「婚約者なら黙って支えろ」と仰るので、王宮への寄付金も黙って止めました
「エレノア、お前は本当に可愛げのない女だな」
王都の夜を彩る王宮の大広間で、第一王子レオナルド殿下はそう言い放った。
頭上では幾百もの燭台を備えたシャンデリアが輝き、楽団の奏でるワルツが絹のように流れている。
その華やかな音楽が、私の周囲だけ途切れたように感じられた。
「殿下……どうか、エレノア様をお責めにならないでくださいませ」
レオナルド殿下の腕にしがみついた男爵令嬢クララが、潤んだ瞳を伏せる。
「私がいけないのです。エレノア様より目立つリボンをつけてしまったばかりに……」
「違う、クララ。お前は何も悪くない」
殿下は彼女の肩を抱き寄せた。
「悪いのは、些細な礼儀に目くじらを立てるエレノアだ。公爵令嬢だからといって、誰にでも指図してよいと思うな」
周囲から忍び笑いが漏れた。
私は手にした扇を静かに閉じた。
「殿下。私がクララ様にお伝えしたのは、王室の公式行事における席次についてだけです。王族の婚約者より上座にお座りになると、クララ様ご自身が不利益を被るおそれがございますので」
「ほら、またそれだ!」
殿下の声が大広間に響いた。
「お前はいつも正論ばかりだ。少しはクララのように、素直で愛らしく振る舞えないのか!」
クララは殿下の胸元に顔を埋めた。
私は何も言わなかった。
言えなかったのではない。
言葉を選んでいたのだ。
ここで反論すれば、殿下はますます声を荒らげるだろう。
そして明日の朝には、私が嫉妬に狂って男爵令嬢を虐げたという噂が王都を駆け巡る。
いつものことだった。
「エレノア」
殿下は鼻を鳴らした。
「そもそも、お前が私の婚約者でいられるのは王家の慈悲によるものだ。婚約者なら黙って私を支えろ。影のように控え、男の顔を立てる。それが女の務めだろう」
――黙って支えろ。
その言葉が、胸の奥に沈んだ。
「……殿下は、私が何をしているのか、ご存じですか」
「何?」
「王家のために、私がどのような務めを果たしているか、ご存じでしょうか」
殿下は呆れたように笑った。
「公爵家の娘として茶会に出て、多少の書類を整える程度だろう。それがどうした」
「……そうでございますか」
「我が王家は盤石だ。ここ数年で財政も立て直した。新式魔導砲の開発も、大神殿の改修も、すべて順調に進んでいる」
殿下は得意げに杯を掲げた。
「天も我が王家を祝福しているのだ。お前一人がいなくなったところで、何も困りはしない!」
「兄上」
低い声が割って入った。
振り向くと、第二王子ユリウス殿下が立っていた。
深い紺色の礼装をまとった彼は、兄王子とは対照的に、飾り気のない落ち着いた佇まいをしている。
「ここは公式の夜会です。エレノア嬢へのお言葉が過ぎるのではありませんか」
「黙れ、ユリウス。お前には関係ない」
「王家の名誉に関わることです」
「生意気な!」
ユリウス殿下はそれ以上言い返さず、私にだけ静かに一礼した。
その眼差しには、同情ではなく、何かを案じるような真剣さがあった。
けれどレオナルド殿下は、そんな弟の様子にも気づかない。
「エレノア。お前の小言にはもううんざりだ。文句があるなら、婚約などいつ破棄しても構わん!」
私は、ゆっくりと息を吸った。
胸の奥に、長い年月をかけて積もった何かがあった。
期待。
忍耐。
そして、まだ捨てきれずにいた愛情。
それらが今、静かに音を立てて崩れていく。
「……承知いたしました」
「何?」
私はドレスの裾をつまみ、深く膝を折った。
「殿下のお言葉、確かに承りました。婚約解消の申し出として、公爵家より正式な手続きを進めさせていただきます」
「は?」
「これまでお世話になりました。どうぞクララ様とお幸せに」
「ま、待て! 私はそこまで言っておらん!」
「皆様がお聞きになりましたわ」
私は顔を上げた。
「殿下は、私がいなくても何も困らないと仰いました」
大広間が静まり返った。
「でしたら、これ以上お邪魔する理由はございません」
私は一度だけユリウス殿下に目礼し、背を向けた。
