キュートなレイデー
授業はすでに始まっているが、俺はそれどころじゃない。さっきから鞄の中がうるさいのだ。
「おい、声が聞こえてるんならここから出せ。息がつまりそうだ」
俺はもちろん無視している。しかしいっこうに静かにならない。
「今教師が言った野狐禅って、どういう意味か知ってるか?」
「さっきのあの女、あれお前の彼女か」
「アチキとお話ができるなんてお前は運がいいな。とりあえず出せ」
内心いらいらしていたが、周りの人間に聞こえてないなら問題はない。嵐が過ぎ去るのを待とう。しかし俺は本当に何かにとり憑かれているのではないだろうか。あまりにも変なことが一度に起きすぎている。
「ふむ。あくまでアチキを無視するつもりか。ならばこちらにも考えがある」
ハンバーグバーガーがそう言ったかと思うと突然、鞄がガタガタ揺れ出したではないか。床とすれる音が鳴る。これはまずい。
別にハンバーグバーガーが見つかることはどうでもいいのだが、鞄の中には通学中の暇つぶし用に買った最新のゲーム機と音楽プレイヤーと携帯電話が入っている。教師に見つかったら即没収だ。
「やめろ、やめてくれ!」
俺は小声で必死に訴える。
「アチキは外に出たいのじゃー!」
「後で出してやるから」
「今じゃなきゃ嫌じゃー」
「てめええ」
まるでわがままなお姫様だ。しかも人を使うのに慣れているといった感じだ。隣の席にいる太った女が不審そうな顔でチラリとこっちを見た。俺はあわてていりもしないノートを鞄から出して笑顔を作ってみる。二コリ。女は、うわきも、という表情でプイと顔をそむけた。
「おい、早くしろ。アチキはもっとすごいことだってできるぞ、ためしに見せてやるか」
まるで人質を取った犯人のようだ。降参だ。俺はパンを素早く取り出し懐に隠す。
「先生」と俺は手を挙げた。
なんだ、と言いながら社会の教師が振り向く。周りの生徒の視線。
「ちょっとおなかが痛いんですけど」
「ああ?ちゃんと休憩時間に行っとけ」
「すいません」
教室には冷ややかな空気が流れている。俺は腹に隠したものを押さえながら教室を出た。
心持ち早い足取りでトイレへ向かい大便器の前へ立つ。
「おい、ここはトイレだぞ。アチキは外にいきたい」
今更だが、やはり食べ物がしゃべっていることに驚く。もうこの現実は受け止めなければならないのか。いや、今からでもやり直せるさ。俺は現実に帰る。
「お前まさかアチキをここに流すつもりか?」
「あらぶる魂よ静まりたまえ。そして臭い水の中で死ね」
俺は袋ごとハンバーグバーガーとやらを摘みあげた。作った人には申し訳ないが、もうこれは普通の食べ物ではないのだ。
「おいまて、そんなことしたらトイレが詰まってしまうぞ」
「知らぁぁぁん!」
俺はパカッと蓋をあけた。開けた瞬間すさまじい悪臭。中はまるで排泄物のパーティー会場だ。
「うげええ、こいつぁやばい。一体誰の仕業だ」
「おげええ。アチキの鼻がもげるぅぅ。鼻ないけど」
「あばよ妖怪ハンバーグバーガー」
「なぜおまえがアチキと話せるようになったか」
「あ?」
「アチキだけじゃないんじゃないか?声が聞こえるのは」
俺は手を止めた。ハンバーグバーガーの口調には余裕がある。こいつは何か知っているのか?
