聖女の水は、夜になると赤くなる
その療養院には、もう患者はいないはずだった。
王都の北門から馬車で半日。
森の中に建つ灰色の石造りの建物は、百年前の疫病流行時に使われ、その後は聖女候補の修練所として残されている。
曇った硝子窓。
錆の浮いた鉄製寝台。
壁に埋め込まれた陶器の洗面台。
そして、各病室の枕元から廊下へ伸びる、細い呼び鈴の紐。
玄関扉が開くと、どこか遠くで金属が触れ合った。
ちりん。
リナリアが顔を上げる。
「今、何か」
「風でしょう」
案内役の神官は、鍵束を腰へ戻しながら答えた。
建物の中には風など入っていなかった。
廊下の窓はすべて閉じられている。
それでも神官は確かめようとせず、先へ進んだ。
「三日ほどで終わるでしょう」
「ここで、何をすればよいのですか」
「地下水が濁っています。井戸を浄化し、飲用できる状態へ戻してください」
「ここを、また使うのですか」
リナリアは暗い廊下を見渡した。
寝台には白い布がかけられたまま。
壁紙は湿気で剥がれ、天井の隅には黒い染みが広がっている。
長いあいだ閉ざされていた建物特有の、黴と埃と古い薬品の匂いがした。
「将来的な再利用が検討されています」
神官は答えた。
「聖女候補の修練施設としては、十分な設備がありますから」
十分な設備。
そう言われて、リナリアは壁に並ぶ呼び鈴を見た。
患者が寝台から動けないとき、看護人を呼ぶためのものだ。
どの紐にも薄く埃が積もっていた。
神官は一階奥の給水室へ、リナリアを連れていった。
部屋の中央には、石造りの井戸があった。
蓋を開けると、底の暗がりに黒ずんだ水面が見えた。
「これを清めればよいのですね」
「はい。聖女様のお力であれば、難しいことではありません」
リナリアは井戸の前に膝をついた。
両手を組み、祈りの言葉を唱える。
淡い光が指先から落ち、井戸の中へ吸い込まれていった。
水面がかすかに鳴った。
ぴち。
小さな泡が一つ、底から浮かんでくる。
また一つ。
ぴち。
ぴち。
やがて水の濁りは消えた。
神官が縄で桶を下ろす。
滑車が軋んだ。
きい。
きい。
濡れた縄が巻き上がり、透明な水を満たした桶が姿を現した。
硝子の杯へ注いでも、底がはっきり見える。
「見事です」
神官は満足そうにうなずいた。
「本日の務めはこれで終わりです。明朝、もう一度状態を確認しましょう」
夕食は、持参した硬いパンと干し肉だった。
神官は玄関脇の管理人室を使い、リナリアは二階の旧看護室で休むことになった。
夜になると、療養院はひどく静かになった。
森の風が枝を揺らす音。
古い窓枠が鳴る音。
どこかで水滴が落ちる音。
ぽたり。
しばらくして、また。
ぽたり。
一定の間隔だった。
眠れずにいたリナリアは、毛布の中で目を閉じた。
やがて。
ちりん。
小さな音がした。
目を開ける。
水滴の音が止まっていた。
代わりに、廊下の奥から呼び鈴が鳴った。
ちりん。
少し間を置いて、もう一度。
ちりん。
リナリアは寝台を降りた。
燭台へ火を灯し、扉を開ける。
二階の廊下には、同じ形の扉が並んでいた。
どの病室にも患者はいない。
それでも、廊下の一番奥にある鈴だけが、かすかに揺れていた。
ちりん。
紐は、端の病室から伸びている。
リナリアはゆっくりと近づいた。
足音が床板へ落ちる。
こつ。
こつ。
そのたび、鈴は鳴るのをやめた。
リナリアが止まる。
ちりん。
歩く。
鈴が止まる。
止まる。
ちりん。
誰かが、こちらの足音を聞いている。
そう思った。
病室の前に立ち、扉を開く。
