清」は最も巧妙な官制を敷いている。それは、同一役職に対する「満漢任命制」であった。同じ役職に民族の異なる両名の役職者が居ては、難しい選択を迫られそうだが、清は皇帝の独裁権と有能者の優遇で、それを回避、安定した帝国支配を確立している。
(「華夷統合」から「華夷一家」へ)
明の洪武帝の時代、「華夷統合」を謳って国内の安定を図っていたが、元に続く、第二の占領国家、「清」は、複合他民族国家として、「華夷一家」を掲げて中国、モンゴル、満州を統括支配した。元の場合もそうだったし、清のケースでも「夷狄である満州族」が最上位で、中国人である「華」は絶対「夷」を越えてはいけない立場だった。
東アジアの大部分を支配した「清」は、その広大な領土内で充分に自給自足経済を成立させて、域内に平和と中国に史上初めて2億以上の人口を養う体勢を知らず知らずの内に整えつつあったのである。
これは、「漢」以来、中国二千年の人口変遷史に置いて偉業といって良いであろう。
やがて、清朝末期、「華夷一家」の考え方は更に進化して、清朝の版図内の五族、「漢族、満州族、モンゴル族、チベット族、ウイグル族」を網羅した華夷統合姿、民族共和論としての「五族協和」が称えられる事になる。
(中国の人口爆発は清朝から起きた)
安定した治世による平和と宋、明以来の中国全土での開発が進んだ結果、中国歴代の中国人王朝、「唐」、「宋」、「明」で起きなかった人口の爆発が満州族の植民地帝国である多民族国家「清」で起きたのである。
明の時代に人口一億人突破の可能性について述べたが、明末、清初の段階では、重税と戦乱によって6千万人を切るところまで人口は再び激減していたが、清朝に入ると国民の数は急速に増加している。
康煕帝24(1685)年 人口1億人を突破
乾隆帝45(1765)年 約2億人
同 55(1790)年 約3億人
道光帝13(1833)年 約4億人
17世紀末には1億人を超え、百年後の18世紀末には従来では考えられなかった3億人の壁を突破している。この従来の王朝では考えられなかった驚異的スピードの人口急増は、その後も衰えること無く、19世紀に入ると4億人に到達している。
当然ながら、その背景には、巨大な生産性の拡大があったと考えるほか無い。僅か、150年に満たない時間で、1億の人口が4億に成った訳であるから、清朝における人口爆発は驚異的としか言い様がない。
(清朝における人口爆発の原因)
千年以上に渡って人口6千万人の垣根を越えることが出来なかった中国が異民族満州族の支配下において、驚異的な人口増を達成した原因の詳細は、まだ解明されていないようだ。しかし、従来から幾つかの点が指摘されている。
「清朝」初期、賢良な皇帝が続いた結果、中国全土で平和が維持され、灌漑技術の大きな進歩もあって、従来、耕作不可能だとされていた土地への農民の移住と開拓が促進されている。地域的にも、宋、元、明代に引き続いて黄河流域から長江流域への移住が進み、日本では考えられないような(全ての樹木の伐採と農地化)徹底的な農地開発が進行している。
揚子江中下流域の耕作可能地が少なくなると農民達は四川省や漢江上流、更に南の雲南地域へ向けて耕作地を求めて移動している。また、山東省の人々は渤海湾を北に渡って、今の遼寧省へ、福建の民は海を渡って東の台湾に移住を開始している。
余分な話だが、清朝末期、中国の人口爆発に対して、最早、国内だけでは対処出来ない情勢となっている。特に華北、華中の人々に圧迫された浙江、福建、広東の生活できない人々は「華僑」となって、東南アジア各地に拡散して行った。
(中国二千年の人口の変遷を振り返って!)
漢民族が古代中華帝国を建設して以来、千年以上に渡って漢末の「西暦2年のピーク人口6千万人」越えることはなかった。
その後、北宋徽宗の頃に9千万を超え、15世紀後半の明の時代に、1億人を突破した可能性があるが、大台の2億人の人口に到達したのは、清の乾隆帝30(1765)年で、僅か250年前の出来事であった。
結果論になるかも知れないが、歴代中華王朝にとって農民を主とする庶民は、時代の消耗品であり、それは、現在の共産党政権の農民工対策を見ても普遍性を維持しているように感じる。中国に於ける歴史的な人口の収縮と膨張が終了して、人口の安定期が到来する時こそ中国に於いて民衆の為の時代が拓かれたと断言出来るのでは無いだろうか。
(参考資料)
1)清朝と近代世界 吉澤誠一郎 岩波新書 2010年