クラムボンのぷかぷか襲撃事件
見慣れない風景の中を走っている。細長いケーキのようなビルの間を縫い、右へ左へ向かっていく。車内の音楽はジャズ。たまにやらかす無理な追い越し運転を気にしなければ、ピアノのはじけるような音が耳に心地いい。
「おい、あんたは四六時中だれかを挑発していないと気が済まないのか」
子ずれの車にクラクションを鳴らしまくっている非常識な金髪を注意する。
「さーせん。育ちが悪いもんでね!」
「スラムで育ったんだな」
「あー外国行きたいっすね。一度でいいから、黒人女としてみたいんすよ」
車は高速に乗った。どんどん中心街からはなれていく。海へ行くのだから当然だ。チーコはおとなしい。一応外が見えるようにバックは開けておいた。景色でも楽しんでいるのだろうか。
「ところで、どこの海に行くんだよ、あんまり遠くじゃないだろうな」
「このままどこか遠くへ行こうか」
「その間に車内がゲロまみれになってもいいならな」
俺は「揺れ」に弱いのだ。
「まあ、海とは言ってないんだけどね」
「はあ……そんなことだろうとは思ってたけどな」
「あれ、バレてた?」
こいつがただ海に行きたいだけのために俺を誘うわけがない。俺も流惣も、基本的には一人でいることが好きなはずだ。流惣はなにがしかの苦痛、不快感を分散したいときのみ俺を呼ぶのだ。俺もどこかで流惣を隠れ蓑のように利用しているのだろうか。俺たちは奇妙な協力関係にあるのかもしれない。
「まあちょっとした集まりがあってね。僕一人だと息がつまるんだよ。君がいてくれるだけでずいぶん気分が違うからね。でも、ちゃんと泳げる場所はあるし、退屈はしないよ。君が何か直接嫌な思いをすることはもちろんないしね」
実は前も流惣の家のホームパーティーのようなものに無理やり誘われたことがある。その時は流惣の親戚のガキの相手をさせられた気がする。流惣は子供が苦手らしい。苦手というより接し方が分からないそうだ。どんな言葉を言えばいいのか、何を伝えたらいいのか分からなくなり混乱してしまうらしい。
「適当に子供のノリに合わせればいいじゃねえか。なんとかレンジャーとか、アニメの話とか、幼稚園でのことを聞くとかいろいろあるだろ」
そう言ったが、流惣は変にはにかんでごまかしていた。今回もどうせそんな用事だろう。
「子供と接していると、恐怖に近いものを覚えるんだ。自分が獣だということを知らないトラと戯れるみたいな感じさ。いつその鋭い牙が襲ってくるか、そればかりが頭に浮かぶ。もちろんトラにはそんなつもりは一切ない。僕もそれがわかってる。でもだめなのさ。気を許せない。自分だけが遠いところに来てしまったような、そんな錯覚に陥るよ」
俺は言葉の意味が分からず、うんうんとうなずくしかなかった。
着いたのは、海ではなく、木々が茂る山だった。アイスクリームを大きなスプーンでえぐり取るように森が開けていて、そこに大きなホテルがある。
「海とは間逆だな」
「プレミアムシーホテルさ」
「ほう、これが」
プレミアムシーホテルと言うのは最近できたホテルで、テレビで何度もCMを流していたので知っている。特番も組まれていた。なんでもこの田舎の白けた街を活性化させるための最終兵器らしい。中には波の出るプール、温泉などをはじめとするウォーターレジャーが楽しめるようになっていることに加え、大会議室やらミニシアタールームやらまであるらしい。裕福な層を取り込もうと、この不景気の中に全く空気を読んでない超豪華な造りだ。中は受付が一人いるだけの静かな様子だった。