室内には、鉄製寝台が四台。
すべて空だった。
窓も閉じている。
呼び鈴の紐だけが、寝台の脇で揺れていた。
「誰か、いるのですか」
返事はない。
そのとき。
ぽたり。
洗面台から水が落ちた。
蛇口は固く閉じられている。
それでも、先端に水滴が膨らんだ。
ぽたり。
白い陶器の底に落ちた水は、透明だった。
次の一滴には、わずかに色がついていた。
薄い桃色。
その次は、赤。
ぽたり。
ぽたり。
洗面台の底に、細い血のような筋が広がっていく。
リナリアは蛇口へ手を伸ばした。
閉め直そうと力を込める。
蛇口は動かなかった。
なのに水だけが、次第に勢いを増していく。
さらさら。
赤い水が縁を越え、床へこぼれた。
リナリアが後ずさる。
床へ広がった水は、ただの水溜まりにはならなかった。
小さな足の形を作った
裸足の子供の足跡。
一つ。
もう一つ。
濡れた足跡が、誰もいない床に続いていく。
病室を出て。
廊下を進み。
階段の方へ向かう。
ぺたり。
ぺたり。
音はしないはずなのに、リナリアには濡れた足が床を踏む音が聞こえた。
足跡は一階へ下り、給水室の前で途切れた。
扉を開ける。
昼間に清めた井戸は静かだった。
水面は暗く、何も映していない。
しかし、部屋の床には、赤い文字があった。
小さな指で書いたような、歪んだ文字。
みずをかえして。
背後で、呼び鈴が鳴った。
ちりん。
振り返る。
給水室には鈴も紐もない。
翌朝。
リナリアが昨夜のことを話すと、神官は病室と給水室を確認した。
赤い文字は消えていた。
洗面台にも、水の跡一つ残っていない。
「寝ぼけておられたのではありませんか」
「病室の洗面台から、赤い水が出ました」
「古い配管です。錆が混じったのでしょう」
「あれは錆ではありません」
「古い建物では、よくあることです」
神官は取り合わなかった。
「井戸の水は清いままです。今夜もう一度様子を見て、異常がなければ明日には戻れます」
「玄関を開けたときにも、鈴が鳴りました」
「金具が鳴ったのでしょう」
「給水室には、鳴るものがありません」
「音というものは、古い建物の中では思わぬ場所まで伝わります」
神官はそう答えた。
事実を否定してはいなかった。
ただ、すべてを別の名前で呼んでいた。
その日の午後、リナリアは療養院の記録室を調べた。
棚には、古い帳簿や日誌が年代順に並んでいた。
患者名簿。
薬品の出納簿。
食料の配給記録。
死亡報告書。
棚から帳簿を取り出すたび、乾いた紙が擦れた。
さら。
さら。
百年前の疫病流行年にあたる棚だけ、一冊分の隙間が空いていた。
左右の帳簿には、同じ年号が記されている。
一冊だけ、欠けている。
棚の奥へ手を差し入れると、紙片が一枚落ちた。
ひらり、と床へ落ちるはずだった。
しかし紙片は、何かに引かれたように棚の下へ滑った。
その奥から。
ちりん。
リナリアは膝をつき、紙片を拾った。
引きちぎられた帳簿の一部だった。
そこには、子供の名前が並んでいた。
エルナ、七歳。
ミハル、九歳。
トト、五歳。
名前の横には、赤い印。
さらに右端に、小さく文字が記されていた。
聖水配給対象外。
リナリアは紙片を握りしめた。
その夜。
最初に鳴ったのは、二階の一番奥だった。
ちりん。
少し間を置いて、その隣。
ちりん。
さらに、その隣。
音は病室を一つずつ移り、廊下をこちらへ近づいてきた。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
リナリアは寝台の上で身を起こした。
鈴は扉の前まで来た。