背後からレオナルド殿下の怒鳴り声が聞こえたが、振り返らなかった。
不思議だった。
涙は、一滴も出なかった。
「お疲れ様でございました、お嬢様」
帰りの馬車で、老執事セバスチャンが静かに声をかけてきた。
「ありがとう」
「……とうとう、お決めになられましたか」
「ええ」
窓の外では、王都の街灯が雨に滲んでいた。
私は手袋を外した。
扇を握り続けていた指先に、赤い痕が残っている。
「セバスチャン。商会本部に連絡を」
「はい」
「『星霜の寄付』を、今月限りで終了します」
老執事の表情がわずかに変わった。
「王室特別会計への匿名寄付でございますね」
「ええ。今後は母の遺志に従って、救済院と孤児院、それから冬を越すための炊き出し基金に回します」
「承知いたしました」
「それと、王都の施療院への医薬品納入は継続して。公立学校への奨学金も止めません。近衛兵や王宮使用人への未払い給与については、財務局から相談があれば、別途、正式な貸付契約を検討するわ」
私は窓の外を見つめた。
「困らせたいのは、国民ではないもの」
「……お嬢様」
「ただ、もう王子殿下の浪費を私のお金で支える理由はないでしょう?」
セバスチャンは、初めて小さく笑った。
「まことに、そのとおりでございます」
『星霜の寄付』。
それは、私が五年前から続けてきた匿名の送金だった。
母が遺してくれた財産と、私自身が興した国際貿易商会の利益。
その一部を、王室の特別会計へ送り続けていた。
五年前、王国は深刻な財政難に陥っていた。
凶作と疫病、国境防衛費の増大。
当時の国王陛下は病床にあり、まだ若かったレオナルド殿下は財務に関心を示さなかった。
『エレノア嬢』
病床の前国王陛下は、痩せた手で私の手を握った。
『どうか、しばらく王家を支えてくれないか』
私は頷いた。
愛する祖国のため。
そして、いつか夫となる人のために。
だが陛下は、もう一つ頼み事をなさった。
『寄付者の名は伏せてほしい。レオナルドは、まだ人に助けられることを恥と考えるところがある』
私はそれも受け入れた。
若い王子の誇りを傷つけたくなかったから。
いつか彼が立派な国王になり、自分の足で王国を支えられるようになるまで。
その日が来ると信じていた。
けれど。
――婚約者なら黙って支えろ。
あの人は、私の沈黙を忠誠だと思っていた。
私の献身を、当然の権利だと思っていた。
「……もう十分よね」
小さく呟くと、セバスチャンが答えた。
「はい。十分すぎるほどでございます」
私はようやく、肩の力を抜いた。
最初に異変に気づいたのは、王宮財務局の職員だった。
毎月十五日。
決まって王室特別会計に振り込まれていた巨額の資金が、その月は届かなかった。
「送金記録がありません!」
「そんな馬鹿な! いつもの匿名寄付はどうした!」
「寄付元の商会から、今月をもって終了するとの正式な通知が……!」
財務卿は蒼白になった。
その寄付は、王室予算のおよそ三割を補っていた。
だが、問題は単なる金額ではなかった。
本来なら支出を見直すべきところを、レオナルド殿下は寄付を恒久的な収入と見なして、次々と新事業を始めていたのだ。
新式魔導砲。
豪華な迎賓館。
大神殿の大理石の床。
王太子専用の黄金の馬車。
「殿下、支出の凍結が必要です!」
財務卿が訴えると、レオナルド殿下は顔をしかめた。
「なぜだ? 来月にはまた金が入るだろう」
「入りません!」
「ならば税を上げろ!」
「冬を前に増税すれば、民が耐えられません!」
「では借りればよい!」
「これ以上の無担保借入を認める商会はございません!」
殿下は怒りに任せて書類を床へ投げつけたという。
その頃、私は領地の執務室で冬支度の計画を立てていた。
「孤児院の暖炉は?」
「すべて修繕を終えました」
「炊き出しの小麦は?」
「三か月分を確保しております」
「よかった」
窓の向こうでは、初雪が庭の薔薇を白く染め始めていた。
セバスチャンが新しい書類を差し出した。
「王都の施療院から感謝状が届いております。医薬品の納入を続けてくださったおかげで、冬の流行病に備えられると」
「それは何よりね」
