15.膨張と収縮の国家中国㈠漢から五胡十六国まで
学生時代に読んだ史記や十八史略、プルタルコス英雄伝等の感動は相当の時間を経過した今日でも感動が薄れることは無い。
ところが不思議なことに、中年以後に読んだ書物の多くに対する感動は徐々に薄れており、記憶に残らない書名も多い。更に年齢を重ねた今日では、数ヶ月前に読んだ本でも書名を忘れてしまったり、折角感動しても、感動の浪が時間の経過と共に急速に薄れて、著者名さえ忘れてしまう危険性と不安感を常に感じているこの頃である。
そんな中、十数年近く前、中国の歴史を自分なりに理解するための切り口になる因子を幾つか探していた時期があった。その時、幾つかの単語や熟語が頭の中に浮かんでは消えていったが、長く心の中に残ったテーマが、『中国史における人口の変遷』、だった。
その後、最初に出合ったのが岡田英弘先生の「中国文明の歴史」であった。先生は、中国の古代から現代までの歴史を五つの時代に区分した上で、中間の漢から清までを三期に分けて説明されている。即ち、
第一期:漢帝国の成立と崩壊(漢から五胡十六国まで)
第二期:新しい漢族と華夷統合の時代(隋、唐~宋、モンゴルまで)
第三期:多民族国家中国の成立と大清帝国(元~明~清まで)
この中でも新鮮だったのが中国史上における最初の人口統計記録、
『前漢末、漢書地理志に残る紀元2年の約六千万人という数字に着目されている』
点であった。
中国の人口は、この後の王莽の乱の人口減と後漢による一時的な人口復活を経て三国時代の全国的な争乱によって激減している。その後も、中国の人口は、盛唐に至っても前漢末の人口約6千万人のピーク人口に復帰出来ず、
『一千年以上もこの約6千万人というレベルに達する人口があらわれなかった』
と指摘されている。
更に、隋、唐以降の新しい混血した複合中華民族としての新しい漢族の形成について触れ、隋、唐歴代皇帝の出自を鮮卑系中国人だった点を明確に指摘されていることであった。
一方、加藤徹先生は、「貝と羊の中国人」の中の第四章で、岡田先生の挙げたテーマを補強する形で、
『中華帝国は、十七世紀まで、「戸籍登録人口六千万の壁」を突破できなかった』
と述べながら、時間軸を明以降まで拡大して、清朝での人口爆発についても述べておられる。
それまで、ヨーロッパのドイツの三十年戦争における人口の減少や日本の古代から現代に至る人口の変動には興味があったが、中国の人口の二千年間の変遷に関して、余りにも無知だったと両書を読みながら反省したのであった。
そんな訳で、二つの良書を読んだ読後感想と反省を込めて自分なりに中国における人口の推移と変化を再度学んでみたいと思いながら、何もせずにいたずらに十年近い歳月が経ってしまって、今日に至っている。(苦笑)
しかし、今回、巨大国家隋や唐と正面対決した高句麗や当初、唐と連合軍を組みながら、最後は唐を裏切り朝鮮半島統一国家建設に邁進した新羅の英雄達の行動を考える時、新羅の幸運はあったものの、やはり、中国自体の大きな変化を無視して、周辺諸国の外交は存在しないと考えるに至ったし、東アジア全体の歴史を理解する手段として、中国史の大きな変動に関して再確認することの重要性を改めて感じたのであった。
その結果の一つとして、遅ればせながら、『中国史における人口の変遷とその原因』の初歩的な部分を学習してみたいと思った次第である。
この『人口』に関する学習作業を進めることによって、巨大国家中国の歴代王朝の盛衰の一因に触れられるような気がしている。もっと露骨に言うと、中国の総人口の歴史的な変遷を掌握できれば、歴代王朝の衰亡期において、如何に各王朝が人民を無視して政策を施行し、人口を激減させていったかはっきりするような気がした。
多分、学習前の素人の推論で申し訳無いが、『中国史における人口の変遷とその原因』を調べていくと、共産中国の大好きな「中華正統論」や「古代から続く五千年の中華帝国」の稚拙な論理が、単純な人口変動のグラフの前に無意味なものになっていくような錯覚を覚える。(笑い)
