死にたがり
このろくでもない世界で生きる意味なんてあるのだろうか。
普遍的で変わり映えのない、なんてことのない世界に私は飽き飽きとしていた。
普通に学校に通い、普通に過ごす毎日。どうしようもなく面白くないそんな世界を私は嫌っている。
しかし、突然目の前で超能力バトルが始まったり、動物がしゃべりだしたとしたら、この世界を好きになるかと問われると、否としか答えられない。
結局、私はこの世界の何が嫌いなのだろうか。
朝。いつもの一日が始まる。
いつも通りの時間に目覚め、買い置きの菓子パンを口にする。
ほとんど機械的に流し込んだ後、学校の支度をする。
準備を終えた私は、無言で家を出た。これもいつも通りである。
今日の天気は雨なので、私は薄いビニル傘を開いて学校へ向かった。
昼。
いつものように授業を受けた後、私は自分の席で昼ご飯を口にする。昼ごはんは購買で買ったパンである。これも、いつも通り。
周りのグループからは、中間テストが終わったからか、夏休みの予定について楽しそうに話している。
私が所属するグループでもニコニコとお話している。
「○○ちゃんは夏休みどうするの?」
「私はぁー、彼氏とぉー、海に行くんだぁー。」
「へー、彼氏さんと仲良くやってるんだね」
他愛のない、意味もない、なんてことのない会話。一言目を言った彼女からしたら、何気ない話題を振っただけなのだろうが、間延びした二言目を放った彼女によって、三言目を言った彼氏が一度もいたことのない彼女の言葉にイラつきと皮肉が混ざった。
くだらない人間関係。こんなものに時間をかけても、得られるのはいつ砕けるかわからない友情のようなものと精神的疲労のみである。
しかし、このくだらない人間関係をやめるわけにはいかない。やめてしまえば、友情のようなものが身体的精神的苦痛にかわるからである。
学校という社会では、一人でいるということがひどく目立つ。そして、一人でいるということは弱者であるということであり、とても狙いやすいただのカモになるということである。弱者を虐げることを好む強者はこれを逃すわけがない。
食事が終われば、次の授業が始まるまで長々とおしゃべりが続く。私も会話にうまく入りながら、まるで一緒に楽しくおしゃべりしているように見せる。
実際はうまく相槌を入れているだけなのだが、とにかくおしゃべりがしたい彼女たちはこれに気がつくことはない。多分、一生気がつかないのではないだろうか。
窓の外に描かれる景色は、灰色の雲と雨粒で埋め尽くされている。
夜。
時刻はすでに八時を回っている。しかし、自宅の明かりはついていない。
決して私の両親が仕事熱心だからではない、とだけ言っておこう。
鍵を使って扉を開け、家に入る。もちろん無言である。
家はもちろん誰かがいるわけもなく、私は適当に夕食を摂った後、入浴する。
それからは、ただ宿題を片付け、明日の準備を終わらせる。
そこまですれば、大抵いい時間になるので、私は布団に潜り込む。
ベッドの中で小さくつぶやくいつもの言葉。それだけを思いながら私は瞳を閉じた。
“また死ねなかった。”
「新入生?」
ある昼休憩の話題に上がったのは、私が一切予想していなかった言葉。思わず、食事の手を止め尋ねてしまう。
「あれ、食べてる途中に話すなんて珍しいね。そんなに気になる?」
軽く茶化す彼女に私は言う。
「うん、この時期に珍しいなって」
「だよねー。普通、学期の始めとかなのにこの時期なのは不思議だよね」
それから彼女たちは適当な予想をつけ始めた。夫婦関係の問題だとか、前の学校で何かあったんじゃないかとか、当の本人からしたら余計なお世話としか言いようのない想像を繰り広げている。
しまいには、かっこよかったらいいなぁとか、小さくてかわいい子だったらいいなぁとか、もうひどい有様である。何故ただの季節はずれな転入生にそこまで求めるのか、私は解らない。
しかし、興味は沸く。時期外れな転入生、何かあるかもしれない。結局は私もそういう人間なのだと、自己嫌悪に陥りながら窓を見る。
今日も絶賛梅雨日和。夏は、こない。
「えっと、××から引っ越してきた△△です。よろしくお願いします」
彼、季節外れの転入生はいたって普通の挨拶をし、席にかける。
見てくれはかっこいいというよりかわいい寄り、背丈も高くなく中くらい、そんな感じである。
昼休みが来た途端、その子の周りには人だかり(主成分:女)ができ、質問攻めにされている。
私と一緒に食べるグループは、私以外がすべてそのひとだかりの成分となっているため、今日は私一人。静かに過ごす昼休みは格別である。
窓には叩きつけるように雨が降っている。でも、気分は悪くない。
転入生くんが教室に慣れるには時間を必要としなかった。
相変わらず人垣ができるほど、彼の机には人が集まっている。しかし、成分は男と女が半々だろう。彼はフレンドリーなようで、男女隔たりなく接しているためか、男女ともに人気が高い。
しかし、今日は違った。
「えー、△△くんは今日は風邪で休みです」
初老の教師がHRで放った言葉によって、クラス中が男女ともに残念そうな表情に変わった。ここまで愛される位置をこの短期間で得た彼はいったい何者なのだろうか。
「そこで、今日のプリントを誰かに運んでほしいのだが」
そこで、クラスメイトは面白い反応を示した。あそこまで人気なのだから、誰かが率先してやりそうだと考えていたのだが、クラスメイトは一斉に視線をそらし、口を閉ざした。面倒事を押し付けられる標的にならないようにだれもが自己の主張をしなくなった。
こうなってしまうと、後は学級委員長を決めるときのような嫌な空気が流れる。しかも、今回は親切心を尋ねるものであり、誰も手を上げないということは、誰一人として親切ではないという証明でしかない。
愛されているように見えた彼は、結局は愛玩動物レベルの物らしい。哀れである。
私もクラスメイトにならって無言を貫いていた。すると、この静寂を破る声が一つ。
「□□ちゃんは部活に入っていないので、適任だと思います」
私が所属していないグループをまとめる女から放たれた一言は私を名指ししていた。
「え、ちょっ、まっ・・・!?」
突然名指しされた私は、うまく切り替えせずしどろもどろになる。
よく考えれば、その女は私と敵対しているグループの一人で、声が聞こえた時点で身構えるべきだったのだ。物思いにふけていた私は即座に切り返すことができなかった。
「□□さん、まかせていいかね?」
ここまでくればほとんど詰みだ。断れば、薄情な奴とレッテルをはられる。あの女はそれを目的に私を名指ししたのだろう。
「はい、まかせてください」
仕方なく私はプリントを受け取った。確かに部活も入っていないし、用事があるわけでもないのだが、面倒事は最小最低限に抑えておきたかった。しかし、今後の学校生活に支障を来したくないので諦めることにする。
あの女は明らかに舌打ちした顔だったのが唯一の救いだ。お前の望み通りに動いてやるか。
先生から渡された地図を見ると、意外と自宅に近いことが判明した。これはラッキー、早く帰れそうだ。
振り続ける雨をビニルの傘で防ぎながら、パシャパシャと歩く。靴は濡れ、スカートの端も跳ねる雫によって黒い染みを作り出す。
梅雨はそろそろ明けてもいいはずなのに、振り続ける雨が梅雨明けという希望を流す。
いつもの帰り道から、寄り道をするような形で転入生くんの家にたどり着いた。
雫が垂れる傘を玄関横に立てかけ、チャイムを鳴らす。
しばらくして扉が開かれる。出てきたのは彼の両親……、ではなく寝間着姿の彼自身であった。
「お待たせしました……、ってあれ、□□さん?」
「あ、うん、突然ごめんね。これ今日のプリント」
「わざわざありがとう、大したおもてなしが出来ないけど、上がってかない?」
「そんな、風邪引いてるのに悪いよ」
「一日寝てたらだいたい治ったんだ。□□さんがよければ、だけど」
「じゃあ、お邪魔しちゃおうかな」
今となっては何故こんなことを言ったのか解らない。転入生くんに単純な興味があったのか。それとも、ただ雨の中を歩いてきた疲れを癒したかっただけなのか。
案内されるままに、私は転入生君の家にお邪魔した。
リビングに通されると、彼はちょっと待っててと言った後、キッチンに引っ込んだ。
彼が動く音以外、何も聞こえない辺り、この家には彼しかいないようだ。両親はともに仕事だろうと適当に推測する。
家の内装はいたってシンプル。家具も全体的に少なく、引っ越ししてきたばかりだということを知らせてくれる。
「お待たせ」
キッチンから出てきた彼の手にはお盆が握られており、お盆の上ではカップと器が置かれている。
カップには濃いピンク色の液体で満たされており、甘酸っぱい香りが部屋に広がる。器にはクッキーが並べられていた。
「口に合うかわからないんだけど、よかったらどうぞ」
差し出されたカップを飲まないという選択肢は私にはなかった。
ありがたくカップを頂戴し、口に運ぶ。
鼻腔をくすぐる芳醇な香り、主張しすぎないさわやかな甘みと確かな酸味、アクセントといして多少の渋みが私の口の中に広がる。
「おいしい」
ふとこぼした私の言葉に彼はにっこりとした笑顔で答えた。
そもそも、誰かのために作られたものがおいしくない訳がない。久々に私のために作ったと解るものを口にして、他人の家にいるにもかかわらず、私は不思議にも安堵していた。
「よかった、久々に淹れたから自信がなかったんだ」
「うん、とってもおいしい。これ、なんていうの?」
カップを空にして尋ねると、彼はお代わりを入れながら答える。
「リトルプリンセスっていうハーブティー。よかったらこのクッキーもいかが?」
進められるがままにクッキーを口にする。サクッとした触感とともに、焼き菓子特有の香ばしさが口の中を駆け抜ける。そして、くどくないがしっかりとした甘さを伝える。
「これもおいしいね、どこの?」
何気なく尋ねたつもりなのだが、彼は少し赤くなった後、つぶやいた。
「自分で作ったやつの残りなんだ、それ。口に合ったようで僕もうれしい」
ぎこちない笑みを浮かべる転入生君。照れているのだろう。
