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11.隋と高句麗の戦い

数回に亘って、『朝鮮事大主義』の歴史的経過について考えてみたが、今回は、少し時代を遡って、中国に対抗して古代朝鮮半島の諸国が、生き生きと対応していた時代の出来事と英雄達について勉強してみたい。

古代朝鮮半島では古三国時代と呼ばれる時代があった。年代的には、紀元前1世紀の中頃から新羅が半島を統一する直前の7世紀後半までの時代である。

当時、高句麗、百済、新羅の三国が朝鮮半島に存在し、お互いに抗争しつつ中国と進貢関係を結んでいた。その中でも高句麗は、現在の中国北東部と北朝鮮、韓国北部の三ヶ国に渡る広大な領土を持ち北東アジアの強国として約700年に渡って君臨していた。その為、高句麗の解釈に関して現代中国と北朝鮮、韓国の間で全く解釈が異なっている。

中国は高句麗に関して、中国の地方政権と理解しているのに対し、韓国は高句麗を自分達の先祖の一つと主張している。北朝鮮は、長い間、高句麗の首都が平壌だったにも関わらず、外交上での中国への配慮か、無関心を装いつつ、東明王の壮大な廟を平壌に建設して国威の発揚に利用している。

東明王とは、高句麗の伝説上の建国者「朱蒙チュモン」のことで、韓国歴史ドラマで一時注目を浴びたのでご存じの方も多いと思う。

しかし、ここでは、高句麗の建国から時代をズット下げて、日本では聖徳太子、中国では隋初代皇帝文帝の時代から初めてみたい。


「隋」と聞くと思い出すのが、初代文帝楊堅と二代煬帝ようだいの実質的親子二代の超短命王朝だったことと、北は現在の北京近くの琢郡から南は杭州に至る「大運河」を建設して、長江流域の大穀倉地帯と政治の中心の北部を流通によって結合させた最初の中華帝国だった点である。

隋、唐に続く後代の統一国家「宋」も、この大運河の利便性に着目して、都を中国大陸の南北の中間地点「開封」に置いている位である。

異民族国家の「元」や「清」もこの大運河を活用、改良して中国統治の補助手段とした。元の首都大都(北京)への物資補給の最も重要な維持機構とした。

隋の創建したこの「大運河」無しには、中国国内で余りにも北に位置する首都「北京」の可能性はあり得なかったと思う。煬帝の運河によって、「元」、「明」、「清」そして、共産中国と続く首都「北京」が存在感を増していると言っても言い過ぎでは無い。


水路の交通を初めて見たのは刺繍で有名な蘇州だった。朝、水路の両岸に並ぶ家々と行き来する船を見た後、何カ所か廻った。その後、蘇州市内の中心部にある明代の雰囲気を再現した繁華街で昼食を採った。

食事をした大きな菜館の周囲には中国の名園とよばれる「滄浪亭」、「獅子林」、「拙政園」、「留園」の「蘇州四大名園」と呼ばれる明代から清代までの多くの庭園が残っているとの話を聞きながら、昼食後、町を散歩した。

その折、案内してくれた通訳の人から長江の北の「大運河」の起点、揚州の話を聞いたので、揚州に行って「大運河」を見てみたいと述べると、

「私は、揚州と言うと、チャーハンです」

との事、

「その話は、聞いています」

と答えると同行していた日本人の友人が、

「揚州のチャーハンは、もちろん美味しいですが、揚州は、チャーハン以外でも美味しい食文化が、マルコポーロの頃から沢山あります」

元の時代からは大げさにしても、大運河の交通の要衝揚州の南北と東西交流による多彩な食文化に心引かれた。

揚州と言えば、隋の時代には「江都」と呼ばれ、権勢を誇った煬帝が部下に弑逆されたのも江都、現在の揚州だった記憶がある。


(隋はどの様にして出来たか)

