12.巨大国家唐と高句麗の戦い
隋の煬帝と高句麗の戦いが終って約30年、高句麗には次の大きな国際戦争が待ち構えていた。今度の中国側の相手は、シルクロードを通じて国際化が進む大帝国「唐」であった。
隋の煬帝横死による隋末の混乱期、中国各地に乱立した群小政権の一つにしか過ぎなかった唐が、瞬く間に次期王朝の有力候補の地位を確立できた背後には、初代皇帝高祖を支える次男李世民(後の太宗)の力が極めて大きかった。
李世民は、煬帝の死亡時、まだ二十歳前の若者に過ぎなかったが、父高祖に隋から独立して唐を建国する事を積極的に勧めている。
唐は国内統一後、隋の引いた基本路線を大事にして国家の礎を急速に整備していった。官吏採用試験「科挙」を継続・整備し、杭州から琢郡まで繋がった南北の隋の大運河の機能も強化している。更に首都長安の位置を生かして西域との交流を活発化させ、ソグド人も大いに活用してシルクロード諸国との国際交易を一気に開花させている。
宗教的にも、歴代王朝が弾圧と支援を繰り返してきた仏教、道教、儒教を尊重して、長安を中心に保護と支援を惜しまなかった。この三教に対する保護政策は、国内的に安定をもたらし、後世に「貞観の治」と呼ばれて賞賛される盛唐の安定期を現出している。
その「貞観の治」と呼ばれる盛唐の世の立役者、第二代皇帝太宗李世民が今回の高句麗の相手なので、始めに、太宗と高句麗の関係について触れてみたい。
(唐の太宗と高句麗の関係)
秦の始皇帝以降、清朝までの歴代皇帝の中で、優れた皇帝を何人か選ぶとすれば、必ず入ってくるのが唐の太宗李世民である。唐王朝を高祖と共に創り上げていった実質的な建国者の一人である太宗は、実戦での指揮能力でも、建国時の中期的戦略の方針をみても極めて優秀な指揮官であり、為政者だった。
乱世の人間としての度量も大きく、敵国の武将だった徐世勣を味方に招致、唐の李姓を与えて、「李勣」と改名させて重用しているし、敵将側近の有能で剛直な文官、魏徴も自国の国政に参画させて側近として重用している。この他にも敵陣営の能力ある人材の発掘に努力している。この魏徴、李勣の二人に関しては後半で、復、登場して貰うことになろう。
もう一つ、付け加えるとすれば、後世、良く東アジアでの帝王学の教科書として使用される書の一つに、「貞観政要」がある。この本は、今述べた太宗の政治が最も巧くいったとされる貞観期の太宗と群臣の遣り取りを描いた書である。内容的には、剛直な魏徴と太宗の遣り取り等、迫力ある場面が多く記載されている。
さて、本題に戻って、大国「隋」と高句麗の四次に亘る死闘は、両国の生存の可能性さえ奪いかねないまでに両者の国力が徹底的に消耗され尽した段階で、煬帝の死と隋の滅亡を持って終了した。
煬帝の誇大妄想と精神の自己肥大によって膨張した隋は、煬帝の死と共に群雄によって瞬く間に分割されて軍閥分立の時期を迎えた。しかし、前述の通り、618年、唐が建国し、高祖李淵が即位。短期間で、時代は隋から唐に移り変わっている。
「唐帝国」が中国に出現すると朝鮮三ヶ国は慶賀の使者を争って派遣、最初に高句麗が、続いて百済と新羅が朝貢して巨大国家「唐」の恩遇を受けるべく外交努力を開始している。
しかし、東アジアに安定と平和が訪れそうだった兆しも宗主国唐に対する朝鮮三国の互いへの中傷誹謗によって順調には進まなかった。
三国は自国に有利な方向での唐の関心を得るべく、各国が自国に都合の良い内容の上奏を繰り返している。中でも、唐や隋と国境を接していない百済、新羅に対し、隋と四次に渡る大戦争を戦って辛勝した高句麗の立場は難しいものがあった。