話題の方針を変えるため、私は手短な話題を振る。
「ほんとに風邪は大丈夫なの?」
「うん、ちょっと引越しの疲れが風邪として出てるだけだし、しっかり寝たからもう大丈夫。心配してくれてありがとう」
見たところ、転入生の姿は寝間着姿以外、普段と変わらないように見える。本人もこう言っているのだから本当に大丈夫なのだろう、と適当に結論付ける。
「そういえば、私たちって初対面だよね? なんで私の名前が分かったの?」
単純に沸いた疑問をそのまま彼に投げかける。彼はなんでもないようにスラスラと答えた。
「あのクラスで僕と話したことがない人なんて少ないからね。名前を確認するくらいには興味が沸くよ、普通」
そういうものだろうか。少し納得しづらいが、別に追求するようなことでもないため、私は話題の方向を変えることにした。
「どう、この町は?」
「うん、僕が元いた都市では灰色のビルと霞んだ空しかなかったんだけど、この町は自然に溢れていいね」
逆にいえば自然しか主張できるものがないのであるが。ただの自然にそこまでの感想を持つことができるほど都市には自然がないのだろうか。
「クラスメイトのみんなとも仲良くしてもらって僕は満足だよ」
どこか寂しげに語る彼に私は何か引っかかって仕方がなかったのだが、とりあえずその場をうまく流した。
それから他愛のない会話をし、頃合いを見計らって私は帰ることにした。計算づくな自分の本性に嫌気がさす。
「それじゃあ、そろそろ帰るね」
「うん、わざわざありがとう。気をつけてね」
お代わり用のポットの中身や器に盛られたクッキーがなくなったのを見計らって私は切り出した。
彼と別れを告げて雨の下に戻る。ビニル傘をたたく雨音が心地よい。
私はちょっとだけいい気分で帰宅した。
珍しく明かりのついた家に帰ると、リビングから両親の怒鳴り声が聞こえてきた。
「あなたのほうが稼ぎいいんだから、あなたが育てなさいよ!」
「育児は女って決まってんだろ! そもそも俺に育児をする余裕なんてない!」
「育児って、もうあそこまで成長したのよ!? そこまで気にすることじゃないじゃない!」
私はいつものように無言で家に入ると、そのまま静かに自分の部屋に逃げた。
夕食なんて食べる気がせず、風呂だけ入って私は布団をかぶる。まるで、何かから隠れるように。
そして、いつものようにつぶやく言葉を聞きながら私は眼を閉じた。
転入生君は次の日には普通に学校にやってきていた。
周りからしつこく風邪の容体や体の調子を聞かれているが、その誰もが彼にプリントを配るという面倒事を嫌った奴らだと知っていると、本当に友情というものはくだらないものだと思う。
彼も終始笑顔で質問に答えている。なにもあそこまで馬鹿真面目に答えなくてもいいのではないのだろうかと、勝手に思ってしまう。
今日は珍しく雨は降っていないようだが、空は灰色の雲で覆われている。
転入生君が風邪から復帰して三日後、転入生君はまた学校を休んだ。
欠席理由は確か体調不良だったような気がする。
気がつけばまた私がプリントを運ぶようになっていて、そこに拒否権など存在しなかった。
今日も雨が降っている。梅雨なのでしかたないのだろうが、たまには雲以外の空が見たいものである。
二度目の訪問なので、地図も必要なく、降り続ける雨の下、私はたどり着いた。
チャイムを鳴らし、誰かが出てくるのを待つ。
「お待たせしました」
出てきたのは転入生君で間違いないのだが、顔は赤く火照っており、額には水色のシートが貼られている。寝巻き姿は変わらないのだが、前と違って、少しフラフラしている気がする。
間違いなく病人然としたその姿に私は驚きつつ、プリントを差し出す。
「これ、今日のプリント。……、大丈夫?」
「うん、見ての通り。ごめん、今日はおもてなしできないや」
「そんな、しっかり休んで、明日学校に来てくれるだけで私はうれしいよ」
私はただお世辞を並べ続ける。本心など、他人に伝えれるわけがない。体調を尋ねたのも、学校に来るだけでうれしいというのもただのお世辞。深い意味などない。
「ごめんね、ありがとう。それじゃ」
それだけ言うと彼は引っ込んだ。私もまた明日ね、と本心にもないことを言う。
さて、今日の役割は終わったことだから家に帰ることにする。
家では今日も両親が口論していたが、私には関係ないと割り切り、一日を終えた。
次の日、彼は登校した。比較的元気ではあるが、本調子でないことが遠目で見てもわかる。
そのためか、今日は彼の周りに人垣ができることはなく、ちらほらと話しかける人がいるくらいだ。
私もいつもどおりに授業を受け、昼ご飯ではいつものメンバーで過ごしていたいのだが、
「ちょっといいかな?」
おしゃべり(という名の腹の探り合い)に興じていた私たちに転入生君が話しかけてきた。
「どうかした?」
例の彼氏いない女が彼に食いついていく。しかし、彼はその彼女にではなく、
「□□さん、昨日はありがとう。これ、お礼ってことで」
差し出されたのはきれいにラッピングがされたマドレーヌ。黄金色に焼けたそれは食後の私の胃袋を的確に刺激してくる。
「あ、うん、ありがとう」
貰わない訳にもいかないので、ありがたく頂く。すると、彼の用件はそれだけだったのか、彼は自分の席に戻っていった。
「ねぇー、□□ちゃん、△△くんとどんな関係?」
絶対にくるであろうと予想していた質問をちゃんと尋ねてくれるあたり、この彼女は思いのままに行動する性質なのだろう。
「昨日プリント届けたから、そのお礼じゃないかな?」
無難にかわす。しかし、まだ終わらない。
「でも、普通そこまでするものかな?」
これは彼氏いない女の言葉。私は彼じゃないんだから知るわけがないのに、聞いてくるあたり、絶対に狙っている。
「さぁ、義理堅い性格なのかも」
これも、なんともないようにかわす。というか、この手の質問は本人にすべきであって、私に聞いても明確な答えは得られないだろうに。
「えー、もしかして彼が狙ってるとか?」
ここで爆弾を投下してくるのは普通に見えるようで一番したたかな女。
わざと教室中に聞こえるトーンで話し、女子の半数から鋭い視線が私に突き刺さる。
私が悪いわけでもないのに、突き刺さる視線は明らかに値踏みをするなにか。多分、彼とつりあうかどうかを調べているのだろう。分かるわけがないのに。
「まさか。私はただ親切でしてるだけだし、そういうの困るよ」
「そうだよねー、彼が□□ちゃんを狙ってるわけないよねー。」
遠まわしに、お前には不釣合いなんだよ、というアピールを混ぜてくるしたたか女。
逆に言えば周りに響くこの声のおかげで、私に対する視線がなくなるのだから、プラスマイナスゼロということにしておく。
それからいつものような他愛の会話が続き、昼休みを終えた。
学校が終わり、帰宅すると今日は静かだった。
リビングでテレビをつけ、なんとなくテレビを見ながら時間をつぶす。
ふと、マドレーヌの存在を気付き、バックから取り出してほおばった。
香ばしさの後に、柑橘系のさわやかな甘みが口の中に広がる。
最近口にしているのは人工的な何かであって、このような手作り感溢れるものを食べることはそうそうない。特に最近では、転入生君が作ったクッキーぐらいだろうか。
あっという間にマドレーヌを食べ、私は静かなリビングを眺めながら深いため息をついた。
今日も彼は休んだ。
マドレーヌをもらった次の日、彼は体調不良を理由にまた休んだ。本調子でないのに無理したのがよくなかったようだ。
今回も私がプリントを配るのかと思いため息をつくと、
「先生、今回は私が行きたいです」
この声は、同じグループの彼氏いない女。とうとう行動に出るらしい。
先生がいいかね? とこちらに無言で尋ねてきた。
ここは素直に譲るべきなのだろうか。確かに転入生君の体調も気になるが、いままで押しつけていた彼女たちにいいようにされていたことが気に食わない。
「いえ、先日受け取ったお礼もしたいので私が行きます」
いつも波風を立てないように過ごしてきた私が明らかな反抗を示す。
彼氏いない女は忌々しそうにこちらを睨みつけてくる。知ったことではない。
「では、□□さんお願いしますね」
先生は彼女に尋ねるまでもなく私にプリントを渡した。先生からしたら、私に気を利かせてくれたのだろうが、周りからは明らかな敵意が向けられる。
昨日のあの一件以来、私は相当警戒されているのを肌で感じる。しかし、してやったり感に包まれた私にとって、それは大したことではなかったのだった。
今日の彼はいつも通り、元気にしていた。話を聞くと、午前中に治ってしまったらしい。
「今日も来てくれると思ってた。上がってってよ」
お言葉に甘えてお邪魔させてもらうことにする。寝間着姿の彼は、学校の時と変わらないくらい元気で、本当に体調不良だったのかと疑いたくなるくらいだ。
リビングに通されると、彼はすでに準備していたのか、紅茶とカップケーキがすぐに運んできた。
「今回の紅茶はオレンジペコなんだけど、どう?」
いただきますと二人合わせて言ったあと、まずは紅茶に手を付けた私に彼は訪ねた。
正直、紅茶の名前を言われてもさっぱり分からないのだが、この紅茶が前飲んだものと違うこと、この紅茶はこの紅茶でおいしいということがわかる。
「うん、おいしいよ」
簡潔で率直な感想を伝えると、彼は安心したような笑顔を浮かべると紅茶を飲み始めた。
カップケーキにも手を伸ばす。見た目的にプレーンとチョコ、抹茶だろうか。少しの逡巡の後、プレーン味を口に運んだ。
ふんわりとした香ばしさとともにふわふわの触感と確かな甘みが口の中を広がる。
思わず笑顔になってしまう。そんな力がこのおもてなしにはあると思った。
カップケーキの屑が落ちないように食べきると、彼はにこにこ顔でこちらを見つめていた。
どうかした? という意味を込めて首をかしげると、彼は慌てて首を振った。
「いや、おいしそうに食べてくれるから僕もうれしくなってね」
そうか、私は彼のお見舞いに来たつもりが、夢中で食べていたのか。彼の言葉で顔が赤くなるのを感じる。
「だっておいしかったから……。」
懸命に言葉をつなぐ。は、恥ずかしい……!