私は微笑んだ。
寄付を止めたことに後悔はない。
ただ、王宮の混乱が民の暮らしに及ばぬよう、必要な支援は続けていた。
それは王子のためではない。
この国で生きる人々のためだった。
さらに二週間が過ぎた。
王宮では、王太子が進めていた事業の支払いが次々と滞り始めた。
ドワーフの工房は魔導砲の納入を停止。
迎賓館の建築業者は工事を中断。
財務局が調査を進めると、王太子の命令で正式な審査を省略した支出が、山のように見つかった。
そして、もっと大きな問題が明らかになった。
『星霜の寄付』は、天から降ってきた金ではなかった。
公爵令嬢エレノアが、自分の資産から送り続けていたものだったのだ。
財務卿は頭を抱えた。
「殿下は……本当に何もご存じなかったのか」
その事実は、やがてレオナルド殿下の耳にも入った。
そして翌朝。
公爵邸の門前に、王家の紋章をつけた馬車が止まった。
「エレノア! エレノアはいるか!」
怒鳴り声とともに、客間の扉が開いた。
私は読みかけの書類から顔を上げた。
そこに立っていたのは、かつての輝かしい王太子とは別人のようなレオナルド殿下だった。
上着には皺が寄り、目の下には濃い隈がある。
「殿下。先触れもなくお越しになるとは、どうなさいましたの」
「どうしたもこうしたもない!」
殿下は机を叩いた。
「寄付金だ! お前が止めたのか!」
「はい」
私は静かに答えた。
「私個人の寄付でございますので、終了いたしました」
「なぜだ!」
「婚約が解消されましたので」
「それだけの理由で、王家を見捨てるというのか!」
私はしばらく、彼を見つめた。
「殿下」
「何だ!」
「私が五年間で、どれほどの金額を王室に寄付したか、ご存じですか」
「そ、それは……」
「では、そのお金がどこから来たかは?」
「商会の利益だろう!」
「商会の利益を生み出すために、何人が働き、どれほどの危険を引き受けているかは?」
殿下は黙った。
「海賊に襲われた船もございました。疫病で港が閉ざされた年もありました。商談のために、私は冬の山道を三日三晩かけて越えたこともあります」
私は机の上に、一冊の帳簿を置いた。
「ここに記されているのは、天から降ってきた富ではありません。働いた人々の時間と、努力と、命を懸けた決断の積み重ねです」
「……」
「それを殿下は、神の祝福だと仰いました」
レオナルド殿下の顔が赤くなった。
「し、知らなかったのだ!」
「ええ。ご存じなかったのでしょう」
私は頷いた。
「けれど、知ろうともなさらなかった」
その言葉に、殿下は唇を噛んだ。
「……悪かった」
初めて聞く言葉だった。
「エレノア、私が悪かった。クララとはもう別れた。あの女は、金のない王太子には興味がないと言って去っていった」
私は黙っていた。
「もう一度、婚約を結び直そう。お前を王妃にする。好きなだけ国政に口を出していい。だから……」
殿下は一歩近づいた。
「寄付金を戻してくれ」
私は、胸の奥が静かに冷えていくのを感じた。
「殿下」
「何だ」
「もし、私が一銅貨も持たない女だったとしても、同じように婚約を申し込んでくださいますか」
殿下は答えなかった。
長い沈黙が落ちた。
その沈黙だけで、十分だった。
「……お帰りください」
「エレノア!」
「私は、もうあなたの財布ではありません」
殿下の顔が歪んだ。
「王家を滅ぼす気か!」
「いいえ」
私は引き出しから、一通の書類を取り出した。
「こちらをご覧ください」
それは、王宮財務局へ提出した提案書の写しだった。
「未払い給与の救済、施療院への資金供給、食糧備蓄の確保については、私の商会が正式な契約のもとで協力する用意があります」
「な、ならば……!」
「ただし」
私は彼の言葉を遮った。
「王太子殿下の個人的な浪費には、一銅貨も出しません」
殿下は呆然とした。
「王国を支えることと、あなたを甘やかすことは、別の話です」
そのとき、扉が静かに叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、ユリウス殿下だった。
「兄上。ここにいらしたのですね」
