14.唐と新羅の戦い
598年の隋の文帝の高句麗征討から、668年の高句麗の滅亡までの激動の約70年間の東アジアの国際関係は目まぐるしく変化している。東アジア五ヶ国の外交関係の変遷を中心に大雑把にもう一度整理すると次の三つのステージに分けられる。
第一段階 敵対関係: 隋 vs 高句麗
朝貢関係: 百済、新羅、日本(倭)
第二段階 敵対関係: 唐 vs 高句麗
朝貢関係: 百済、新羅、日本(倭)
第三段階 敵対関係: 唐+新羅 vs 高句麗+百済+日本
朝貢関係: 新羅
倭国は、白村江の大敗戦の翌年、664年に唐の出先機関、熊津都護府の使者郭務悰を那の津(博多)に迎えて外交交渉を開始しているものの敗戦国の外交交渉は順調には進行せず、郭務悰は7ヶ月に及ぶ長期間の滞在後帰国している。
この間、唐と新羅の出方に疑心暗鬼だった天智天皇以下の倭国政府は和戦両面の方針を決めた。郭務悰に手厚い贈り物をして帰国させる一方、出来る限りの国内防備計画を立案、実施している。
那の津の内陸部に水城を築き、朝鮮式山城を大陸との交通の要所に築城、防人を東国から召集して、対馬を始めとして配置、防備の強化を図った件は、前述したとおりであった。
しかし、東南アジア全体の流れから見ると、高句麗の滅亡は、第三段階の予想以上の早期終了と新たな東アジアでの抗争の開始を意味していた。
それが、これから述べる第四段階である。
第四段階 敵対関係: 唐 vs 新羅 (半島統一後に関係修復)
朝貢関係: 日本
旧百済の占領地に熊津都護府を、高句麗の旧地に安東都護府を唐は設けて、征服地の植民地政策を明確化させている。
唐の朝鮮半島政策はそれだけでは無かった。協力関係にあった新羅の文武王(武烈王の子)に対しても鶏林州大都督に任命したのであった。
滅ぼした百済、高句麗領国の要地には各都督府を設置して運営を行い、同盟関係だった臣下の新羅には鶏林州大都督府を与えて更なる臣従を強く求めたのである。
この行為に、国を無くした百済、高句麗両国の民衆や豪族達は、異民族唐の支配に反抗して各地で暴動を起こした。それ以上に、唐への不満を鬱積させたのがただ働き同然に利用された新羅であった。
(新羅による半島の統一)
「鶏林州大都督」への任命は、文武王以下の新羅の君臣にとって、独立国から唐の属州への格下げと受け取られた可能性が高い。
覇権国家唐にとっては、異民族への間接統治政策の基本通りの任命ながら、出す方と受け取る方では、天地の違いのある行為だった。
新羅は、早々に旧百済の地に出兵、熊津都督府の領域に進出している。この件に対して、唐の高宗は新羅を問責し、新羅は謝罪使を長安に派遣して対応している。
文武王としては、国力の違う唐との正面対決を避け、百済の遺民蜂起を助ける形をとりながら、実質的には熊津都護府の領域を占拠する方向に国の方針を切り替えたのであった。
当然のことながら、長い間の敵国で言葉も考え方も異なる唐の支配に、高句麗、百済の旧臣と人民は納得せず、唐の両占領地で多くの抵抗運動が頻発している。特に、高句麗での反乱は激しく、手を焼いた唐は、高句麗の数十万戸を遠く離れた淮河や長江の南に移し、残った高句麗人は渤海や新羅へと逃げている。その結果、高句麗滅亡後、高句麗人は統一新羅や中国、契丹人その他と融合して歴史上から消えて行ったのである。丁度、大和朝廷が東北の蝦夷人を関東や近畿、西国などに強制移住させて、民族としての独立性を徐々に失わせて同化させたように、高句麗の旧国民は中国や朝鮮族の中に拡散、消滅してしまったのであり、大陸における国家の滅亡とは民族の消失に繋がる場合も多い。
この唐に対する民衆の大反発を各地で扇動し、最大限利用したのが、新羅だったが、新羅は同時に大国唐と正面対決した場合の勝利の可能性の絶望的な低さも痛感していた。
新羅は唐との直接対決を巧妙に避けつつ、百済、高句麗の遺民の反唐勢力の反乱を裏から支援して、唐勢力の半島からの駆逐を狡猾に進めている。
この間、6年、670年から676年に及ぶ長い唐と新羅の戦いが始まったのである。
平壌への唐の安東都護府設置の翌年、高句麗の旧勢力が復興運動を起こすと新羅は、国内の親唐派の貴族を粛正、背後から高句麗の旧勢力と手を結び援助を開始している。