「それは良かった。ほかの味もいかが?」
平然とほかの味をすすめてくる。くそう、乙女にここまでお菓子を食べさせるなんて、お主は悪魔か……。
私は恐る恐る(という体で)チョコ味に手を伸ばし、ふわふわの生地に噛みつく。
プレーンよりも甘味が抑えられ、ほんのりとした苦味がアクセントになっているため、いくらでも食べれそうだ。
彼は私が食べている最中こちらを見続けていた。とても食べづらいのだが。
「何かついてる?」
言外になんで見つめるのか、そんな意味を含めて尋ねると
「あ、いや、ごめん、ここまでおいしそうに食べてくれるなんて思ってなくて」
彼は顔を真っ赤にして答えた。その様子からしてほとんど無意識のうちに見つめていたようだ。
彼はうつむいてしまい、微妙な空気になったので、話題を変えることにした。
「今日も元気そうだね?」
何気なく尋ねた私に彼は多少暗い顔で
「う、ん。なんだか元気沸いてきたから。このカップケーキもできたてなんだよ」
あいまいに答える彼。カップケーキがほんのりあったかい理由はわかったのだが、肝心な方については教える気は無いらしい。
別に教える気が無いものについて詳しく追及するつもりはないので。
「転入生君は前の学校で部活とかしてた?」
当たり障りの無く、微妙に共通の話題になりそうな話を投げる。
しかし、彼は暗い表情のまま小さく発する。
「いや、なんにも」
どうやら、この話題もNGらしい。
そうして気付いた。
今、私は気分がいい。
多分、いつもおだててきた相手を蹴落とすことで一時的に気分が高揚しているのだろう。
そうでなければ、ここまで転入生君に対して気を使わないし、自分で言うのもなんだが、ここまで表情豊かにならない。
またしても自分という存在に嫌気が差す。
調子いいときだけいいように相手と接する自分の悪い癖は治る気配なんてなく、こうして気付いたときはすでに悪癖が出た後である。
転入生君にばれないように小さくため息をつく。
口にしていたカップケーキのおいしさが不意に消える。
「そっか。……、あ、ごめん用事があるから私、帰るね」
我ながらあきれるレベルの言い訳を口にしながら私は立ち上がる。
「あ、うん。プリントありがとう」
「私こそ、おもてなしありがとう。それじゃ、明日学校で」
彼は少し寂しそうな顔をして私を見送ってくれた。その顔はまだ私がいてほしいという意味なのだろか。それともただ形だけの何かか。
外はあきれるほど雨が降っている。傘をさして歩き出すのだが、傘にぶつかる雨音がひどくうっとおしく感じた。
次の日、私が学校に行くと私の席だけがなくなっていた。
目の前に起きた現実がうまく認識できない。
めまいで座り込みたくなる。
私は、とうとう、超えてはいけないラインを、超えてしまったらしい。
「……。」
周りにいる女子から、コソコソとした笑い声があがる。
男子はどうしたらいいのかわからなさそうに、バツの悪そうな顔でいる。
昨日のあの一件で私に標的が移るなんて思っても見なかった。
主犯は、彼氏いない女か、したたかな方の女か。
今の私にしてみれば正直どうでもよかった。
冷静に思考を巡らして、机の居場所を詮索する。
彼女たちのことだから、それは面倒な場所に隠したに違いない。
そこまで考えて、私は思いついた。
女子だから、ほかの階に移動させるという面倒は嫌うはず。だとすれば、同じ階。
この階は教室しかないので、簡単に見当がついた。
教室から震える足を無理やり動かしてトイレに向かう。
女子トイレに到着し、確認すると案の定だった。
ご丁寧にひっくり返した状態のうえに、濡れたトイレットペーパーがたくさんついている。
掃除道具入れから雑巾を取り出し、机をふきあげる。
女子トイレの入り口で幾人の女子が写真を取っている。パシャパシャと鳴り響くシャッター音に私は気付かない振りを突き通した。
幾人の女子をガン無視して机を運び出そうとすると、机のせいで下の注意を怠り、彼女が出した足につまづいて、派手な音ともに私は転んだ。
ニヤニヤ顔でこちらを見下す彼女らに対して無視を貫き、私は机を教室に運んだ。
教室に到着すると、転入生君がと登校していた。
教室の不穏な空気と私の姿を見て、彼は目を丸くした。
私は彼に挨拶することなく、横を通り過ぎ、いつもの定位置に机を置いた後、席に着いた。
周りからは明らかな敵意を向けられるが私は無視し続ける。
「……、大丈夫?」
転入生君が恐る恐るといった体で話しかけくる。敵意がより増すのを肌で感じる。
「大丈夫」
彼に目を合わせることなく、そっけなく対応する。彼もそれ以上は尋ねることなく、自分の席に戻って行った。
程無くして授業のチャイムが鳴り響き、先生が授業を始める。
いたって普通の一日が始まるはずの今日は、普通ではない日の始まりのようだった。
その日の昼は私一人で昼食にした。
もちろん、いつもの女子はほかのグループに混じって、こちらをニヤニヤと見たりしている。
知った事かである。そもそも静かに食べられる点では彼女たちに少しだけ感謝している。
「一緒に食べない?」
転入生の彼が話しかけてくる。彼は弁当を持ってこちらにやってきた。どうやら、ほかの男子の誘いをわざわざ断って私と食べようとしてくれているらしい。
ここで相手の好意に甘えれば彼女たちに一矢報いれるだろう。ただ、明らかに報復がくるだろうが。
彼を少し見つめてから、私はうつむきながら呟く。
「ごめん、今日はそんな気分じゃないの。また今度」
私に集まる視線が露骨に減少する。彼女らに見せつけるのも一興だが、この状況では悪手だろう。
彼は残念そうに男子のグループに戻って行った。
既に昼食を食べ終えていた私は手持無沙汰なので、窓を通した外の景色を見つめる。
窓の外では、バケツをひっくり返したかのような大雨が降っている。木々は雨風に揺られ、グラウンドには水たまりが拡大していく。
私は深く深く溜息をついた。
この日の授業が終わり次第、変に絡まれたくないので私は即座に帰宅した。
さて、今日は何をされているのだろうか。
雨の中、傘をさして歩いている私は考えていた。
そもそも学校という防犯に問題がある空間に、教科書やら体操服を置いておくような性格ではないので、学校においてあるものは私物ではないが机や椅子くらいだろう。
昨日と同じことをされていたら面倒だな、と思いながら私は校門をまたいだ。
今回もなかなか露骨だった。
私の机はいつもの定位置にあったのだが、机にさまざまな落書きがされている。
口汚い言葉の羅列に嫌悪感を覚えたが、私は懸命に平静を保って席に座る。
途端に鳴り出すシャッター音に私は歯を食いしばる。
程なくして転入生君がやってきたのだが、さすがの状況に彼は顔をしかめた。
そして、明らかにこの状況を楽しんでいると分かる女子をにらみつける。
彼女たちは鋭い視線に耐えられなかったのか、すぐに目をそらしていたようだった。
「先生のところ言いに行こうよ」
彼が私に言った。私は首を横に振る。
「なんで?」
多少の苛立ちを隠せず、険の入った声音で彼は尋ねた。
「言っても一緒だから」
私もつい強情になってしまう。彼の優しさをないがしろにしていると自覚したうえで、ぶっきらぼうに答える。
この学校ではいじめなんて日常茶飯事である。それこそ死傷者が出てないだけで、精神的につらい思いをしている人はたくさんいる。
学校側はそれを無視してきているのを私は見てきたのだ。いじめられている現場を見ても、いじめている子の適当な理由に簡単に頷く教師の姿を見て、私は心底あきれていた。
そして、いじめが起きているのを知っていながら、何も関わろうとしない自分にも心底嫌気がさしていた。
彼は無言で席に戻っていった。多分、私にあきれたのだろう。
しかし、彼があきれるのは私だけじゃないと断言できる。
この腐った学校環境を見て、彼はなんと思うのだろうか。
私はそれだけが気になっていた。
チャイムが鳴り響き、授業が始まる。
教師が何気なく周りを見渡し、確実に私を、正確には私の机をとらえた。
そして、何事もなかったかのように視線を外し、何事もなかったかのように授業を始める。
ガタッ、と突然の物音が教室に響く。
そちらに視線を向けないでもわかった。転入生君が立ち上がったのである。
よほどこの学校をいいように思っていたようで、この状況は物珍しく映ることだろう。
「どうかしましたか、△△くん」
「……。」
どうかしてるのはお前の頭だ。
声を出さずそのように口を動かした後、彼は席に着いた。
その教師は彼の口の動きで言いたいことが理解できたのだろうか。……、理解できても対処はしないんだろうな、と一人思った。
その日もそれ以上の出来事はなく、すべての授業を終えた。
そもそもいじめが始まってまだ二日目である。まだ相手も加減しているだろうし、私は屈する気など毛頭ない。いじめがひどくならないことを祈りながら日々を過ごすしか私には手段が残されていない。
一瞬、親に頼って、親から学校側に働きかければなんとかなるかと考えたが、そもそも私の両親にそんな優しさを求める時点で、今日の私はどうかしている。
さて帰ろうと、靴箱を覗き込む。靴の中には平然と画鋲がスタンバイしていたのだが、そもそも種が割れている時点で引っかかるわけがない。
画鋲をゴミ箱に捨ててから靴を履き、家に帰ろうと傘を手に取ろうとして気が付いた。
傘がなくなっている。
普通に考えれば格好の的なのだが、警戒するのを忘れていた。といより、これだけの大雨が降っている中、まさか傘は盗まないだろうと甘えていた私が馬鹿だった。
容赦なく降り続ける雨に私は腰が引ける。
いくらなんでも、この雨のなか傘なしで帰ろうと思わない。
しかし。
「□□ちゃん、どうかした?」
それはもう今一番聞きたくない声音だった。
転入生君が今まさに帰ろうと傘をさした状態で尋ねてきた。
周りからは昇降口にいるにもかかわらず視線を感じる。きっと、私が困る姿を見たかったのだろう。
私が傘も持たずに昇降口で突っ立ってる姿を確認して彼は、ああ、と呟いてから
「よければ一緒に帰る?」
なんで傘を持っていないかを尋ねることなく、傘を差しだす。どうやら、相合傘でもするつもりらしい。
私はどうするべきなのだろうか。
ここで彼の言葉に甘えれば私は濡れずに帰れる上に、彼女らはイライラすることだろう。
しかし、二日目にして靴画鋲やら机落書き、大雨下での傘隠しである。
これ以上刺激していいものなのだろうか。
私はいじめに対する恐怖心をぬぐえないまま、彼には横に首を振った。
「え、でもこの雨じゃ風邪ひいちゃうよ」
ごもっともな彼の言葉。しかし、その言葉にうなずけるほど今の私は素直ではなかった。
「いいから!」
そう叫んで、大雨の下、私は駆け出す。自分が濡れようが荷物が濡れようが知ったことではない。
「ちょっと!」
彼が声を張り上げて引き留めようとする。そして、同時に後ろで観察していた彼女たちから笑い声が上がる。
私は、その笑い声に耐えられる気がしないし、もうどうにでもなれと思った。
