幼馴染という幻想を求めて
怖い夢を見ていた。俺は必死に何かにしがみついている。
「ちょ、ちょっと……」
「……あ?」
やわらかな2本の腕に包まれていた。二の腕にしがみつく猿。
「ああ、わるい」
「もう……」
眠たい目をこすりながら謝った。葵がどぎまぎしている。
「ご飯できたから。私、そろそろ帰るね」
「え、食っていけば?」
「でも……」
「二人分ないのか」
「あるけど……」
俺は立ち上がって葵の肩をポンと叩いた。
「食べようぜ」
食卓には家庭的な料理がテーブル狭しとひろげられていた。肉じゃが、若鳥の唐揚げ、海老グラタン、マグロとツナのサラダ、そしてハンバーグ。
テーブルに座ると、葵がお茶を持ってきた。エプロンの間から鎖骨が見える。よいしょ、とエプロンを脱ぎながら葵が斜め前に座る。
「これ、ちょっとすごすぎないか」
「よかった。家でいっつもやってるからね」
「食材費とか結構かかったんじゃ」
「気にしない気にしない。人に料理振る舞うのは趣味だから。いただきまーす」
「いただきます」
カチャカチャという食器がぶつかる音が響く。葵は箸の持ち方がちょっとおかしい。だが器用に食べ物を摘みあげ口へ運んでいく。俺はハンバーグを凝視。そこへやはり、恐れていた異質な声が聞こえてきた。
「ノリさん、ノリさん!」
能天気、元気、小鳥の歓喜のような鳴き声。俺の心は寒気。
「このハンバーグ……」
「え?あ、それね。うん。チーズハンバーグ。好きかなって。ハンバーグ作るの結構得意なんだよ!」
「こんばんは!また会えてうれしいです。ってあれ?ちょっとおお」
極めて冷静に立ち上がり皿にラップをかけていく。
「ひどいですよー!はがしてくださいよ!」
「喋ったら即排水溝に詰まらせるからな。雑菌の渦に浸けてやる」
俺は冷蔵庫を閉めた。中から、女の子の扱いがなってない、という不満が聞こえたが無視した。
「あ、ごめん、ハンバーグ嫌いだった?」
「いや、夜食に取っておこうと思って」
「そう……あ、別に無理して食べなくてもいいからね。あたしが勝手に作っただけだし、あ、あんまり味にも自信ないし」
「後で食べたいだけだってマジで」
「なんか今日、先生に呼ばれてたみたいだけど、大丈夫だった?」
「ひどい目にあったね。トイレに行こうとしてた時、屋上でフェンス乗り越えてるバカがいたんだよ。それでまあ、なんていうか止めようと思って屋上に行ったんだが、誰もいなかった。そこにいいタイミングで谷山がきてサボリ疑惑をかけられた、と」
「ちゃんと理由を説明したの?」
「したけど、まるで聞く耳を持ってなかったな」
「谷山先生、思い込み激しいから」
そういうレベルじゃないんだが、と俺は思う。
「気にしちゃいないさ。体育教師、宗教の勧誘、年寄りに席を譲らないババア。全部同じようなもんだ。通り過ぎるのを待つしかない。どうにもならん」
「みんながみんなそうじゃないよ」
「そうかな」
彼女は基本的に人を信用している。それは悪いことじゃないと思う。ただ自分にはそういう考え方はできそうにないというだけで。
「その女の子どうしたんだろう」
「さあな。他人の事情はわかんねえ」
食事が終わって、葵が皿を下げた。丁寧に食器まで洗う気らしい。俺は後ろから葵の膝の裏をじっと見ていた。きめ細やかな肌に青い血管が埋め込まれている。皿が一つ一つ彼女の手の中できれいになっていく。たいていの男なら溜息をついてしまうような光景だろう。
隣の家から、子供の笑い声がぼんやりと聞こえている。
「きょうは助かった」
「そう?こんなのでいいならまた作るよ」
「昔はよく家に来てたもんなあ」
俺と葵が何も知らなかった頃を思い出す。同じ学校に通って、二人で無邪気に遊んでいた風景。
