13.百済、高句麗の滅亡と白村江の大敗
ここまで、中華帝国隋から初唐の短い期間での東アジアの激動期の歴史を見てきた。中国王朝側の主役は替わっても朝鮮半島の主役は常に高句麗だった。その間の東アジアの国際関係を大雑把に第一段階と第二段階に分けて現わすと次のようになる。
第一段階 敵対関係: 隋 vs 高句麗
朝貢関係: 百済、新羅、日本(倭)
第二段階 敵対関係: 唐 vs 高句麗
朝貢関係: 百済、新羅、日本(倭)
第二段階の唐の主役は、第二代皇帝太宗であったが、高句麗征討の失敗後、間もなく太宗は没し、第三代の息子高宗の時代へと移っている。そこで、上記の二つの時代と同じように敵対関係と朝貢関係に分けて、第三段階を示すと下記のようになる。
第三段階 敵対関係: 唐+新羅 vs 高句麗+百済+日本
朝貢関係: 新羅
第三段階の特徴は、従来、隋または唐と高句麗単独の戦いだったのに対し、大国中国と朝鮮半島の弱小国新羅の連合が成立して、唐・新羅連合軍対高句麗+百済+日本の戦いが始まったことである。
ここで注意しなければならないのは、唐と新羅の連合は対等な連合では無く、宗主国と臣下の関係、即ち、主従関係だった点である。新羅王といえども唐の宮廷の官位を受けた一臣下に過ぎなかったが、関係は緊密で、新羅は唐の無茶な要求にも協力体制を維持している。
それからもう一つ、この時期に重要なのは、朝鮮半島の国際政治に倭国が進出してきた点である。この時期の最新の東アジア情勢に暗かった倭国は、夜郎自大の国際感覚そのままに唐との決戦に望んでしまったのである。
更に、もう一つ指摘すると唐・新羅連合が強固な連携を保っているのに対し、高句麗、百済、倭国の関係は、連合と言うよりも、情報交換同盟程度のレベルであった。
では、お互い、使いを出す程度の付き合いだった百済と倭国が、数万の水軍を白村江に派遣して唐と大決戦に望んだ謎は、後半で考えてみたい。
従来、中華帝国の隋、唐と高句麗の抗争だった朝鮮半島の国際関係を基盤からひっくり返したのは、弱小国家新羅の孤立に重大な危機感を感じた一人の新羅王族の存在と大活躍であった。
(新羅との出会い)
新羅という国を想う時、最初に二つの映像が思い浮かぶ、一つは新羅の都だった「慶州」の旧王城だった「半月城」の周辺で見た緑豊かな芝生に覆われた柔らかい曲線の古墳の数々である。
5世紀を中心にしたこの緑の王陵群を中心とする古墳は200基を越え、近年、古墳公園として整備されていて、蓮池も多い古墳の周囲を散策する時、今でも新羅のゆったりした時代が流れているような錯覚に捕われる。
もう一つは、慶州の各古墳から出土した「煌びやかな金冠」の数々である。「金冠塚出土の金冠(5世紀)」、「瑞鳳塚出土の金冠」等は、時間と空間を遠く隔てた1世紀のアフガニスタン王妃の墓から出土した黄金の冠に良く似ている。
太陽の下で、このような金冠を着けて新羅の王や王妃が歩く時、金冠を装飾している多くの曲玉と無数の金の瓔珞はキラキラと輝きながら華やかに揺れ、王の権威と神秘性を高める絶大な効果があった事だろう!