学校からある程度距離が離れたところで、私は足を止めた。普段から運動などしない私にとって、この距離は息切れするほどであった。
歩きながら息を整える。その間も、雨は私をうち続け、確実に体温を奪っているのがよくわかる。
そのままゆっくりとした足取りで家へと向かう。
歯を食いしばり、嗚咽があたりに漏れないように力を注ぐ。
周りには誰もおらず、雨のおかげで涙も嗚咽も消してくれているようで、私は少しだけ感謝したのだった。
気がつくと私はベッドの上にいた。
外はほんのりと明るく、時計は5時を示している。
どうやら、昨日帰宅したらさっさと寝てしまったらしい。
ベッドから起き上がろうとして、体がふらつく。
そういえば、全身がだるく、頭痛がひどい。
どうやら風邪をひいたらしかった。
あれだけの雨に打たれたのだから、当然と言えば当然である。
「……。」
昨日は夕食を口にせずにベッドに横になったので、今何か口にしなければならない。
しかし、今家にあるものは菓子パンやらカップラーメンやらお世辞にも消化にいいといえないものばかりである。
吐き気をこらえながら、何とか菓子パンを食べきると私は学校に電話をしようとして、今の時間がまだ5時30分であることに気が付く。
アラームを9時にセットし、ふらつく体をなんとかしてベッドまで行き、倒れこむ。
私は毛布をかぶり、目を閉じた。
ピピピ……。
頭に響くアラーム音に私はゆっくりと体を起こした。
けだるい体を引きずりながら電話機のもとに辿りつき、学校で電話をかけ、今日休む旨を伝える。
一連の動作をすませると、私は座りこむ。たったこれだけの行動で私は疲れ切っていた。
それほど体が本調子ではないのだろうか。
電話機の前で休憩をはさんだ後、私は再びベッドにもぐりこみ、今度はアラームをかけずに目を閉じる。
彼女たちは私を休ませることができて満足していることだろう。私が休むことについて本意ではないが、私は悔しかった。
いじめに屈するつもりなんてなかった。いじめに屈して喜ぶ相手の姿を見たくない一心で私は普段通りに振る舞っていた。
どうやら私は相当プライドが高いようだ。ここまでポーカーフェイスを貫いたことがあるだろうか。私は思いつかない。
明日はどうしようか。今日休んだのだから、私的に学校なんて面倒なところにはもう行きたくない。気分は三連休後の月曜日の前日の夜である。ちょうど両親もあんな状態だし、私が不登校になっても何も言わないだろう。
そんな考えを膨らませながら私は眠った。
どれほど眠っていただろうか。
かすかに聞こえる呼び出し音に私は目を覚ました。携帯に手を伸ばして確認するが、だれからも着信は来ていない。
すると、玄関のチャイムが控えめに鳴り響く。私は体をいたわるようにゆっくりと立ち上がる。
時計は17時を指し示しており、朝のころに比べると体はだいぶマシになっていた。
一瞬だけ居留守をしてやろうかと思ったが、そんな考えはすぐに捨て、私は玄関の扉を開けた。
「こんにちは。大丈夫?」
雨が降っている中、転入生君がそこに立っていた。手には紙袋が握られている。
「もしかしてわざわざ持ってきてくれたの?」
「もちろん。それと果物とかポカリとか持ってきたから是非食べてよ」
紙袋を渡されると、中にはバナナやらリンゴやらが入っているのを確認した。思わず言う。
「いや、さすがに悪いよ」
プリントだけ受け取って紙袋を返そうとすると、
「今までしてもらってたこともあるし、受け取ってくれるとうれしいな」
彼はやんわりと返却を拒否する。それから二人して、いやいやどうぞどうぞと言い合っていたのだが。
ぐぅぅぅ……、と鳴り響いた私の腹の音のせいで私は受け取らざるを得なくなった。
「じゃ、じゃあお言葉に甘えて」
あまりの恥ずかしさにさっさと切り上げようと紙袋を受け取る。
すると、彼からも、ぐぅぅぅ、と腹の音が鳴った。
お互いに一瞬見つめ合って、笑い出す。
「よかったら一緒にたべない?」
私から提案すると、彼は最初渋っていたのだが、私の説得で結局一緒に食べることになり、私は彼を招き入れた。
まだ本調子でないが、果物ぐらい剥けるだろうと、台所から包丁を持ってくると、彼は流石に病人にさせるわけにはと言ってそれを奪い、そのまま見事な手つきで林檎を剥き始めた。
シャリシャリと小気味いい音が部屋に響く。朝以降なにも食べてなかったので、この配慮は正直うれしかった。
剥き終わったリンゴを差し出してくれる。
「ありがとう、いただきます」
お礼もそこそこに私は綺麗に剥かれたリンゴに噛り付く。
リンゴの果汁が口の中に広がり、傷んだ喉を癒してくれる。さわやかな甘さが私の食欲を的確に刺激し、あっというまに一切れを食べ終えた。
ふと彼に視線を向けると彼はリンゴを剥ききり、そのリンゴを口にしている。
お皿に盛られたリンゴに手を伸ばし、二つ目を食べる。
風邪気味の体に消化のよい果物は本当にありがたく、三つめ四つめと頂いていると、お皿に盛られたリンゴはなくなってしまった。
少々の物足りなさを感じつつお皿と包丁を片づける。
リビングに戻ると彼はミカンを渡してくれた。
ミカンを剥きながらポツリポツリと言葉をつなぐ。
「今日は本当にありがとう。実は朝ごはんから何も食べてなくて、助かった」
「気にしなくていいよ。体調の方は大丈夫?」
彼が私の顔を覗き込みながら尋ねる。私はなけなしの体力を使ってなんとか笑顔を彼に向ける。
「うん、一日寝てたら調子良くなった」
彼と一時的に見つめ合う。凛とした彼の瞳に捉えられると、私の奥深くを覗かれている気分がして、私は反射的に目をそらす。
「ならよかった。……、明日は学校に来れそう?」
「……。」
一瞬だけ言い淀んでしまう。深く考えず適当に答えればよかったものの、寝る前の思考に引っ張られて口の動きがワンテンポ遅くなる。
「もちろん」
なんとか絞り出した言葉は震えていて、真実ではないことが明らかだった。
「あんまり首を突っ込むべき内容ではないことは分かってるんだけど」
そう前置きして彼は尋ねた。
「どうしていじめられているの? 僕が休んでいる間に何かあった?」
直球の一言であった。回りくどい言い回しではなく、心を抉るような質問だった。
「……。」
口を開くことが出来ない私に対し、彼は勢いに任せてまくしたてる。
「だって、僕が来た日は仲良くおしゃべりしてたじゃないか。でも、ここ最近だけで、嫌がらせが始って……。」
ごめんね、仲良く話してるように見えて、あれは腹の探り合いをしてるだけだよ。
そんなことをぼんやりと思いながら、私は彼の言葉に耳を傾ける。
「先生も異変に気が付いてるのに何も手を打たないし、みんな変だよ」
ごめんね、私もそんな変な人の一人なんだ。
自分の状況を理解しているつもりだったのだが、改めて他人から言われると、自分の立ち位置のみじめさに笑いそうになる。
「僕はいじめてる人は許せないし、いじめられてる人を見捨てたくない」
吐き気を催すようなきれいごとに私は冷静に聞けなくなる。
そんな言葉に私は一瞬にして頭に血が上った。
「誰のせいで私が……!!」
もとはと言えば彼が転入してきたことが事のはじまりなのだ。彼さえ来なければ、こんなことにはならなかったかもしれない。カレサエコナケレバ。
「なんで私がいじめられてるか分かって言ってるの、それ! 私は、私は、キミと仲良くしてるからターゲットにされてるんだよ!?」
久々に感情が爆発し、私自身のことなのに制御がきかなくなる。ふらつく体を無理やり立たせて私は叫ぶ。
「キミのおかげで私の平和が乱されたの! キミが休むたびに私がプリントを届けて、次の日にお菓子をくれた日があったよね。その時の雰囲気がどんなだった分かる? ほとんどの女子が好奇心なり警戒心なりの視線で私たちのやり取りを見てたんだよ!?」
思わず涙があふれてくる。頭痛もつらい。体もフラフラだ。それでも、私はやめなかった。
「女子の一部はキミを狙ってるの! それなのに、キミは私にだけ積極的だったから、みんな私を警戒するようになって……!」
嗚咽のせいで言葉が紡げなくなる。これ以上叫ぶのはのどに響くことが分かっているのだが、それでも、私はなんとかして叫ぶ。
「キミがいなかったら、こんなことにならなかった! 私の平和を返してよ!!」
ぜーぜー、と肩で息をする。たった叫んだだけなのに、風邪のせいか精神的なものなのか、それとも両方なのか体力が相当落ちているようだった。
全てを吐き出した私に残されたのは、達成感ではなく虚無感であった。
言ってしまった。とうとう、言ってはいけないレベルまで全部。
言い放ってからいいようのない後悔に襲われる。
勢いで言ってしまったが、そもそもの原因は私にあるのだ。プリントを運んでやろうとした彼女を押しのけてまで私が運んだのが、いじめの元凶だろう。
あの行動は、あのクラスにいる転入生君を狙う女子全てを敵に回したのだ。その時の私は、そこまで考えが及んでなく、ただ彼女の提案を蹴落とせたことだけに喜んでいた。
どうして私はいつもこんななんだろう。
せっかく彼が心配してくれるのに、私はそれをはねのけた上に、いじめの原因を彼に押し付けた。
私自身がいい人であるという自覚はもちろんない。相当なクズ野郎だとは思っている。
いつもこんな感じだ。他人の善意を結局踏みにじる。そして、踏みにじってから気がつく。最後には後悔ののち、自己嫌悪に陥る。
涙で曇る視界でなんとか彼を見ると、彼はうつむいていた。
あきれたのだろうか、諦めたのだろうか、怒っているのだろうか。
うつむいた彼の顔を覗き込むわけにはいかず、私はただ立ちすくむ。
しばらくして彼が顔を上げる。思わず私はビクリと震えた。
「僕の行動のせいなのは謝る。ごめん」
彼が頭を下げる。そして、再び上げた瞳には確固とした意思を感じた。
「でも、どんな理由があるにしてもいじめる側が悪いと思うんだ」
これまた素晴らしい綺麗ごとをおっしゃる。しかし、悪い気は不思議としない。
「どうしたらいじめがなくなると思う?」
彼が私を真剣に見つめる。
そんな真摯な彼の姿勢に私は率直な疑問を抱いた。
「何でそこまでしてくれるの?」
瞳に溜まった涙を拭き取り、座りながら尋ねる。
「な、何でって……。」
彼は一瞬だけ言い淀んだ後、ハッキリと答える。
「僕が招いたことなんだから、僕が終わらせなきゃ」
何故か悲しそうな表情で呟く彼に、私はそれ以上質問をぶつけることに躊躇してしまった。
どんな言葉をかけるべきか悩んでいると、彼は即座に真面目な表情に戻して言う。
「僕がキミと話さなくなればいいのかい?」
「い、いや…そういうレベルではないと思う」
私が彼と話さなければいい、そんなことであれば彼女たちもあそこまでの制裁をしないだろう。
しかし、根本的な原因が私と彼の関係であるから、
「あながち間違ってはない方法だと思う」
「だよね。だったら真逆の方法にしてみる?」
「え?」
嫌な予感がする。彼が楽しそうな笑みを浮かべて私に語りかける。
「僕と付き合ってくれない?」
はい?