そこで、唐は629年、大国としての襟度を示すべく、三国に使者を送り、各国間の和解を勧めている。
また、高句麗には、隋に対する先の戦役で捕虜になった隋人の返還と戦勝記念碑「京観」の撤去を命じた。
「京観」とは、隋軍の無数の戦死者の屍を高く積み上げて土を被せた塚であり、自国の勝利を内外に誇示する大記念碑である内容は前に述べたとおりである。
唐にしてみれば、隋の兵も自国の民で有り、中華帝国大敗北の象徴的な塚の存在に我慢がならず、京観の破壊を求めたのであった。
この要求にも高句麗は素直に応じている。高句麗としても先の戦争で甚大な惨禍を味わった直後だけに、慎重な外交姿勢を執っている。加えて、高句麗は太子を長安に派遣して恭順の姿勢を示したし、唐朝も遠来の高句麗太子を丁重にもてなし、返礼の使者(情報収集者)を同行させて帰国させている。
話が大きく飛んでしまって誠に申し訳無いが、以前、中国の南にある広東省広州から大きく北に飛んで遼寧省大連に入って、非常に驚いたことがある。南の広東省や雲南省の人々が、丸顔で小柄な人が多いのに対して、遼寧省の人々が大柄で体格も良く、顔も面長で長身な事実であった。
大連で周囲の人に聞くと東北三省、遼寧省、吉林省、黒竜江省の人達は、皆、同様に体幹の優れた人が多いとの事だった。きっと、古代高句麗の人達も騎馬民族らしく、雄偉な身体と強健な精神を持って、隋や唐と戦ったのだろうと黄海の岸を歩きながらそう思った。
そう言えば、以前訪れた遼東半島の対岸の山東省の人達の身長や風貌は、東北三省や河北省の人々に近い印象がある。
確か、ある時期、山東半島と遼東半島は相互に深い交流があったと聞いている。地図で見ても、相当に近く、中国の朝鮮半島への水軍の出発地が山東半島の登州等からのケースが結構多い。
(遼東半島の地形と高句麗の諸城)
隋と高句麗戦の前半の主戦場だった中国遼寧省の遼東半島が、今回の唐との戦いでも主戦場の一つになりそうな気がしたので一度、遼東半島全域を訪問してみたいと前から思っていたが、残念ながら、まだ実現していない。
その為、以前、訪問した遼東半島(中国遼寧省)大連とその周辺で見た風景から想像を膨らまして書かざるを得なかった。実際に歩いた範囲での遼東半島の地形は、緩やかな丘のうねりが遠くまで続いている印象で、急峻な山を見た記憶が無い。
参考までに、瀋陽や撫順の出身者から、遼寧省南部の地形を聞いてみても、大きな都会の周囲もなだらかな丘や低い山が多いと言っていた。
その他の情報では、撫順郊外の山に高句麗時代の山城があるようで、構造としては、殆どが版築の土城で谷間の水門周辺に石垣で構築された名残が残っているようだ。
参考にして良いか解らないが、大宰府の背後の大野城や対馬の金田城、岡山の鬼ノ城等もそうだが、朝鮮式山城の場合、版築による堅固な土城が城壁全体の多くを占めて、城門や谷間の水門付近が堅固な石組みのケースが多い。長大な石垣では、大野城の百閒石垣が有名で、実際に歩いてみると石垣の下の山の斜面も自然の地形と思われるが、下から見る以上に急峻で攻撃が難しい印象を受けた記憶がある。
以下、想像である。
唐の大軍の攻撃を受けた高句麗の諸城には、どうも、二つの系列があるように感じている。一つは、中国式の城郭都市的な比較的平坦な土地にある方形の城で、前回、隋の主攻正面となった遼東半島の治所遼東城などがある。
