コヨーテたちの反撃
何かをあきらめると世界が変わる。途端に楽になったり、味気なくなったり。手を胸の前で合わせて、座って神父の話を聞いている。神父は若い男で、精悍な顔つき。黒い服に身を包み聖書を片手に語りかける様は優しい父のようでありまた友のようでもある。
祈り、歌い、語り合う。石造りの教会の中はぼんやりとした明かり。讃美歌を歌うときに隣りの生徒が歌詞の書かれた紙を見せてくれた。昼食の時間、久しぶりに後輩や先輩の話をした。信仰を生かし我を殺せばここは楽園のようだ。午後は風呂井が壇上に立ち、神の言葉を紹介していた。演説は完璧。みんなはうっとりしている。クラスの全員が彼を羨望のまなざしで見ていた。俺の心にわずかな暗雲が立ち込めた。しかし演説が終わり風呂井が俺の横に来てほほ笑んだ時、雲は晴れたように思えた。灰色の世界を俺は納得し、風呂井に笑顔で話しかける。
午後の三時にミサは一段落ついた。教会を出ると、焼き鳥やくじ引きなどの店が並んでいた。やっているのはこの学校の生徒だ。こんなことを月に一度やっていたとは知らなかった。俺はとりあえず家に帰ることにした。久しぶりにたくさんの人と喋って、神経が疲れ果てていた。私服の生徒達の間を縫って歩いていると、すぐに黒い雨雲が空を覆っていて夜のようになった。雨が降る前に帰りたかったが、途中で年老いた神父の一人が、君はなかなか熱心に講義を聞いていてすばらしい、と語りかけてきた。彼は自分が異国で育ったこと、そこでひどく貧乏な暮らしをしたこと。母が死んだこと。その時に神を見たこと。そして今は最愛の娘がいるというようなことを教えてくれた。やがて雷の音がなり、俺は雨が降りそうなのでもう帰りますといった。
汁物用のお椀にご飯が入っているような、奇妙な違和感を味わいながら校舎の横を歩いていた。嫌な気持ちではない。正直に言ってしまえば、自分がこんなにコミュニケーションに飢えていたことを思い知らされ戸惑っていたのだ。今まで何をやっていたのか。過去の自分が恥ずかしくなり歩を速めた。いい加減大人になるべきだ。
その時、すっと、頬に冷たいしずくが落ちてきた。ついに降ってきたか、と思いながらそのしずくを手でぬぐった。紫に近い赤色のシミが手についている。
「血……?」
上を向くと同時に、ガシャッ、とフェンスの揺れる音がして一瞬見えた頭部の影が退いた。何かが降ってくる。ワインの瓶?地面に激突。
ガシャーン!
目の前が真っ赤に染まり、はじけるように足が前に出た。意外だった。勝手に目が校舎への入口を探し、体がそこへ向けて一直線に動き出す。意識が少し遅れてついてくる。ワインを落としたのか?食材落としの犯人?俺を狙っていたのか?何故俺は奴を追っている?