半島の国家として元々、百済、高句麗両国と似た習俗を持つ新羅は、両国の官職と自国の官職の共通化を図り、旧高句麗と旧百済国内有力勢力への新羅官位の叙任を急ぎ、旧両国への新羅の力を急速に浸透させている。周囲の情勢が新羅に有利に展開し始めると共に、初期段階では裏面に隠れていた新羅軍が正面出でて、各地の反乱軍と組んで唐と交戦を開始している。
その結果、672年、唐軍1万と靺鞨3万の連合軍が侵攻してくるも白水城の戦いで、新羅と高句麗の合同部隊が大勝を収めている。
更に、675年、唐20万の大軍と現在の京城の北方で対戦、唐軍を殲滅、軍馬3万匹余を奪う大きな勝ち戦を挙げている。その後も、旧百済地域の海戦で唐水軍を撃退するなど新羅軍の活躍は続いた。
唐は、度重なる敗戦に平壌に設置した安東都護府を北の遼東城に移して朝鮮半島から全面的に撤退するに至った。
高句麗滅亡から8年、676年のことである。
更に遡って、半島の弱小国新羅の金春秋(武烈王、文武王の父)が長安に唐の太宗を尋ねて連合策の打診をしてから、29年の歳月が流れていた。
歴史上、初めて朝鮮半島の統一国家『統一新羅』の建国である。
『統一新羅』は、新羅、百済、高句麗、靺鞨の四つの人種からなる韓系国家で、統一新羅の安定化と共に各民族の同化と融和が進み、この時から、韓民族が一つの民族、国家であることを疑った国民は存在しなかった。
(統一新羅が得た物と失った物)
新羅による朝鮮三ヶ国の統一によって、韓民族統一国家の建設という大きな果実を新羅は手中にすることが出来た。しかし、外国勢力を国内に引き入れて、仲間の国である高句麗、百済を滅ぼした後遺症は大きかった。高句麗の領土の三分の二を唐に奪われた上、残り三分の一が新羅領となったが、日本に亡命した百済人や中国の東北地方に逃れて、後に「渤海」を建国に参加した高句麗人も多かったのである。
その結果、広大だった高句麗の中国側領土を全て失った上、国境線も遼東半島の北の遼河から大きく後退して平壌を流れる大同江になってしまったのである。現在の地図で見ると北朝鮮の国土の北半分と中国東北地方の大部分を一気に失ってしまっている。
上記したように、この新羅が失った広大な地域に高句麗の後裔を称する大祚栄によって、渤海が建国されている。渤海は高句麗の遺民と靺鞨が合体した国家で、日本とも日本海を越えて頻繁に使節を交換している。
新羅の半島統一によって、得た最大の成果は古代以来、初めて一つの韓民族共同体が成立した輝かしい事実である。
古代の朝鮮半島の英雄達は、大唐帝国の強大な力に屈すること無く、今日の韓民族と国家の基盤を構築した意義は極めて大きいと言える。
この時以降、国境線の消長はあったものの、誇りある韓民族と統一された国土に対する民族意識は変わること無く、保持されて、現代に至っている。
我々東アジアのメンバーは共に、朝鮮半島が一日も早く再統一されて、古来の一体化した姿に戻る日を祈りたい。
今日、統一新羅時代を彷彿とさせる遺跡や建造物の数はそう多くは無い。古墳からの出土品を除くと慶州の仏国寺や石窟庵等が新羅で盛んだった仏教の在りし日の姿を想像させる少ない遺跡であろうか!
両方共、ユネスコの世界遺産で、日本人観光客の姿も多い。もし、1238年、モンゴル軍の侵攻によって焼失した宏壮な皇龍寺九層塔が残っていれば、慶州観光の白眉として人気を集めたことだろう思うと我国斑鳩に法隆寺が現存する意義は大きい。
(唐対新羅と倭国)
新羅による朝鮮半島統一の背景には、4世紀末から5世紀に掛けての朝鮮半島三ヶ国個々の文化的成長と巨大国家隋と唐の大きな影響を忘れて成らない気がする。
それまでは、倭国もそうだったが、朝鮮半島の新羅も国家という物が良く解っていなかった。五胡十六国から続く南北朝期の中国王朝は、どの王朝も革命政権による短命政権的な印象が強く、朝貢する周辺諸国から見て、しっかりとした永続的国家には見えなかったのである。
ところが、『唐』の国家体制も都の長安もそれまでの弱小国家とは大きく異なる、壮大な規模と確固たる法律に従って運営され、繁栄していたのであった。多分、新羅の武烈王も倭国の遣唐使一行も、「長安に行って、初めて国家という物がどう言う存在なのか理解した」と考えられる。
即ち、『律令制』に従って運営されている国家が本当の国家であって、自分達の国が如何に遅れた古代そのままの後進国家だったのか実感して、大唐の国家システムに共感を抱き、自国の未発達の国家像に焦燥を抱きつつ帰国したのだった。