「ずいぶんひっそりしてるな」
豪華なロビーを見渡しながら、受付で名前を書いた。高級感あふれるゴールドのシャンデリアに高級そうなソファーが置いてある。
「みんな上にいるのさ」
「またガキどもか?」
「もっとたちが悪い人たちだよ」
「その親とか?」
「あたり。よくわかったね」
「暴れ出すかもしれないぞ俺は」
「そうしてくれるとありがたいね。でも大人の相手は僕がするからね。本当に君はここにいてくれるだけでいいのさ。なんなら姿が見えなくたっていい」
エレベーターで上に上がると、豪華な会場が俺たちを待っていた。下には赤い敷物が敷いてあり、五百人くらい入れそうなホールは、結婚式で見るような白いクロスが敷かれた丸いテーブルがたくさん置いてある。それから人も百人くらいいる。派手な格好をした者やドレスを着た者、やたら化粧が厚い女や脂ぎった男など。
流惣はいちいち挨拶してまわる。こんにちわ、お久しぶりです、いえいえ、いやいや、ひいひい。こちらは僕の友達。俺も一応お辞儀をする。当然だが、ほとんどの人間は俺に興味がないようだ。それどころか流惣にも興味があるわけではないだろう。彼らは、その後ろにあるものに対して笑顔を振りまいているのだ。
「ようよう、お前ら、やっと来たか」
流惣の父親が出てきた。流惣の父親は実業家だそうだ。若くしてアメリカへ飛び経営の流儀をたたきこまれ、日本に帰ってきていち早くITビジネスのようなものをはじめたらしい。サムライのように髪の毛を後ろに縛っている。この前、人生の勝者を紹介するテレビ番組に出ていた。もう四十も後半だというのに異常に肌がつやつやしている。目尻のしわがない。生え際もしっかりしていて、目は新しいおもちゃを見つけた子供のようにぱっちりしている。喋り方も砕けていて、いつ見てもほんとうに四十代なのかと疑ってしまう。
「おう今村も久しぶりだな」
「どうもっす」
「それにしてもお前ら、すごい服装できたな。まるでヒッピーだ。またうるさいジジイどもから小言を言われそうだ。ただでさえ俺はものすごーく嫌われているってのに。ハハッ」
長くアメリカに滞在していたせいなのかこの親父は他人に対して全然遠慮がない。素の自分を見せている。これは人によって好き嫌いが分かれるだろうなと思う。実際ネットで叩かれているのを見たことがある。正直俺もこんな父親はちょっと苦手かもしれない。
「じゃあちょっと媚を売ってまわらないかんので来てくれ。お前がいないと間が持たん」
流惣の肩に父親の手がまわされた。親子というよりは仲のいい友達のようだ。
「申し訳ないけど、ちょっと待っていてくれ。三十分後に地下一階のプールで待ち合わせしよう。すぐ戻るよ」
「いいのか?下にいて」
「いいよ。大丈夫」
流惣の親父はポケットから名刺を出してそれにサインした。
「なんかあったらこれ見せて俺の名前言っとけ。何でもできる。多分な」
熱い手から名刺を握らされた。本当にこんなものが通用する世界があるのだろうか。そんな俺をしり目に、流惣親子はきらびやかな一団の中に入って行ったしまった。
取り残された俺は忘我である。しゃれたスーツやドレスの中に一人だけ下はジーパン、上は紫の「DESTROY」と書かれたシャツを着た馬鹿が突っ立っているのだ。まったく人種が違う国に一人でいるみたいだ。周囲の目も冷たい。まったくもって気まずい。テーブルの上には絵にかいたようなでかいチキンがあったので食ってみたが、まだ午前中で腹も減っておらず、気が滅入っただけだった。少しここにいてから下へ降りようと思っていたが、これ以上ここにいてもしょうがないのでプールのほうへ行くことにした。
