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肩身の狭いひきこもり

ホテル内にいくつもあるレストランのうち、比較的静かそうな中華料理屋に入った。驚いたことに、全ての店が稼働しているようだった。

ブタの丸焼きを初めて見た。テーブルには豪華な中華料理が次々と並んでいく。春巻き、チャーハン、エビチリ、なにかの肉、日本ではまず見ないフルーツで作られたデザートたち。

「すごくおいしそう!」

「どうぞめしあがれ」

葵の機嫌もすっかりなおっているようだ。俺も謎の四角い肉を口に運ぶ。中にシャキシャキした野菜がつまっていて、鼻にツーンと刺激が来た。面白い食べ物だ。高級な料理というのはこういう二重性があるものなのか。

流惣がカニの足をバキバキ引きちぎる。プラスチックの板を壊すように。流惣の食べ方は以外にも野獣じみている。遠慮とかそういうものがまるでない食べ方だ。無邪気といってもいいかもしれない。もちろん人を不快にさせるわけではないが、普段の上品な姿しか知らない人はちょっとおどろくだろう。

「そういえば、きみがいってた幽霊のはなしだけど」

「あ?ああ」

豚の内臓に味付けされた米が入っていることに軽い衝撃を受けていた俺は現実に引き戻される。

「調べたのさ。先週。ほら、あやしいっていってた神学研究部に後輩を入部させてみたんだ。どうやら、そういうことを調べている部員が一部でいるらしい。動物の血で魔力を高めるとか、そんなカルトな人たちがね」

「あの部活そんなことやってんのか。つうかお前にそんな後輩いたんだな」

「うちは奨学金めいたこともやってるからね。動かせる駒はいるさ」

 さらりと怖いことをいう。葵はさっきから切り取られた豚の耳に手をつけるか迷っているようだ。

「あの部活はね、何か共通の目的があるわけじゃないらしいんだ。部員がそれぞれ別のことをやっていて、何かが起きると全員が動き出すらしい」

「普段なにやってるかわかんねえもんな」

窓越しにさっきの女どもが歩いていた。こっちに気付いた一人が中指を立てた。俺はニヤっと笑って相手の不快感をあおった。これが相手に精神的ダメージを与えるかはなぞだが、与えたことはある。

「君の笑顔は素敵だなあ」

「お前馬鹿にしてるだろ」

「いやいや、葵さんもそう思うよね?」

「は?あ、う、うん!」

「無理やりじゃねえか」

「そ、そんなことないよ!」

「そうそう。本気でお世辞をいっているんだよ」

「もう突っ込む気もないわ」

流惣といるといつもこんな感じだ。一年生のころは、もっと違っていた。こんなに温い関係ではなかった。

「これからどうする?」

 流惣が口をぬぐいながら尋ねる。すっかり体力を回復させたらしい。

「もうひと泳ぎしてもいいし、別でもいいよ。テニスコートとか、美術館みたいなフロアもあるみたいだし」

「いろいろ回ってみるか」

俺たちはレストランを出て、ホテル内を散策することにした。できたばかりのホテルの内部はそれ自体が美術品のように美しい。連続したシンメトリーの扉と少し光量を抑えた照明が映画の中の世界のような演出をしている。そういえばさっきからチーコが静かだなと思い弁当箱をつついてみた。