「家にあったハンバーグの声が聞こえたんだ。理由を知っているのか」
「臭くてうまくしゃべれなーい」
「鼻、ないんだろ……?」
「……」
「……屋上でいいんだな?」
「おお?行ってくれるのか。わーいわーい」
行くしかない。聞き出すしかない。これ以上話せる相手が増えてたら困る。俺は目の前に巨大ロボットが下りてきても乗らないし、特殊な能力に目覚めてもきっと隠して生きていく。俺は静かに、かつ好き勝手に生きていたいんだ。何かを背負ったり守ったりするのはごめんだ。リスクのない人生を!これが俺のスローガンだ。ゆえに変なことには巻き込まれたくないんだ。
「ちゃんと話してくれるんだろうな。約束は守れよ」
「アチキは約束を破ったことなーい」
「オッケー」
その後の馬鹿なやつめ!という声は聞かなかったことにして、俺は誰にもみつからないようにこっそりと屋上へ向かい重たい扉を開けた。
外は生温い風が吹いている。夏を直前に控えてふるえている。温度はちょうどいい。コンクリートの床に大の字で寝たくなる。しかし普通に立っていると他の校舎から見つかってしまうので、しゃがみながら給水タンクの裏へいき身を隠す。
俺は持っていたポケットティッシュを地面に敷き、その上にハンバーグバーガーを置いてやった。もちろんこいつが汚れたくないとか喚くからしょうがなくそうしただけだ。
「ふぃー。やっぱり外は最高だな。高いところに上ると、アチキがこの世を自分が支配している気になる。こう毎日食べられてばかりだと気持ちが内むきになるのだ」
「あっそう……」
しらねーよ、と思いながらフェンスの外の風景に目を凝らす。まばらな民家と、田園風景が広がっている。畑には腰の曲がった人影が見え、ゆっくりとした動きで何か農作業をしている。山の中に建つこの白い学園はさぞかし浮いて見えるだろう。自分だって別に田舎が好きでここへ来たわけではない。誰が片道一時間近くもかけてこんなコンビニもろくにないような所へきたがるのか。しかしそれでも、やはりこの静けさだけは、何とも言えない感慨を心にくれる。木々のざわめきに耳を澄ませ、水鳥がいる楕円形の湖を見れば、自然に穏やかな気持ちになれる。ショッピングモールはいつできてしまうのだろう。昔自分がいた町の学校を思いだす。やはりこっちのほうがいずいぶんましだと思える。
「もういいだろう。ぐずぐずしてられない」俺は時計を見ながらいう。
「じゃあそろそろ戻るか」
「待て、その前にちゃんと理由を教えろ」
「何の話だったかな」
「おい」
なんとなくそんなことだろうとは思った。中身がまるで子供だ。
「もういい。期待した俺が馬鹿だった。お前一生ここにいろ。蝿と友達にでもなるんだな」
俺は腰を上げ、出口へ向かう。
「人間っていうのはな、自分の見たいものしか見てないんだ」
「あ?」
またもったいぶった話し方。こいつはギリギリまで答えをいわない性格らしい。
「普段人間の意識というのは、70パーセント以上は外界の情報を無視している。見ようとしているものしか見えないし、聞こうとすることしか聞こえない」
「だからなんだ」
「つまり、アチキの声もお前が聞こうとしてるから聞こえるんだ」
「まてまて、俺はお前の声なんて一デシベルも聞きたいと思ってないぞ」
「お前の意識はあまり関係ない。別の部分が望んでいるのかもしれん」
「よくわかんねえな。俺は別に何も望んじゃいないんだが」
「自分の欲望に無自覚なやつはいっぱいいるぞ。わざと気持ちを誤魔化すやつもな。無理に気持ちを捻じ曲げれば心は歪む。そのつけはやがて無意識が払うことになる」
「いや、俺は正直に生きてるつもりだが……」
俺は嫌なものは嫌だと言うし嫌いなものは遠ざける。あまり我慢などしていないつもりだ。
「症状というのは内部で悪いなにかが進み、臨界点に達すると表面に出てくる。お前が自覚してないということは……」
そこで話が途切れる。不穏な間。俺はつばを飲み込んだ。
「結構、やばいってこと……?」
「さあな。ただの風邪みたいなものかもしれない。思春期のガキにはよくあることだ」
「俺はガキじゃねえよ。これ、ほっときゃ治るのか?」
「治るかもしれないし適切な処置が必要かもしれない。アチキもそこまではわからん。少年、何かきっかけみたいなものはないのか?」