「ねえノリ、あたしのこと怒ってる?」
重苦しい空気が下りる。彼女はこちらに背を向けたままで表情は見えない。
「……別に」
「本当の事言って。だって、そうじゃないとあたし……」
「そんなこと聞きに来たのか」
部屋の時計が八時の音を知らせた。それに驚いたのか、葵が持っていた皿を滑らせる。
「確かにお前の母親のせいで俺の家はめちゃくちゃになった。だけどそれはお前のせいじゃない」
「あたしのお母さん……」
「そうだよ。お前の母親とお前は別だ」
「ねえ、ノリが五年生の時にあたしに言ったこと覚えてる?」
五年生、それは俺と母親の二人だけの生活が始まった時のことだ。あのころは二人とも疲れていて混乱していた。母は仕事を辞めていたし、俺もほとんど学校へいってなかったような気がする。その細部は膜がはったようにぼやけていて、いまじゃほとんど記憶に残ってない。
「あんまり覚えてない」
「……また、ご飯作りに来るから。お弁当も、もしよかったら私が毎日持ってきてあげる」
葵が寄ってくる。父親に迫るあの女の顔を思い出す。母親と口論する姿、俺の頭をなでた時の手の柔らかさ。
「やめろ!」
フラッシュバックしてきた映像を振り払おうとして葵の手を押しのけてしまう。
「あっ」
綺麗に皮を切り取られた林檎が床に散らばる。黙って皿に戻していく。彼女の表情は戻らない。手がベタベタして気持ち悪い。
「今日は、もう帰るね」
彼女は静かに支度を済ませて家を出ていった。足音が遠くなる。テレビをつけ落ちたリンゴを洗った。長い手術を終えた後の医者のように深くソファーに座りこむ。どうしてこううまくいかないんだ。口の中のリンゴはちょっとバサバサした食感。
シャワーを浴びてからリビングに戻ってきた。冷蔵庫がうるさいのだ。さっきからずっと。
「なんだ」
全裸にタオル一枚のまま、冷蔵庫の戸をあけた。
「ひどすぎです。あんまりです。なんてこと言うんですか。葵さんがかわいそうです。外道です。男尊女卑。今すぐ謝ってきてください」
俺は戸を閉めた。
「うわああぁ。わたし実は閉所恐怖症なんです。これ以上こんな狭いところにいると気が狂いますぅぅぅぅぇええげえええ」
俺は無視した。
「お願いですよ~」
無視。
「もう何も言いませんから~」
無視。
「びええええええん」
ドアを開け泣きわめくチーズハンバーグを冷蔵庫から出してやった。
「ノリさんは鬼です!」
「次はもう出してやらんからな」
「ひいいいいいい。ごめんなさいごめんなさい」
俺はテーブルのほうに戻った。
「悪魔!鬼畜!ろくでなし!」
「うるせええええ!」
このやり取りを小一時間繰り返し、俺たちは心身ともに疲れ果てた。チーコも俺も、しゃべる気力がない。服を着る気力もない。
「せめて前くらい隠してください!」
さっき散々振り回されたのでしばらく全裸でいることにした。股ぐらがスースーして気持ちいい。人間自然が一番だ。
「悪いが俺は週の四日以上を全裸で過ごさないと気が済まないんだ」
「とんだ変態ですね。どうやって社会生活を送るつもりなんだか」
「全身にペイントを施して町を歩いてるんだ」
「うううう。穴があったら入りたいです!こんな人と一緒にいたなんて」
俺は冷蔵庫から葵が置いていった牛乳を取りだして飲んだ。洗いかけの茶碗がまだ少しある。
「なんでですか」
「うん?」
「冷たい理由ですよ。せっかく料理まで作ってもらったのに、信じられません。胃の中の物を吐いて謝るべきです」
「うんこになってからでいいか」
「最低です。幻滅です」
「それよりお前、なんでまたここに来ているんだ」
「なんか、ここから出られそうにないんです」
「なに?」
ソファーに身を沈めていた俺は思わず起き上った。一難去ってまた一難。どうやら悪い流れにつかまっているらしい。