多分、私は真顔になって硬直していることだろう。
彼は今何て言った……?
「あ、いや、もちろん嘘だよ。でも、僕が偽彼氏になって、僕のことを狙っている人たちを諦めさせればいじめも終わるんじゃないかな?」
焦る感情をなんとか抑え込み、冷静な風に取り繕う。
「そんなんで終わるものかな……?」
「でも、ほかにいい案ある?」
む……。確かにほかの案は浮かばないのだが、だからと言ってその案がいいという確証はないのではないのだろうか?
手を顎にあて、深く思考を巡らすも、案は思い浮かばない。
「やっぱり僕が彼氏ってのが嫌、かな」
「そうじゃなくて、ただ他の案があるか考えてただけだよ」
彼が自嘲気味に言う。決して悪い案ではないと思うのだが、なんというか、気恥ずかしいものがある。
「じゃ、じゃあよろしくお願いします」
何故か赤くなった私はなんとか声を絞り出す。彼も笑みで答える。
とりあえず、これで何とかなるのだろうか。
いつものネガティブな私が顔を上げる。こんな安直な方法で解決するわけがない、と呟くネガティブな私をねじ伏せる。今は彼を信頼するしかないだろう。
それから蜜柑を食べながら簡単な計画を立てる。
彼なりに責任を感じているらしく、彼はとても積極的だった。
大体の計画が決まり、大体のお見舞いの品も食べきり、彼は帰ることになった。
「それじゃ、明日からよろしくね」
「うん、よろしく」
外は既に暗闇に包まれており、耳を澄ませると雨が降っていることがわかる。
彼は雨の中傘をさして帰って行った。ふと時計を見ると、時計はすでに8時を回っている。
「何だか悪いことしちゃったなぁ……。」
暗闇を見つめながらふと呟く。
この悪いこと、というのはいじめ関連に巻き込んでしまったことなのか、ただ8時まで付き合わせてしまったことなのか、自分でもわからなかった。
それから私は軽くシャワーを浴び、ポカリで水分補給してからベッドに潜りこんだ。
いつものようにつぶやく言葉は忘れない。だけど、何故か言うのにためらってしまった。こんなことは初めてであるのだが、原因は一つだろう。
明日はどうなるのだろうか。不思議と恐怖心は消えていた。
目が覚めると体調はほとんど回復していた。
学校の準備をして、いつもどおりに外に出る。家には誰もいないから、いってきますなんて言葉は言わない。
「おはよー」
扉を開くと、彼が家の前で待っていた。彼もこちらに気が付き、挨拶をしてくれた。
「あ、おはよう」
どうやら待たせてしまったらしい。適当に謝りながら私たちは学校に向かう。
「じゃあ、計画通りに」
彼が話しかけてくる。うん、よろしくとだけ返す。少しだけ声が震えてたかもしれない。
どうしてだろうか、やっぱり、あの日から学校という空間に恐怖を抱いていた。
昨晩はそうでもなかったのだが、今実際に学校に向かっているという事実が私をいいようのない不安に陥れる。
すると、そんな私を見かねてか、彼が私の肩に手を置いた。
「大丈夫、僕がついてるよ」
静かに力強くかけてくれた声に私は勇気を貰う。
教室に辿り着くと、案の上、私の机には花瓶が置かれていた。
これはまた陰湿なものである。
さて、この花瓶はどこにおこうかな、と頭では冷静に考えてはいるものの、体は震え、吐き気を催す。
ガッシャーン、と耳鳴りな音が教室中に響き渡る。
彼が花瓶を床に落としたのだ。
教室にいて私の反応を楽しみにしていた女子たちが一斉に顔色を変える。
「誰がしたか僕にはわからないけど、普通はこんなことしてはいけないと思うんだ」
恐ろしく静かに呟く彼の声は、静寂に包まれた教室に隅々まで響き渡る。
「こんなことする人を僕は許さないから」
そう言い切ると彼は掃除道具をしまうロッカーから箒とちりとりを持ってきて、片付けを始める。
「わ、私たちは知らないよね~。」
ねー、と息を合わせる彼女たちを尻目に私も彼を手伝う。
「そこまでしなくてもよかったのに」
小声で彼と言葉を交わす。
「こういうのは最初が重要なんだよ」
そうなのだろうか? 私からすれば明らかに刺激しているようにしか見えない。
「大丈夫大丈夫。信じてって」
彼が笑いながら言う。その無責任な言葉に私は信じようと思ってしまう。そんな不思議な力が彼の笑顔にはあった。
片付けを終え、落書きされた机が残される。彼が雑巾を握っていたので、その手を止める。
「もう授業が始まるから今はいいよ」
そう、と少し哀しい顔をした彼は道具をロッカーにしまう。
そんなところでチャイムが鳴り、先生がやってくる。
「それでは授業を始める」
始まりは最悪だったが、彼のおかげで切り抜けることができた。いつもとは違う一日だが、なんとかなりそうな、そんな理由のない自信に私は包まれていた。
昼休みが訪れると、彼が弁当を持ってやってきた。落書きをされた机の上に弁当を置き、近くから適当な椅子を引っ張ってきて腰かける。
周りの女子は先ほどから彼の動向を凝視し、ヒソヒソと話している。どうせ、内容は知れている。
彼が弁当を広げる横で私はバックから買い置きしておいた菓子パンを取り出す。
いただきます、と言ってから私は菓子パンを口に運ぶ。
「前々から思ってたんだけど、キミは弁当派ではないの?」
弁当をつついていた彼が、さも不思議そうに尋ねる。
「いや、弁当作るのが面倒なだけ。菓子パンのほうが手っ取り早くて」
そういって、最後の一欠片を放り込み、尋ねる。
「その弁当はお母さんが?」
「手作り。でも、昨晩の余りものを詰めるだけでだいたい形になるよ?」
私の晩御飯なんてたいていコンビニ弁当かスーパーの総菜なので、そういう訳にはいかない。
そもそも母がご飯を作らなくなったのはいつのころだろうか。小学校までは食べた覚えがあるのだが、それ以降はあいまいにしか覚えていない。
「そんなもんなのかな」
独り言のように呟く。そんなもんさ、と彼が言う。
先ほどから私に刺さる視線は敵意で染められている。彼に対する視線はどのようなものなのか気になるが、流石に分かる訳がない。
彼は弁当を食べ終えると、即座に雑巾を取り出し、みんながいるこの状況で机の掃除を始めた。私も横で手伝う。
明らかに教室の空気が悪くなる。彼の行動は良くも悪くも注目を集めすぎである。
今日の彼は他の男子に話しかけられていたが、女子からは一切話しかけられていないのを私は見ていた。
どうやら、私と一緒に登校してきたことと、朝の一件から彼も警戒されているようだ。
どうにか昼休みの間に掃除を終わらせ、昼以降の授業はいつも通りの机で授業を受けることができた。
今日一日の授業を終え、私たちは昇降口にやってきた。もちろん、帰るためである。
梅雨にもかかわらず、今日一日雨は降らなかったようで、アスファルトは乾いていた。
靴の中のトラップを確認した私は、ゴミ箱に中身を捨てる。
彼が怪訝な顔をして待ってくれていた。簡単に説明すると、彼は深刻そうな顔に切り替わる。
「大体予想できていたから大丈夫だよ」
「そういう問題じゃないんだけどな……。」
彼は深く溜息をつく。その原因が私なのだと思うと思わず肩身が狭くなる。
「今のは彼女たちに向けたものであって、キミにではないから気にしないでね」
彼が私の反応に気がついてフォローを入れる。なんともマメな彼である。
「じゃあ行こうか」
すっと私に手を差し伸べる彼。私は反射的に顔が赤くなり、動きが生硬になる。
「ちょっと、そこで動き留めないで、あいつらに見せつけなきゃ」
彼が小声で彼の意図を伝えてくる。そうか、と合点がいき、差し出された手に私の手を重ねる。
「ありがとう」
できるだけ彼女たちに聞こえるように凛とした声で答える。
後ろのほうで、チッと明らかな舌打ちが聞こえたあたり、効果てきめんのようだ。
彼はその反応が見られて気分を良くしたのか、意気揚々と歩きだす。
私も彼に引かれるようにして学校を後にした。
「今日はありがとう」
彼の家の前で私は言った。
「いいや、気にしなくていいよ。元はと言えば僕が言いだしっぺだしね」
彼はなんでもないように話す。
「それじゃあまた明日」
私は手を振りながら彼と別れる。彼も、じゃあねと手を振ってくれる。
家に辿り着き、静かなリビングでソファに腰掛ける。
今日一日の出来事を思い出して、一人して赤くなる。
正直、誰かとここまで関わるのは初めての経験だった。
小中と過ごしてきたが、特定の誰かと特別仲良くなることはなく、大体の人とある程度の関係で納まっていた。高校でも変わらないと思っていたのだが、どうもそうはならないようだ。
クッションを抱きしめ、ソファで悶える。朝から慣れないことの連続で、今の私は羞恥心でいっぱいだった。
ある程度おさまったところで、私は買い置きのカップラーメンで夕食を済ませ、風呂に入り、適当に時間を潰す。
いい時間になったところで私はベッドに潜り込むと、途端に眠気に襲われた。
そのまま眠気に任せて私はすやすやと眠った。
次の日も彼は私の彼氏役になり、彼女たちの前でアピールをした。
いつものようにいじめはあったのだが、彼と一緒に対処するだけでそこまでのダメージを負わないようになっていた。
帰る時間になって雨が降り、傘を忘れた私が途方に暮れていると彼が開いた傘を差し出した。