皆さんが良くご存じの「三国志」の時代に始める長い争乱によって中原の漢人人口は、漢の最盛時の十分の一あるいは二十分の一に急減してしまった。その人的空白地帯に侵入したのが匈奴、羯、鮮卑、氐、羌の五胡と呼ばれる異民族である。それ故、その時代を「五胡十六国」の時代と呼ぶ。

五胡十六国から南北朝と続く時代、南朝では漢族の王朝が続いたが、北朝の多くの王朝は上記の五胡出身の異民族支配の王朝だった。古代、漢族誕生の地だった漢中、河南の地は南北朝時代には漢化した鮮卑族が支配する地域となってしまったのである。


「隋」、「唐」は、正史では漢人の建国と記されているが、彼等の先祖が鮮卑族政権の「武川鎮軍閥」の出身である経歴から考えると、史上有名な隋の楊堅も唐の太宗も漢化した鮮卑族と考える一説があるが、妥当な気がする。

これは、決して彼等の出身を卑しめているのでは無く、武力によって中原に進出した諸族が、中原の地での現地漢人系豪族との婚姻や貴族層での高度な中華文明との遭遇によって、急速に漢化した結果と考えるのが順当であろう。

何故ならば、隋の文帝にしても、唐の太宗にしても、純粋な漢人以上に中国文化を愛し、建国後の諸施策にも漢以来の旧習を大切にしながら国家運営に励んでいる実態があるからである。

太宗李世民などは、晋の「王羲之」の「蘭亭の序」の書を愛する余り、己の死後、陵墓に蘭亭の序を納めることを遺言さえしている。


581年、分裂した中国全土を久方ぶりに統一した「隋」の文帝楊堅は、漢以来の荒廃した長安の旧地を捨てて、離れた場所に、新首都「大興城」を建設している。

それだけ、新国家建設の意気込みが強烈にあったのであろう。日本人は長安(現在の西安)というと日本の京都や奈良がそうであるように、漢の長安も隋、唐の長安も同じ場所にあったと誤解している人が多い。文帝は漢代の長安を捨てて、全く新しい離れた場所に隋の首都「大興城(後の唐の都長安)」を建設しているので、今日の西安の基礎は、隋の文帝によって造られたと考えて良い。

面白いことに大興城は我々日本人の良く知る長安や平城京、平安京の縦長矩形の都市計画では無く、縦よりも横幅の広い都市計画に沿って建設されたユニークな都市であった。これは、隋に遡る年代の北魏の洛陽城も同様のプランで有り、北魏の洛陽城と隋の大興城の都市計画の影響が、日本最初の中国式都城の藤原京や次の平城京の建設計画に大きく影響したと考えられている。


中国全土を統一し、覇権を確立していた隋の文帝楊堅は、漢・魏以来の古い制度を復活させる一方、首都である大興城の建設以外には、積極的な国家事業を行わず、長期の戦乱で大きく損なわれた民力の回復に努めながら、一方で新しい政治システムも模索している。

武人政権ながら、文官層の育成をふくめた「科挙」の実施である。「科挙」はこの後、政権が替わっても各王朝に採用されて、中華帝国の基盤の一つとして、異民族王朝も含めて採用され、清朝の滅亡まで国家システムとして実施された。

宗教的にも、厚く保護されたり、強烈な弾圧被害を受けたりの不安定だった仏教政策を是正して、仏教の復興と、儒教教育の推進による宗教間の融和にも心を用いている。


隋の第二代皇帝となった「煬帝ようだい」は賢帝であった父の布いた全土の安定化の成果を受けて、南北の産物の流通手段として最も効果的で、後世へ偉大な影響を及ぼした「大運河」を建設した事績は上記に述べた通りである。南は杭州の銭等江から長江、更に黄河を経て長安、洛陽へ繋がり、北は琢郡(今の北京近く)に至る南北の大動脈の建設である。

この「大運河」の建設により、長江流域の豊かな穀倉地帯の実りを北の政治都市、長安や洛陽の人々が享受することが出来るようになったのは、誠に大きな国家的な成果であった。

この南北経済の合体により中国が次の国際国家になる準備段階が終了できた事を考えると隋の文帝と煬帝二帝に最も感謝すべきは、隋の国を掠奪して建国した唐の高祖と太宗と考えることは、歴史の皮肉だろうか?

