『切り口』という文章作法
そろそろお気づきの方もおるやもしれん。
そうです、アザとーが文章講座系書くのは、一種の逃避行動なのです。
アザとーの文章の師匠は職人である。
世に知られた名があるわけでなし、十把一絡げの市井の人でありながら筆によって食ってゆく職を得た、生粋の職人だ。
だからアザとーが叩き込まれたのは、職人としての小手先のテクニックばかりである。
まあ才能が無さすぎて、その師匠にすら放追された俺が何を語るって話ではあるが……テクニック以外で教えられたことの一つに『切り口』というものがある。
報道畑である師匠が常に心がけていたのは公平な立ち位置、それのみである。
文章というのは幽霊のようなもの、そこに確かに存在するのに捉えようによっては千化百姿の変化を見せる。
あの新聞社は右だの左だの、あの番組はワイドショー的だの報道的だの言われるものだが、それは全て切り口の問題であって一職人には全く預かり知らぬことであろう。
その証拠に俺の師匠は全くの無宗教論者、むしろエンターティナー気質である。それゆえ生涯平社員だったのではあろうが……上役からは頼られ、下からは目標とされるような、職人中の職人。未だ越えられぬ壁だ。
その師匠がある日、俺に言った。
「ここに一つの殺人事件がある。被害者はA氏、65歳。容疑者はB、23歳だ。これで大衆心理を操作して、容疑者を悪人に仕立てるにはどうしたらよいか?」
これに対していち早く答えを導き出したのは弟の方だった。
「A氏の身内側に立って、いかに被害を被ったか、A氏がどのようにむごたらしく死に至ったかを書く」
「そうだ。だがそれだけで真実を伝えたと、果たして本当に言えるのだろうか?」
いくら鈍い俺にも解る。どれほど体面を整えようとも、A氏側の話しか存在しない主張には、隠された事実があるはずだ。
「Bを擁護する立場で取材すれば、どうしてもA氏を殺害するに至った動機、もしくはただ単なる偶発的な殺人なのか、何がしかの理由はあるはずだ。作り話なんか使わなくても、大衆は操作できる」
だからアザとー、この歳になっても報道や情報を鵜呑みにすることができない。みんなが「あれ、あの人殺されて当然よね?」って話題に混じれないのは悲しいことではあるが、事象というのは例えて言うなら円筒形のようなものだということを幼心に叩き込まれている。
ジュースの缶を思い出して欲しい。手にとってみれば、それが円柱の形であるということは誰にでも解るだろう。だが真上から見たら丸い、真横から見れば四角い。この姿を正確に人様に伝えるためにはどうすればよいだろうか。
「上から見れば丸い形、横から見れば四角い形、だが、斜め上から見ればどうだ?」
なるほど。図解すれば確かに円筒形と解るだろう。
「その上でさらに情報を加えてゆく。色、印刷されたロゴ、そもそもの手触り……そういった情報の断片を繋ぎ合わせて初めてジュースの缶であると言う事実が再現されるんだ」
断片であるからこそ偏りや虚偽があってはいけない。受け取り手が真実にたどり着くための正しい情報を伝えることこそが仕事だと嘯く、まさしく頑固職人であった。
情報を曲げて伝えるなど至極簡単……まあ、例によって言葉足らずのアザとー。前述の事件をA氏側に取材してきたってことで例文を……
7日未明、調布市で会社役員Aさんが全身からおびただしい血を流して死亡しているのが家人によって発見された。Aさんは○商事の常務取締役で人格的にも優れており、近所の人の話では「感謝されることはあっても恨みを買うようなことは」と。実際の業務を息子に受け渡してからは悠々自適の生活を送っていたのだが……
師匠に見せたら後半をごっそり削られる。
伝えるべきは死人が出たという『事実』だけで十分だ。
逆にB容疑者側に取材に行こう。
「まさか、あの大人しい子がこんな事件を……」
容疑者を知るものは口をそろえて言う。
高校こそ中退したものの、それは決して世間で言うところの非行などではなく……