変事がない。ただの肉塊のようだ。興奮していたので疲れて寝てしまったのだろうか。起こさないようにそのままにしておく。

「世界のケルト展だって。見てみようよ」

 俺たちはアイルランドの工芸品や美術が並んだギャラリーに入った。龍や騎士などの幻想的な絵や旗が俺たちを迎えてくれる。

「すごい。すごくきれい。ねえ見てノリ、これなんだと思う?」

「浮浪者が捨てた夢だな」

「聖杯と葡萄、かな。昔の装飾品によく描かれたらしいよ」

「流惣院君さすがくわしいね。あ、あっちにもなにかある!」

 葵はスカートをひらひらさせながら奥のほうへと吸い込まれていった。フロアは仕切りで分けられていて迷路のような作りになっている。

「葵さんってこうゆうのが好きだったんだね」

「ああ見えてファンタジーな奴だからな」

「よかったよ。君たち喧嘩していたんだろ?葵さんがそっちのクラスに行くのを嫌がったんだ。一緒にお昼を食べられないのは寂しいからね」

「お前だけこっちにくればよかったじゃねえか」

「そうもいかないよ」

「お前の計画通り俺と葵の関係は良好になりましたよ」

それはよかったと流惣は悦に浸っている。全てが彼の手の上なのか。俺は流惣の肩を掴んで顔を引き寄せた。

「なあ、葵はクラスに友達いないのか?あいつが一人だからお前が一緒にいるのか?」

 声はしぼる。葵は民族衣装に夢中だ。

「そうだねえ。クラスの女子とはちょっと馬が合わなかったのかもしれない。でも、今からでもどうにでもなるさ」

「もしかしてお前が勝手にやってるだけじゃねえのか?」

「ひどいなあ。僕は困っている人を助けたいだけだよ」

 流惣から以上言葉は続かず、葵が消えて言った暗闇を苦しそうに見ている。

「転入してきてすぐ金持ちの男と飯食い出したら、周りの女子はそりゃあ攻撃的にもなるわな」

「彼女と知り合ったのは二年のクラス替えからだよ。一年生は君とずっと一緒だったじゃないか」

「葵は強いやつだよ。心配しなくていいんじゃないか?」

「だから君と葵さんが仲良くなって僕が少し距離を置くのがいいんじゃないかって思ったんだけど」

 流惣はもっともらしい口調で語る。

「はあ?お前さあちょっと考えすぎだよ。離れるとかくっつくとか、あいつか勝手に決めればいいんだ。それはあいつ自身の問題だろ」

「僕は友達として何か役に立ちたいと思っているだけだよ」

 突然流惣の声はざらついていた。流惣は何か勘違いしている。助けるとか守るとか、葵の意見も聞かずに何を助けるというんだ?

「お前のは友達の域を超えてんだよ!専属のカウンセラーかお前は?それとも保護者代わりか?何でも思い通りなると思うなよ。いたよ昔、弱いやつにかまってばかりいる女が。いじめられっ子の盾になるやつが。ならなくていいところでも。それで先生がそれを見つけてみんなの前でその子を褒めるんだが、その時の女の子の顔といったらもう子供というよりはむしろ……」

「ああわかった!もういい。君の言いたいことはわかった。やめよう。不毛だ」

 そう言って流惣も迷宮の奥へ行ってしまった。俺は入り口で立ち止まっている。あの金持ちの女どもが言っていたことを思い出した。

「あいつはちょっと一人で思い込み過ぎだよ。なあ?」

 チーコに呼び掛けてみたが返事はない。不穏な空気を感じて、弁当箱を開けて耳を澄ませてみた。息遣いが浅い。寝ているというより苦しみ喘いでいるようだ。

「どうした。おい」

「ふい~ノリ君。ちょっと気分が悪いかも」

「きついのか」

「頭がぐるぐる~。うえぇ……」

反応が薄い。声でしか判断できないがかなり苦しそうだ。

「おい、しっかりしろ」

「うう~。寒い……です……」

 チーコは唸り声を上げるので精いっぱいのようだ。不安になってあたりを見回す。もちろん状況を打開できそうなものは何もない。焦りが募った。誰に相談しどこへ連れて行けばいいんだ。

「そうだ。あっためてみるか」

俺は展示品フロアから出てレストランへ走った。流惣たちになんと言い訳すればいいだろうか。

「いらっしゃいませ。あ、お忘れ物ですか?」

ウェイトレスの笑顔はさきほど入った時のままの鮮度を保っている。

「ちょっと、電子レンジあります?」

「?」

 ウェイトレスの笑顔は崩れない。さすがはプロ。店内は二組の男女が静かに食べ物を口に運んでいた。

「ええと電子レンジ借りられますか。お弁当を温めたいんです。なんか、社長が温めてほしいそうで」

「社長」という言葉を強調したかいあってか、少々お待ちくださいという言葉とともに弁当はスムーズに奥へ搬送されていった。奥から、ここはコンビニじゃねえぞ、という野太い声。