「いるもなら、食べられた後、ひゅーんて意識がどこかへ飛ぶのがわかるんですが、今回は、なんだか鎖でつながれたみたいに引っ張られるんです」
「なんでだよ」
「わかりません。でも、前にもこんなことありました。その時は20年同じ家にいましたけど」
「20年だと」
「はい。家主が死ぬまでいたんです」
ということはもしかしたら俺は死ぬまで喋るハンバーグにつきまとわれるのだろうか。いつかノイローゼになりそうだ。
「迷惑な話だな」
「私も、どうしたらいいかわからなくて」
チーコは今にも泣きだしそうだ。俺は昨日のことを思い出した。もしかしたらこいつは想像を絶する孤独の中にいたのではないのかということを。俺のなかでチーコに対する感情は少し変わってきていた。
「わかった。明日から一緒に考えてやる。ただし学校から帰ってきてからな」
「本当ですか。ありがとうございます。意外といい人なのかもしれないと今思いました」
「心の中まで言わなくていいから。今日はもう寝るが、どうする?テレビつけとくか?暇だろ?」
俺はチーコを気遣った。少しくらい言うことを聞いてやってもいいかなと。葵のことに対する後ろめたさも少しあったのかもしれない。
「あの、私も部屋にお邪魔してもいいですか」
「えー、部屋が肉臭くなりそう」
「いくらなんでも失礼すぎます!アロマ的な効果があるんですよ!わたし!」
深くは考えないようにした。俺は皿を持って二階へ上がる。寝間着に着がえて、シーツを新しいのに変えた。机の上を少し片付けて、そこにチーコを置いた。
「窓、開けとくか?」
「いえ、大丈夫です」
「寝るぞ。あ、俺の睡眠を妨害したら殺すからな」
「あたしも寝ますから、大丈夫です。おやすみなさい!」
「おやすみ。ていうかお前も眠るんだな」
「眠るのは初めてです!」
俺は電気を消した。視界が奪われ、五感が研ぎ澄まされる。チーコの息づかいが確かに聞こえた。なんとなく、人の気配がするというのは落ち着かないものだ。
「お前も、夢とか見るのかね」
本当に疲れているときに限って、意識がはっきりしていたりする。少し気分を落ちつけたくてチーコに話しかける。
「見ますよ。けっこう」
「どんな?」
「私を食べた人が出てきたり、普通の景色だったり」
「人の夢を食ってるのかもな。獏みたいに」
「ばくってなんですか?」
「人の夢を食うと言われている動物だ。迷信だがな」
「まずい夢だったら嫌ですね」
「そうだな」
「ノリさん、葵さんのこと……」
「あいつの父親が、俺の母親に手を出したんだ。それでうちの両親の仲は劇的に悪くなった。修羅場になって、あいつの母親が近所に言いふらした。俺の母親が悪いと。色情狂いだとな。それで俺は学校で嫌な目に合った。両親は離婚。だがあっちの両親は仲良くやっていやがる。葵にはなんの罪もないがな」
「……」
「わかってる。いつかどうにかする。いや、既に終わってる話だ。だから何も言うな」
「はい。そうですね」
チーコは珍しく聞きわけがいい。いつもこうなら、悪くないのだが。
「お前はどんな夢を見たことがあるんだ?具体的に」
「たとえばですね……」
他者の声に耳を傾けながら眠りへと落ちていく。その昔、母親が絵本を読み聞かせてくれた時のような安堵感で。
朝、頬に違和感を感じて目が覚めた。
「……ですよ、だめですよお」
「……んん?」
見ると俺の腕と顔がおびただしい量の油にまみれて光っていた。驚いて起き上ると、シーツの上にハンバーグ。俺は肉の塊を抱いて寝ていたのだ。
「ぎゃわあ」
辺りは血まみれの様相を呈している。チーコにつていたケチャップが容赦なく寝具を襲っている。
「なんで布団にいるんだよ!」