「何ページ書く気だ、お前はっ! 印刷が間に合わんだろうがああああああああああっ!」
「ごふううううううううう!」
ワイドショーならそういう切り口も許されようが、師匠的には俺をぶっ飛ばすに違いない。感情移入できる感傷も、面白おかしい逸話も必要ない。
5W1H。これが基本である。
殺人事件ならいつ、どこで、誰が、どのように殺されたのかが必須なだけだ。『7日未明、調布市にて死体発見。死亡したのはA、容疑者はB』それのみである。
これ即ち、『上面と下面は平らな円形。その外周に添って曲面の壁』と円柱を伝える所作だ。
ところがこれを題材に物語を……となると話は変わってくる。
円柱をあえて円に見える真上から捉えるか、四角く見える真横から見るのか、果ては楕円と垂直に……どの視点から取材するか、それによって取材先も、集まるエピソードも変わってくるのは当然だ。
B青年は己の手の内に握りこんだ白刃を見つめた。今日こそが、あの憎きAに正義の制裁を加えるチャンスだ。
まるで善の象徴のように称えられるA氏ではあるが、その真実の姿をBだけは知っている。
これを書くにはBに寄り添い、Bの話を聞き、彼の言葉こそが真実だと信じて物語を作るしかない。だから報道とフィクションは紙一重なのだと師匠は言った。
受け手でいるときは一つの事象を鵜呑みにせず、より多くの情報を集め、より正しい判断を下せ。そして書き手に回ったなら嘘偽りの無い情報をより多く与えよと。
俺は創作の人なのでこの教えを悪用しているが……
われわれ書き手は自分の作り出した世界の全てを読み手に伝えることはできない
登場する人物……いや、登場はしなくとも限りない生命ひしめく世界を文章だけで伝えようというのだ。どこかに足がかりがなくては無謀に過ぎる。だからこそ『主人公』が必要なのだ。
たった主人公一人とっても、毎日の生活を誕生から死没まで、細部に至るまでを書き写すことなどできはしないだろう。だから書くべき『事件』を投入し、ドラマを作る。
そのドラマから情報の断片であるエピソードを選び出し、積み重ねて読み手サンに物語を伝えるのだから、情報は多いほうが良いに決まっている。
……と、無尽蔵にエピソードを突っ込めるわけがない。
自分の作り上げた世界の『真実』を伝えるべき言葉を『切り口』というふるいにかけ、尚且つより多くの情報を読み手サンに与えなくてはならない。
この切り口を意図して偏らせるのだ。
即ち取材相手は主人公とそれを擁護する者たち。逆に反対派の意見など聞き入れてもやらない、もしくは力技で捻じ曲げる!
そうすれば円筒形を丸に見せるも四角に見せるも思いのままなのだ。
拙作の話で申し訳ないが、絶賛大嫌われ者の敵役が一人いる。彼はけなげな黒犬をひたすら苛め抜く冷酷な男なのだが、彼の側に立ったエピソードを入れれば、ここまで嫌われることは無かったかもしれない。
だが俺は彼が冷酷な性質を得るに到った生い立ちを敢えて削った。黒犬を引き立てるエピソードではなかったからだ。こうして彼は全くの人間性を失い、狂執に囚われた敵役として完成した。
そして、頼まれても書いてはやらんが、彼の側に寄り添った物語というのも書けなくは無い。その場合、切り口が全然変わって物語そのものが形を変えることだろう。
なんて格好をつけても、物語というのは受け取り手である読み手サンが居てこそ初めて成り立つものだ。自分の中にだけ存在する物語が百パーセント伝わるなど思い上がってはいけない。
さて最後に、アザとーがつい最近、師匠から贈られたありがたいお言葉を……
「誤解や中傷を受けたら、それは相手を納得させられなかった自分の文章の未熟さを恥じ、精進せよ」
そだ、これも言われた。
「誤解を与えたお前の負けだ。誠意を持って、バッタの構えで謝れ」
アザとーの師匠、文章は職人だが女房に対しては頭の上がらない、バッタの構え(土下座とも言う)の名人であった……