今度の私は緊張や羞恥で固まることなく、差し出された傘に入れてもらう。
後ろにいる女子たちはどんな気持ちで私たちを見つめているのだろうか。少し気になったが、私は後ろを見ることなく彼と相合傘で帰った。
今日はこのようにして終えた。二日目にして、なんとか彼といることに緊張しなくなってきた。慣れている証拠だろう。
いつものようにベッドで呟く言葉を今日も忘れ、私は睡魔に身をゆだねたのだった。
次の日、朝目が覚めると携帯に彼からメールが来ていた。
『ごめん、今日体調悪くて行けないんだ。どうする?』
どうする、というのは私が学校に行くか行かないかについてなのだろうか。
彼がいないと心細いのは確かだが、彼がいないと何もできないと思われたくなかったので、
『うん、大丈夫。お大事にね』
とだけ返す。それから手早く準備を済ませ、雨が降りしきる中、学校へ向かった。
教室に到着すると、私の机は何もされていなかった。
少しだけ安堵し席にかけると、彼氏いない女がやってくる。
「ねぇ、話があるからついてきて」
静かに言う彼女の言葉には有無を言わせない強い力がこめられていた。
しかし、屈する気は元からない。私は言ってやった。
「私には話したいことなんてないからいい」
途端に彼女は私の机を蹴り、ドスの利いた声で言う。
「私にはあるの。いいからついてきなさい」
それでも私は首を横に振った。
「知らない」
もう一度机を蹴られる。体は震えて仕方なかったが、彼が味方でいてくれるという事実に私は勇気をもらっていた。
「……、いいわ。ここで話しましょう」
彼女は観念したのか諦めたのか私の机の前で仁王立ちになり、話し始める。
「最近になってあなたが調子に乗ってたから、ちょっと制裁したんだけど、どうだった?」
見下す彼女を私は睨みつける。今この瞬間殴られてもおかしくない雰囲気で、体は震えっぱなしだったが、私は負けたくなかった。
「そしたら、△△くんと一緒に行動するようになったじゃないの。あれはどういうつもりなのかしら? 私たちがあなたが調子に乗ってると思った原因は分かっているでしょ?」
彼女と睨み合いが続く。
「それなのに、ここ二日間は彼と一緒に行動して、私たちに見せつけてるけど、そもそもどうやって彼を落としたの? 泣き落し? それとも」
次の瞬間に放たれるであろう言葉を察知した私は反射的に立ち上がる。
圧倒されてか、彼女はその先の言葉を紡げなくなる。
「い、いいわ…単刀直入に尋ねてあげる。あなたと彼はどんな関係?」
いじめがなくなるまでの共闘、ただの友人、彼氏彼女、知らんふり。
いくつか思い浮かんだ選択肢の中から私は即座に選び出し、言い放った。
「彼は私の彼氏で、私は彼の彼女。なにか問題ある?」
できるだけ言葉に力をこめ、威圧するように言う。彼女はその言葉を聞くと、忌々しそうな表情になり、私を睨み続ける。
しばらくして彼女が声を絞り出す。
「じゃあこうしましょう。あなたと彼が別れたら、いじめを止めてあげる。どう? 悪い提案ではないでしょ?」
突然提示さえた二択に私は戸惑う。私にどうしろというのか。というか、彼女からすれば私のとるべき選択肢は一つなのだろう。
彼は偽物の彼氏である。きっと、別れたとしてもたいして変わらないだろう。彼も、いじめがなくなるから、と言ったら快く了承してくれるに決まっている。
しかし、私は嫌だった。偽彼氏の関係が終わることに対してなのか、それともまた別の理由でなのか、私にも分からない。
「ごめん、無理」
「……ッ!?」
今度は彼女が驚く番だった。その様子だと、私が拒否するとは思ってもいなかったらしい。
「なんでよ、どう考えてもいい案じゃないッ!」
彼女がヒステリック気味に叫ぶ。私も負けまいと思いついた口実を叫ぶ。
「だって、別れたらいじめがなくなるって確証はないじゃない。逆に彼と別れさせたうえでまたいじめられるかもしれない。だったら、私は今のままでいい!」
なんとか絞り出すと、彼女は眼を見開いて口をパクパクとしていた。どうやらあながち間違ったことを言ってはないようだ。
彼女が必死の形相で何かを言おうとしたとき、それを遮るようにしてチャイムが鳴り響いた。
間もなく先生もやってきて、この話は強制的にお開きとなる。
彼女は私に一切目にくれず、自分の席に戻った。
私もつかの間の休息にため息をつく。
外を何気なく眺めると、雨がやんでいて、グラウンドに溜まった水たまりが不思議ときれいに見えた。
今日はあれ以降なにもされることなく、帰宅時間となった。もちろん、彼にプリントを運ぶのは私である。
「こんにちは」
チャイムを鳴らしながら私は呼びかける。そういえば、彼の家には何度も出入りしているのだが、一度も両親の顔を合せた事がない。たまに7時や8時までいることがあるのに一度もないなんて不思議だった。
「いらっしゃい。……、今日はごめん」
彼が申し訳なさそうに頭を下げる。どうやら相当悪く思っているらしい。
「いや仕方ないよ」
冷静に私は彼を慰める。体調不良は仕方ないことだろう。……、体調不良の回数が多い不思議があるのだが。
「今日も上がってく?」
「お言葉に甘えて」
こうしていつも通りに彼の家にお邪魔することになった。
「ごめん、今日なにも用意してないんだ」
「ううん、気にしないで」
そういった割に、彼はキッチンにひっこむ。
私はいつものようにリビングのソファに腰掛け、彼を待つ。
「紅茶しかないけど、良ければどうぞ」
差し出された紅茶を受け取り、香りを楽しみながら口に含む。
「これはダージリンっていうんだ」
「うん、おいしい」
薄い茶色の液体は甘い香りを発しており、口に含むと甘さと渋みが同時に広がる。この渋みは嫌いではなく、むしろ渋みのおかげで甘味が強調されていてとてもおいしかった。
「今日はどうだった?」
一息ついた私に彼が尋ねてくる。私は朝の出来事を包み隠さず彼に伝えた。
「そっか、そんなことが……。」
少しだけ考えるしぐさを彼がする。
「一応、作戦は成功なのかな?」
「どうだろう。明日にならないとわからないけど、彼女は相当切れてたと思う」
あの時の形相は今でも忘れられない。碇と憎しみがぐちゃぐちゃに混ざり合ったあの表情、女が本当に切れたときにしか出さない表情。なんだか殺気だっていた気もする。
「ま、明日からもよろしくね」
彼が何気なく言う。その言葉がどうしても嬉しくなった私は、赤くなりながらも声を絞り出す。
「うん、よろしくね」
そういえば。ちょっと気になることがあったのだった。
「ねぇ、△△くんって体が弱いの?」
ただなんとなくぶつけた質問に彼が固まる。何かしらな秘密を抱えていることは明らかだった。
「あ、ごめん……。」
自分が失言したことに気づき、謝罪をするが、彼は首を横に振りながら言った。
「ううん。そろそろ隠しきれなくなりそうだし、キミになら聞いてほしいな」
率直に彼が言う。私の瞳を見つめながら。
「僕小さい頃からある病気を抱えててさ、中学生までずっと入院してたんだ。やっと回復の兆しが見えて、完治する直前まできたんだけど、ひとつ問題があってね」
私は一切の言葉を挟まず、彼の言葉に耳を傾ける。
「さんざん僕を入院させて治療してたから、お金が足りなくなったんだ。ここに引っ越してきたのも、家賃がより安くなる上に、職が多いから。ここら辺は日雇いもあって手っ取り早く稼ぐには持ってこいだったんだ」
「じゃあ、△△くんの家に両親が見かけないのも……。」
私の言葉に彼は頷いた。
「そう、朝から晩まで働いてるから。そして、僕が体調不良でよく休むのは、都市の病院で手術の準備や検査をしているから」
ごめん、最後に彼はこう締めくくった。
「本当は嘘なんてつきたくなかったんだけど、僕を普通の人として扱ってもらいたくて」
だから、彼は他人の視線や暗黙の了解などを気にも留めなかったのだろうか。小中と経験していくうちに学ぶ大人な側面を彼はスルーしてきた、だからこそ私に手を差し伸べてくれたのだろうし、私も彼となら素直になれた、のだろうか。
「ううん、話してくれてありがとう」
それだけが私の本心だった。すると、彼はとんでもないことを言い放った。
「それでさ、もしかして□□ちゃんって」
そこで一度区切り、言う。
「死んでもいい、なんて思ってる?」
彼の口から放たれた唐突な言葉に私は硬直し、心を満たしていた感謝の気持ちが一瞬にして吹き飛ぶ。
「……ッ!」
私は何も言うことができず、彼の瞳を見つめ続けることができず、顔をそらす。
彼からすれば、私のこの行動は無言の肯定でしかなかった。
「僕が幼少期から入院してたのは、さっき言ったよね。同じ入院してる子たちと遊ぶ機会があるんだけど」
まるで懐かしい記憶を思い出すかのように、遠い場所を見つめるように彼は呟く。
「その中にさ、悲しそうな諦めたような瞳を持った子がいるんだ。いつの間にかいなくなってるから、看護婦さんに尋ねるとその子は亡くなったて教えてくれた」
一呼吸おいて、彼は話し続ける。
「どうやら、僕は入院し続けているうちに死ぬ人を見抜けるようになってたみたいなんだ。で、ここから本題。たまに君が見せる寂しそうな悲しそうな表情がさ、昔のあの子たちにかぶってて。だから尋ねたんだけど、どうやら見当外れって訳でもないみたいだね」