しかし、煬帝の場合、功績ばかりでは無かった。それは、隋の国力を無視した高句麗への文帝の一回も含めて、四次に渡る大遠征軍の派遣であった。


(隋の高句麗征討)

中国の南北朝時代から、朝鮮半島の三ヶ国は分裂中とは言いながら強大な中国の諸王朝との外交関係を大切にしていた。漢族の南朝との友好関係を大事にする一方、地域的に隣接する五胡出身の北朝とも外交関係を維持して、機嫌を損なわない配慮も欠かさなかったのである。

当然の事ながら、隋が中国を統一すると直ぐに高句麗が、続いて百済と新羅が使者を送り、朝貢関係の樹立を願い出ている。建国当初、周辺諸国との外交問題の発生を好まなかった文帝は、朝鮮三国との進貢関係樹立を承認している。


しかし、隋と高句麗を挟んで遠い位置にある百済と新羅は全く問題なかったが、高句麗と隋は直接国境を接する位置関係にあった。隋が建国当初の不安定な状況を克服し、大国としての偉容と覇権を確立し始めると両国関係は微妙に変化し始める。

隋としては、高句麗を形式的な君臣関係では無く、実質的な支配下に置きたい中華帝国としての覇権主義が頭を擡げて来たし、高句麗としては、朝貢による形式的な関係ならばともかく、大国隋の強圧下に隷属して生きるつもりは無かった。

その状況に、高句麗王の嬰陽ヨンヤンは隋の機先を制して、靺羯まっかつ軍1万を率いて先制攻撃を行っている。これに対し、文帝は30万の大軍を高句麗に送って鉄槌を加えようとしたが。病気と飢えで多くの戦病死者、餓死者を出して敗退している。

これが、隋による第一次の高句麗征討である。その後、煬帝も三次に亘る高句麗征討を実施しているので、隋としては合計四次の高句麗攻略戦を行った訳である。今回は、この中で、第二次の隋の高句麗征討戦について触れてみたい。


(隋と高句麗の国力の違いと日本)

煬帝が第二次高句麗征討時に召集した兵力は、中華皇帝らしく巨大な軍勢であった。古代の話なので正確さには欠けるが、113万余の軍勢を動員、それを高句麗への恫喝も含めて、「200万の大軍」で高句麗に攻め込むと鼓吹している。

確かに、江南からの食料その他、軍需物資の輸送のための動員数を含めると200万の人員を投入した大作戦と考えても、そんなに違和感が隋の政府首脳には無かったかも知れない。


一方、以前、古代高句麗の全人口を集めても200万程度だったという説を読んだ記憶がある。自国の全人口と変わらない数の武器を持った凶悪な侵攻軍が国境を越えて雪崩れ込んでくる事態に、高句麗の王と重臣達は、きっと恐慌を来したに違いない。

もし仮に、高句麗の当時の全人口を200万人と仮定して、兵員の動員力を国民の2.5%と粗っぽく設定すると、高句麗が対隋防衛戦に投入できる戦力の最大限の人員は5万人になる。古代高句麗の戦力は3万人程度だったとの説もあるようなので、いずれにしても高句麗が国土防衛に割ける軍隊の数は、3万~5万と考えたい。

今、3~5万対200万の戦いが始まろうとしていた。


実は、この時期の少し前、隋の文帝の時代の602年、聖徳太子が蘇我氏と共に国政を担っていた「倭国ヤマト」でも、朝鮮半島新羅への出兵を計画していた。

総司令官には、聖徳太子の弟来目王子を充て、動員兵力も倭国としては驚異的な大軍2万5千人を動員する予定だった。しかしながら、この計画は、指揮官の来目王子の突然の病死によって流れてしまった経緯があった。