正面のドアは全て閉まっていた。花壇を突き抜け開いている場所を探す。休日でも職員はいるはずだ。第二校舎の職員用玄関が開いていた。ゆっくりとみつからないように侵入する。靴はない。今いるのはコの字型になっている校舎の真ん中だ。彼女がいたのが第三校舎。俺は息をする音も聞こえないようにしながら第一校舎のほうへ急いだ。完全に勘だ。足音に反応できるように聴覚を研ぎ澄ませる。教室は閉まっている。廊下にある窓はわずかだ。俺は壁際に寄りながら第一校舎の廊下を覗いた。
いない。
続けて第二校舎の廊下に戻り死角になるところで待機する。ここならどちらで音がしてもカバーできる。息をひそめていると、ついに雨が降りだした。雨粒は大きい。みるみるうちに本格的に降りだし、サーっというノイズが世界に満ち溢れた。湿度がどんどん上がり汗が出る。ふと冷静になりこの状況の滑稽さに笑いだしたくなるが、抑える。チーコを思い出し切なくなった。と、その隙を突いて、横から何かのと音がした。第三校舎だ。俺はすぐさま第三校舎の廊下へ走る。しかし誰もいない。窓が開いた形跡もない。辺りを見回す。廊下の奥の扉に気がついた。やられた。体育館へと続く渡り廊下が開いていたのだ。
体育館は静けさに包まれている。出口は全て閉まっていた。教師が持っている鍵がないと開かないはずだ。一階の柔道場と剣道場の扉も閉まっていた。後は二階と三階だが、三階はカーテンを開けるための通路しかなく隠れる場所はない。ステージがある二階が逃げ込むには最適だろう。俺はひんやりしたドアを手で押しあけた。フロアはバスケットシュートがあり、バレーのネットがあり、奥にステージがある。今にもキュッキュっとバスケットシューズの音が聞こえてきそうだ。気配を殺してゆっくりと壇上に近づく。背後で音がした。体育の道具を入れる道具倉庫。分厚い鉄の扉が少し開いていた。
ガリガリガリガリ、と鉄を削りとるような音を立てながら扉が開く。中には部活動で使うさまざま道具が無造作に置かれている。
「お前だったのか」
カビ臭いマットのにおいが鼻をついた。バスケットボールが入ったかごと壁の間にうずくまっていた制服姿の葵がゆっくりとこちらを向いた。スカートから見えている太ももがぶるぶると震えている。
「お前だったのか。なんで!」
俺は葵の肩を掴んで揺さぶった。興奮していた。葵が小さな悲鳴を上げる。
「ど、どうしたの……?」
この期に及んでごまかそうとする葵をみて俺の脳内は完全に別の何かに支配された。
「どうしたじゃねえよ。なんでお前がここにいるんだ、え?お前が食い物をぶちまけてたってことはなあ。何の恨みがあるか知らないが、そのせいで俺はとんでもない目に合った。それともお前は最初から俺を貶める予定だったのか?」
葵がわけがわからにという顔をする。俺は構わず睨みつける。今までの苦しみを容赦なく葵にぶつける。彼女の目から涙がこぼれた。チーコ、流惣、失ったものを思い出す。彼女の涙は俺の心を冷ますどころか、
「泣けばいいと思ってんのかよ!あ?こっちを見ろ。目をそらすな。いつもお前はそうだ。泣けば嫌なことは全部誰かが見えないところへ運んでくれると思ってる。あのときだって、お前が一言いえば俺がいじめられることはなかった。だがお前はそうしなかった。泣きたかったのは俺のほうだ。そしてあろうことか中学にまできやがって。何もかもぶち壊しだ。流惣がああなったのだって全部お前のせいだ。お前が……きたから!」
彼女は放心したようにだらりと頭を下げたままただ泣いていた。俺はこれ以上怒鳴ることは無意味だとわかっていた。しかし怒りは収まらない。三年分の怒りが俺の視界を塞いだ。見えているものがどんどんぼやけてくる。俺はよろめきながら下がった。俺が何をしたっていうんだ。そう葵に吐きかけた。葵はただ、ごめんなさいと言った。そして、全部あたしが悪いの、と葵が呟いた時、葵の髪型がさっき逃げた女の髪型と違うことに気がついた。さっき逃げた女は髪がもっと長かった。いや、どうだった?思い出せない。自分の記憶が信じられない。全身の力が抜けていくのを感じた。葵の泣き声が母親の声に聞こえた。ぐらぐらと視界が揺れて、吐き気がしてきた。葵は取り憑かれたように謝罪の言葉をつぶやいている。やめろと俺は言った。葵はふらふらしながら、こちらに近づいてきて、あたしはどうすればいい?なにをすればいい?何でもするから許してと迫ってくる。涙にぬれた髪の毛が顔にかかっていて、ぞっとするほど艶やかだった。俺はたじろぐ。葵の息が顔にかかる。