「お待たせしました」

弁当が帰ってきた。わざわざタオルに包まれたそれはアツアツだ。俺はお礼を言ってレストランを出た。

「大丈夫か」

持つのもままならぬほどの熱を持った弁当の端を持ちながら、俺はチーコに話しかけた。

「ちょっと、マシになったかも……です」

「症状は」

「寒気と、気分の悪さですかね。へへ」

「家から出たのがまずかったか」

「わかりませんが、ノリ君は悪くないですよ」

「帰ったほうがいいな」

「いえ、気にしないでください。たいしたことないですから……」

 とぎれとぎれに言葉を絞りだすチーコが大丈夫とはとても思えない。見れば顔色、というか肉色も悪い。普段が元気なぶん、こんな姿では余計に不安だ。

 大きな棺桶のようなエレベェタを使いさっきのフロアに戻った。入り口では流惣が一人で装飾された十字架を眺めていた。

「……」

「……」

 流惣は怒っているんだろうかと考えるとなかなかこちらから声をかけられない。しかしチーコの荒い息づかいが俺の背中を押す。

「なあ、ちょっと急な用事が出来たんだが、今から帰ってもいいか」

「急にどうしたんだい」

「ちょっと緊急の用が入っちまってな」

「へえ!君に緊急の用事とはねぇ」

流惣は静かな笑みをたたえたまま。ただ何となく体から不満げな気配だけが感じられた。

「……悪いな」

「ノリ君、あたしは大丈夫ですほんとに……」

後ろのバッグから声が聞こえる。俺の用事はもう終わっているわけだし、帰っても大丈夫だろう。それより流惣が何か勘違いしていないかが心配だ。

「誘ったのは僕。君は役目を果たした。ドライバーを呼ぼう」

一人で帰ったほうがいいと思われたが、チーコを優先すれば車に乗せてもらったほうがいいだろう。流惣は携帯電話を出して何か話した。声が無機質で平坦だ。さっきのことを気にしているのだろうか。表情が均一なので読み取れない。

あれは喧嘩だったのか?それともその前段階だったのか?謝る必要があるのかないのか。何もわからない。こいつはいつも、本当は何を考えていて周りをどう思っているのだろうか。

「すまん、埋め合わせはする」

 パチン、と携帯電話を閉じた流惣にとりあえずもう一度謝る。

「埋め合わせ?なるほど」

しまった。流惣は埋め合わせやお詫びを嫌い、それを提案すると必ずでかいことを要求してくるのだ。

「じゃあ、また遊びに誘うとしよう」

だが流惣は穏やかな口調でそう言っただけだった。そして俺に背を向けた。もう君には興味ない、と態度で表わしているかのようだ。もちろんそれは俺の思いちがいなのかもしれない。

「ほんと悪いな」

「いいよ」

「葵にも言っておいてくれ」

 流惣は黙って振り返った。

「それくらい、自分でいいなよ」

 流惣の凍りついた目が全身に刺さったような気がした。


ロビーではドライバーの杉本が待っていた。

「ノリさん、こっちっす」

「家までお願いします」

「オッケーッ!」

その時、後ろで俺を呼ぶような声がしたが、俺は振り返らず車に乗り込んだ。

「事故でもあったんすかねえ」

高速道路は渋滞していた。車の中では外国人の叫び。ハードコアな音楽がかかっている。俺は落ち着かず、自分のバッグを何度も横目で見たり携帯電話閉じたり開いたりしてしまう。

「まあそんなに急いでるわけじゃないけど、まあもちろんなるべくはやっくていうか、いや、この状態じゃ無理だし無理しろとも言わないっすけど。いやでもできるだけ早くっていうか」