いずれにしても、当時の推定人口が、数10万から数100万も下の方の人民しか居ない高句麗、百済や新羅、倭国やまとでは、とても、10万以上の大軍を準備する国力は無かったと考えても、大きな違いは無いと考えられる。

日本国が20万、30万という大軍勢を渡海させて朝鮮半島に攻め込めるのは、日本の総人口が1,000万を越えた、豊臣政権になってからであった。誇大妄想狂の晩年の秀吉でさえ、50万~100万の大侵攻軍を明国に向けて進発させる国力が無い事実は、数字に強い豊臣の君臣は十分、理解していたと考えられる。


しかしながら、隋の煬帝は、簡単に100万人以上の大軍に進発を下令したのである。さて、この苦境に高句麗はどの様に対処したのであろうか?

「朝鮮事大主義」を遵奉した後年の李氏朝鮮ならば、200万の大軍の襲来を側聞しただけで、隋の使者の前にひれ伏して、降伏したかも知れない。


(朝鮮半島歴代の名将)

話題を変えて、学生時に何冊か読んだ朝鮮半島の歴史書の微かな記憶を呼び覚まして古代朝鮮からの歴代の名将を挙げると次のようになる。もちろん、素人の昔の記憶なので、漏れている英雄豪傑の数も相当多いことはもちろんである。


乙支文徳ウルチ・ムンドク:隋の第二次高句麗征討時に大軍を相手に国土を防衛した名将

金庾信キム・ユシン:新羅が三国統一を達成した際の軍事面での最高指導者

姜邯賛カン・ガムチャン:契丹の侵攻軍を亀州において、ほぼ潰滅させた高麗の名将

李舜臣イ・スンシン:壬辰の倭乱(文禄・慶長の役)時代の李朝水軍の傑出した指揮官


朝鮮歴代の名将の中でも瞬時に思いつくのは、以上、四人の名前であろうか!

この他では、名将では無いが、隋の後の唐からの侵攻を全身全霊で防いだ辣腕の豪傑淵蓋蘇文ヨン・ゲソムンがいる。彼については、次項で触れてみたい。

 

古代朝鮮半島の国々の中でも高句麗は好戦的で、歴代の王が野心的に領土拡張を行っている。最も有名なのが「広開土王」で、高句麗の旧都国内城(中国吉林省集安)にある広開土王碑の記述と共に日本でも良く知られている。更に、この碑文には、「倭」との交戦の記述が有り、古代における「倭」を考える上での重要な史料の一角を占めている。

更に時代を遡れば、漢が朝鮮半島に設置した帯方郡、楽浪郡を始めとする朝鮮半島も含む地域の四郡を次々と侵略して国土を拡大して行った旧悪が、中国から見た高句麗にはあった。

中国から見れば、我国の国土を掠め盗った悪事の張本人の国であったのである。


そうは言っても攻められる方の高句麗にしてみれば、黙って自国の滅亡を甘受する訳にもいかず、国軍の総司令官として選んだのが、最初に挙げた乙支文徳ウルチ・ムンドクである。

そして、この第二次高句麗征討時の主戦場が二つあるが、始めに隋の圧倒的大軍の攻撃に晒された「遼東城」について触れてみたい。


(主戦場だった遼東城)

中国東北地方の歴史に詳しい方に聞くと「遼東城」で通じなくても、現在の地名の遼寧省「遼陽市」で、直ぐに解ってもらえた。

中国戦国時代の燕とそれに続く秦帝国の時代、遼東半島を治所として既に知られていた。秦は遼東郡を置き、郡治の場所としている。

高句麗は遼東府を5世紀に設置して遼東半島支配の中心地としたから、当然、隋も遼東半島攻めの主目標として遼東城の遼東府に狙いを定めている。

時代が下がって、「遼」の時代、「遼陽」と改名されて現代に至っている。日露戦争に詳しい方ならば、「遼陽」と聞くと戦争前半の激戦地の一つとして、「橘中佐」の故事と共に記憶に残っている人もいらっしゃると思う。