「どうすればいいの?ねえ教えてよ。あたしだってずっと許してほしかったんだから。ねえ、こうすればいいの?」
葵が震える手で胸のボタンをはずし始めた。何度も失敗しながら二つのボタンをはずした。水色の下着が見えた。目が離せない。今すぐここから逃げ出したかった。頭の隅で邪な妄想が首をもたげた。緊張が熱気となり息がつまる。葵の肌が俺の体に触れる。様々な感情がとらえきれない信号となって思考を停止させていた。やめろ!と言ったつもりなのに声に出ていない。葵の目の焦点があっていない。そして、その手が俺の首筋に触れた。
「うわあああああああああ!」
俺は最後の力を振り絞り葵をマットのほうへ突き飛ばした。マットから大量のほこりが噴出し宙を舞った。葵がそのまま床へ倒れこむ。バレーボールのかごが倒れボールが俺の足元を過ぎた時、初めて俺に裁きが下った。それははじめ声となって俺の耳に届いた。
「おい!お前らなにやってる」
それからのことはあまり覚えていない。体育教師の谷山が入ってきて、葵を抱きかかえてどこかへ連れて行った。葵の違うんです先生!という泣き声が小さくなっていく。俺はその様子を高いところから眺めているような、現実離れした感覚で見ていた。俺はボールが散らばったままの体育館に立ち尽くし、妙な爽快さを味わっっていた。頭の中にあった重たい球が一気に凝縮していくような感覚に痺れた。その後、谷山に何かされたような気がするが覚えていない。俺は母親と一緒に校長室へ行き、何か言われた。事情が分かるまで自宅で謹慎しているようにとのことだった。帰りのバスの中で、母親が気にしなくていい、だとかいろいろなことを俺に言っていたような気がする。それは潮騒の音に似ていた。ようするに何を言っているかわからなかった。
いっさいの光が遮断された部屋で、クーラーもろくにつけずにうずくまったまま時間が過ぎるのを味わっていた。ベッドの上にいると、いろいろな感覚が狂ってくる。覚醒と混濁を繰り返す。たまに母親が部屋の外に食べ物を置くような音が聞こえた。鍵をあけることはなかった。空腹も、熱さも寒さもない。ただ耐えがたいのは、ひたすら過去を思い出すことだ。あの時ああすればよかったのではないか、あの時の選択が自分をこのようにしてしまったのではないか、というような自責の念が絶えずドアをノックする。しかしやがて逃げ道を見つけた。そんな時は自らを慰めればいいのだ。全ての血は下に落ちる。一度担任の教師が家に来たらしかったが俺は部屋から出なかった。母親が担任に、俺が部屋から出られない理由を色々と並べ立てていた。カフカの小説を思い出した。母親はなにやら必死な様子だったがもう遅い。今更そんなことをされたって、俺はどうすればいいんだ。さらに時間だけが過ぎた。目覚め、思い出し、慰め、眠る。いつかの記憶がよみがえる。俺は引き出しの奥から小さな薬の入った袋を取り出す。昔俺はこれを飲んでいた。一気に口の中に放り込む。もう一度ベッドへ入る。永遠の眠りを求めて。
「ノリ君!ノリ君!」
名前を呼ぶ声が遠くから聞こえた。意識が海底から少し引き上げられる。懐かしい、無邪気さいっぱいの温かい声だ。ついに俺も幻聴が聞こえるようになったのだろうか。寝汗を吸ってじめじめした布団の感触を確かめながらそう思った。でもこの感触が錯覚でないとだれが言えるのか。俺はまだ眠っていて、夢の中にいるかもしれないじゃないか。
「……ってば!起きてください!起きてくださいってば!こらー。起きろ!へたれ男ー!」
ガバリと布団をはねのけドアを開ける。瞼が目ヤニでふさがれて目の前が見えない。一歩踏み出すと足の先が何かにぶつかり陶器の擦れる音がした。
「ノリ君!こっちです!」
「……チー…………コ……?」
足元に食器が置かれていた。ご飯とスープとサラダ。それからハンバーグ。
「ただいま戻りました!」
「……本物なのか?」
「はい。すいませんでした!勝手に出ていってしまって、実は深い理由があって……あれ?どうかしました……?」
「……馬鹿……遅いんだよ……どれだけ心配したか……わかってんのかよ……俺は……」
「ごめんなさいです!」
「……あやまってんじゃねえよ…………別に……あやまってほしいわけじゃ……」