そこで一度、止まった。
静寂の中、水滴の落ちる音だけがした。
ぽたり。
直後。
一階と二階のすべての呼び鈴が、一斉に鳴った。
ちりん、ちりん、ちりん、ちりん。
重なる音は鈴というより、誰かが一度に何十本もの細い鎖を引きずったようだった。
リナリアが廊下へ出る。
各病室の扉の下から、赤い水が流れ出した。
水は細い筋となって廊下へ集まり、階段を伝い、一階へ下りていく。
どの水の上にも、小さな足跡があった
一人ではない。
十人。
二十人。
もっと。
ぺたり。
ぺたり。
ぺたり。
無数の濡れた足が、呼び鈴の下を歩いている。
足跡はすべて、給水室へ向かっていた。
神官も騒ぎを聞きつけ、管理人室から出てきた。
赤い水を見た瞬間、その顔から血の気が引いた。
「部屋へ戻ってください」
「これは錆ですか」
「戻りなさい」
「知っていたのですね」
神官は答えない。
給水室の扉を塞ぐように立った。
その足元へ、赤い水が集まってくる。
ちりん。
ちりん。
鈴の音は止まらない。
リナリアは神官の脇をすり抜け、給水室へ入った。
井戸の水が、真っ赤に染まっていた。
清めたはずの水面が、ゆっくりと波打っている。
その中央で、小さな波紋がいくつも生まれては消えた。
まるで水の下から、何人もの指先が触れているようだった。
「見てはいけません」
神官がリナリアの腕を掴んだ。
「この水を清めてください。今すぐに」
「なぜです」
「それが聖女の務めです」
「何があったのですか」
「昔のことです」
ちりん。
給水室の床下から、鈴が鳴った。
水の中を通ったような、鈍い音だった。
ちゃりん。
続いて、別の場所から。
ちゃりん。
鈴が鳴るたび、床板の隙間から赤い水が滲んだ。
神官は唇を引き結んだ。
「井戸だけでは、清めきれません」
井戸の脇へ膝をつき、床板の一部へ手をかける。
「地下槽の真上から、直接祈りを届けていただきます」
板を持ち上げる。
その下には、地下へ続く狭い階段があった。
冷たい湿気と、古い水の匂いが上がってくる。
神官は入口を塞ぐように立った。
「階段は腐っています。下へは降りず、ここから祈ってください」
だが、その視線は一度だけ、階段の下へ落ちた。
そこに、見られてはならないものがある。
リナリアは燭台を取り、神官の脇をすり抜けた。
「お待ちください」
制止を振り切り、階段を下りる。
湿った石壁。
低い天井。
一段踏むたび、木が軋んだ。
ぎい。
ぎい。
その下で鈴が鳴っている。
ちゃりん。
水音が混じる。
ごぼり。
ちゃりん。
地下には、巨大な貯水槽があった。
鉄の蓋は半分腐り落ち、中から赤い水があふれている。
その脇に、革表紙の帳簿が置かれていた。
昼間、記録室の棚から欠けていた一冊だった。
リナリアが開く。
前半には、聖水の配給記録が並んでいた。
患者百二十七名。
聖水配給対象、四十一名。
対象外、八十六名。
対象者の選定理由。
回復の見込み。
身分。
王都での影響。
後半になると、文字は乱れていた。
地下槽の水が汚染。
死者の衣服、血液、排泄物が流入。
煮沸に必要な薪が不足。
聖水は上階対象者へ優先。
対象外患者には、地下槽の水を継続配給。
最後の頁。
収容者はすべて、聖女の祈りに包まれ、安らかに神のもとへ召されたものとして記録する。
対象外患者名簿は焼却。
地下槽は封鎖。
頁の下には、三つの印が並んでいた。
療養院長。
聖務局監督官。
神殿記録院承認。
神官は、リナリアの背後に立っていた。
「当時は、それしかなかったのです」