「わかんないですよ。気づいたら勝手に……もしかして、ノリさんがあたしの寝込みを襲ったんじゃ……」
「ねえよ。布団これどうすんだよ……」
バタバタと着替えを済ませ、シーツを洗濯機に入れ、布団を干した。まるでお漏らしした子供だ。外は晴れていた。梅雨はもう明けたのだろうか。気温は高い。母親の姿はない。
「ノリさん時間!学校行かなくていいんですか?」
「やばい、時間ねえ!」
「ノリさん、いってらっしゃい!」
「あ、えと……いってくる!」
走りながら家を出る。途中コンビニに寄っておにぎりとお茶とガムを買う。息を切らしながらバスに乗った。人は少なく、席が空いていた。今日は気分がいい。
チャイムぎりぎりで校門をくぐる。いつもより遅いバスで来たため、葵とも流惣とも顔を合わさなかった。
賑やかな廊下を歩いている。弁当や買ってきた昼食を手に持った生徒たちのあいだを。手には三色ペン。
五分前まで教室で流惣達を待っていたのだが、来なかったので昼飯を買うついでにペンを返しにいくことにした。
昨日、葵を家から追い出してしまったので怒っているのかもしれない。いや、怒って当たり前か。流惣はおそらく彼女を一人にはしないだろうから今日はこっちには来ないだろう。
視聴覚室からは既に何か激しいビートの音楽が聞こえてきている。
ペンを剣のように握りしめてロック空間への扉を開いた。
「じゃぎぃええええええええええええええええええええい!」
「うわっ。なんだ」
顔をぐしゃぐしゃにしてエアギターらしきポーズをとっているキンが目に入ってくる。
「びゃうえええええええええええええええええええええええい!」
謎のトランス状態に入っている生物を無視して教壇のCDコンポを止める。
「ふぎぇえええええええええ……あれ。今村サン。ちわーす」
「お前なにやってんだよ」
「音楽聞いてたらテンションあがった!今のカートの叫びマネね。もう一回聴かせてあげる。ふげえええええええええええい!」
俺は無視してペンを机に置く。
「ここ置いとくからな。ありがとう。礼はちゃんと言ったからな」
教室に戻ろうとドアに手をかける。後ろから何らかの力が加わり体が前に進まない。みるとキンが全力で服を引っ張っているではないか。
「なんだよ!」
「お兄さん、昼食ならここで食べていきなさいよ」
「はあ?」
「まあまあ、いいからいいから。カワイイ子たくさんいますよ?」
「なんの誘いだよ」
「ペン貸したじゃん」
「礼いったじゃん」
「ペン貸したじゃんペン貸したじゃんペン貸したじゃんペン貸したじゃんペン貸したじゃんペン貸したじゃんカンぺしたじゃん!」
「最後間違ってますけど……」
「なんでもいいから~」
「はいはい」と席に座る。もはや子供をあやす感覚に近い。どうせ教室に戻ってもしょうがないのでここで暇をつぶすことにした。キンは俺の買ってきたサンドイッチを食い入るように見ている。
「食いたいのか?」
「うん!」
「ほら」
「わーい」
子育てというよりむしろ餌付けだ。キンはサンドイッチ三つを重ねて一気に飲み込んでしまった。
「んまい」
ぐちゃぐちゃと勢い良く食べる。机のうえであぐらをかいて座っている。恥じらいというものがないのか。
「食べ物をくれたついでに手伝ってほしいことがあるんだけど。あ、これ飲んでいい?」
俺の許可とは関係なく買ってきたコーヒー牛乳は勝手に減っていく。
「ついで、の使い方間違ってるよな?おい」
キンは全く聞いておらず、教室の隅から何やら引っ張り出してきた。
「これ!」
持ってきたのは赤い布。机より少し大きい。黒いペンで文字がいろいろ書いてある。王様は裸だ、だの、お前の耳はロバの耳、だの。
「なんだこれ」
「なんか書いて!」
