16.膨張と収縮の国家中国㈡隋、唐~宋、モンゴルまで
ほぼ純粋な漢民族によって形成された「後漢」だったが、宦官と外戚の専横により混乱の最末期を経て大きく三国に分裂(三国志の時代)、やがて、晋の統一がなるものの中原における漢人の人口は打ち続く内乱の為、極端に減少してしまった。
特に、中原の周辺地帯では漢人の希薄な地帯が出現、その空白を狙うように遊牧や狩猟を主とする異民族が次々と侵入を開始した。五胡十六国の時代の始まりである。
その結果、何代にも渡って侵入を繰り返してきた北方民族と漢族との民族間の混血が進み、互いの持つ優れた軍事力と文化の理解と共有化が否応なく促進された結果、次の新しい世代を担うべき「新中国人」とでも呼べる多民族の混合した人々が、華北政権の中心を形成し始めたのであった。一方の華南では、華北を脱出した漢族が、辛うじて亡命政権を建てて頑張っていたのである。
その結果、長く、胡族系王朝(北朝)と亡命漢族王朝(南朝)が分立していた中国全体の流れが南北朝の後半から大きく変わった。争乱の続いた時代に嫌気が差した中国人自身の統一中国への希求の始まりである。その最初のスタートを切ったのが我国の聖徳太子が小野妹子を使節として派遣したことで日本でも知られている「隋」であった。
隋の文帝楊堅による南北中国の統一国家の建設である。
漢以来の隋の中国統一は近隣の東方諸国、高句麗、百済、新羅や倭国へも伝わり、その新情報の入手と共に、東アジア各国は遣隋使の派遣を急いだのであった。
遠い我国の遣隋使小野妹子がやっと謁見出来たのは、文帝の子、隋の第二代皇帝煬帝であった。傲慢な煬帝だったが、対等の関係を求める倭国の国書に腹を立てながらも、大国の度量を示して倭国の使者を送迎している。
けれども残念ながら、久し振りの統一国家隋の国力に慢心した煬帝は高句麗征討を計画、数度の大敗を喫したことによって、隋は短命の王朝となって終る。
(短命王朝隋の遺産)
ここで、次代の王朝「唐」が登場する前に、人口の変化に大きく影響する「隋」の二つの施策について、述べる必要があると感じている。
第一は、文帝よる「律令」の採用である。中華帝国の法体系として登場した「律令」は、隋以降の唐を始め諸王朝にも継承され使用されただけで無く、東アジアの諸国、朝鮮半島の統一新羅や倭国の古代国家の法制整備に大きな役割を果たしている。
「律令」によって、倭国は始めて国家としての体裁を整えることが出来たし、「日本」の呼称自体も「隋」と「唐」文化の濃い影響を受けた結果と考えるべきであろう。
「律令」以上に、後世に大きな経済的、政治的影響を与えたのは、煬帝によって建設された中国大陸を南北に結ぶ「大運河」の建設であった。都大興城(現在の西安)から、黄河、淮河、長江と三つの大河川を南北に繋ぎ、更に、長江北岸の揚州から、現在の浙江省の杭州を結んだ運河、「京杭大運河」の建設であった。この運河は最終的には黄河から更に北に延びて琢郡(今日の北京近郊)まで北上している。
この運河の建設によって、南北中国は経済的にも物流的にも始めて一体の国家となったのである。その成果は実に大きく、隋の後に建国した「唐」は、その恩恵を最大限に享受して、約300年近くの長期政権を維持することが出来たし、唐の後の「宋」も「元」、「明」、「清」もこの南北を繋ぐ大運河の恩恵を受けなかった王朝は無いといって良い。
(大唐帝国の民族の実態)
話は変わって、当時の華北に居住した人種について考察してみたい。
少し時代を遡ると五胡十六国の時代、華北で政権を掌握した王朝の多くは鮮卑系の異民族が中国化して建国した王家であった。その中の華北の王朝の一つ、西魏の宇文泰が身近な八人の鮮卑人を「八柱国」としている。この「八柱国」と彼等を取り巻く「十二大将軍(武川鎮集団)」が、統一国家隋と唐の建国に大きく関わった歴史上のミステリーがある。