中国史全体で人口の変動とその主な原因を考えてみたと思ったが、長い中国史を一括して議論するには無理があるので、宮崎先生の時代区分をそのまま横着に借用して、今回は、取りあえず漢から五胡十六国の時代までを検討してみたい。
(膨張と収縮の国家中国)
個人的には、中国は始皇帝以来、現代の共産中国に至るまで何度も懲りずに『膨張と収縮』を繰り返してきた国家だと思っている。当然ながら歴代の各王朝は自分達なりの正義を主張して、各個に壮大な大義を謳って来た事実は、「論語」や「史記」、そして宋代の「資治通鑑」等の中国人が今でも愛読する名著を読めば明らかである。
これらの偉大な古典は、書かれた時代の関係もあって、言ってみれば、「大上段の中国正統論」の立場で記述されており、モンゴル以降の中国人が蔑視する夷狄の絶え間ない侵入によって、「華夷混血」が、何度も繰り返された結果が、今日の中国人である厳正な事実を無視した暴論である事を全く無視している。
これらの多くの中国古典は世界的に見ても優れた書物であり、多くの人々を感動させる力を持っている。増して中国人にとっては二千年以上経った今日でも彼等のアイデンティティを満足させ国家戦略を定める時のバックボーンと成り得る魔力を保持しているように思える。
しかしながら、この約二千年間の中国の人口推移を幾つかの書物から拾ってみると歴代の皇帝や朝廷が如何に国家や国民の為では無く、自己の栄華と王家一族の繁栄だけを希求してきた結果である事実が判然とする一方、自国の国民、常に人口の大多数を数える貧困な農民層を人間として扱わなかった事実を知って慄然とする驚くべき結果を示している。
論語、史記を始めとする万巻の名著の多くが、中国独自の正統論に立っており、古代からの中華思想の枠から一歩も踏み出していない非近代的な思考方法であることは明白であろう。
それでは、第一の論点を中国の人口推移に絞って、古代に於いて最大の人口を中国が有した前漢後期の時代から始めよう。
(古代中国の人口の推移)
秦が中国を統一する前の戦国七雄の推定人口は、約2千万人前後と推測されている。その人口が、最初の統一王朝秦に続く前漢帝国の長い平和を経て前漢末期の平帝の頃、総人口約6千万人に達ている。黄河周辺の長安、洛陽を中心とする畑作地帯での農業生産力を考えると、この人口は当時の農業技術ではMaxだったと推測する学者もいる。
当時西ヨーロッパで絶頂期を迎えたローマ帝国の紀元164年の人口は一説によると6千1百万人なので、東西の両大国は、同じ時期に同様の信じ難い位の巨大人口を持っていたことになる。古代ローマ帝国は広大な地中海各地の植民地から膨大な量の食料その他の支援によって成り立っていたが、中国は己一国の自給自足体勢だけで、同様の人口を維持していた訳だから、その古代における国力も壮大だったと考えられる。
さてしつこいようだが、この前漢末の、『約6千万人』という総人口の数字をご記憶頂きたい。前漢はこの後、新の王莽の為に滅亡し、中国は内戦の時代に突入する。国内の群雄を征して再び中国統一に成功した後漢の光武帝の時代始めの人口は、大体約2千万人だったと予測されていので、内乱により中国(中原)の漢人人口は三分の一に激減したわけである。
長い戦乱によって、人口の3分の2に当たる約4千万の人々の命が戦場や飢餓によって失われてしまったのである。
中国二千年の歴史の特徴の一つが、王朝末期の争乱期に全国民の生命の半分や三分の二が何の価値も持たない如く安易に消去される事実である。権力を求めて争乱を起こした各地の軍閥にとって、自国の人民の命も敵国の国民の生命同様に殆ど無価値である瞬間に史書を読むと何度も遭遇する。
全国民の命が何割もが失われた結果、新王朝が政権を執っても、元の人口に復帰するまでに百年も二百年も掛る悲しい実態があるのが中国史である。
(日本で人気の『三国志』の時代は中国にとって最悪の時代だった)
ピーク時の約6千万人から内乱によって2千万に減少した人口は、それから100年近く経った後漢末の永寿3(157)年になっても、完全には回復できず、約5千6百万人に留まっている。