地下のカウンターで名刺を見せると本当に通じたらしく何でも注文できた。どうやらホテルごと貸し切っているようだ。水着と飲み物をもらって更衣室をくぐると、足元が軟らかいゴムでできた長い廊下に至った。廊下には映画館のトビラのような入口がいくつもある。温泉、リラクゼーション、サウナ、砂風呂など様々なタグが付いている。俺は一番奥のシーサイドプールのドアをくぐった。
「これはすごいな」
フロアはまるで沖縄の海を切り取ってきたような様相だった。人工的に作られた青空からはカラッとした気持ちのいい光があふれ、南国チックな音楽に波が踊っている。プールの奥には波を生む装置がある。砂こそないが、しっかり波が打ち寄せるような床になっている。後ろにはデッキチェアがあり、離れたところにはカフェのようなものもある。
俺はデッキに腰掛け、テーブルにタオルとバッグを置いた。
「ノリ君~、だして~」
バッグから弁当を出し、ふたを開けてやった。
「わあ~。すごいです!これが海ですか」
「人工的な海だな。まあゴミだらけの海よりよっぽどいい」
「誰もいませんね」
「静かでいいな」
目をつむり波の音に耳を澄ませる。水の音を聞くと安心する。俺は雨の日が好きだ。雨の日は暗くていい。必要以上に人の顔を見なくてすむ。今頃やつらはどうしているだろうか。クラスメイト。小学校の頃のガキ共。部活でもしているのか、ゲームでもしているのか。俺はこうして貸し切りのホテルでハンバーグと喋っている。
「砂に埋まらないんですか?」
「埋まれないよ」
「テレビで海を見たときはみんな埋まっていました!」
「ちなみにあれは埋められてんだよ」
「どうしてですか?」
「悪い子だからさ」
「そうなんですか……誰がそれを決めているんでしょう」
彼女は本当に純真無垢と言った感じだ。疑問はすぐに口に出し、感情を隠してない。それが彼女の魅力だろう。現実世界に人間として存在していたら、少し嫌な目に遭っていたかもしれないが。
「ところでお前泳げたりするのか?」
「泳ごうにも…」
「さすがに無理か」
「水着がないので」
「あったら泳げるのかよ」
「泳げますよ」
「ハンバーグ用の水着は売ってないからな」
「残念ですね」
霧が晴れるようにゆっくりと、遠くのほうからセミの声が聞こえてくる。鼻の奥に濃いにおいが立ち上ってきて、夏の気配を思い出す。このセミの声も人工的に作られたものなのだろうか。ここにあるものはすべてが人工物だ。その中で見るチーコはやはりハンバーグだった。チーコはこの景色にとてもあっていた。
「なんでお前と俺、会ったんだろうな」
「元々あそこにいたんですよ。ノリ君が私を見つけただけです」
「謎だなぁ」
「人は出会うべくして出会うってテレビで言ってました」
「お前はちょっとテレビを信じすぎだぞ……」
クロ子が言っていたことを思い出した。彼女はああ言ったが、やはりただの偶然なのかもしれない。
「お前はよくわからんやつだ」
「あたしはよくわかりますけど」
「自分のことだからな」
「ノリ君のこともわかりますよ」
「それは興味あるな。教えてくれよ」
「ノリ君は何か、自分を押しとどめているような気がします。なんとなく、楽しもうとしてないというか、自分から離れているような気がするんです。たまに。それはなぜですか」
「ん~。どうなんだろ」
意外とまじめな質問に驚き、俺は答えをはぐらかしてしまう。