その詳細は置くとして、十二大将軍の一人楊虎の子供が隋の文帝楊堅であり、八柱国の一人李虎の孫が、唐の初代皇帝李淵であった。また、楊堅の皇后は、同じく八柱国の一人独弧信の娘で有り、唐の高祖李淵の母は、独弧信皇后の姉であった。このように武川鎮軍閥とでも称すべき鮮卑系の八柱国と十二大将軍の家々は相互に血縁関係を持ち、隋と唐の両王朝の建国に深く関わっている。
この経緯から考えられる隋、唐両王家の血統は、共に鮮卑族と漢族の混血の王家と考えて大きな間違いにはならないと思う。
この歴史的な経過からも、当時の日本が尊崇して止まなかった唐の王家を始めとする上級貴族層は、紀元前に古代中国で大活躍した戦国七雄の王家や漢の皇帝の後裔でも無く、増して、孔子を始めとする諸子百家の子孫でも無かったのであり、唐とその唐政府の主要の中国人達は、北方から来た胡族と漢人の交配した「新しい混血の中国民族」と考えて良いほど、漢の時代から考えると変質し、多民族化していたのである。
王家や王を取り巻く貴族が北方系の血の濃い混血集団であれば、当然の事ながら長江または淮河から北の地域の住民達も華北系の人々の影響を少なからず受けたと想像される。
この点に関して前出の岡田先生は、後漢末期の黄巾の乱以降、中国人の言語の基層が変化して、北方民族が主に用いる「アルタイ系の新しい中国語」に変質していったと指摘されている。
しかし、華北王朝に征服された南朝の貴族達も漢人貴族の系譜を引き継いでいるのは自分達だとの大きなプライドはあった。唐が建国して相当の年月が経った後でも、旧南朝貴族達の家では、鮮卑系混血の唐の王家に后妃を出すことを拒否する古い漢人貴族が多かったのである。
(大膨張の時代の唐の人口)
国土、人口共に縮小が続いた中国が久方ぶりに大膨張の体勢を取り戻したのは、唐の第二代皇帝太宗の治世においてだった。
国内の安定化と発展だけでは無く、シルクロードを経由した西方との交易でもソグド人の活躍もあって、遠くインドやローマとも接触して多くの優れた異文化が中国にもたらされた。中国本体の文物だけでは無く、西方からの珍奇な文物は都長安に空前の繁栄をもたらしたのであった。
国力の増大と共に唐の支配領域は拡大を続け、西域への支配権の進捗や長年の宿敵高句麗を攻め滅ぼして朝鮮半島北部へも支配領域を拡大させている。一方、インドシナ半島北部、現在ベトナム北部にも進出して、都護府を設け、支配体制を整備している。
漢の武帝の時代に続く大膨張の時代が始まったのである。
盛唐時代の唐の都長安の繁栄は著しく、吐蕃、突厥、南詔、更に西方のソグド人などが訪れて、髪や肌の色の異なる美貌の胡姫の居る酒場は盛況を極めた。加えるに東方の新羅や日本、渤海からの遣唐使も新鮮な文化や制度を求めて頻繁に訪れている。特に、新羅は黄海を主とした交易網を確立して唐文化の吸収と伝搬に貢献し、唐からの帰国に新羅船を用いて帰国した日本の留学僧も多い。
漢以来、久し振りに訪れた強力な統一国家唐の時代、前述した隋の煬帝の造った南北の大運河による経済効果もあって、盛唐の経済は大きく発展、隋代に、約4千6百万人だった人口が、唐が隆盛を極めた玄宗の天宝14(755)年には、盛時の6千万人に迫る約5千3百万人まで復調している。
統計上ではあるが、前漢末のピーク人口にあと一歩に迫る所まで人口が戻って来たのであった。
だが復調の兆しが見えた人口の増加傾向も、大膨張の盛唐の時代が終ると共に、縮小の時代にはい入って行く。
晩唐から次の五代十国の時代に掛けて、周辺からトルコ系の民族や契丹人、続いて女真人の侵入が続き、それら諸民族による短命王朝が次々と建設されては滅亡している。
唐に続く、戦乱と短命王朝の分立した「五代十国」の時代の人口は不明ながら、数千万も相当下の方まで人口が減少した可能性は多い。
古代から中世、近世、現代と中国2千数百年の中国の各王朝の盛衰と人口の変動を調べてみると驚く程、相関関係があることが解ってくる。