「……もうどこにも行きません。約束します」
「…………馬鹿野郎……」
安心と共に、今まで張りつめていた糸が切れた。感情のダムが決壊する。俺はチーコにすがりついて、子供のように泣いた。
「…………よしよし。もう大丈夫ですよ」
俺は久しぶりの他人の温かさに触れた。本物の温かさだ。祈って手に入るようなものじゃなく。
何もかも出しきって、少し落ち着いてきたころ、俺番に動いたのは俺の腹。
「……ノリさん、お腹なってますよ」
「……む、なんか食うよ」
チーコから身を離す。そこでやっと部屋の惨状に気がついた。ここで飯は食べたくない。というより不可能だろう。母親は一階にいるのか、階段の上から覗き込むように様子をうかがう。
「お母さんはとっくに夜勤に行きましたよ」
「あ、ああ。そうか。ということは……今何時だ?」
「もう夜の九時です。それより、先にお風呂入ったほうがいいと思いますよ。ドブ沼に生息するザリガニみたいな臭いがしますから」
「……はい」
「ところでノリ君、大事なお話があります」
シャワーを浴びてリビングへ行くとチーコが神妙な雰囲気で待っていた。いつになくかしこまっている。俺もなんとなく空気を読み、正座してチーコの前に座る。
「あ、別に食べながらでいいですよ」
俺は冷蔵庫からチーズとピーナッツを出してきて再び正座。
「まず、私がここに戻ってこられなかった理由ですが、私はある場所にいました。まあ……はっきり言ってしまいますと、ノリ君のお母さんの記憶の中にいました」
「はっ?」
「うわっ、きたない!」
「あ、すまん」
俺は飲んでいたスープを吐きだした。布巾を持ってきてこぼれた汁をふき取る
「最初、私は誰かに食べられるとそのまま夢を見ると言っていましたよね。でもそれは夢じゃなく、その人の記憶だということが分かりました。記憶というか、イメージだとか意識だとかがごちゃまぜになった情報と一つになっていたんです。なぜそれがわかったかというと、ノリ君のお母さんに食べられた後、私はノリさんの子供のころの映像を見たからです。あのころはかわいかったのに……っていやいや、それで私は、ノリ君の過去をかなり集めて回ったんです。把握するまでに時間がかかりましたが、いろいろとわかりました」
なんだかよくわからないがすごい話だなー、と俺は飯をかきこむ。正直何をっているかよくわからない。
「ノリ君は、葵さんに謝りに行くつもりでしょう?」
「それも見てたのか。ああ。そうだ。あいつを犯人だと思い込んで……ひどいことしちまったからな」
途端に喉が狭くなったような気がした。ちゃんと謝らなければいけないのはわかっていたが、具体的なことは何一つ決めてない。ずっとその問題からは逃げていたのだ。それを今目の前に突きつけられて、胃がきりきりしてくる。
「流惣のことだって、ただの金持ちだと思っていた。風呂井のことも。俺の思っていたことは全て間違いだった!俺は現実を見てなかった。それを思い知らされた。もう自分を信用できないんだ。だから風呂井の言うとおりにしようとした。自分を殺して教会にも行ったんだ。だが結果は……」
箸を放り出す。チーコとの再会で、少し元気が出ていたが、根本的な絶望は変わっていない。
「ノリ君は、葵さんに謝りに行く前に、正しい現実を認識する必要があります。間違った認識を抱えたまま何を考えても間違っているのです。今はちょうどサングラスをかけている状態です。それをまず外さなくてはいけません。おそらくノリ君の記憶はある場所から歪められてます。ノリ君のお母さんを通して私がちゃんと見ましたから」
「教えてくれ。どこから俺は間違えていたんだ!」
チーコは沈黙した。
「…………どうした?」
「いえばショックを受けるかもしれません。今まで自分が信じてきた世界を否定されるのは耐え難いものでしょうから……」
チーコはとても言いにくそうだ。それほどのことなのだろうか。
「苦痛なら十分味わった。自分が間違っていたこともわかった。今なら大丈夫だ。お前の言葉を全部受け入れる」
そうですか、と言ってチーコは俺の本当の過去を語り始めた。俺はこう思った。いまさら何を恐れる必要がある?俺はほとんどの物一度失ったのだ。しかし聞き終わった後俺は再び自分の部屋に籠らざるをえなかった。聞かなければよかったと思った。チーコの話は俺という人間を根本から覆しかねない内容だった。