(隋の第二次高句麗征討と乙支文徳の奮闘)

612年、煬帝は国力を傾けて全土から、113万余の大軍を召集、200万と号して高句麗国内に進撃を開始した。

高句麗の最初の防衛戦は、国境の遼河での戦いであったが、隋の大軍は河に三つの浮き橋を掛けて渡河作戦を決行、河を渡った大軍に押しまくられる形で、高句麗軍は1万余の戦死者を出して敗走している。


一方、高句麗の総司令官乙支文徳ウルチ・ムンドはは、遼河の背後に連なる建安城、安市城、遼東城、白厳城等の多くの城郭を主要防衛線として、防衛体制を固めて隋の大軍を待ち構えていた。高句麗は城郭の周囲の住民全てを城の中に収容、村々を無人の状態にして迎撃態勢を敷いていた。

無人の野を抵抗する部隊に遭遇すること無く、隋の大軍は進撃を続け、諸城塞の中でも、特に、遼河東岸の要衝遼東城に的を絞って包囲・攻撃を開始している。

北から東側を太子河に護られた遼東城の周囲は、当時、低湿地が多く、大軍の展開に不向きな地形だったと伝えられている。

加えて城兵の士気は高く、頑強で粘り強い抵抗を続けている。その結果、煬帝の督励にも関わらず、短期間での遼東城攻略は成功しなかった。

そこで、諸将協議の末、兵力に余裕のある隋軍は、遼東城を包囲攻撃する一方、水軍と陸軍の分遣隊30万の二つの別働隊を編成、高句麗の都平壌攻略に向けて進発させている。


それ以前、高句麗国内では、隋軍の進撃路にあたる地域の村々の家を焼き、食料を隠し、井戸を埋め、全ての生活用具を破壊するか持ち去る「清野策」を住民に徹底させていた。

持てるだけの食料と家財道具を持った避難民は周辺の堅城に籠城、徹底抗戦の形を整えていたのである。広大な高句麗領に侵攻した隋軍が利用できる食料、飲料水、生活用具は殆ど残されていなかったのである。隋軍の食料は、遠く、遙か後方の琢郡(北京近郊)からの人力の輸送に頼るしか無いか細い状況だったのである。それらの影響は大きく、遼東城攻城戦の長期化と共に食料の供給に齟齬が生じ始めていった。


その点、分派された来護児を大将とする隋水軍は、食料の供給に苦しむことも無く、平壌近くに上陸、攻撃を開始している。当時、平壌は、大同江河畔の外城と内城、及び背後の大城山城からなっていた。

高句麗軍は偽って外城を抛棄して敗走を装い、高価な絹や布などを市街に散乱させて逃走。高句麗軍を追って城内に突入した水軍部隊は、城内での略奪行為に熱中する中、気が付いた時には、高句麗の大部隊に包囲攻撃されて、八割以上の兵数を失う打撃を被った。辛くも生き残った少数の兵も壊乱、船に逃げ戻って遁走している。


もう一方の分派された30万の平壌攻略の陸軍部隊に対して、乙支文徳は決戦を避けて、敗走を装った戦術的撤退を数次に亘って実施、平壌近くにまで敵を誘導している。この時点で、十分な食料を持たなかった30万の大軍は、乙支文徳の「清野策」の罠に確実に陥っていた。

平壌に接近した時点で、疲弊しきった30万の大軍は、当初予定していた高句麗国内での食料調達も思うに任せず、出発地の遼東城に戻るしか活路を見いだせなくなっていた。


当に、戦闘による死傷よりも恐ろしい「清野策」の効果が、隋軍の首を正確に絞めつつあったのである。目前に迫る飢餓の恐怖は大軍であるが故に、惨禍を倍加していったのであった。その瞬間こそ、乙支文徳が長い間待っていた機会だった。