巨大な中華帝国、漢や唐、宋が出来、安定した国政が百年から二百年続くと人口は前漢末の約6千万人に近づくが、王朝の衰退と内乱、それに続く小国の分立期になると人口は、戦乱、飢餓によって、ピーク時の半分とか三分の一に激減する、中国史独特の傾向を示すのである。
(唐から宋での人口分布の南北逆転)
日本に大きな影響を与えた唐から宋へ移行する時代を最初に歴史的に大きな変化と捉えたのが内藤湖南であった。湖南は、中世(唐)から、近世(宋)への移行と捉えて、両王朝の政治や経済、文化での多方面な違いを指摘している。湖南が教鞭を執った京都大学の研究者によって湖南の考え方は受け継がれたが、一方で、湖南説に反発する研究者も多く、相反する議論が重ねられた。
この論争は現在に至っても結論が着いていないが、中国史探求の上で貢献した両陣営の研究成果も少なく無い。
しかしながら、改めて、ここで湖南の着眼点に注目したいのは、中国の「宋」が、既に近世的な流通経済や士大夫層による官僚予備群の形成が進んでいたのに対し、日本が、まだ古代末期から中世初頭の段階に居た事実である。
単純に考えて、平安時代当時の日本は中国の数百年後ろを歩いていたのであり、「北宋」の都開封の時代的な雰囲気を有名な「清明上河図」から推測すると、日本のずっと後世の秀吉の頃の桃山から江戸初期の大坂や江戸の状況に近いように個人的には考えている。
この項では、南北の人口分布の変化に関して、竹内実京大名誉教授の「中国という世界(岩波新書)」から引用させて頂いて、漢、唐の時代と違う「宋」の時代の特徴について、考えてみたい。
古代以来、漢も唐も中心地は中原と呼ばれる地域で、少し広範囲に見ても華北と考えて良かったと思っている。人口の比率も時代が古いほど断然、華北が多く、南方の人口は唐代に至っても北方の半分より、若干多い程度で、比重の中心はあくまで華北だったのである。
唐が滅亡して五代十国の時代が来ると南部地域、特に長江流域の生産性の向上と共に、南方の人口も増加して、北宋の元豊3(1080)年には、南北の人口比率が逆転して、北の人口は南の半分強になってしまい、人口分布の南北逆転現象が起きている。
人口分布の逆転現象が起きた原因は、唐の後半以降、北方が衰えたのに対し、華中、華南の生産性が向上して大人口を支えるだけの穀物生産が可能になった為と考えられる。
漢代には、長安や洛陽を中心とした大都市は、北方しか無かったのに対し、西晋以降、建康や揚州等の南方の都市が順次栄えていき、宋の時代には揚州、蘇州、杭州を始めとする長江に近い地域に大人口の都市が形成されていった。
(千年振りの人口大膨張の時代:宋)
後周王朝を引き継いだ宋の太祖趙匡胤の時代の人口は分からないが、第6代神宗(1067~1085年)頃、千数十年振りに前漢末年平帝時代のピーク人口6千万人を復活している。
ここで大事な点は、竹内名誉教授の著書から引用させて頂いて述べたように、唐の時代と宋では、南北の人口比率が逆転している点で、政治は北、農業生産と経済は南の時代が始まろうとしていた。
唐では人口の約65%が北に居住していたのに対し、宋では、南の居住者が約65%に達して、南北の人口比率が逆転した点である。単純に考えると華北は荒廃が進み、華中、華南の開拓が進んだ結果、宋に至って人口の南北逆転現象が起きたと考えられる。
神宗以後も宋の平和の継続と共に大きく人口は増加して、宋文化最盛期の第8代徽宗(1100~1126年)の時代には九千万を超えて、一億人に迫るところまで肉薄している。この千年以上掛って達成された人口増加の快挙は、中国史の上で、「宋の時代」が、新しい経済発展の時代の幕開けだった事実を明確に示している。
例え、中原を掌握したとしても、華中、華南の大発展により、華中、華南の経済無くして華北単独では中華帝国といえない時代に入ったことを意味していると思う。
この中国史上従来無かった人口爆発の要因は、従来の歴代王朝に比較して、文治主義の「宋」王朝が領土拡張の意欲が薄い点に一因があるのではないかと個人的には思っている。