ユリウス殿下は、レオナルド殿下に向かって一礼した。
「ユリウス……なぜお前がここに」
「エレノア嬢との会談をお願いしておりました。国家財政の再建についてです」
「何だと?」
ユリウス殿下は、私の机に置かれた書類を見た。
「エレノア嬢。提案書を拝見しました。施療院と給与の支払いを最優先にしてくださったこと、感謝いたします」
「当然のことでございます」
「当然ではありません。王家に失望したとしても、民を見捨てない。それを実行できる人は、決して多くありません」
私は少し驚いた。
彼の言葉には、社交辞令とは違う温度があった。
レオナルド殿下が苛立たしげに割って入る。
「何を勝手に話している! 王太子は私だぞ!」
「その件についても、お話があります」
ユリウス殿下の表情が引き締まった。
「貴族院と国王陛下の命により、兄上が承認された支出について調査が行われました」
「調査だと?」
「正式な審査を経ない契約、財務卿の警告を無視した借入、予算外の支出。その責任が問われています」
「私は王太子だ!」
「だからこそです」
ユリウス殿下は静かに答えた。
「王太子は、国の財を自分の財布のように扱ってよい立場ではありません」
レオナルド殿下は言葉を失った。
「本日、国王陛下は貴族院の決議を受け、兄上の王太子位を解く勅命を発せられました」
「……は?」
「兄上には、今後、王都郊外の離宮で謹慎していただきます。財政調査への協力も命じられています」
「そんな……馬鹿な……」
レオナルド殿下の膝が震えた。
「私が……王太子でなくなるというのか……?」
「はい」
「エレノア!」
殿下は私を振り向いた。
「お前からも何か言ってくれ! 私たちは長年、婚約していた仲だろう!」
私は静かに立ち上がった。
長い年月だった。
幼い頃、初めて王宮で出会った日のことを覚えている。
まだ背の低かったレオナルド殿下は、庭園で転んだ私に手を差し伸べてくれた。
『泣くな。僕が守ってやる』
あの言葉が嬉しかった。
いつか立派な国王になると信じていた。
あの少年を、私は確かに愛していたのだ。
けれど。
「殿下」
私は微笑んだ。
「私は、あなたの幸せを願っておりました」
「ならば……!」
「だからこそ、あなたが自分の過ちに向き合う機会を、私が奪うべきではありません」
レオナルド殿下の顔が強張った。
「もう、誰かの影に隠れて生きるのはおやめください」
私は深く一礼した。
「どうか、ご自身の足でお立ちくださいませ」
殿下は何も言わなかった。
護衛に付き添われて客間を出ていく背中は、ひどく小さく見えた。
私はその背中を、最後まで見送った。
涙は出なかった。
ただ、胸の奥に残っていた小さな痛みが、静かに消えていった。
「……お強い方ですね」
客間に二人きりになると、ユリウス殿下が言った。
「強くなどありません」
私は首を横に振った。
「本当は、もっと早く気づくべきでした。支えることと、甘やかすことは違うのだと」
「私も、兄を止められませんでした」
ユリウス殿下は苦笑した。
「兄上の失敗を知りながら、王家の体面を優先してしまった。私にも責任があります」
私は彼を見た。
「殿下は、これからどうなさるおつもりですか」
「まず、財務を立て直します。不要な建設事業を凍結し、契約を精査する。王室の支出も公開できる範囲を広げるつもりです」
「それは、貴族院の反発を招きますわ」
「承知しています」
「王室の威信を損なうと騒ぐ者もいるでしょう」
「それでも、民の暮らしより大切な威信などありません」
私は思わず、彼を見つめた。
その言葉を、ずっと聞きたかった気がした。
「……では、私からも条件がございます」
「伺いましょう」
「今後、商会が王国に資金を貸し付ける場合、すべて正式な契約書を交わします。使途を明記し、監査を受け、返済計画を定めること」
「当然です」
「私の意見が殿下のお考えと異なる場合でも、耳を傾けていただきます」
「もちろん」
「それから……」
私は少しだけ意地悪く笑った。
「私を『黙って支える女』として扱わないこと」