「なんだよこれ。誰かへの嫌がらせじゃねえだろうな」
「いやーなんていうか芸術作品?みたいなもん」
「明らかに怪しいんだが」
「みんなの怒りを集めるのが趣味なの!」
「随分パンクな趣味だな。まあいいけど。てか何を書けばいいんだ」
ペンを渡されたはいいが、あまりいい言葉は思い浮かばない。
「彼方は世界に対する怒りはないのか!」
「いきなり言われてもなあ……」
「特定の誰かを思い浮かべるんだ!」
「谷山とか?死ねとか書けばいいのか?」
「ストレートすぎるよ。豚みたいなケツしてんじゃねえ、とか」
適当に、お前の脳みそタワシ、と書いてみる。
「まあまあかな」
「髪型がさけるチーズ」
「いいね!」
「マグロ笑いの天才」
「ベリーグッ!」
「脳みそイチゴジャム」
「油マムシ」
「屏風野郎」
「焦げた焼きうどん」
「忘れられたパンツのシミ」
「全身副流煙」
「できたー!」
完成した布をキンが身に纏う。びっしりと文字で埋め尽くされたマントは不気味だ。彼女はそれをつけたまま教室を出ていく。
「おい、待てよ!」
ものすごいスピードで疾走していくキンを追いかける。キンは廊下を歩いてる生徒を蹴散らすように走る。人混みが悲鳴と共に割れていく。俺は教師に見つかりませんようにと祈りながら後を追う。やがて中庭に出た。綺麗な花壇とベンチがいくつかある。キンは庭の真ん中に建っている創立者像のところにいた。
「これで完成だ!」
キンはポケットからおもちゃの王冠を取り出し銅像に載せた。王様は裸だ、と大きな字で書かれたマントを羽織った謎の銅像が目の前にあった。
「おい……これはマジでヤバいと思うぞ……」
中庭には数人の生徒しかいないが、その全員がばっちりこちらを見ている。それにここは校長室から丸見えだ。幸い校長室の窓にはカーテンがかかっているが、もし見つかったらどうなることやら。
「なんだ、いたのか。どうだ、なかなか面白いだろう」
「見つかったら反省文じゃすまないな。頼むから俺に罪をなすりつけるなよ」
「そんなことするか」
キンは校舎のほうに目を向けている。俺も気が気ではないが、ここで自分だけ離れるのもなんだか情けないので一緒にいる。陽だまりの中に俺たちは立っていた。ここだけ時間の流れが穏やかな気さえしてくる。ふと横を見ると校長室のカーテンがサラリと揺れた。
「そろそろ引き上げないか?」
「あ、谷山だ」
「サッサとかたずけるぞ……ってなんで剥がれねえんだ!」
あたふたと銅像の布をかたずけようとする。が、瞬間接着剤を使っているらしく全くとれない。谷山は校舎の中にいてガラス越しにその姿が確認できる。まだこちらに気付いてない。俺が焦っている横でキンが思いっきり息を吸う。
「谷山あああああああああ!馬鹿やろおおおおおおおおおおお!」
「ええええええええええええええええええええ!」
「誰だコラああああああああああああああ!」
「よし、逃げるぞ」
キンはそう言ったかと思うと脱兎のごとく駆けだす。谷山を見る暇もなく、俺も慌ててその場を去る。中庭から下駄箱へ移動し、人混みに紛れる。キンはとっくに姿を消してしまっている。
視聴覚室に戻ったが彼女はいなかった。仕方なく教室に戻った。もしかしてはめられたんじゃないかと絶望的な気分でその後の授業を受けた。しかしその日は結局何も起きなかった。次の日に呼び出しをくらうかとも思ったがそれもなく、視聴覚室はもぬけの殻になっていた。流惣も学校を休んでいるらしい。
奇妙な空白の中にチーコだけがいた。帰ってくると彼女の元気な声が響く。チーコと喋りながら食べて、寝て、自分の中に感情が戻ってくるのを感じた。人形となって学校生活を送り、帰ってきたら人間に戻る。そんな一週間を過ごした。