「きっかけねえ……あるようなないような」
「曖昧だな」
たとえば両親が離婚したことがきっかけ?でも俺はそんなの大して気にしていない。しかもずいぶん前。今どき親が離婚しているやつなんて腐るほどいる。
「俺以外にもハンバーグやらと話せるやつがいるのかね」
「アチキに聞くな」
飽きてきたのか返事が投げやりだ。おまけにあくびまでしている。
「お前、もしかして適当に言ってないよな?」
「まあ自分のことは自分で解決しろや。人に頼ろうとしてる時点でお前は負けてるんだよ」
「てめえ!ただの丸投げじゃねえか!もういい。大した理由はない。無意識も百式も知らん!」
「アチキみたいなキュートなレディとデートするのがお前の欲求だったのかもな」
「キュートの基準をどこに置けばいいのかわからんがそうかもな」
「ところでおい、あれなんだ」
ハンバーグバーガーが驚いたような声を上げる。
「もういい、俺は帰るぞ。お前は売店に返す!」
「あっちの校舎の屋上見てみろ」
「はあ?」と言いながら見ると、もうひとつの校舎の屋上に人影があった。スカートをはためかせ、女子生徒がフェンスをのそのそとよじ登っているではないか。
「あいつ……なにやってんだ!」
少女はフェンスに引っ掛かるスカートに苦戦しながらもなんとか向こう側まで到達した。フェンスの先の足場は30センチ程度しかない。そこから先はまっ逆さまだ。風が急に冷たくなったような気がした。映画を見ていて、これから悪いことが起きるな、とわかった時のような嫌な感じがする。
「飛ぶ気か?」
「マジかよ」
少女は立ち止まったまま、小さなポーチから何かを取りだした。距離が離れすぎていてはっきりと見えない。
「クロ子、あれがなんだか見えるか」
「クロ子?アチキのことか」
「黒毛和牛なんだろ?」
実はさっきから名前を呼ぶのが面倒だったので考えていたのだ。
「お前、ネーミングセンスないな」
「見えるのかって聞いてんだよ!」
「見えん。あ、何か落とした」
少女は手をパッパっと横に動かし、ハトに餌をあげるような動作で手に持った何かを揺らしている。俺は少し前に学校で起きた事件を思い出した。
「あいつもしかして」
「知ってるのか」
二か月ほど前に、学校の廊下に弁当のおかずとみられる食べ物が散乱しているのが見つかった。もちろん最初はだれかが偶然落としたのだろうということになり、掃除担当者が片付けたのだが、それからも職員室の前にコーヒー牛乳がこぼされたり、部室のドアノブにマヨネーズが塗られるという事件が多発した。そして二週間前に、学校の門の前に尋常じゃない量のサケフレークがぶちまけられたことで問題が表面化し、全校集会が開かれた。校長は、こんなことは絶対に許してはならないと言い、犯人はすぐさまやめるようにと呼びかけ、それ以降特に何も起きていなかったのだが。
「最近ナマ物を学校でまいてたやつがいるんだが、そいつかもしれない。まさか女だったとはな」
「アチキも聞いたことがあるぞ。食べ物を粗末にするやつは許せん」
「ああやってなんかこう世の中に対する怒りとかを発散してんのかねえ」
「止めないのか」
「止めない。というか関わりたくないな。教室に戻ろう。誰か止めるだろ」
どうせろくでもないやつに決まっている。自分の怒りを他人に相談したり、折り合いをつけることができないやつか何かだろう。そういう手合いはこちらの言うことなんか聞きやしない。完全に自分の世界に陶酔しているんだ。勝手に自爆でも何でもすればいい。
「情けは人のためならず、だぞ少年」
「止めてほしいのか?」
「アチキは何もできない。いつも見ているだけだ」
止めてほしいのだろうか。クロ子の真意がわからない。まあたしかにクロ子からすれば食材は同族(?)なわけだし、見ていていい気はしないだろう。それに、俺も気にならないと言えばウソになる。この後彼女が飛び降りたりしたら俺はどうするだろう。風に揺られる女子生徒を見てそう思った。
「少年、あの女が飛び降りたら面白いのにとか思ってないよな」
「……思ってねえよ」
俺は扉を手で開いた。それから暗い階段を下りて、今いる第一校舎から第二校舎へ行き、それから女子生徒のいた第三校舎へ向かった。もちろん全力ダッシュだ。まず職員室へ行くのが最善の方法なのではと思ったが、クロ子がとりあえず屋上へ行けと言うのでそれに従う。
