臆病な飼いネコの寝かせ方
茜君が私の家に泊まることになった日の夜。
私が作った晩御飯も綺麗に平らげ、お風呂にもちゃんと入ってくれて、スウェットに着替えた彼を見たときは少し驚いた。
彼が駅に取りに行ったものは生活用品らしく、その中に着替えなんかも含まれていたようだ。
私が用意した敷布団にも何も言わず眠りについてくれた。
そして布団で眠る彼を見て、私も安心したように眠ったのだった。
しかし、彼の心の壁に早くもぶち当たってしまった。
翌朝起きてみると、茜君は布団にはいなかった。
日々身体を売ってすごしてる、という先生の言葉が私の脳裏をよぎりかなり焦った。
もしかして私の家を出て街に行ったんじゃ…!
だが、それも杞憂に終わった。
なんと茜君はソファに身を縮めて眠っていたのだ。
こんな日が何日も何日も続いた。
私が寝るときはちゃんと敷布団で寝ているのに、私が起きると彼はソファで眠っている。
何日かして、私は彼に聞いてみた。
「どうしてソファで寝ているの?敷布団だと寝づらい?」
彼は首を横に振った。
「…誰かと寝るのが、怖いから」
そういっていた茜君の顔は、本当に何かに怯えているようだった。
「――ということがあった訳なんだけど」
「えぇぇぇぇぇぇ!?同棲してるなんて聞いてないよぉぉぉぉぉぉぉ!?」
「保健室で騒ぐな。つまみ出すぞ」
「ご、ごめんなさい…」
私は誰に相談していいか分からず、午後の休み時間に保健室へと来ていた。
なぜか琴音がそこに居合わせたが、大方授業をサボって眠りに来ていたのだろう。
同棲のことは話したが茜君の虐待のことは伏せたままだ。
「うぅ…それにしても私の凛が穢されちゃっただなんて…」
嘘泣きをする琴音の頭に拳骨を一発お見舞いする。
琴音は殴られた部分を抑えながら小さく呻いた。
「琴音のモノになった覚えもないし私は穢されてないから」
「なにもわざわざ本気で殴ることないのに…」
「まあ同棲のことは黙ってて悪かったわよ」
「謝るとこそこじゃないよ!…はっ!」
「いい度胸だなぁ、琴音」
先ほど注意されたばかりにも関わらず琴音は声を荒げ、先生に笑顔で威圧されていた。
「ごめんなさいぃ!」
茜君は私に何も言ってくれず、昨日も私が眠った頃合を見計らってソファへと移動していたようだった。
確か私が覚えている範囲では2時くらいまでは私の部屋にいた気がする。
「誰かと一緒に寝るのが怖い、か…」
「凛に襲われるのが怖いとか?」
「先生、きついお仕置きを」
「じじじょ、冗談だよ!冗談!」
トラウマを抱えるってことは、そう"なってしまった"出来事があるからな訳で。
つまるところ茜君は例の虐待によってそのトラウマを抱えてしまった可能性が大きい。
「とはいったものの…結局分からないことには変わりないんだよねぇ…」
先生に頭をグリグリされた部分を押さえる琴音を見つめながら、何か打開策はないかと考えてみた。
しかし考えても考えてもい案は浮かばず、ただ見守るという選択肢しか思い浮かんでこなかった。
「いっその事抱きしめて寝てみたら?」
「…は?」
「だからその、茜君をさ」
「いや…ないでしょ」
「案外、アリもしれんぞ」
意外なところから賛成の声が上がった。
まさか先生が賛同してくるとは思わなかった。