「自分のことがわからないんですか?」
「いや……そうじゃなくて……。いろいろ大変なんだよ。そんな好き勝手できないっていうか、してもいいけど……ううむ」
その時、チーコから顔をそらした俺は、無理やりに植えつけられたヤシの木のそばに誰かいるのを見つけた。ビキニの水着からして女だろう。女はこちらを見ていたが、こちらに気がつくとヤシの木の陰に隠れた。俺は立ち上がって目を凝らす。
「あ、やっぱり泳ぐんですか?ほんとは泳ぎたかったんでしょ。わかってましたよ~」
「いや、誰かいる」
俺はチーコを置いてヤシの木のそばまで歩く。綺麗な海が描かれた壁がペイントによって作られたものだとわかる。その壁に女の子の影が映し出されている。
「おい」
「ひえっい」
葵だった。びくっと肩を震わせたかと思うと、挑むような眼でこちらを振り返った。
「いや、あたしはその、流惣君に誘われたから、来ただけで。ノリがいるなんて知らなかったの!だから……」
葵は品のいい水色の水着を着ていた。しゃがんでいるせいで太ももあたりの肉感がリアルだ。紫外線に傷つけられてない肌に目が吸いこまれそうだ。
「なんで隠れてんだよ」
「別にそういうわけじゃないし……」
「ふーん……」
手をぎゅっと握りながら何かに怒っているような顔をしている。こっちが何も言わないでいると、我慢できなくなったようで誤魔化すように海を指差した。
「ねえ、向こうまで競争しよ!」
「は?」
「ノリは水泳やってたよね?あの一番端の壁にタッチして、先に椅子に触ったほうが勝ち。負けたら罰ゲームね。よーい」
「ちょっとまて」
どーん、といって葵が走り出す。偽物の海に向かって。俺が勝負に乗ってくると思っているのだろうか。ここで勝負に乗らなかったらどうなるのだろうか。勝ったら何か得られるのだろうか。一秒の間にそんなことを考えた。真っ白のテーブル、汚い字で書かれたノート、逃げるためだけに掘った穴、そんなイメージが頭に浮かぶ。今まで意味のなさそうな勝負には乗るまいと決めていた。チーコはこっちを見ているのだろうか。
「ノリ君!」
はじかれたように筋肉に力が入った。葵の打ち寄せる波に突っ込んだ。水が脛まで来たあたりで一気に水中に飛び込む。冷たい水の感覚に全身がしびれる。泳ぐつもりなんてなかった。だが泳いでしまっている。そして気がついた。俺にはゴーグルがない。これでは何も見えない。
水中はぼんやりとしていて白に近い青。葵が泳いだあとが泡になって顔に当たる。息継ぎのために顔を上げる。葵はすでに一メートルくらい先の壁に手をつけようとしている。
「がぶべあびごーぐるがびがご!(あいつだけゴーグルありかよ!)」
水中で愚痴をこぼす。水の中でどれだけ全力で叫んでも、それは泡となりほとんど何を言っているかは分からない。俺が水泳をやっていたころ、いらいらするとよく叫びながら泳いだ。のどが痛くなるまで水中で叫びまくった。泳ぎながらだとほとんど誰にも聞こえない。泳ぎ終わった後にのどがかれていて母親が不思議がっていた。さらにゴーグルをつけていれば涙が出ていても気づかれない。
謎の闘争心が俺を支配していた。元々自分は負けず嫌いだった。それが仇になって水泳をやめたのを思い出した。俺より後に入ってきた後輩にあっという間に追い抜かれて、やる気をなくしたのだ。
苦しくなってもう一度顔を上げた。すぐそこに葵がいる。ここで勝てばなにもかもが解決するような気がして、俺は叫び声を上げながら全力で水を蹴った。
ド!ごーん!