その結果、新羅、倭国共に『律令制』.の導入に真剣に取り組み始める事となった。この後、両国は中華帝国との正面衝突を極力避け、中国文化、特に、律令制の自国内導入に狂奔することになる。当に、中華文明の圧倒的な勝利の瞬間であった。
もしかしたら、倭国が日本と国名を改めたのも、律令制の導入と関係していたのかも知れないとふと思ったりもした。
701年日本国は漸く、「大宝律令」を制定して東アジアの先進的国家群の仲間入りをしている。
(朝鮮半島諸国と倭国)
朝鮮半島に高句麗、百済、新羅が共存していた「三国時代」倭国は、百済、新羅を自国よりワンランク下の小国と意識していた。外交上も両国に対し、傲然と振る舞っていた兆候がある。
白村江への出兵にしても天智政権には、「我々がでれば百済の復興など容易だ」と思っていた節がある。白村江の大敗後は手の平を返すように倭国首脳部は卑屈になり、那の津に派遣されて来た郭務悰に対して中臣鎌足を中心に船一艘分の財貨を贈っている。後年の事だが、文武王の伯父金庾信にも船一艘分の財貨を進呈している。
軍事力から見ても高句麗や新羅は、大唐の軍隊と対等に戦うだけの十分な装備と組織力を持っていたと考えられる。高句麗が長年に亘って、隋、唐の大軍と数次の戦いを行い、勝利してきた事実は前に述べた通りである。
新羅にしても唐と連合して作戦を遂行するだけの整備された軍団と糧秣の供給能力を持っていた。新羅国内統一戦の後半だけ見ても、20万の唐軍を潰滅させるだけの力量を新羅軍は身に付けていたのであった。
一方の倭国は、4世紀頃の考え方と装備で、白村江の戦いに望んで惨敗した印象が強い。軍船一隻の性能を想像しても、倭国の小型の準構造船と唐の大型戦船では、大きく諸性能が掛け離れていたと考える。後年の話だが、新羅船の航海能力の高さは有名で、日本の遣唐使船の遠く及ぶところでは無かったと聞く。日本の留学僧の中には、円仁はじめ帰国時に新羅船の便宜を得て無事に帰国できた僧も多かったのである。
一方、高句麗、百済旧領への新羅勢力の急速な浸透は、両国の豪族達の倭国への亡命を促進している。天智朝は、最初、近江はじめ大和周辺の各国に移民や亡命貴族を優先的に入植させ、後年には、相模、武蔵、上野等の関東諸国に入植させた関係で、今でも、高麗川や狛江等の地名が多く関東各地に遺っている。
白村江の敗戦後、苦しい立場に置かれた倭国も急速に国家体制の強化(律令化)を推進し、唐に対しても32年ぶりに派遣した遣唐使が、国名の変更を強く主張している。唐側が、「大倭国」の使者として遇しようとしたのに対して、遣唐使側は、「日本国」の使者である事を強く主張している。この時以降、東アジアでは、古来の「倭国」の通称から、「日本国」の名称が国際的に認識されたと考えたい。
(自由だった古代の発想)
古代中国の隋、唐と対等に戦った高句麗と新羅の事績を回顧する時、古代朝鮮諸国の自己主張の激しい生き方に共感を覚える。
後代の朝鮮の政治家達のように儒学思想にがんじがらめになった不自由さがみじんも感じられない生き生きとした姿に爽快さと古代の凄みを感じる。
敢然として、隋200万の大軍を迎撃、隋の煬帝を心身共にぼろぼろの状態で追い返した乙支文徳。自国の王を殺し、反対する貴族達を粛正して政権を掌握、煬帝に勝る唐の太宗20万の軍を追い返した淵蓋蘇文。天才的外交家の武烈王と名コンビを組んで新羅による三国統一に貢献した名将金庾信。
どの指導者をとっても古代朝鮮の誇りうる政治家で有り、練達の軍事指揮官であった。
彼等を偲べる場所に行って見たいと以前から想っているが、残念ながら北朝鮮国内への訪問は未だ実現していない。数度、訪れたことのある韓国にしても、殆どの訪問先がずっと後代の李朝の建築物群や古いといっても高麗時代の遺跡であった。
日本の場合、天智天皇や中臣鎌足の時代よりも古い建築物や遺跡が朝鮮半島よりも多く遺っている幸せに恵まれている。
何よりも唐の文化の大収蔵庫『正倉院』があり、中国で既に失われた豊富な遺物を、今日、直接目にする事が出来る世界的な奇跡が我国にはある。
しかし、それでも、この時代の東アジアを考える時、古代朝鮮の英雄達の行動力と自己の信念に忠実な生き方に深い感動を覚えた。
彼等に共通する行動力の原点は何だったのだろうか?
思想や宗教、哲学にがんじがらめにされた後世の高麗や李氏朝鮮の政治家や将軍達とは全く異質の自由で闊達な発想の英雄達だったと痛感して、この項を終りたい。