もう一つは、遼東半島の中では急峻な丘陵や山の高い所を取り巻くように城壁が構築された高句麗式の山城の系統では無いかと思っている。今回の唐の攻撃をがっちりと受け止めて高句麗の勝利に貢献した安市城や白巌城などは、この系統の城では無いかと個人的には思っているが、ご存じの方がいらっしゃったらお教え頂きたい。
古来、高句麗では平地に都市城郭を構築した場合でも、必ず背後に峻険な山城を築く習慣があった。初期の都国内城の丸都山城や隋・唐来襲時の都の平壌の後ろの大城山城である。
漢の建設した帯方郡や楽浪郡を併呑する過程で、漢民族が建設した郡や県の治所である矩形の城も高句麗は有効に使用した一方、高句麗らしく、新しい領国での緊急時の山城の構築にも熱意を示した民族だったと考えている。
これらの点から想像して、遼東半島の城は、中国系統の平坦部の矩形の城と山岳や丘陵の高所を囲んだ山城の両方が混在する戦闘地域だったと理解したい。
隋の大軍を一手に引き受けて前回、勇戦した遼東城は、現在の遼寧省遼陽市の白塔のある辺りを中心にした地域だと伝えられている。
(高句麗による千里の長城の建設)
高句麗は京観を破壊して唐への恭順を示す一方、国土防衛の準備も怠ることは無かった。前回の隋・高句麗戦で激闘の舞台となった遼河の東側、遼東半島の先端から、内陸の扶余城に至る「千里の長城」の建設を始めたのである。激戦のあった遼東城を中核として、それまで遼東半島に散在する多くの城を繋ぐような長城を16年掛けて完成を目指している。
高句麗が千里の長城を建設する時間を与えられた背景には、漠南方面の突厥と唐の関係もあった。唐の建国当初、高祖は突厥の援助を受けて国を造ることが出来た関係もあって、常に、突厥の下風に立たざるを得なかったし、太宗即位直後には、首都長安の寸前まで突厥が軍を進める危機もあった。
太宗は長期間掛けて、突厥の中の強硬勢力を潰滅させ、残りの突厥遺民を優遇する政策で西域の安定化を図り、成功している。その結果、ソグド人を中心とするシルクロード交易は活発化して、長安は急速に国際都市に変貌して、遠くローマとの交易まで実現している。
即ち、西方古代ローマ帝国まで続くシルクロードの安定化と国内の静謐は、太宗に意に従わない東方の強国高句麗への再検討する余裕を与えたとも考えられる。
当然ながら、高句麗はこれまで述べたように唐の建国以来、国王を中心に硬軟両用の外交策を駆使して、外見的には唐に対して従順な外交姿勢を基本に平和な朝貢関係を維持していた。
その一方、国内的には隋との戦闘で血を流してきた武将達は、必ずしも王の平和外交と同意見では無かったのである。強硬派豪族層の国王に対する不満は鬱積していた。
『クーデターは突如、起きた』
のである。
642年、和平派に反発する強硬派の重臣「淵蓋蘇文」による栄留王と王の側近の保守派貴族達の暗殺である。
政権を強奪した淵蓋蘇文は、傀儡の王として栄留王の甥の宝蔵王を即位させて、瞬く間に強固な独裁政権を確立している。
高句麗国内で起きたこの大事件は宗主国唐の太宗に絶好の政治介入の口実を提供してしまった。
唐も建国から30年近くが立って、太宗が当初の目標としてきた内政安定策の実績も挙がり、覇権国家として、周辺国に唐の威令を示す絶好の機会を探していた矢先の出来事だった。
それは、遠い漢の時代、遼東から朝鮮半島に掛けての現在の高句麗の国土の殆どが、楽浪郡や帯方郡を始めとする漢の国域だったからである。何時の時代でもそうだが、国家の再統一が達成出来た中華帝国は、それ以前の中国王朝の最大領土を自国の領域として、強硬に主張する傾向があった。