脳天にものすごい衝撃が来て視界はブラックアウト。一瞬気を失ったようだった。前後不覚になり慌てて目を開ける。鼻の中に大量に水が入ってくる。
「うごばああ」
もがきながらなんとか顔を上げる。
「ゴメン!ノリ。大丈夫?」
葵が腕をまわして俺の肩を支えてくれる。どうやら葵のバタ足をもろに食らってしまったようだ。
「なにぶつかってきてんのよ」
「いてえ。こっちはゴーグルがなくて見えないんだよ」
「あ、そっか」
「おまえなあ」
葵の体が俺の体に密着している。柔らかさが尋常じゃない。脳みそのある部分が狂喜の叫びをあげている。
「お前の反則負けでいいだろ」
「やだ」
「ハンデあったんだから」
「だめ」
「なんだよそれ」
「ふふ」
葵が突然笑い出した。
「なんなんだよ、お前は」
「ごめん、なんかおもしろくて」
態勢はそのまま。離れなければ、と思っているのに、俺は依然葵にしがみついたままだった。ベッドからなかなか抜け出せない冬の朝に似ている。波がゆっくり二人の体を揺らす。
「……この前は、悪かったよ」
少しだけ大きな波が二人の体を離した時、葵に謝った。
「うん」
「ちょっと冷静じゃなかった」
「あたしも、ごめん」
「あっちでなんか飲むか」
「うん」
俺たちは二人で泳ぎながら、デッキチェアのところに戻ってきた。
「びっくりしました。ノリ君が女の子に襲いかかったのかと」
「ねえよ!」
「あ、またハンバーグ。ほんとに好きだよね」
「ああ、ハンバーグ超最高。マジで。はは」
弁当に蓋をしてカフェのほうに移動する。冷えた体がタオルに包まれ、やっと手の震えが止まった。
「それ大丈夫かな。結構痛んでるように見えるけど」
「このハンバーグ無敵だからオッケー」
話していると、入口のほうから波打ち際を歩いてくる人影が見えた。波なんて気にしていない様子でこちらにあるいてくる。背の高いノッポと、背が小さい太っちょ、もう一人は中肉中背だがやたら色の黒い女の3人組だ。派手な服装と化粧が彼女たちの一切の個性を奪っていた。高校生か中学生かもわからない。
「こんにちは。あなたどこのかた?」
ノッポの女が話しかけてきた。身長が高いのにスタイルが悪く見える女を初めて見た。
「出し物はもう見まして?」
俺が口を開かないうちにノッポは矢継ぎ早に質問をしてくる。
「あの芸者ったら、ひどく不格好で、ねえ」
「あれはマジ笑えた。写メとっとけばよかった」
「やめときなよ。あの人もきっと必死なんだって。貧相な顔してたジャン?」
ちひひひ、と笑い声が起きる。俺と葵は苦笑いを浮かべて棒のように立っていた。女が三人集まればそこに異空間は生まれるのだ。
「あ、紹介が遅れました。私は高須の娘なのですけどね」
ノッポの女が自己紹介を始める。やめておけばいいのに葵はちゃんとあいずちをうっている。
「高須の娘さん、ですか」
「そうです!ご存じありませんか?今度の共同出資に参加させていただいている高須グループの」
「姉さん、こいつら、流惣院のとこじゃないの?」
目の下のクマが愉快なチビ太が口をくちゃくちゃ言わせながらしゃべる。中国からの間違った贈り物だろうか。ノッポは明らかに整形したような不自然に大きな目をさらに開いてまあ!とわざとらしく声を上げる。
「流惣院?そうなんですか?」
何度も聞いたことがあるようなわざとらしい声。俺はそうだと言った。
「どうりで、みすぼらしい服!」
「水着なんだが……」
「連れている女の子もお似合いだね!どっから拾ってきたんだか」
さすがの葵もまずいラーメンを食わされたような顔をしている。
「姉さん見てこれ」
驚いたことにチビ太が俺のバックを勝手に漁っているではないか。そして弁当を取りだす。なになに、とチーコが戸惑っている。こいつはきっと友達の家に行っても勝手に冷蔵庫なんかを開けるのだろう。
「ひっでえ弁当。カラスが食べてそう!きゃは!庶民の皆さんはいつもこんなものを食べてるの?」
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!あたしの学校にもこういう弁当のやついる!超場違いじゃんって。モチみんなでいじめてるけど。あっ。何すんのよ」
「人の物を勝手にとりだして、悪口言うなんてどうかしてる」