ユリウス殿下は一瞬目を丸くした。
そして、声を立てて笑った。
「それは困りました」
「まあ。なぜですの?」
「私は、あなたの意見を聞くためにここへ来たのです。黙られてしまっては、仕事になりません」
思わず、私も笑ってしまった。
いつ以来だろう。
王族の前で、こんなふうに自然に笑ったのは。
「エレノア嬢」
ユリウス殿下が、少し真面目な顔になった。
「実は、もう一つお願いがあります」
「何でしょう」
「仕事の話が終わったら、庭を案内していただけませんか」
「庭、ですか?」
「ええ。あなたの領地の薔薇は、冬にも美しいと聞いています」
「今は雪に埋もれておりますわ」
「では、雪景色を」
ユリウス殿下は、少し照れたように笑った。
「……今度は、仕事とは関係のない話をしてみたいのです」
胸の奥が、小さく跳ねた。
私は窓の外を見た。
白い庭園。
冬枯れの枝。
けれど、その向こうには澄み切った青空が広がっている。
「そうですわね」
私は微笑んだ。
「温かい外套をご用意いたします」
それから半年。
王国の財政再建は、少しずつ進み始めた。
王室の浪費は削減され、商会との契約は公開された会計手続きに従って結ばれるようになった。
施療院は新しい薬を買えるようになり、冬を越した孤児院には、春の花が咲いた。
ユリウス殿下は新たな王太子として、多忙な日々を送っている。
それでも月に一度、必ず私の領地を訪れた。
最初は財務会議のため。
次は商会の視察。
その次は、孤児院の子どもたちが作った焼き菓子を届けるため。
そして、ある春の日。
「エレノア嬢」
庭園で、ユリウス殿下が私を呼び止めた。
淡い桃色の薔薇が、風に揺れていた。
「今日は、仕事の話ではありません」
「珍しいこともございますのね」
「ええ。私自身、少し緊張しています」
彼は真剣な眼差しで私を見つめた。
「私は、あなたの知恵に何度も助けられました。けれど、それ以上に……あなたと過ごす時間が、何より大切になってしまったのです」
私は息を呑んだ。
「あなたを王家のために縛りたいのではありません。商会を手放してほしいとも思いません」
彼は、そっと手を差し伸べた。
「ただ、これから先の人生を、あなたと並んで歩きたい」
春風が吹いた。
薔薇の花びらが、二人の間を舞っていく。
「エレノア。私の隣に、立っていただけませんか」
私は差し出された手を見つめた。
かつて、私は誰かの影になることを求められた。
黙って支えろと命じられた。
自分の意見も、努力も、存在さえも、見えないところに隠してきた。
けれど今、目の前の人は言ってくれる。
隣に立ってほしい、と。
「……一つだけ、お願いがございます」
「何でしょう」
「私は、これからも商人であり続けます。仕事を優先する日もございますし、殿下に遠慮なく意見を申し上げることもあるでしょう」
「望むところです」
「それでも、よろしいのですか?」
ユリウス殿下は微笑んだ。
「むしろ、そうでなくては困ります」
私は笑った。
そして、彼の手を取った。
「では、喜んで」
彼の手は、温かかった。
遠くで教会の鐘が鳴っている。
空はどこまでも青く、春の光が庭園いっぱいに降り注いでいた。
私はもう、誰かの影ではない。
誰かに認められるためだけに働く必要もない。
自分の力で築いたものを誇り、自分の意志で愛する人を選ぶ。
それが、私の人生だ。
「エレノア」
「はい、殿下」
「これからも、遠慮なく私に意見を言ってください」
私は少し考え、微笑んだ。
「では、さっそく一つ」
「何でしょう?」
「殿下。次の財務会議では、もう少し資料を早くお送りくださいませ。前回は夜中まで確認する羽目になりましたのよ」
ユリウス殿下は目を丸くし、それから声を立てて笑った。
「これは手厳しい!」
「当然ですわ。私はもう、黙って支えるつもりはございませんもの」
春風が、私たちの笑い声を運んでいった。
――黙って支えろ、と言われたあの日。
私は確かに、一つの未来を失った。
けれど。
自分の声を取り戻した先には、思っていたよりずっと明るい未来が待っていたのだった。
〈完〉