だけどほんの数日前に知り合った人間が抱き合いながら寝るって…。
「アカネは毎日違う女と寝ていたんだ。つまりなんらかの方法で朝まで夜を共にしたってことだ」
確かに、先生の言うことには一理ある。
「でも茜君がそんなことしてるって、よく知ってましたね」
「まあそれまで私の家に泊めていたからな」
開いた口が塞がらないとはまさにこの事だ。
私は数秒口を開けたまま固まってしまい、琴音に笑われた。
「せ、先生って茜君と仲良いんですか?」
「仲が良いかは知らんが、まあ親戚の付き合いがあるからな」
「え…?」
「言ってなかったか?私はアカネと同じ苗字だから気づくと思ったんだが」
頭を抱えるしかなかった。
私の頭の中は目の前の出来事について行けず、今にもオーバーヒートしそうだった。
あれ、待ってよ?それって…
「なんで親戚なのに先生が保護しないんですか!」
「だからそれまで泊めてい"た"と言っただろう。アカネはタバコが嫌いだから出て行ってしまったんだよ」
「出て行ってしまったじゃないですよホント…はぁ…」
私はため息しか出てこなかった。
タバコをやめればそれで済む話なのに、というよりそのせいで茜君は身体を売って過ごすことになってるっていうのに。
なんだか先生の株が一気に下がったような気がした。否、今現在も下がっている。
自分のとこの担任よりはマシな人だと思ってたんだけどなぁ。
「まぁ、今夜から抱きしめて寝てみればいいんじゃないか?」
「そんな他人事みたいに言わなくても…」
「ふっ、私ではどうにもできんからな」
もはや茜君の全てを私に投げつけた先生は、優雅にコーヒーを飲みながら書類に何かを書いていた。
というよりさっきから琴音が静かなんだけど。
「スー…スー…」
「どれだけ寝足りないのよアンタ…」
寝息を立てて眠る琴音に呆れ返り、これ以上ここにいても仕方ないと、静かに保健室を後にした。
授業までさほど時間がなく、私は早足で教室へと向かっていた。
「そういえばお弁当作ってあげたけど、どこで食べてるんだろ…」
廊下を歩いていると、ふと茜君にお弁当を渡してあったことを思い出した。
茜君のことだからまた屋上で食べてるんだろうか。
「リン」
「ん?」
この声は――茜君だ。
「…これ」
差し出されたのは私が今朝渡したお弁当箱だった。
「あ、ちゃんと食べてくれた?」
「…うん、美味しかった」
――茜君が、笑った?
いや、気のせいかもしれない…けど今笑ったように見えた。
「リン…?」
「へ?あっ、何かな」
「…これ、どうしたらいい?」
「あ、じゃあ、私が貰っておくよ。どうせ洗うの私だし」
「わかった」
『いっその事抱きしめて寝てみたら?』
脳裏に琴音の言葉が蘇る。
何で今そんなこと思い出してるのよ私!
お弁当箱を受け取った矢先、茜君の顔を直視できなくなり、私は少し俯き加減で目を逸らした。
「リン?」
「う、うん?どうかした?」
「…顔、赤い」
「っ!」
ひんやりとした茜君の両手が私の顔を包む。
私の顔はさらに赤くなり、自分でも分かるほど胸がうるさく鳴っていた。
ああ、もうっ。琴音のせいで余計意識してしまうじゃないの。
というかなんでこの子はそんなことが軽々しく出来るのよ!