「ノリさん、落ち着いてくださいよ。大丈夫。東京の渋滞に比べりゃカスみたいなもんすよ。すぐに抜けられます」

俺は黙ってうなずいた。焦ってもしょうがない。焦ってもしょうがない。焦ってもしょうがないんだ。

「もしかして、しかぶったんすか」

「は?しかぶる?」

「だったら言ってください。下着買ってきますよ!俺も小学生のころやっちまいましてね、授業も無視して家に帰って着替えましたよ。みつかると未来永劫笑われますからね」

「言っとくけど、俺は漏らしたりはしてない」

「あ、違うんすか」

「どんなガキだよ」

 杉本さんはへへっと笑った。これでも二五歳らしいが、童顔なので実年齢より若く見える。見かけはただの不良だが運転の腕は確かだ。何度か乗っているのでわかる。

「いやー、ノリさん以外と子供っぽいところあるから」

「あんたより大人だよ」

「いやいや、自分で気づいてないだけッスよ」

「あなたにはいわれたくなかった……」

「俺は永遠の十七歳ですからね!ちょいと飛ばしますか」

ブオンとエンジンが唸りを立てて車は高速道路を降りた。そしてとんでもないスピードで一般道を走り始める。杉本がカーステレオをいじり、車内は爆音に包まれる。

「ちょっとこれ、捕まるんじゃ……」

「何が来たって、逃げ切ってみせます!」

車はぐんぐんスピードを上げ、裏道のような狭い通路を絶妙な感覚で滑っていく。ハイスピードで風景が飛んでいく。

「ちょっと横になっていいか」

「いいっすよ。酔いましたか?どこかで車停めます?」

「いやそのままで。むしろスピードアップで」

俺はすっかり酔ってしまって、後部シートにあおむけになりながら右へ左へ揺られる車に身を任せていた。轟音に身を包まれて俺は目を閉じた。車は高速で動いているのだろうが、寝転がって空だけ見ている俺にはその実感がない。グオオオオオオオオと車が走る音だけが聞こえる。外の世界と完全に遮断されてしまったかのようだ。いつも俺はどこか一歩離れたところから世の中を覚めた目で見ていた。今も、後ろのほうでパトカーのほうでサイレンが聞こえているが、どこかでどうでもいいと思っている。俺はこのままどこまでも世界と乖離していくのだろうか。

「流惣の母親って本当に流惣を捨てたのか?」

「……そうですね。そうとられても仕方はないですね」

 どうせこのうるさい車内では聞こえないだろうと思ってひとり言のつもりで言ったが、杉本は聞いていたらしい。

「よかったらきかせてくれないか」

 車がガクン!と思いっきり上下して俺は頭をぶつけた。杉本が音楽のボリュームを下げる。サイレンはもう聞こえない。車のスピードは落ちる。

「煙草をとって下さい」と杉本がいう。俺は杉本の胸ポケットからライターと煙草を取り出し、火をつけてくわえさせた。彼は深々と煙を吐き出したあと、窓を開けた。風で前髪が持ち上がる。また窓が閉じていく。

「確かに、坊ちゃんはある意味捨てられたと言ってもいいかもしれないですね。詳しくはしらないんスすけど、坊ちゃんの母親はずっとフランスにいるらしいです。なんでも、芸術家かなんからしいんですけど、正直坊ちゃんとはまともに連絡とってないそうで。どうやら、母親の気持ちを芸術に生かしたくて子供を作ったんですが、あまり役にはならなかったと雑誌のインタビューに答えていました。その雑誌は坊ちゃんに見せられました」

「ひでえ母親だな」

「芸術至上主義ってやつですかね。批判はできませんよ。俺はそんな女性は嫌ですけどね。で、彼女はその後スランプに陥り、一人で籠るようになった。仕方なく坊ちゃんは父親と二人で日本に戻って来たんです。でも……」

「あの親父とうまくいかなかった……?」

「ある意味でそうです。小さい頃は家政婦が育てていたんですが、小学生になると坊ちゃんは家政婦と距離を取るようになります。そしてあの父親が何とか親子としてやっていこうとするわけですが」

「無理だったのか」

「そうです。頭がいい教授なんかでも部屋を全然片付けられない人がいるでしょう。それとおなじで、親父さんは全く子育てというものができなかった。というより子供と触れ合うということがどういうことかわからなかったんです。でも、父と子が離れるべきではないことはわかっていた。だからとりあえず坊ちゃんを自分の秘書にしたんです」

「秘書?」

「というよりお付きっていうんスかね。四六時中自分のそばに置いたんです。どんなに重要な会議の時だろうが、偉い人との食事会だろうがいつも連れていました。ほとんど学校に行ってない時期もあったそうです」

「あいつがやたら政治やら経済やらに詳しい理由がわかったよ」

「坊っちゃんは子供になる前に大人になってしまったんです。小学五年生の時、会社の合併のためにわざと相手の女社長と交際して商談を成立させたことは有名な話で。そして今では大事な交渉の時は坊っちゃんがやったほうがうまくまとまるようにすらなっている。やり方を心得ているんですよ」