遼東城に戻るべく、清川江(薩水)を半ば渡った状態の隋軍を乙支文徳は、四方から包囲殲滅している。30万余の侵攻軍の中で、遼東城の味方部隊の元に帰り着いた将兵は、3千に満たなかったと記録にある隋の惨敗であった。

この大勝利は、朝鮮の戦史の中でも特記すべき圧勝で、朝鮮の歴代の各王朝は長く、「薩水大捷さつすいたいしょう」として称えている。それは、西暦612年、隋の大業8年、高句麗の嬰陽王23年、日本の推古天皇20年のことであった。


(隋朝の崩壊)

この後も反省の無い煬帝は、第三次、第四次の高句麗征討を立案、兵員の召集と膨大な物資の国家規模での徴集を強制的に実施して、国力の急速な低下と国内各所での反乱を誘発させている。敵国高句麗よりも自国の滅亡に傲慢で無能な皇帝が積極的に関与した結果の大失政であった。

折角、長かった乱世を文帝が漸く統一して、漢以来の統一国家「隋」を建国できたにも関わらず、煬帝の国力を無視した三次に渡る高句麗征討により、隋は自壊作用を起こして急速に力を弱め、乱世再来の様相を呈していったのである。自暴自棄になった煬帝は、中原の都、長安、洛陽に帰らず、長江北岸の運河の起点、江都(現在の揚州)で自暴自棄の放埒な生活を送る中、部下に死を迫られて、隋は二代、38年で歴史の舞台からから消え去っていったのである。


(大国中国との外交の難しさ)

後代の高麗や李氏朝鮮は自国の主張できる範囲を対中国外交上、しっかりと理解することによって平和時には上手に両国間のバランスを執る手法を身に付けていたが、古三国の時代の軍事国家高句麗は強大だったが故に、一、二歩の譲歩はあったものの全面的な屈服外交は考えられなかったのだろう。

一方の当事者、煬帝も大国隋の優勢と自分が建設した大運河による前代には無かった巨大な物資の集中によって、南北朝時代までには想像も付かなかった200万と呼称する大軍の編成に成功している。

もしこの時、李朝時代の「朝鮮事大主義者」が高句麗内にいて、堂々の平和論を掲げたとしても、高句麗国内では一顧もされず、発案者は暗殺か政権中枢から除外されたと思われる。

中世や近世とは違う、古代の民族エネルギーが沸々と沸き立っている時代が古三国から統一新羅の時代だったし、特に三国一の強大国高句麗にはその傾向が極めて強く、後代の李氏朝鮮とは全く異なる騎馬民族の伝統を強く持った戦闘的な国家だったのである。


結果論として、隋の第一次から第四次に渡る高句麗征討の失敗によって、傲慢で万能の絶対権力を持っていたはずの煬帝は、歴史的敗者として、突然、東アジア史上から消去されてしまった事実は、上記の通りである。


無能な独裁者煬帝の死は、歴史的に歓迎される傾向にあるが、隋と高句麗間の長期の戦争が終った後、双方の無数の国民に甚大な損害と後遺症を残している。

戦乱による数十万の戦没者だけで無く、家や食料を失った人民の中の餓死者や孤児その他の悲惨な後遺症の詳細な記録は残っていないようだが、両国の国内に数十年は回復できない甚大な深い傷を負わせてしまったのである。

隋との戦いの大勝利を記念して、高句麗は、「京観」を構築している。「京観」とは、戦死した何十万という隋軍の死体を高く積み上げて塚を造り、表面を土で覆った戦勝記念碑であった。

国家的な勝ち戦のおぞましい記念碑は、新たな中華帝国との新しい抗争を生じる種を作るのであった。


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