シルクロードを伝わって東アジアにまで伝来した黄金の冠は、最終的には、我国の奈良の「藤木ノ古風」出土品まで繋がるかと想うと埋蔵文化財調査の重要性を感じると共に、古代への素人の幻想を同時に満足させてくれる気がする。
しかし、三国時代の初め、新羅は三国の中で最も弱小な国家だった。百済に虐められ、高句麗に度々、領土を奪われて苦労している。新羅の発展は6世紀に入って、百済との国境近くにある南の伽耶を併呑し、北の漢江流域に進出してからである。
それから、もう一つ新羅の発展を考える時、15~16才の貴族の子弟から優秀な人材を選抜して教育した新羅独特の「花郎」の存在を忘れてはいけない。三国統一戦での重要な場面で花郎は随所に登場し、大活躍している。
(新羅、金春秋の活躍)
高句麗と百済に圧迫された新羅は、高句麗の庇護を受けるべく、王族の金春秋を高句麗に派遣して淵蓋蘇文を相手に和平交渉を進めたが、自国の軍事力に自信のある淵蓋蘇文との交渉は成立しなかった。高句麗との外交に失敗した金春秋は、次に倭国に向かって海を渡っている。
金春秋にとって、娘と娘婿を殺された不倶戴天の敵は百済であり、百済を滅ぼすためなら、如何なる敵国とも交渉する固い信念があった。飛鳥に到着した金春秋を倭国首脳部は温かく迎え、金春秋自身の爽やかな振る舞いもあって、容貌、人物共に高評価している。
けれども、外交上の歓待は別として、長年百済との友好を最重要の外交姿勢としてきた倭国政府からは、金春秋が期待する約束は与えられなかった。
失意の金春秋は、今度は、遠路、唐の長安の太宗の元に出向き、必死で連携を懇願している。これが最後のチャンスと金春秋の胸に期するものがあったのだろう。従来の新羅独自の年号を止めて唐の年号の使用(属国となる意思表示)、官職、官人の服装、姓の中国化その他の約束を太宗に提示している。これに対し太宗も大国の度量を示して、金春秋の希望に対し理解と許容の可能性を示した。その結果、唐と新羅の連合準備が成り、金春秋は息子を太宗の近習として残して帰国している。
但し、「唐、新羅連合」は、現代の対等外交上での連合とは大きく異なる点は前段で述べた通りであった。唐の皇帝に対する新羅の臣従による連携であって、新羅王は臣下としての協力体制下に入ったのである。この点が、後に唐と新羅の抗争に変化して行く遠因となっていく。
そして、この段階で忘れて成らない名コンビが、新羅の武烈王(金春秋)と義兄弟の金庾信である。金春秋が古三国時代当時の最高の外交官であり、行動の人であった経歴は既に述べた。もう一人の金庾信は、三国期随一の名将と呼んでも過賞では無い将軍である。
政治の武烈王と戦場の名将金庾信の二人が存在することによって、弱小国家新羅は存在感を高め、唐との連携にも成功して、三国の中で唯一生き残っていくのであった。
(唐と新羅の連合作戦と日本の登場)
「古代東アジア最大の外交官」金春秋の捨て身の外交折衝によって、弱小国新羅と中華帝国唐の同盟関係が成立したのだった。
金春秋の帰国後、太宗と新羅の真徳女王の死去もあったが、金春秋の即位(武烈王)によって唐の高宗(太宗の子)との信頼関係は変わらなかった。逆に、高句麗、百済国内の不安定化によって連合作戦が急速、かつ円滑に動き出すことになる。
660年、唐・新羅連合軍は最初に国内の安定を欠く百済の攻略から着手している。唐からは蘇定方率いる13万の大軍が海路侵攻、新羅からは名将金庾信指揮下の5万の軍勢が百済を挟み撃ちにすべく進発した。僅か一ヶ月ほどの戦いで百済の都は陥落、国王義慈王は降伏後、唐の都長安に連行され、間もなく病死してしまった。
この事態急変に高句麗の淵蓋蘇文は、具体的な対抗策も見いだせないまま孤立を深めていった。もしかしたら、この後、程なく淵蓋蘇文は病死しているので、体調が既に悪かったのかも知れない。
連合軍による高句麗孤立策の第一段階は見事に成功して、高句麗は、以前では考えられなかった北の唐と南の新羅から夾撃される不利な状況に成ったのである。
一方、百済の滅亡による東アジアの国際環境の変化に最も鈍感だったのは、大陸と半島の最新情報に疎い倭国だった。
第二次世界大戦の時もそうだったが、独の敗北が決定的になった段階で、独側に立って参戦しているし、この時も滅亡必至の高句麗、百済の側に参戦を決定している。
それもこれも、国際情報の収集と分析に人材と資金を投入することを惜しむ島国の悲しい習性のような気がするが、如何であろうか!