「俺達なんか子供に見えるのかな」

「坊ちゃんはまだ子供ですよ。でも環境がそれを許さなかった。俺は心理学の知識なんかないんスけど、そういうのはあまりよくないと思いますね。というより既に坊ちゃんの行動は常軌を逸しているものがある」

「なにかあったのか」

 信号が赤になる。杉本がたばこを吸いがら入れに捨てた。車内は不思議な沈黙に覆われている。

「ノリさん、坊ちゃんと喧嘩でもしました?」

 唐突に聞かれて返答に困る。俺はよくわからない、と答えた。

「タイミングが悪かった。流惣は多分勘違いしていると思う。杉本さん、流惣がもし勘違いしてたら、違うと説明しといてくれないか」

 信号が青になる。見慣れた町の風景が見え始めた。中途半端に開発されたベッドタウンが。

「これは絶対秘密ですが、隣町の小学校のウサギとニワトリを殺したのは多分坊ちゃんです」

 その事件は俺も知っていた。ニュースにもなった。飼われていたウサギとニワトリ十三匹が耳を切り取られて死んでいたと。

「それだけじゃないんです。坊ちゃんは小学五年生の時自殺を企てました。それに協力させられたのが俺です。もちろん自殺とは知らなかったんすけど。それは結局失敗して、俺は坊ちゃんをボコボコにしたんです。当たり前ですよ。危うく殺人犯にされるところだったんですから。で、俺としては、相手は子供だし、これぐらいで勘弁してやろうと思ってその場を去ったんですが、その後まさか坊ちゃんに雇われるとは思いませんでした。ある日突然連絡が来ましてね。俺もその時、親が病気だったし借金があったこともあって高待遇の契約書に迷わずサインしました。そして今ここにいる。坊ちゃんがあの学校に通っているのも、六年生の時荒れていたからです。あの学校は療養所みたいな校風ですからね。創立者ももともとそういう目的で建てたわけですし」

「あいつ、南の島にでもいかせて休ませたほうがいいな」

「それもしたんですが、目の奥に潜む絶望は広がり続けています。俺には分かるんすよ。ノリさんと会ってからは奇行や暴飲暴食は減りましたが、押さえつけているだけという感じです。爆発したらどうなるか。俺は坊ちゃんの父親にも友達にもなれませんでした。でもノリさんなら」

「俺に何とかしろっていうのか」

「違います。坊ちゃんを見捨てないでやってください。何か変なことをやらかしても、できるだけそばにいてほしいんスよ。ただそれだけでいいんです。ほら、中学生って多感な時期だから。せめて中学を卒業するまで」

「いや、見捨てる予定なんてないけどさ……」

ここで急なカーブに差し掛かったらしく俺の体は狭い車の中だというのに一回転した。車が停車する。杉本は俺のほうを向いて笑っていった。

「というわけなんで誤解は自分で解いてくださいね!」

「どういうわけだよ……」

 正直に言うと俺は急に流惣の重大な秘密を聞いて面喰っていた。今までの流惣像が少し形を変え始める。前より少し小さく、瞳の色はより深く。

「俺はもうすぐこの仕事を辞めます。ひどい話かもしれないですが、俺は坊ちゃんを見ていてちゃんと自分の人生を生きたいと思ったんです。恩人なんスよ。もっと長くいたかったのですが、どうもそうなりそうにないです」

だからって俺に任せたのか?そう思った時には、車は家の前に止まっていた。

「あんたもずるいな」

俺も、大人になっちまったんですかねぇ、と言いながら杉本があたまをかく。

「さあ下りてください。着きました」

車から降りた杉本は俺の服に付いたほこりを丁寧にはたいてくれる。

「あ、どうも。元気でまた会いましょう」

「見かけたら声掛けますよ。ノリさん、最近表情がよくなってきてますよ。男前になってきてる。じゃそういうわけで俺は戻ります」

車はまたすごいスピードで引き返して行った。俺はしばらく車が去って行った路地を眺めていた。誰も悪くない。しかし幸福は遠い。世界のすべてが間違っている。俺は電信柱を蹴り飛ばした。