彼が言い終えると、リビングには静寂が訪れた。
私は何と言うべきなのだろう。
ただ、言いようのない恐怖に包まれていた。彼は私の本質を見抜いて見せたのだ。まるで私の心の奥底まで覗き込むように。
「△△くんに何が分かるの?」
なんとか絞り出した声は怒りでも悲しみでもなく、ただ平坦な声音。しかし、どこか芯のある私の言葉に彼は黙って聞き続ける。
「両親から必要にされないってどれだけの恐怖か分かる? 自由といえば聞こえがいいけど、結局は私の存在意義がなくなるものだよ?」
存在意義の否定。それは私の生きる理由がなくなるということだった。
両親が期待してもらえば、私は渋々ながら人生を全うしただろう。しかし、どうだ。私の両親は、私に期待するどころか、大人の汚い部分をまざまざと見せつけてくれた。こんなものを見せられて、誰が幸せな人生を想像できるだろうか。
面と向かってお前はいらない子だ、と言われたことは一度もない。それだけの常識は持ち合わせているようだが、私がいつ帰ってくるかわからない家で私の親権の押し付け合いをする時点で、その常識の程度は知れている。
こうも考えると、私の親はなんでここまでどうしようもない人なのだろうか。私が何かしたのだろうか? 私に責任がないとすれば、どうしたらこんな家庭にならずに済んだのだろうか。
「学校でもいてもいなくてもいい存在だったし、私も生きたいと思う理由も見当たらないし、死んでもいいって思って何が悪いの?」
静かにただ彼を問い詰める。
「……。」
私の眼を見つめたまま彼は口を閉ざし続ける。
「死んでもいいって思ってるだけで、結局死にたい訳でもないよ。ただ、死ぬことになっても未練はないってだけ」
リビングに響き渡る私の声はどこまでも静かで平坦な声音で、自分でも驚くほど冷静だった。
そして彼が口を開く。
「いくら僕でも死ぬな、とか生きたい人のことを考えろ、なんて自分勝手なことは言えない。でも、すぐに諦めるんじゃなくて、もう少しだけ頑張ってみようよ。死んでもいいなんて姿勢じゃなくて、もっと生きることに全力になってみたらどうかな」
真摯な瞳が私を射抜く。今度は私が黙る番だった。
「今まで会ってきた人で特に死が近い人は生きることに全力だったよ。諦めないで、頑張ってみようよ」
なんだか私という存在を全否定された気がして、反射的に私は叫んだ。
「何でも分かった気になるな! キミに私の気持ちが分かるわけがないじゃない!」
「分かるわけがないじゃないか! だからこそ人はお互いに分かり合おうと努力をする! でもキミは一切分かり合おうとしない! それはキミがどんな相手にも冷たく相手するからだ! そんな人が他人から大事にされる訳がないじゃないか!」
彼の一言一句が私の心に深々と突き刺さる。彼の言葉には嘘や偽りを感じさせず、ただ本心を叫んでいるようだった。
でも、私にとっては聞きたくない言葉だった。
「うるさい!」
ほとんど金切り声な叫びで強引に彼の言葉を遮る。
そして、私は彼から逃げるようにして彼の家を後にした。
なんとなさけない逃走だろうか。まるで嫌なことから逃げるガキみたいだ。
外はいつも通りに雨が降っており、薄いビニル傘をさしながら私は自己嫌悪に陥りながら自宅へ向かう。荷物を忘れていたが、取りに戻る勇気なんてなかった。
程無くして自宅に辿り着くと、自宅の前には黒い合羽を着た人がポツンと立っていた。
思わず不審に思いながらも、自宅に入ろうとすると、そいつが突然こちらに向かって駆け出した。
うわわ、と呟きながらそいつの突進をかわす。私に向けられた敵意を感じ取る。
「お前さえいなければ……、お前さえいなければ……。」
すれ違いざまのそいつの言葉はこんな感じだった気がする。
そこで私に向けられている意思は敵意ではなく、殺意だと気がつく。
ギラリと光るにび色が刃物だと分かり、殺意が勘違いではなく本物であることを確認する。
ガチリと体に緊張が走った。直接的に殺意を向けられたことのない私は突然のことに動けなくなる。
「お前さえいなければ私が……!」
この声音は彼氏いない女であるものだと理解し、再び恐怖に陥る。
彼女は何をそこまでして執着しているのだろうか。私には理解できない。
刃を構え、彼女が突撃してくる。私は冷静にかわそうと考えているのだが、体が言うことをきかない。
思わずあせる。刃が私を貫こうと迫ってくる。私はどうしようもなくなって、ギュッと目を閉じた。
……。
…………。
………………。
予期していた衝撃が私に訪れなかった。
薄く眼を開くと、そこには。
刃物で腹を刺された彼がいた。
何で? 率直に抱いた疑問はそれだった。しかし、すぐに理解する。彼の手には私のバックが握られていたのだ。
つまり、私が逃げ出したあと、私の忘れ物に気付き、わざわざ届けようとしてくれたようだ。そこで出くわしたのが変質者に襲われる私の姿。
「ちょ……ッ!」
「え?」
最初の声は私のもの、そのあとの声は黒合羽の女のもの。
「なんで私なんかの代わりになってんのよ、私の本性は見切ってるんでしょ!」
思わず声が荒くなる。彼の腹部からはじんわりと赤い染みが生まれ、ゆっくりと広がっている。
私は倒れそうになる彼をぎりぎりで支え、傘でこれ以上体温が下がらないようにする。
「あああ、あああああ……。」
彼女はただ音だけを垂れ流し続ける。
私はポケットから携帯を取り出し、119と番号を押し、出た相手に説明する。
「すぐに救急車来るって、頑張って!」
彼がぴくりと反応する。うっすらと目を開き、揺れ動く瞳がわたしを捉える。
「頑張るのは、キミ」
まだ先程の話が続いているような口ぶりだった。彼が小さく笑いながら言葉を呟く。
「死にたいって思った?」
首を全力で横に振る。溜まった涙が雨に混じって地面を濡らす。
あの時、私は死にたくない、彼と仲直りしたいって願った。結局、私という存在はまだ生に執着しているようだった。
「ならよかった」
そう言うと、彼は瞳を閉じた。私は彼を呼びかける。
そんな私たちの姿を見ていた彼女は先ほどから意味のない言葉を垂れ流し続けている。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
彼女の心境は察することができるが、どうも自業自得としかいいようがない。
彼女は濡れる地面に座り込み、まるで糸の切れた人形のようにぴくりともしなくなった。
程無くして救急車が到着する。私も乗り込もうとしたのだが、警官に話を聞かれていたこと、そもそも私と彼は友人なこと、救急搬送先が先ほど彼が話していた手術の準備をしていた場所なので、私が行っても一緒だと思ったため、彼を見送ることにした。
警官に詳しい事情を説明していると、その警官から彼の傷は命に別状はないことを伝えてくれた。その瞬間私は緊張の糸が切れて泣き崩れたような気がする。
それから先のことはあんまり覚えていない。
ぼんやりと覚えているのは、警官に連れてかれるときにチラリと見えた彼女の虚ろな瞳だった。
どこかさみしげな少女、それが俺の彼女に抱いた最初の印象だった。
新しくやってきた学校でたくさんのクラスメイトに囲まれ質問されていると、一度も話したことない人がいることに気がついた。その中でも、一切こちらに視線を向けず、窓を見つめていた彼女に興味を持って名前まで調べた。
しかし、彼女の人を寄せ付けない雰囲気は話しかけることすら不可能だった。
検査のために学校を初めて休んだその日、なんと例の彼女がプリントを届けてくれた。
ちょっと舞い上がった俺は彼女をお茶に誘い、おしゃべりをした。おしゃべりをしている最中は普通の表情なのだが、時々どこかで見たことあるさみしげな瞳になるのを俺は見逃さなかった。
そしてその瞳は小さい頃から病院で見続けてきたそれに似たものだと気づいたのは、風邪で病院に行った時だった。
その風邪で休んだ時も彼女がプリントを届けてくれた。その日は風邪で休んでいたので流石にお茶に誘えなかったが正直うれしかった。
次の日彼女にお礼をこめてお菓子をプレゼントした。少しでも会話ができればと思ったのだが、そうはいかなかった。そのうえ、そのあとの彼女たちの会話で俺のしていることが迷惑だということが分かり俺は落ち込んだ。
しかし、三度目の休みの時も彼女は来てくれた。すぐに彼女は帰ってしまったけど、それでも俺は嫌われていないと感じれただけ嬉しかった。
それからは光のような速さで過ぎて行った。
彼女がいじめられ、彼女とぶつかって、彼女と彼氏彼女の関係になって、そして今日また彼女とぶつかった。
彼女が本音を言ってくれるのは正直うれしかった。だから俺も本気でぶつかった。家から飛び出した彼女を見送ってから俺が言いすぎたことに気がついた。
だから忘れ物を届けるといった体で彼女を追った。そしたらあんな状況だった。
俺も必至でそれからのことはあんまり覚えていない。
ただ大粒の涙を流す彼女の瞳がいつもの暗いものではなく、どこか希望を持った明るいものに変わったのをみて俺は安心し、そのまま視界が暗転したのだった。
気がつけば翌日になっていて、私はいつも通りに学校へ向かっていた。