「あ、あのさっ、早く教室いかない?そろそろ授業だしっ」
「…でもリン、熱っぽい」
私の顔は茜君によって固定され、嫌でも目が合ってしまうような状態になっていた。
超見つめられてるんだけど…。
ここで目を逸らしたら絶対茜君に勘ぐられるし…なんとかしないと私の心臓がヤバイ。
「わ、私は大丈夫だから!ね!早く行かないと先生に怒られちゃうし…」
「――分かった」
パッと手を離したところで茜君は何事もなかったかのようにスタスタと歩き始めた。
私はいつからこんな純情乙女の恋愛初心者みたいになったんだろう。
そもそも彼氏なんて一人も出来たことないし今まで恋なんてしたこと無かったからなのか…。
「…リン?」
「あ、うん。今行くよ」
顔を両手でパンッと叩き、気持ちを無理矢理切り替えた。
私はまだ鼓動を早めた胸のまま、茜君と一緒に教室へと歩き出した。
――そして、放課後の帰り道。
「……」
授業も終わり、いつものように自転車を押しながら、私は茜君と並び夕焼けを背に歩いていた。
いつも思うけど、茜君はとても静かだ。
茜君は私と歩くときはいつも周りの景色を眺めているからなのだけど。
「少しぐらい私のこと見てくれてもいいのに…」
確かに私は静寂を好むタイプではあるけど、茜君をチラ見する度に憂鬱な気分に襲われるのだ。
私だって一端の女の子である訳だし…といっても私自身が恋に疎いから魅力とかわかんないのだけどね。
「…!」
チラリと茜君に目をやると、茜君と目が合い私はそのまま固まってしまった。
どうしよう…もしかしたら私の独り言が聞こえてしまったのかな…変な人に思われたかもしれない。
「…何?」
「あ、うん…別にこれといった用はないというか…」
「…そう」
茜君はその一言を呟いてまた周りの景色に視線を移した。
私が言いたいことはそうじゃないのよ。もっとこう…別の…。
なんでこんな時に限って私の頭は働かないのよ。
数学の問題を解くときだって、英語の長文を訳す時だって、すぐ頭に浮かぶのに。
「あ、あのさ!」
「…?」
考えろ、私。
茜君がチャンスをくれたんだから。
「その…茜君は、私と一緒にいて、退屈?」
「……」
ようやく絞り出した言葉は、そんなものだった。
首を傾げて少し黙り込んだ茜君は、しばらく私のことを見つめていたままだった。
「…あたたかい」
「へ?」
「リンといると、温かい」
温かいってなんなんだろ…。
でも退屈とは言ってくれなかったのはちょっと嬉しいかも。
「そっか…ふふっ」
「?」
少しだけ舞い上がっていた私は、自分の悩みさえ忘れてしまっていたのだ。
そして私は意気揚々と茜君と共に自宅へと帰った。
その日の夜。
すっかりと琴音の言っていたことを忘れていた私は、茜君がお風呂に入っている時になってようやく思い出した。
お皿を洗い終わっても、茜君がお風呂から上がっても、ついには二人で寝る直前になっても。
私はどうやって一緒に寝るかを考えるので頭がいっぱいだった。
どうしよう!本気でどうしよう!
一生のお願いっていうはこういう時に使うんじゃないのかな。
いや、たかが一緒に寝るだけで一生のお願いを使うのは気が引ける。
「…リン?」
「ひゃい!?」
突然呼ばれて思わず変な声が出てしまった。
「…電気、消さないの?」
「あ、うん…」
茜君に催促され、仕方なしに電気を消す。
ベッドに座りながらもぞもぞと布団に潜ってしまった茜君の背中を暗がりで見つめる。
このまま何もしなければ、茜君はまたリビングで一人寝ることになってしまう。
そんなのはダメだ。私がせっかく彼を保護したというのに、そんなことがあってはダメだ。
「――はぁ…バカか私は」
焦りが一周回って冷静になった私は、悩むことすらバカらしくなって開き直ったような気持ちに襲われた。
「茜君」
「…?」
「おいで」
振り向いた茜君に、座っている隣の場所をぽふぽふと叩いて示す。
少し間が開いた後に起き上がり、茜君は私のベッドに潜り込んできた。
最初からこうすればよかったんだわ。
「抱きしめて寝ても、いいかな?」
何も言わなかったけど、首を縦に振ってくれたのが見えた気がした。
私も同じようにベッドへと潜り、茜君を後ろから抱きしめる。
「私の家に来る前は――女の人と寝るときは、どうしてたの?」
「……」
また何も言わないままだったが、しばらくするとくるりと体を回転させ、向かい合うような体制になった。
茜君の吐息が私の胸元にかかり、少しくすぐったく感じた。
「おやすみ、茜君」
私がそう呟いた時、すでに茜君は寝息を立てて眠っていた。