「おい、家に着いたぞ」

靴を脱ぎ捨て弁当箱を取り出す。車の中で散々転がされたせいでハンバーグはちょっと形が崩れている。色の悪さと形の崩れでひどいことになっている。

「あ、はい……」

チーコの容態はあまり改善していない。

「どうなんだ?じっとしていれば治りそうなのか?何かしないと治らないのか?もう一度あっためるか?」

「風邪みたいなものだと思います。一晩寝れば治るとおもいま、うう…」

俺はチーコをきれいな皿に移してやり、念のためもう一度レンジで温めてラップをかけてやった。

 苦しそうな息づかいが絶えず俺の頭に響いてくる。

俺はパソコンを立ち上げ、インターネットで食品の鮮度を復活させる方法(それが役に立つかは分からない)を調べてみたが、役に立ちそうな情報はなかった。

ただ時間だけが過ぎる。引き延ばされた時間の中で日が落ちた。彼女はまたいなくなるのだろうか。俺以外のだれにも知られず。それともまたどこかのハンバーグになるのだろうか。あるいは全くの無に帰すのか?

 気を紛らわそうとチーコに教わった野菜スープを作ろうと席を立つ。鍋に湯を張りコンソメスープを入れる。キャベツをまな板の上に載せ包丁を握ったがどうにも切る気にならない。

 とにかく無心で切ろうとしたら指から血が出た。白いまな板に鮮血が広がる。死とはなんだろうか。流惣は動物たちの血を見て何を思ったのか。

料理はやめて学校に電話をかけようと思った。あのハンバーグバーガーのクロ子に聞けば何かわかるかもしれない。しかし学校の電話番号を探しているうちに売店が開いているはずがないと気づく。出荷前の店に行くわけにもいかない。見守るしかないのか。自分にできることの少なさに腹が立つ。

夜になっても俺は部屋にこもってずっとチーコの様子を見ていた。彼女は浅い意識を保っている。

「ノリ君、そこにいますか?」

「いるぜ。なんだもう一回あっためてみるか?そうか、やめとくか」

俺が悩んでもしょうがないとベッドに腰掛け本を開いてみる。文字を追っても内容が一切理解できない。まるで象形文字だ。

夜中の一時を少し過ぎた時、玄関が開く音がした。母が帰って来たのだ。暗いオレンジ色の部屋で俺は体操座りをしていた。自分が闇の一部にでもなったような気分を味わいながら。

夜中の二時を境に、チーコの容態はさらに悪化した。ヒュウヒュウという音が聞こえたかと思うと急に激しく咳をしだしたのだ。

「ゲホゲホ、うう……苦しい……」

「大丈夫か?」

 俺はラップの上からその体を撫でてやることしかできなかった。家のそばでやたらと猫がうるさかった。猫の鳴き声をずっと聞いているとだんだん赤ちゃんの泣き声に聞こえてくる。俺は一人で焦っている。自分が小さかった時、風邪をひいてきついときに限って母親がいなかったことを思い出した。あの時俺は病院にいる奴らを恨んだ。なんで息子の俺がこんなつらい思いをしているのに、病院のやつらは母さんの看護を受けているのだと。

「ゴッホゴッホ、がっ、くっ…」

 またでかい波が来た。チーコが激しく嗚咽する。今度の咳はなかなか止まらない。

「う、うう……」

 チーコはもはやまともに息が吸えてなかった。俺はラップをはがし、指をチーコに直接当てた。

「口はどのへんだ!どこが苦しいんだ!」

「ごふ、口はないですよ。ふふ、ノリ君はおかしなことをいうんですね……」

「苦しいところはどこなんだ」

「それは、ああ、もっと右、じゃなくて下です。うう……そこのちょっと上……あ」

 暗闇の中でチーコに人工呼吸を試みる。ここだと思ったところに向かって、息を吹き込んでやる。もちろん肺がないのだから空気は隙間から洩れていくだけだ。だが効果はあるようで、チーコは俺の息にむせた。こちらの吐く力が強すぎたらしい。次はゆっくりと。間を三秒開けて。だんだんわかってきた。チーコにも呼吸があり、俺がそれに合わせることで少しはましになるらしい。しばらく合わせているうちにだんだんタイミングが合っていく。息を吸おうとする瞬間、吐こうとする気配。二人でボートをこぐように。俺たちは暗い部屋の中で呼吸を重ねた。


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