学校ではすでに転入生君と彼氏いたことない彼女の話でもちきりのようだった。どこから話が広がったのだろうか。
私に対するいじめはその日以来、ぱったりとやんだ。どうやら主犯は彼氏いない女で間違いなさそうだ。
ちなみに、彼女は形式上は保護というものに収まったが、今どうなっているのかまでは私にはわからない。
「えー、△△くんが少しの間休むことになりました」
HRの時間、担任の先生が言う。途端に、教室中から、△△くんが刺されたって本当ですか! ××ちゃん(彼氏いない女)も関係してるんですか! などなど野次があがる。
先生はそれら全て無視を決め込み、別の話を始める。生徒たちも最初はブーイングしていたのだが、全く相手にされないことが分かると徐々に小さくなっていった。
放課後、私は職員室に向かっていた。彼が入院する病院を突き止めるためである。
私が職員室につくと、担任が、やはり来たかみたいな表情になり、私は笑みで返した。
「君が関わっているというのは本当か?」
どうやら、先生も詳しくは知らないようだった。先生の質問は適当にはぐらかし、私は彼の入院する病院を尋ねた。
「それが個人情報ってものでなぁ……。」
言い渋る担任に私は畳み掛けるように言うと、担任は諦めたのか私に一枚の紙切れを渡した。
「この住所だ。決して他の人に言うんじゃないぞ」
もちろんです、とだけ返し、お礼を言ってから私は帰宅した。
今日も家は静かだった。さすがに今から隣町まで行くと、帰りが遅くなる。あの日以来、暗い夜道を歩くのには精神的抵抗が大きく、できるだけ夜は出歩かないようになっていた。
そして、自分のことについて思考を巡らす。
彼との出会いで、私の価値観はガラリと変わった。彼の全ての言葉に心打たれた訳ではないが、少なくとも彼が身を挺して守ってくれたという事実は揺るがない。
存在意義は与えられるものだとずっと思い込んでいた。でも実はそうではないのかもしれない。自分で見つけ出すこと、見つけられなくても見つけようとするだけでも大切なのかもしれない。
まず、私が始められること。
私はそこまで思考を巡らして静かに目を開いた。
もちろん、今まで逃げてきたことへの清算しかない。
「で、なんのようだ?」
ぶっきらぼうに答える私の父親。母親のほうは先ほどからだんまりを決め込んでいる。
私は両親に電話をし、今家族三人がリビングに集合している。
呼び出されたほうは見当がつかないのだろう。私を不思議そうに見つめている。
今私がすべきなのは家族の対話。でも、これで最後になるかもしれない。
「私を誰が育てるか決まった?」
静かに現実を突きつけるように私は尋ねた。
両親はギクリと身を強張らせる。
「考えたんだ、私。いらないもの扱いされる物なりに考えたんだ」
冷静に頭に血が上らないように言葉を紡ぐ。
「そんなに私のことがいらなければ、私はどちらにもついてかない」
淡々と紡がれる言葉を両親はどんな気持ちで聞いているのであろうか。
「そのかわり私に高校卒業まで生活費と教育費を頂戴。どっちからでもいい、私が一人暮らしできるぐらいのお金を渡して」
両親の顔は微動だにしない。ここまで言って、一切止められないことに悲しくなりそうになるが、そもそもそんな人たちだと決めて、私は言う。
「もし嫌っていうなら、私は二人の不倫相手との仲を引き裂く。こんな子供が出来る訳がないって思うのならそれでも構わない。その代わり覚悟して」
一瞬にして顔色が変わった両親の姿に私は小さくため息をつく。予想はしていたが、どうやら私の存在を隠して不倫しているようだった。
「今ここで決めて」
親権なんぞ、私が養子に出ればいい話だ。きっとおばあちゃんやおじいちゃんが引き取ってくれるだろう。もし無理であれば、またそのとき考える。
今の私にとって彼らはただの足手まといでしかない。
両親は一言二言話した後、父親が言った。
「お金は私が払う。だが親権はどうすることもできないじゃないか?」
養子の案を両親に伝える。必要な書類はすでに準備してきた。ほとんど記入した状態で後は判子だけという所までだ。
両親は私の覚悟をちゃんと分かってくれているのだろうか。
二人はいそいそと判子を押し、私に完成した書類を寄越す。
「今までありがとう、お父さんお母さん」
できるだけ満面の笑みで彼らに言う。私の全力の嫌味だ。
「……ッ。」
そんな元娘の姿を見てられなかったのか、彼らはすぐに帰っていった。
何年ぶりとなる家族の会話は、それは最低で、それでも家族で。最後となった家族の会話に私は後悔なんてしなかった。
何故か瞳にたまる涙を袖でふき取る。ふいてもふいても流れ出る涙に私はただ耐え続けていた。
さて休日になると私は隣町の病院に向かった。
受付の看護婦さんに彼の名前を伝えると、彼の部屋を教えてくれた。
彼の部屋の前で深く息を吸う。手に持っていた見舞いの品が入った紙袋を強く握る。
コンコン、と硬質な音が廊下に響く。すぐに、どうぞと彼の声が私に届く。
バクバクと激しく鼓動する心臓をなだめながら、私は病室にお邪魔した。
「あ……。」
彼が私の姿を確認すると、驚いたようだった。
私は彼の前に立ち、深々と頭を下げる。
「ごめんなさい。私のせいでそんな怪我を負わせて」
病室に入るときにみた彼の姿は、自宅の寝間着姿とほとんど変わらなかったが、何故か痛々しく感じ、彼を直視できなかった。
自分がしたことを突き付けられて、私は顔をあげられないでいた。
「いや、僕が勝手にしたことだから。それに、そもそも悪いのは黒合羽だよ」
まるで私をいたわるように彼が優しく語り掛ける。私は顔を上げて毅然と言う。
「でも、招いたのは私だし、本当にごめんなさい」
「それだったら、僕の作戦のせいで彼女が逆上したんだから、僕にも原因はあるよ」
何故かお互いに謙遜するという不思議な会話が病室に響く。
沈黙が二人を包む。口火を切ったのは彼のほうだった。
「こういう時って謝罪じゃないと思うんだ。お互い悪くないのに謝りあうのはおかしいよ」
彼の意図に私は気付く。
だから私は彼にすすめられるがままにいう。
「助けてくれてどうもありがとう」
私は感謝の気持ちとして満面の笑みで笑いかける。
「どういたしまして」
彼も満更ではないようだった。微妙にギクシャクとした病室の空気が一瞬にして打ち解ける。
「ところでいじめの件はどうなったの?」
お見舞いの品として果物を持ってきたので、それを剥いて彼に食べさせていると、彼が尋ねた。
「うん、どうやら黒合羽の彼女が主犯みたいで、あの日以降私にちょっかい出す人はいなくなったよ」
シャリシャリとリンゴを剥きながら私は答えた。
「それはよかった」
心底安心した顔になる彼を見て、不思議と私は微笑む。
「体は大丈夫なの?」
「刺された傷は浅いみたいで、治療に大した時間はいらないみたいだけど、ついでに病気のほうの手術もすることになって長くなるみたい」
「手術って、大丈夫なの?」
「うん、そこまで難しくないし、気にしなくていいって医者も言ってたよ」
「なら良かった」
これで一安心である。私の抱えていた不安要素がすべて消え去り、一人安堵する。
シャクシャクとリンゴをかじる。
彼のせいで全てが変わった。一度は辛い目いあったけど、彼のおかげで乗り越えられた。
私にとって彼はなんなのだろう。
「短い間だったけど、この関係も終わりかなー。」
私と彼を結ぶ偽物の関係、今は必要のないものとなってしまった。それは喜ぶべきものなのだが、何故か寂しさもこみあげてくる。
「今までありがとう。何から何まで助かった」
私は感謝の言葉を述べる。彼も笑いながら言う。
「僕もキミといられて楽しかった。ありがとう」
こうして私たちの関係は終わりを告げる。
彼との関係を一番楽しんでいたのは私なのかもしれない。そんなことをぼんやりと思っていると
「所でさ、一つお話があるんだ」
彼が今まで以上に真剣な瞳で私を見つめながら言う。
思わず私も背筋を伸ばしながら次の言葉を待つ。
彼は一つ深呼吸した後、言葉を紡いだ。
「僕と付き合って下さい」
彼が片手を差し出した形で頭を下げる。
病室の空いた窓から夏風が舞い込んでくる。テレビは梅雨が終わり夏が始まる旨の放送を流していた。
彼が恐る恐るといった体で下げた頭をあげ、こちらをうかがう。
私の返事は決まっている。
差し出された彼の手を両手で包み込みながら私は言ってやった。
「 」
彼のお見舞いを終え、病院を後にすると、外は夏が始まっていた。
さんさんと照らす太陽、ミンミンと鳴り響くセミ、ほんのりと感じる夏の香り。
つい最近まで梅雨だったのが嘘みたいだ。
太陽に手をかざしながら私は夏という季節を実感する。
今年の夏は何をしようかな。
山や海に出かけてみてもいいし、お菓子作りに挑戦してみてもいいかもしれない。
そんな他愛のない妄想を膨らませながら私はゆっくりと歩き出した。
私の夏はまだ始まったばかり。
これから起こる様々な出来事に期待で胸を膨らませながら私は生きる。
ここまで読んでいただきありがとうございました。この作品は学校に提出した内容を手直ししたものです、ご了承ください。よくある話なのかもしれませんが、私は書けて満足しています。