10.『朝鮮事大主義』と東アジア
高麗(936年~1392年)から朝鮮王朝中期(1392年~1637年)までの朝鮮半島と中華帝国間の『朝鮮事大主義』の流れと李朝後期初頭に清朝から受けた国辱的大事件、「丙子胡乱」の概要に関して勉強してみた。
しかし、中国大陸に接する朝鮮半島の位置から来る地政学的な影響は、これまで述べてきたほど単純では無い。
『事大主義』を尊重して、対中国外交の基本姿勢とし、対中国外交の建前として表裏に渡って中華尊重姿勢をとり続けた歴代朝鮮王朝ではあったが、仁祖の三田渡の事件を見ても、朝鮮と中国王朝の外交関係だけでは割り切れない多くの複雑な問題が歴史上存在した。
(朝鮮半島に隣接する中国大陸関係史)
そこで、今回は、少し観点を変えて、幾つかの方向から『朝鮮の事大主義』を考えてみたい。
最初は何と言っても中国を取り巻く東アジアの古代から中世、近世に掛けての千数百年間の国際情勢の変化から始めよう。
朝鮮の古三国時代、北の高句麗、南側西部の百済、南側東部の新羅の三ヶ国が朝鮮半島から中国の東北地方に掛けて存在した。
この三ヶ国は中国の後漢が滅亡した三世紀以降急速に国力を高めて行った。晋に続く五胡十六国の後の南北朝時代、中国での仏教の大流行もあって、北魏様式を始めとする仏教が三ヶ国に伝来し、仏教寺院の建立が盛に行われ、その延長線上で日本にも仏教が伝わっている。
この流れから考えると当時の東アジア諸国は中国を発信基地とする仏教の濃厚な雲に覆われていた気がする。例えば、杜牧の有名な七言絶句、「江南春」の中の二句に、「南朝四百八十寺、多少楼台煙雨中(なんちょうしひゃくはっしんじ、たしょうのろうだいえんうのうち)」があるように、中国の南北朝時代(439~589年)、北の北魏にしても南の六朝にしても仏教が極めて盛んだった。
その仏教流行の影響を強く受けて、古三国の各国とも国王以下、仏教に心酔した結果、国家事業として造仏と寺院の建立に勤しんでいる。新羅の国都慶州の皇龍寺の宏壮な九層塔も、その様な社会状況で建設された記念碑的な建造物と考えられる。
慶州の王城だった半月城の辺りを歩く時、新羅の国王や女王の多くの緑の芝生に覆われた古墳群は目に出来るが、モンゴル軍によって焼失した皇龍寺九層塔が今に無いことを悲しむことがある。
七世紀初頭、それまで分裂を繰り返していた中国に強大な統一国家隋と唐が連続して登場して、中国東北部から朝鮮北部に跨がる広域国家高句麗と正面から対立する険悪な事態となる。
高句麗は、隋からの四次に渡る侵攻に耐え、大唐からの大軍の侵略にも良く耐えたが、668年、遂に滅亡する。
高句麗、百済の滅亡後、進駐の唐の精力を追い出して、初めて朝鮮半島の統一に成功したのが新羅(統一新羅と呼ぶ)であった。この段階で、初めて朝鮮半島の統一国家としての基本的な国土が確定した。
しかし、統一新羅の民が繁栄を謳歌できたのも八世紀中頃までであった。八世紀後半から新羅の国家紀綱が緩み始めると各地の豪族の反乱が勃発、やがて、高麗によって934年、朝鮮半島は統一された。
前回までの『朝鮮事大主義』は、時代的には高麗時代から記述を始めた。高麗王朝が安定期に入った頃、中国では、繁栄を誇った唐の衰退が始まり、現在の中国東北部では、契丹が勃興、中国と高麗に侵入を始めた時代でもあった。
この時代以降、高麗も中国に神経を使うと同様に満州の契丹族や女真族に配慮しなければならない時代が始まったのである。
契丹の建国した「遼」や女真の建てた「金」の侵入や掠奪は、高麗の受けた被害としてまだ軽かったかも知れない。前述のように、狐やオオカミの後から、もっと恐ろしいモンゴルという虎が高麗に襲い掛かって来たのである。