葵が一歩前へ出てチビ太から弁当を取り上げた。葵が怒っている姿は残念ながらあまり迫力はない。
「なにこいつ」
「ウザすぎなんだけど」
「つうかあんたの親父なんか幅きかせてるみたいだけど、あんま調子に乗らないほうがいいよ。会社転がしてもうけてるみたいだけど、やばいことやってんじゃないの?」
「絶対そうだよ。お父さんもあそこは何かやってるって言ってた」
「つうかあんたの親父若づくりしすぎ。みんな引いてたからね」
「そろそろタイ―ホじゃね?タイーホ。見かけ的にも」
「ひゃっは、ちょ、それじゃあたしらもやばいじゃん?なんてねー。きゃははは」
葵はしっかりと弁当を抱きしめて三人組を必死に睨んでいた。俺はもうカヤの外だ。女同士の喧嘩にはなかなか入りこめない空気がある。
「何このパンピー。超ガンつけてるんですけどおおおおお」
「あんたたち、いつもそうやって他人を見下して、笑ってるんでしょ。人のことなんて何も知らないくせに。あんたたちに何ができるの?お金がないと何もできないんでしょうが」
「はあ?何、聞こえない。声が下品すぎて」
「何このマジメちゃん。会ってすぐ説教とか。超イタイんですけど」
「つうかなんかこの子トイレの臭いしない?きゃひゃ」
「ノリ君、止めてください!」
やっぱり女って怖いな~と傍観していたところにチーコの要請が入った。俺は葵の肩を掴んで一歩下がらせる。
「やめとけ葵。こんな豚どもに何を言っても無駄だ」
俺の言葉を聞いた女たちは顔を見合わせて爆笑しだした。女の口から唾が飛び、頬は釣針が刺さって引っ張られたかのようにひきつる。デブの女は笑うたびに腹の肉が揺れた。
「かっこいい彼氏じゃん。最高」
「うけるこいつら。マジで」
「こいつ自分の身分考えたほうがよくね?」
「つうかあんたの母親ずっと海外にいるんでしょ?捨てられたんじゃないの?」
「あーん。かわいそ~。はははは」
その時ドライバーの杉本がこちらに来るのが見えた。彼女たちもそれに気づく。。
「げっ、なんかきたし」
「あんたたちマジ憶えといたほうがいいよ」
「いこいこ」
災難は去っていった。二時間並んで目的の商品が買えなかった時のような疲労感だけが残った。
杉本は流惣を探しに来ただけらしく、すぐに戻ってしまった。葵は少しうつむき気味。俺はゴーグルをテーブルの上から持ってきて装着してやる。
「ちょっと、なに?」
「もうひと泳ぎどう?気を紛らわしてから、その後温泉に行こう」
今度は俺が手を引っ張って水の中へ入った。体が乾いていた体が再び濡れる。葵は潜水して深いほうへと泳いでいってしまった。俺は少し距離を取って後に続き、足がつかなくなるあたりで立ち止まった。思い切り息を吸い込んで、上を向いたままゆっくりと体を沈める。キラキラ光る水面に息を吐くと目の前が水のアートに変わる。後ろからはもくぐもった音が聞こえている。俺は幼い時に読んだ、「クラムボンはかぷかぷ笑ったよ」という文章を思い出している。
水面から顔を上げると、流惣がもうきていた。椅子に座って何か飲みながらこちらに手を振っている。
「ノリ、流惣院君にあんまり余計なこと言わないでね」
流惣に気付いた葵が俺の横に来て耳打ちした。
「余計なことってなんだよ」
「いわなくてもわかるでしょ?」そういうと葵はバシャバシャ水しぶきを上げて流惣の方へ泳いでいった。余計なことってなんだ?
悪い傾向だった。わかっていることを考えすぎてしまっている。人を殺してはいけないとわかっているくせに、わざとなぜ人を殺してはいけないかと尋ねるガキみたいだ。俺はもう一度潜って泡を吐いた。もうあのエメラルドの宝石はできなかった。言ってしまえば、全てが余計じゃないか。さっきのことは何一つしゃべらない。
「すまないね、ちょっと手間取って」
流惣は心なしか疲れているようにみえる。
「葵を呼んでいたのならそういえよ」
「いってなかったっけ?」
「きいてねえよ!」
流惣は俺の眼差しをうまくかわす。流惣は俺と葵が距離を置いていたことをもちろん知っていて、わざわざこんな小賢しいことをしたのだろう。
「なにか食いたいんだが」
「あたしもおなかすいちゃった」
「よし。いこう。僕もストレスたまったよ」
葵と流惣が前を歩く。