唐に続く宋も、元に続く明も、清に続く現代の共産中国でさえ、全く替わらない中国史上普遍の要求である。覇権に憧れる歴代中国王朝の皇帝は、二千数百年の中華帝国の歴史において、極めて短期間しか支配したことの無い領域でさえ、胸を張って国際社会に己の領土と主張する根拠となるのであった。
現代に起きている事象から挙げると、近年の東シナ海と南シナ海の領有問題も覇権国家を目指す共産中国にとっては何ら恥じるところの無い当然の要求であり、今日の国際ルールを無視した行動と本質的には同一な考え方であった。
中華帝国にとって宗主国は常に万能であったのである。
当然の事ながら、文帝と煬帝の四次に渡る高句麗征討の屈辱を太宗も忘れてはいなかった。煬帝の惨敗から30余年、644年、太宗は、高句麗征討の詔を発し、陸上兵力20万、水上四万の軍勢を準備、翌年春、遼東半島の諸城に侵攻を開始している。
総兵力は煬帝の第三次征討軍の四分の一以下ながら、太宗は、事前に前回出征の将兵から十分に隋の敗因を聞き、対策も立てて、自信満々で軍勢に進発を下令したのであった。
(唐太宗の高句麗攻撃)
対する淵蓋蘇文は、乙支文徳の故知に習い、遼東城に兵2万と長期間の軍民の籠城に耐えるだけの膨大な軍糧を搬入させる一方、住民を食料、武器、持てるだけの家財の全てと共に、千里の長城に隣接する主要な城郭に収容を指示している。乙支文徳の採った敵に食料や安住の場所を与えない「清野策」の再現である。
太子河近くの遼東城は比較的平坦な一部歪みがあるものの方形に近い中国式の城塞都市であったが、前回の戦役で、煬帝の大軍を3ヶ月に渡って阻止して、隋軍大敗走のきっかけを作った名城であった。
当然ながら、総司令官の淵蓋蘇文も遼東城の勇戦に大きな期待を抱いていたと考えられる。
が、しかし、十分な遼東城攻略の検討を重ねてきた太宗の主力軍が遼東城に到着してから、間もなく、風の日の唐側による火箭攻撃によって、前回の堅城遼東城は、想像以上に早く陥落してしまった。最初の淵蓋蘇文の誤算であった。
遼東城の陥落後、近くの白巌城も降伏、唐軍は数万の高句麗軍と住民が籠城している安市城を目指した。
安市城は唐側からも堅固な山城と見られていたようで、柔軟な太宗は、安市城攻撃よりも先に、高句麗の安市城救援軍撃破に重点を置いて作戦を立案している。
白巌城陥落から20日、安市城救援に駆け付けた高句麗・靺鞨連合の大軍を囮による陽動作戦と高句麗軍の背後からの奇兵攻撃によって、太宗は楽々と打ち破っている。
この段階では、用意十分な太宗の作戦勝ちで、淵蓋蘇文の率いる高句麗軍は唐に一方的に押しまくられる結果となってしまった。
遼東城、白巌城の陥落と共に周辺の諸城も落城し、頼みの高句麗・靺鞨の連合軍も大敗して、救援軍の望みも無くなった段階でも孤立した安市城は城主楊萬春を中心に、不屈の闘志で籠城していた。
孤独な安市城は三方を河に囲まれた丘陵地帯の高所を城壁で囲繞した堅固な城だったと想像される。安市城には、東西南北に城門があったようだが、唐軍は東門を中心に布陣して、衝車や抛車(発石車)を用いて、城門や城壁を激しく攻撃している。
朝鮮の伝説では、楊萬春の巧妙な防御戦に手を焼いた攻撃側は、60日掛けて城の東南側に城壁より高い土の山を築き城内を攻撃しようと図ったのであった。
所が、土の山の完成直前に軟弱地盤の山は、突如、崩壊、城壁の一部も巻き込んで崩れたのであった。その瞬間、安市城指揮官楊萬春は破れた城壁の隙間から高句麗弓兵を山に駆け上がらせ、高見から唐の陣に箭の雨を降らせて、激戦を制している。