チーコとリビングで朝のニュースを見ている。ジャズが似合いそうな日曜日の午前九時。
この一週間、すっかりハンバーグと喋ることに慣れてしまった。チーコの無邪気な言動は心なごませる。このままでも対して困らないかもな。俺はベーコンを焼きながらそんなことを考えている。
「お料理、上手になりましたね」
「お前が作れ作れってうるさいからな」
「すごく上達してますよ。才能あるかもです」
俺は隣のスープ鍋に野菜とコンソメを入れた。キャベツをバスバス切っていく。まさか包丁をこんなに器用に使える日が来るとは。毎晩コンビニの弁当を食べる俺を見てチーコは自炊しろと言いだしたのだった。料理を作るのは好きではないが、「いざというときに、人に頼らなくて済みますよ」という説得にひっかかりまんまと俺は料理男子と化している。
「誰かになにかを頼るのは嫌いですか?」
「なるべくはな。昔、なんかの映画でな、妻が出ていったあとに炊事洗濯家事何もできない自分に気づかされる男の映画があった。その男は妻が出て言った日から一日中ぼーっとしてるんだ。ゴミが徐々に溜まっていき、着る服がなくなっても何もしないんだ。口を閉めて、ずっとどこか一点を見つめている。俺はあれを見たときこういう男にだけはなりたくないって思ったね」
「どうしてその男の人は奥さんを追いかけなかったのでしょう」
「古い映画だ。忘れちまったよ」
「奥さんは帰ってきたんですか」
「どうだったかな」
黒コゲ寸前まで焼いたカリッカリのベーコンと半熟の目玉焼きを皿に盛った。それをスープとともにテーブルにもっていき、焼いてあったパンにはさんで食べる。窓からサンサンと入ってくる光が部屋のほこりをきれいにする。ニュースでは相変わらずくだらなすぎるどうでもいい情報。ベーコンはうまい。
「私にはわかりません」
「なにが?」
「男の人がどうして動かないのか」
「めんどうくさかったんだろ。あ、スープに胡椒入れすぎたかな」
「子供ですね~」
「大抵の人間は普段無理して大人ぶってるだけだからな。ってかお前何才なんだよ……」
その時、近くに置いていた携帯電話が鳴った。静かに箸を置き、ディスプレイを開いた。流惣からだ。
「もしもし」
「おはよう。僕だよ。突然だけど、これから出かけないかい」
流惣の声は夏の終わりに吹く秋の風のようだ。
「どこにだよ」
「波のある場所さ」
「せっかくの週末にわざわざ出たくないね。外暑いし」
手元のリモコンをいじる。チャンネルを変え天気予報を探した。しかしどこもCMだ。どこかで俺を不快にさせるためのシンポジウムでも開かれているのだろうか。かたわらでは、さっきの番組に戻してくださいよー、とチーコの声。
「最近会ってなかっただろ?それに、気晴らしをしたいんじゃないかなと思ってね」
あきらめてリモコンを置いた。
「そんなに暇じゃねえよ」
「見るからに暇そうじゃないか」
コンコンと窓をたたく音。
「ノリ君、誰かいます!」
あわてたチーコの声に振り返ってみると、窓のところに怪しげな人影があった。下は真っ白いジーンズを履き、上は黄緑と朱色のサイケなアロハシャツを着ている。そしていまどきどこで売っているのかと聞きたくなるレトロな麦わら帽子。
突如現れた不審者は携帯電話片手に笑いながら鍵をあけてくれとジェスチャーしている。
「あの方、かっこいい服ですね。知り合いですか?」
「ただの不審者だろ。ほっとけ」
携帯電話を切る。
「なんかこっちに手とか振ってますよ。ほら、すごくフレンドリーに」
何も見なかったことにしてキッチンに立ち、お湯を沸かしにかかる。窓をたたく音がだんだん大きくなる。
「なんかいってますよ!なんかいってますよ!」
「かまうな。野良犬みたいなもんだから」