漢や唐の政治の主導権を貴族が握っていた時代と異なり、宋は科挙によって選出された士大夫層による文治政治の時代だった。周辺国家との戦争による功名手柄を常に欲している軍人達とは大きく異なり、儒者出身の士大夫達官僚層は、内治の充実と安定的な平和、芳醇で豊かな私生活を求める傾向が強かった。
更にこの時代、従来、華北に比較して発展の遅れていた華中、華南が大きく発展した結果、華北、華中、華南の結び目ともいうべき位置にあった都開封は、今までに無い殷賑を極め、絶好調に達している。
全土の人口が増加した結果、首都開封の人口も百万を超えて、世界的な大都市が出現したのであった。
しかし、この大発展も文芸に熱心な徽宗の子欽宗の時代、女真族「金」の侵入によって、「北宋」は滅亡する。欽宗の弟高宗は遠く臨安(現在の杭州)に逃れて亡命政権「南宋」を建国して、金、更に強大なモンゴルと対峙することになる。
(モンゴルの脅威)
漢以来の偉大な繁栄を極めた北宋時代が終ると中国史上、今まで見られなかった大侵略の時代を迎える。「金」とそれに続く大草原の民「モンゴル」の侵攻であった。
華北の占領で満足した「金」に対し、モンゴルは、本腰を入れて南北中国の統一を画策、漢人王朝南宋の滅亡に戦力を集中した。ジンギスカンの子オゴタイによって着手された中国統一事業は、ジンギスカンの孫フビライの5年を掛けた襄陽包囲戦の勝利と共に南宋征服の最終目的を達成している。
モンゴル世界帝国の一部として、モンゴル、満州及び中国全土を含む東アジアの大部分を支配下に置いたフビライは、自己の絶対権力が確立できる範囲の国号を「元」と改め、本格的な中国の植民地化と中国人民の隷属化を図った。
ここで注意しなければならないのが、西方から見たモンゴル帝国と中国人が考える「元」が、イコールでは無い事である。元は、ジンギスカンの孫達が統治する大帝国の極一部にしか過ぎなかったのである。
しかしながら、中国人の置かれた現実は厳しく、当然ながら人種的にもモンゴル人が最上位にあり、次が西方から来たイスラム教徒の色目人が占め、三番目に旧金国の占領下に居た北部の中国人や満州人、朝鮮人が席を与えられていた。
最も最下位に位置付けられて、「蛮子」と呼ばれ軽蔑の対象になったのが、最も文明度の高い旧南宋住民の南部地域の中国人であった。中華文明の信奉者は、野蛮な夷狄は中華文明に遭遇すると直ぐに高度な文化の信奉者に成ると説くが、現実には、武力を持たない高度文明下の人民は、最高の搾取対象でしか無かったのである。
当時の人口の民族毎の人口比率は、モンゴル人と色目人が約200万人(約3%)、漢人1千万人(約14%)、旧南宋の住民、南人が約6千万人(約83%)であった。これを見ても中国全土の中国人約7千万人が、たった3%のモンゴル人と色目人の圧政下に呻吟しながら暮らしていたのがフビライの「元」であった。
ここまで、「唐」、「宋」、「モンゴル」と中国の三つの王朝の間の人口の変遷に関して学んでみた。日本のように古代から近代まで時代毎の少々の増減があったものの、長い目で見て、歴史と共に順調に人口が増えてきた島国と異なり、中国の場合、王朝の勃興と共に全土の人口が増加、王朝の失政と衰退と共に、人口は減少、それに続く短命王朝の乱立下の戦乱で、更に人民の生活は圧迫されて人口の縮小もピークに達した頃、漸く、新しい王朝が成立して再スタートを繰り返すのが中国人自慢の、「中華帝国」の実態であった。
その結果、以上述べてきたように、絶えず発展を続けてきた中華帝国というよりは、前漢以来、千年以上、中国は「膨張と収縮」繰り返して、人口的には殆ど千年間、発展が見られない国家だったのである。
やっと、北宋の神宗の時代に6千万人のピークを千年振りに回復、徽宗の頃に、1億人の大台に迫るところまで到達したのであったが、「金」の侵入によって北宋は瓦解、1億人の人口の達成は、元の後の「明」の時代を待たなければならなかったのである。