王莽によって引き起こされた戦乱の傷跡は深く、前漢の紀元2年に達成された人口のピークの数字を回復しないまま後漢の時代は終ってしまうのであった。
けれども、その後の後漢末から晋の人口の急降下の経過から見ると、前漢末から新の時代の争乱で中国人の人口が三分の一に減った事実は、まだ手ぬるい結果にしか過ぎなかった。漢人内部での争乱の惨禍が本格化するのは、この後である。
後漢末の外戚と官僚貴族層、宦官の権力争いに始まる争乱は、更に激しい国家規模の惨劇となって人口の急激な減少を引き起こした。
ここまで、お話しすると中国史に詳しい方々は、ニヤッと笑って、それは、「三国志」の時代だねとおっしゃることだろう。
当に、その日本人に人気の三国志演義の英雄達、劉備、関羽、張飛、趙雲、曹操、孫権、そして諸葛孔明、司馬仲達が大活躍する時代こそ、中国史上で何度も繰り返される人口激減と国家収縮の最初の時代のスタートだったのである。
三国志の時代、中原の抗争は激化、漢人同士が激烈な抗争を重ねた結果、中国全土の総人口は一説には1千万人を切る所まで激減している。
魏、呉、蜀三国の推定される人口の合計が7百数十万人の最低値を記録している。前漢時代の約6千万人のピーク人口を知る人々にとっては信じられない人口の希薄な時代が現出したのであった。
戦国時代の約2千万人の人口が前漢時代に順次増えて約6千万人のピークに到達してから僅か3百年足らずで、国民同士の殺し合いを重ねた結果、全土の人口が約8分の1に収縮して、戦国時代の前の春秋時代の人の数に戻ってしまったのである。
特に、本来の漢人の本拠地である中原の人口減少は激しく、従来の十分の一の人民も居ないとする報告が上申される位の悲惨な状況であった。
餓えて政府の支援を全く得られない華北の人々は、餓死するか、長江寄りの新天地を求めて江南に移住するかの二者択一を迫られたと考えられる。
現在の中国語は幾つかの方言から成り立っているが、その一つ「客家方言」は、中原の故地を捨てて、江南を含む中国南部地域に移住した人々の方言だと聞いたことがある。
もし、そうならば、DNA調査が進めば、やがて、古代中原の中国文明を興した人々の子孫が、古郷である黄河流域はもちろんのこと、黄河の南の淮河はおろか、更に南の長江北部にさえ安住出来ずに延々と彷徨い続けた歴史的な事実を証明できるかも知れない。客家は現在、湖南省などの南部諸省に多いとも広東で食事の折りに聞いた記憶がある。
後漢末期の約5千6百万人から、三国時代に生き残った約8百万を引き算しても、4千8百万の人命が三国志の英雄伝の陰で無駄に失われてしまったのであった。ここに、中国史の一つの本質が秘められているような気がしてならない。
三国志の時代人口の約9割りは極貧の農民層だったと想像される。当時も中世も近代も中国では、農民の命は何ら価値のある物として認められていない。それは、ある程度、今日でも中国人の中の農民工の姿と扱い方を見ていると生きている感覚のような気がする。
都会に働きに来ている農民工に対し、建築現場などでは工事が完成しても賃金が支払われない話を上海や広東で聞いたし、地方の高速道路を農民が横断して車両に跳ねられた死体が、路傍に転がっていても、都会から来た中国人は、全く問題にしない光景も何度か見ている。
三国時代当時も富裕な農家を見た軍隊は、殺掠と掠奪の対象としか思わなかったと考えられる。近代における日中戦争の最中にさえ、日本軍の占領よりは、国民党軍の支配の方が、住民の被害は大きいと聞いている。日本の敗戦後、共産党が急速に中国全土を支配下に置くことが出来た背景には、国民党軍の腐敗と国民からの掠奪の拡大による国民感情の離叛が大きかったと蒋介石自身が認めている所である。
(異民族にとって絶好の機会の到来)
戦乱の続いた三国時代とそれに続く晋の時代、騎乗技術に優れた北方狩猟民族は、常に強力な軍隊の補充に苦労していた諸勢力にとって傭兵としての資質に飛んだ、用いるべき格好の勢力であった。
上に述べたように中原地域の漢人人口が場所によっては、10分の1以下に減少、地域によっては漢人人口の真空地帯が出現した結果、痩せた草原地帯に住む狩猟民族が現在の甘粛省、陝西省を中心に勢力を伸ばし始めたのである。