モンゴル(元)の干渉と搾取は、最終的に元寇という日本侵略の協力者としての立場を高麗に強要する結果となった。その歴史的帰結として、絶対者であるはずの世界帝国元も程なく瓦解したし、協力者である高麗王朝も無くなってしまった。もちろん、国家的大戦争に勝利した我国の鎌倉幕府も崩壊消滅する運命から逃れる事は出来なかったのである。
その様な凄惨な東アジアの古代から中世の国際外交史から学んだ「小国が生き残る為の知恵」が、『朝鮮事大主義』だったのかも知れない。
1392年に建国した李氏朝鮮は、朝鮮半島千数百年の過去の歴史から学んだ結果として、『事大主義』を有効に活用することによって、中国明との外交関係の平準化と円滑化に成功している。
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しかし、これも前述したように、中国との平穏な外交関係が続くと李朝の国王も官僚、重臣層も覇権国家中華帝国の寿命の短さと北方の異民族侵入の恐ろしさを、忘れはしないにしても、現状の平和に安居してしまうのであった。
古来、北方から中国に侵攻して、異民族の帝国を建てた契丹、女真、モンゴルも中国での覇権国家が消滅してからも、旧の草原に帰っただけで民族として地上から消滅した訳では無かった。
朝鮮にとって、次の危険な萌芽は、女真族の中の満州族族長ヌルハチ(清朝の初代皇帝)であった。ヌルハチに関しては、「サルフの戦い」の項で述べたし、二代太宗についても、「三田渡の屈辱」の部分で略述した。
要するに、平均約250年程度が寿命の中華帝国が安定期に入った時期における『事大主義外交』の成果は、絶大であった。明の場合も清のケースでも事大主義と李朝重臣層の漢文素養の重厚さは、申し分ない成果を朝鮮にもたらしたのであった。
しかしながら、一端、中国王朝の終末期で新興王朝勃興の端境期に遭遇すると『朝鮮事大主義』最大の外交的欠陥を露呈してしまい、異端の小国と蔑んでいた蛮族とも屈辱的な外交を結ばざるを得ない、悲惨な状況に至るのであった。
即ち、『事大主義』に頼って、長い平和のぬるま湯に浸っていた李氏朝鮮は、「壬辰倭乱」で日本から、「丙子胡乱(三田渡)」で清国から突然、鉄槌を加えられたのである。
因みに、朝鮮では、未だに、「倭乱」、「胡乱」の表現を用いているが、実情は国際間の戦争であって、「乱」では絶対無い。「乱」の表現一つとっても、小中華思想に凝り固まっている朝鮮の己を尊しとする現れであろう。
自分より強力な軍事国家の侵略に対して、何時も「野蛮人の反乱」と位置付けているところが、現実の事態直視を常に厭がる今日の朝鮮民族の根本的欠陥と見るのは、過酷過ぎるかも知れないが、現状直視を重視する欧米諸国から見ると納得できない国民性となろう。
(ベトナムの場合)
紀元前、漢の武帝が朝鮮半島に楽浪郡以下の四郡を設けた元封3年(紀元前108)の三年前、元鼎6年(紀元前111)、南のインドシナ半島でも同様に北部から中部にあった南越国を滅ぼして交趾郡以下の諸郡を設けている。
このように、中国大陸の隣接する北の朝鮮半島と南のインドシナ半島の両国は、同様の事態に置かれる例が、しばしば見受けられる。
日本人に身近な例としては、遣唐使と共に唐に渡り、唐朝に仕えた阿倍仲麻呂は、一時、安南都護府の長官として、今のハノイに赴任している。仲麻呂も緑の濃いハノイ(当時のタンロン?)の町を歩いたかと想うと何か親しみをハノイの街に覚えるから不思議である。
また、日本よりも半島国家として中国化が進んだ例としては、李氏朝鮮同様、「科挙」の採用が挙げられる。ハノイのホーチミン廟や一柱寺から歩いて程無い文廟には、歴代の科挙合格者の名前を刻んだ石碑が整然と並び、当時の合格者の名誉を今でも伝えている。ベトナムの科挙は、約700年間実施され、2,300余名の合格者を出している。