「どこだ」
再び空の下に出る。すでに人影はなかった。何の形跡もない。まるで初めから誰もいなかったかのようだ。
「まさか……落ちた、なんてことないよな」
「アチキたちに気がついて逃げたか」
俺は床に座り込んだ。息が上がっている。久しぶりに全力で走ったせいだ。
「とにかく、教室に帰るぞ」
「おい、そこでなにやってる?」
男の声がして、あわててドアのほうを振り向いた。ガタイのいい男がこっちを睨みつけている。体育教師の谷山が、いかつい顔で手負いの獲物を追い詰めるように確かな足取りで近付いてきた。
「授業さぼって昼食とは、いい身分だな。ああん?」
谷山は身長が一八六センチあり、ラグビー部の顧問をしている。目の前に立たれるとまるで大きな一枚岩のような威圧感だ。
「違うんですよ、これは」
「だまれ!」
レンガの家も吹き飛ばすような怒鳴り声で体がすくむ。一度怒りだした谷山はもう手のつけようがない。
「とにかくこい!」
俺は生徒指導室に連れて行かれた。指導室は机が一つだけ置いてあり、五、六人ほど大人が入ればいっぱいになるくらいの狭い部屋だ。通称独房。なるほどその意味が今わかった。
「どういうつもりだ貴様。授業なめてんのか。いつもさぼってんだろ!」
「いつもさぼっているわけではありません」
「ああ?なんだお前その態度は!自分が悪いことしたっていう自覚あるのか!てめえは気にくわないと思ってたんだ。目が真面目じゃないからな」
いつのまにか態度のことで怒られている。教師の十八番だ。怒れるところにどんどん話をすりかえる。この学校の教師は他の学校に比べると静かで品のいい人が多いのだが、体育教師だけは全国共通らしい。
俺はとりあえずこう説明した。昼休みに腹が痛くて昼食が食えなかった。授業が始まって治り、空腹を我慢できずにトイレで食うことにしたが、その途中屋上で女の子を発見。おそらく最近の食品ばらまき事件の犯人だろうと思い見に行ったが、既に姿はなかった。と。
「なんで先に職員室の先生に言わなかった?」
「パンを持ってたので、ちょっと言いにくくて」
谷山は腕を組んだまま投棄された二十年前の家電製品を見るような眼でこっちを見ている。俺は目をそらさなかった。そういうゲームだ。そらせば何をいわれるかわからない。しばらくお互い黙っていた。クロ子もなぜか黙っていた。こういう時こそしゃべってほしいのに。
「お前がやったんだろ?食い物のこと」
口を開いた谷山がそう言った。もちろん違うと答える。
「正直に言ったほうがいいぞ?俺はお前のためにいってるんだ」
やさしく語りかけてくる。緩やかな小川のように。谷山は本当にいい目をしていた。無抵抗な小動物を追い詰めているような気になっているのだろうか。
「俺が犯人なら、自分で言うわけないですよ」
話がどんどんややこしくなっていることにうんざりしながら応答する。
「調べられてばれる前に別の口実を作ろうとしたんじゃないか?なあ?どうなんだ!」
「誰かが女子生徒をみいてたと思いますよ。疑うのは証拠が出そろってからでお願いします。先生は探偵じゃないんですから」
「お前みたいな暗くて何考えてるかわからんやつはなあ、人から信用されないんだよ!」
谷山が机を思いっきり叩いた。ドン!と無駄に大きな音だけが響く。とにかく俺が気に入らないということなのか。自分のいうことを聞きそうにない生徒はビビらせて怒鳴りまくり、なし崩し的に全面降伏させるというのが彼のやりかたなのだ。だとすればこちらは極めて冷静に言葉を返すしかない。
「わかった。お前が全然反省してないということはな!そもそも屋上にいたのはお前なわけだ。つまりお前は……」
それからどのくらい説教を食らったかは分からないが、とにかく授業をさぼった、ということに関して俺は責められ続けた。全てを聞き流しながら部屋の壁を眺める。驚いたことにこの部屋には時計がなかった。二重の苦痛を与えるためか。怒られながら意識の片隅で四度目のチャイムを聞いた。二時間くらい経ったのだろうか。谷山は授業があるらしく、反省文を十枚書けと命令して出ていった。クロ子も没収された。俺はもう二回チャイムが鳴るまでじっとしていた。紙には何も書かなかった。