古代ローマや中東でもそうだったが、己の持つ力に気付いた傭兵は、何時までも雇われの世界で我慢出来なかった。逆に北方からの視点で中国を見る時、中国人自ら人口の空白地帯を出現させて、狩猟民族が浸透する絶好の機会を与えてしまったと見るべきであろう。
当然のことながら、中央政府が支配する領域は縮小し、空白の中原周囲に、五胡と呼ばれる異民族集団が次々と侵入を開始している。五胡とは、匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五つの胡族のことである。
西晋の没落を経て異民族が侵入支配する「五胡十六国」の時代、正に中国系漢人王朝の大収縮期が始まったのである。この間、黄河周辺を領域とする北部の王朝の殆どは、北方系の狩猟民族の王朝で、長江の周辺を領域とする南方系王家が漢民族の系譜を細々と保っているに過ぎなかった。
(中国の収縮と侵攻異民族漢人化の時代)
漢人の中国が急速に収縮していく一方、南に逃れた東晋は、建業を根拠地として漢時代に殆どが未開の地だった長江以南の南部地域を急速に中国化して行っている。
一方、中原を異民族に奪われた北方では、狩猟民族達の漢民族化が徐々に進行していった。それには、幾つかの原因が考えられるが、北方の草原と異なり肥沃な中国の農地とその安定した生産性は、狩猟民から古来の生活方式を変えさせるだけの大きな魅力を与えたのかも知れない。
「異民族の漢人化」である。
その結果、異民族の王族や支配階級の貴族層にとっても、自分達の文化より格段に高い中国文明の魅力は強力な麻薬のように彼等の民族としての勇猛さや野性味を徐々に奪って行ったのである。
殷や周の時代から数えても千年を越えている中国文明の厚みは、食にしても衣料にしても格段に優れていた。宮殿や政治機構に至っては草原の生活からは想像も付かない絢爛豪華で緻密な世界であったろう。一度、中華文明の恩沢に浴した狩猟民族は、中華文明の長所を充分に吸収して、新しい混血集団としての新中国人が華北を中心として出来上がって行ったと考えられる。
この時代の北魏は鮮卑の中の拓跋氏族が中核となって建国されたが、北魏の孝文帝は自分達古来の遊牧民の服装や言語の使用を禁止して、漢人の服装と漢語の使用を強制している。また、孝文帝と反対の行為も行われた。有力な漢人に遊牧民の姓が与えられたのである。そうなると華北の王朝の有力者は、遊牧民族としての鮮卑姓と漢族としての姓の双方を同時に持つことが常態化して、朝廷での正式な姓は鮮卑名を名乗り、通常は短くて使い易い漢の姓を用いる両姓併用の時代が出現したのであった。
更に、時代が進むと鮮卑化した漢人と漢人化した鮮卑人の混合が進んで、混血した新しい中国人による華北が準備され始めたのであった。
一方、華中、華南に逃れた中原の漢人の子孫達は漂白の亡命者として十分な政治的、経済的な地盤を確立することは出来なかったようである。
華北にあった多くの名家も衰亡、断絶してしまった結果、北方騎馬民族の進路から外れた山東省の貴族層だけが生き残り、古代からの家門の伝統と系譜を伝えて珍重されている。
その根拠の一つとして、東晋の時代、「山東出身の貴族層」は華北の王朝でも南の政権でも尊崇され、重用されている。例えば、「山東の王氏」がそうであった。
「山東の王氏」は、華北を失って南遷した「東晋」王家に重用されて、東晋初期の政治を主導した王導や書聖として有名な王羲之を輩出している。
その位、晋の後の五胡十六国、南北朝の時代は、旧来の漢人の文化が破壊され、貴族層を含む中国人の人口が激減した時代であった。
逆の見方をすれば、華北(中原)の漢人中華帝国の人的収縮が中原への異民族の大量流入を促進し、新たな混血集団としての新中国人を生んだとも考えられる。新しく生まれた混血中国人達
と華北の諸王朝は、次に発展する為のエネルギーを内に秘めていたとも考えられる。
次項では、隋と唐の建国の過程を追いながら、中国の「膨張の時代」を考えてみたい。