この時の日本の斉明女帝と中大兄皇子は、倭国に居る百済の豊璋王子を支援しての百済復興を快諾している。
倭国が助ければ容易に百済復興は成ると安易に考えて、豊璋王子と共に旧百済の地の白村江に3万余の支援軍を派遣している。
結果は、復興百済軍指揮官鬼室福信と豊璋王子の内訌もあって、倭国軍と復興百済軍の一体化も十分に達成出来ぬまま戦闘に突入してしまったのであった。
唐の大型戦艦170艘と倭国の小型準構造船400艘が白村江で激突した結果。白村江の潮の干満を正確に予想して作戦を立案した唐水軍の作戦の見事さもあって、倭国の水軍は多くの船と兵員を失い、水面をまっ赤に染めて敗退している。
出発時に阿倍比羅夫、安曇比羅夫、河辺百枝を初めとする多くの将軍の名前が挙がっているのに対して、出発地の那津(なのつ=博多)に帰還できた倭将の氏名が二人しか記されていないところをみると倭国の主だった将の殆どは、白村江で戦死したと思われる。
東アジア情勢の判断に大きな齟齬を生じた中大兄皇子政権は、白村江の大敗戦の恐怖に長い間苦しむことになる。
唐の旧百済の地の出先機関、熊津都護府は、日本恫喝も兼ねて、白村江の敗戦の翌年、郭務悰を那の津に兵二千と共に派遣して、倭国政府に圧迫を加えている。
郭務悰は7ヶ月も那の津(博多)に滞在、中臣鎌足他から船数艘の贈り物を受けて帰国している。郭務悰と倭国の交渉の経過に関して日本の史書も中国の記録も沈黙しているが、敗戦後の交渉で、倭国側が有利な交渉が出来たとは到底考えられない。
聖徳太子が始めた隋煬帝からスタートした中国外交が、中大兄皇子と藤原鎌足のコンビによって破綻した瞬間であった。
中大兄皇子は間もなく天智天皇として即位、都を従来の河内や飛鳥から内陸の近江大津宮に移転させている。飛鳥に本拠地を持つ大豪族の殆どが反対する中での天皇と側近の唐への恐怖感から来る首都の内陸移転だった。
当然のことながら、国の窓口である那の津はもちろん、対朝鮮外交の要路、対馬、瀬戸内海各国や大和にも防備の為の朝鮮式山城を急造している。
対馬の金田城や太宰府背後の大野城、岡山県の鬼ノ城等の朝鮮式山城を歩く時、当時の倭国首脳部の恐怖感をひしひしと感じる。特に、対馬の金田城はひたすら山奥に逃避して、頑なな防御に徹しているような設計を感じる。
更に、白村江で動員できる西国の兵の殆どを失った倭国政権は、対馬、那の津を含む西国の防衛に東国から遠路兵員を動員するしか無かったのである。「防人」の召集と兵役の強制である。防人の悲惨さや残された家族の心情は、万葉集を中心に哀歌となって記録されていて、今日でも人々の胸を打っている。
倭国が参加した東アジアの国際戦の第一ラウンドは、日本の惨敗と唐、新羅連合軍の倭国への上陸の恐怖が残った段階で終了した。
唯、この段階でも倭国の幸運は天智天皇が思っている以上に続いていたのであった。唐の最大の目標は高句麗の南北からの夾撃と殲滅であって、小さな島国の倭国征服では無かったのである。
(高句麗の滅亡)
665年、唐の太宗の知略と大軍とも堂々と渡り合った淵蓋蘇文が病死した。彼には三人の息子が居たが、人間としての器は父の淵蓋蘇文や隋の煬帝と戦った乙支文徳に遠く及ばない小人物ばかりだった。長男が地方視察に出た隙を突いて、次男が高句麗の主導権を握り、失脚した長男は唐へと亡命している。
豪腕だった淵蓋蘇文の死後の軍事大国高句麗の内紛は、新羅との連合に成功している唐にとって、またと無い機会となった。
このチャンスに太宗の子高宗は、李勣以下の諸将率いる大軍を高句麗の「千里の長城」に向けて進発させている。李勣は、遼河の東側に連なる諸城の中でも新城にターゲットを絞って攻撃、瞬く間に攻略している。
次に唐がとった作戦は、鴨緑江以北の諸城の攻略であった。高句麗は、淵蓋蘇文の次男淵男生に5万の大軍を率いて、李勣の軍の迎撃に向かわせるが、大敗してしまう。
どうも、李勣率いる唐軍の侵攻に対し、従来見せた高句麗軍の輝きが全く感じられない気がする。度重なる戦乱によって厭戦気分が高句麗軍内部に広がった結果なのだろうか? それとも、兄に反旗を翻した淵男生の無能さ故なのだろうか、判断はつかない。
連合国新羅も従来では考えられない20万の大軍を平壌に向けて北上させて、唐との連携を模索、唐と新羅の両軍は合体に成功、平壌を包囲した。
688年9月、現在の中国北東部から北朝鮮全域と韓国北部を領域とした広大な王国高句麗はあっけなく滅亡した。
(唐の占領地政策)
高句麗占領後、唐は平壌に安東都護府を設置、旧百済の熊津都護府と共に朝鮮半島植民地支配の根拠地として占領体制を完成させている。
これは、唐から見れば、漢の時代の帯方郡と楽浪郡再興の意味も兼ねた処置であったと考えられる。
しかし、連合相手の新羅から見ると、度々唐の大兵力の出兵yに答え、血を流した割には得るところが極めて少ない結果となった。
逆に、緩衝地帯の百済と高句麗を失った今、直接、唐と国境を接し、大国の圧迫を意識させられる現状を考えると文武王、金庾信共に痛感するのであった。
特に、老齢の金庾信は、自分の元気な内に実質的な三国統一を強く願っていたかも知れない。