フランスによる侵略と植民地化が進むまで、ベトナム政治に参画したい知識人の第一の目標は、中国や李氏朝鮮の上層階級の人々と同じ、科挙への受験と合格であった。その点、明治政府が出来るまで、国家規模の公的受験制度が殆ど存在しなかった島国日本とは大きく異なっていたのである。
丁度、ハノイの文廟の中を訪れた時には、アオザイ姿の女子大生が集団出来ていて、入り口の門近くや中庭の四角い池の廻りを歩いている色彩豊かな姿が、実に周囲の緑と調和して好ましい光景だった。
女子学生の一群を離れて、一番奥の孔子廟に向かってを歩くハノイの人々姿を見ても、中国で見た孔子廟を思い出してしまうような、「何か、日本よりも中国に近い兄弟国」のような印象を受けたハノイ訪問だった。
ハノイの町には湖沼が多く散在する。大きなタイ湖や旧市街のホアンキエム湖を始めとする湖の岸辺や中島には古くからの寺院が多く残されていて仏教国ベトナムの歴史的な姿を感じさせた。これは、現在の韓国の寺院が都会地では殆ど見ることが無く、お寺といえば人里離れた山の中に有る印象とは大きく異なった。
それに、今日の韓国がハングル表記で、ベトナムがアルファベット表記であるのは、近代の歴史的な経過から当然としても、首都の街路を通行しても殆ど漢字表記に遭遇しないソウルと違って、お寺の門柱に旧字の漢字の聯が掲げてあるのを多く見るとベトナムの人達は、韓国人のように急ハンドルをきらない国民性なのかと思ったりしたのであった。
古代から近世までのベトナムの歴史を粗っぽく見ると中国からの度重なる侵略と独立の繰り返しであった。高麗王朝同様、インドシナ半島もモンゴル軍の侵攻を数次に渡って受けている。そういう意味では、中国を除く東アジア諸国の中で元寇の被害を受けた国の代表を挙げるとすれば、朝鮮半島の高麗、インドシナ半島のチャン(陳)朝、日本の鎌倉幕府の三ヶ国であろう。
チャン朝の場合、高麗ほどの屈服的な事態には至らなかったものの、首都のタンロン(今のハノイ)を攻略占拠され、国土の広い部分を蹂躙されている。
しかし、チャン朝の総司令官陳国峻の不屈の活躍もあって、優勢な元軍をバクダン江での合戦を始めとする各所の戦闘で撃破、元軍を国外に追い出して、チャン朝の独立を保っている。
元軍に対する戦勝後の外交対応が、島国の日本と大きく異なって大人の対応に終始している。弘安の役の降伏したモンゴル軍の兵士は、一切助命せず、一斉に首を跳ねたのに対し、チャン朝では、降伏した大将級はもとより、多数の兵士にも中国帰還の為の船と食料を供給している。
更に、戦勝国ベトナムは、元朝に使者を送って謝罪し、進貢国としての待遇を嘆願している。大勝利を獲得しても、小国の立場をわきまえた謙譲な外交交渉を一方で行いながら、その片方で、何度でも戦う用意があると凄んでいるのである。
ベトナムは伝統的に、朝鮮王朝のような『事大主義』は、全く採らなかった気がする。しかしながら、小国ながら独立国としての矜持と民族的な武勇を頼みとして、短い期間での数度の植民地化は防げなかったものの、二千年の大半に渡って独立を維持してきたのである。
同様の和戦両様の徹底した態度は、フランスやアメリカとの戦いでも遺憾なく発揮されたし、大国中国との戦争でも、数で勝る中国軍をコテンパンに粉砕しながらも外交交渉では、威張らず、事態の収拾に努めている。
韓国も日本も日韓両国の歴史上の出来事の批判や外交上の事件を中心にした比較論が多いように感じる。私的な意見で恐縮だが、両国共に大変参考になる生き方をしてきたベトナムという国が近隣に存在しているのだから、
「有り難く、第三者のベトナム外交を研究して、日韓両国共に、自国の生き方の一助にしては如何であろうか!」
と何処か親しみのある緑濃いハノイの湖沼の岸辺を歩きながら、そう想った。