唐の攻撃計画を逆手に執った奇策の勝利で、当に楊萬春の将才発露の瞬間であった。
更に、この時、太宗の目に高句麗軍の箭が命中して、太宗は負傷したことになっていて、韓国の歴史ドラマでは好評の一場面となっている。
(太宗の齟齬と淵蓋蘇文の粘り)
遼東城の早期陥落と安市城への高句麗・靺鞨の連合軍の大破までは、太宗の軍略の勝利だった。太宗の指揮の下、唐は連勝を重ねながら、煬帝の隋軍と同じ罠に入りつつあったのである。
しかも、安市城の楊萬春による6月から9月に及ぶ3ヶ月間の長期の堅守は太宗も含む唐の諸将の想定の他だった。
9月になると遼東には寒風が吹き始め、本国からの長い補給路は煬帝も苦しめられた泥濘と化していった。淵蓋蘇文の「清野策」によって、食料の現地調達もままならない太宗に追い打ちを掛けたのが、持参した軍糧の欠乏であり、最早、唐軍には撤退以外の方策は残っていなかったのである。
隋から続く、第五次の高句麗征討も安市城の堅守により、秋の到来と共に唐軍は撤退を開始している。泥濘の道の敗走は、困難を極めた上、高句麗と靺鞨騎兵の繰り返される攻撃に甚大な損耗を唐軍は被っている。
更に、足早な冬の到来は遼河を渡った段階で、吹雪となって唐の敗走軍を襲った。濡れて乾かない軍衣に、凍死者が続出し、衰弱した兵の消耗を更に加速、長安まで太宗と共に帰還した兵の数は驚くほど少なかったと伝えられている。
この時、長安に戻った太宗は、既に亡い、硬骨の臣魏徴を思いだして次のように述懐している。「魏徴がもし生きていたら、私の今回の出征を止めたであろう」と。
(大唐戦勝利と「清野策」)
隋の煬帝、唐の太宗の高名な二人の皇帝の高句麗征討戦に高句麗が勝利した原因は幾つか考えられる。戦術的な有効策の一つが、「清野策」または、「清野作戦」と呼ばれる、中国古来の住民の意向を完全に無視した国土防衛側の強権策であった。
戦場の住民は、家族を連れ、持てるだけの食料、武器、生活用品を持って近くの城塞に籠城して、断固、敵を撃退する戦術だが、問題は、「清野策」が人民に求める過酷な現実の意味するところである。持って行けない家も食料も、全ての家財も、敵に利用されないように破壊するか焼却し、水も飲めないように、井戸も埋め、池にも毒を投げ込んで、撤退する徹底的な手法であった。
問題は、長い籠城が終り、人民が命永らえて自分の元の村の住居趾に無事帰還できたとしても、住む家も食料も無く、飲む水さえも簡単に手に入らない、自国民に極めて冷酷な軍事作戦なのであった。
隋、唐の大軍が苦しんだ以上に、高句麗の国民は、悲惨で酷薄な自国の戦術に困惑しただろうし、戦場となった村々の人々は、生まれたばかりの赤子も含めて言いしれぬ苦痛を長期間、味わわされた事と想像される。
戦乱によって疲弊した大国と攻め込まれた小国では、前回は、疲弊した大国隋が滅亡しているが、今回のケースでは、大国の唐と小国の高句麗の双方が深く傷つきながらも残る結果となった。
中華帝国隋と唐に二連勝した高句麗の戦いも、いよいよ、第三ラウンドが始まろうとしている。
強国高句麗に何百年にも渡って圧迫され続けてきた朝鮮半島南部の二つの国、百済と新羅の動向が、唐・高句麗対決の方向を決定付ける重要な因子になる戦いが近づいていたのであった。
「歴史は繰り返す」というが、歴史の本当の恐ろしさは、「似たようなことは繰り返えされるが、全く同様の歴史は無い」ことである。