俺はティーパックを二つ出してカップに入れた。玄関のほうでガチャガチャ音が聞こえる。
「玄関の戸を開けようとしてます!」
「お湯が沸くまで待てんのか」
カチンと鍵が開く音が聞こえて男が中に入ってきた。
「グッドモーニング。素敵な朝を君にぃ!」
「なんですかこの人!」
「ピッキングしてんじゃねえよ」
「そんな乱暴なまねはしてないよ。これは合カギさ」
「友達ですか!友達なんですよね!」
「なんで勝手に合カギ作ってんだよ」
「君の心の合いカギもあるよ」
「この人なんなんですか!ノリさんのなんなんですか!」
「それ以上近づいたら熱湯かけるぞ」
「わざわざ紅茶なんて、気がきくね」
「お前のじゃねえよ」
「車からもう一人来てます!しかも土足で」
「坊っちゃん、前から車が来て、通れないからどけろとかふざけたこと言ってんですが、垂直落下式DDTかましてもいいですかね」
品のないピアスだらけの金髪の男が上がりこんできた。スーツがまったく似合っていない。まるでチンピラのようだが、彼が流惣の運転手だ。名前は杉本。
「やっぱりひどい味だね、インスタントは」
「無視するんですかあたしを。こうなったら騒いでやります!ピェーピェー!」
「坊っちゃん、あのババアやばいです。主に体臭がマジやばいです」
「お前ら……帰れ……」
一瞬で我が家のリビングはウォール街にある株の取引会場のごとき騒乱に陥った。
「車を移動してやれ。ん?」
「ひっ」
流惣がテーブルの上のチーコに気がついた。
「そのハンバーグは食うなよ」
流惣は興味深そうにチーコを見つめている。もしかしてこいつもチーコの声が聞こえるのだろうか。
「そんないやらしい目で見ないでください!」
流惣はふっと笑って、紅茶を俺に戻しながら、そんなにがっついてないさ、と言った。どうやら何も聞こえてないらしい。
「じゃあ早速行こうか」
「行くってどこに」
「さっきも言っただろ?波があってヤシの木があって、そういう素敵なところさ」
「ノリさん、このDVD一瞬借りていいっすか?マジすぐ返しますんで」
金髪がかってに棚を漁っている。
「杉本さん、前かしたやつ早く返せよ。いや、別に行きたくないし、水着なんてどこにあるかわかんねーぞ」
「全部こっちで用意してあるよ。どうせ暇だったんだろ?たまにはいいじゃないか」
「めんどくせえな」
「いいじゃないですか海。流木とかいっぱい拾えるし」
チーコが背中を押してくる。うーんと唸っていると、その迷いを流惣がすかさず嗅ぎ取る。
「君は、僕にけっこう借りがあったりしたようなきがするんだけどな~」
流惣は基本的にはずるい男である。彼が規則の厳しい学校の中で悠々と泳いでいるのも、財力であらゆる人間に借りを作っているからだ。俺もいろいろと助けてもらったことがある。
「へいへい。いくよ。着替えるからちょっと待ってろ」
「うん。いい判断だ」
流惣はにっこり笑って運転手と共に外に出た。どっかの物乞いが踏み込んできたせいだろう。部屋がひどいことになっている。
「お前も行くか?」
準備をしながら聞いてみる。もともと今日はチーコと外に出る約束をしていたのだ。
「え?いいんですか?」
「ま、見てるだけしかできないけどな」
「はい。行きます」
俺は蓋が透明の弁当箱にご飯と卵焼きを入れ一応弁当らしくした後、チーコをのっけてやった。
「狭いけど我慢してくれ」
俺は弁当をバックの中に入れた。表には高級そうな車が止められていた。中から流惣が手を振っている。
「邪魔するぜ」
俺たちは流惣の車に乗り込んだ。
「じゃあ行きますぜ」
「安全運転でな」
「もちっろんっすよ。決められた枠の中で最善を、これが俺のポリシーですから」
かくして車は走りだす。道路標識は無視して。