「水が汚れていると分かっていて、飲ませたのですか」
「全員を救えるだけの聖水はなかった」
「だから、記録からも消したのですか」
「混乱を避けるためです」
「八十六人を消せば、混乱しなかったのですか」
神官は答えなかった。
ちゃりん。
地下に鈴が鳴った。
ここには呼び鈴などない。
それでも、一つ。
また一つ。
音は水の底から響いていた。
ちゃりん。
水面に小さな輪が広がる。
ちゃりん。
別の場所に、もう一つ。
鈴が鳴るたび、暗い水面へ波紋が生まれた。
やがて数えられなくなった。
鈴と鈴の間へ、別の鈴が重なる。
高い音。
錆びた音。
鳴り切らず、途中で潰れる音。
幼い子供が、弱い力で何度も紐を引いているような音。
八十六人分の呼び鈴が、暗い水の底で鳴っていた。
「清めてください」
神官が言った。
「この水を清めれば、すべて終わります」
リナリアは貯水槽へ近づいた。
水面へ手をかざす。
祈れば、赤色は消えるだろう。
水の濁りも。
血の跡も。
鈴の音も。
記録も。
名前も。
ここで起きたことも。
すべて、清らかな水の底へ沈む。
水面の一か所だけが、小さく揺れた。
その下で、何かが口を開いたように泡が一つ弾けた。
ぴち。
リナリアは帳簿の最初の名を見た。
「エルナ」
水の底で、一つの鈴が鳴りかけた。
ちり――
音は最後まで続かず、静かに消えた。
少し離れた水面に、もう一つ波紋が生まれた。
「ミハル」
遠くで、錆びた鈴が一度だけ鳴った。
ちゃりん。
それきり、鳴らなかった。
「トト」
今度は、すぐ足元の水から小さな音が返った。
ちりん。
一人。
また一人。
リナリアは帳簿に記された名前を、最初から順に読み上げた。
神官が制止しても、やめなかった。
名を呼ぶたび、鈴の数が減っていく。
はじめは重なって聞き分けられなかった音が、少しずつ離れていく。
十人。
五人。
三人。
最後には、一つだけ残った。
ちりん。
リナリアは帳簿の末尾に記された名を見た。
文字が水で滲み、半分消えかけている。
それでも指でなぞり、声にした。
鈴が一度だけ鳴った。
ちりん。
それきり、地下は静かになった。
八十六人すべてを呼び終えた頃には、リナリアの声は枯れていた。
赤い水は透明にならなかった。
ただ、波を止めた。
翌朝。
神官は、療養院の再利用を中止し、再び封鎖すると告げた。
「この件は神殿へ報告します。この帳簿も持ち帰り、適切に処理します」
「焼くのですか」
「不要な混乱を防ぐためです」
昨日と同じ言葉だった。
百年前の帳簿に記された言葉と、意味も同じだった。
ここへ置いていけば、八十六人はもう一度、なかったことにされる。
リナリアは何も答えなかった。
帰りの馬車へ乗る前、彼女は給水室へ戻った。
小さな硝子瓶を赤い水で満たし、祭服の内側へ隠した。
瓶の口を閉じる。
その中で、小さな泡が一つ弾けた。
ぴち。
一週間後。
王都の大聖堂で、聖女就任の洗礼式が行われた。
王族。
貴族。
神官長。
大勢の参列者が見守る中、リナリアは白い祭服をまとい、洗礼盤の前へ立った。
大聖堂には音が満ちていた。
聖歌隊の歌声。
香炉を振る鎖の音。
祭服の裾が石床を擦る音。
神官たちが頁をめくる音。
どれも決められた時に、決められた大きさで鳴っている。
神官長が祝詞を唱える。
「聖女よ。清らかな水をもって、この国の穢れを祓いたまえ」
聖歌が止んだ。
鎖の音も止まった。
大聖堂を静寂が満たす。
リナリアは祭服の内側から、硝子瓶を取り出した。
蓋を開ける。
赤い水を、洗礼盤へ注いだ。
とく。
とく。
澄んだ聖水の底から、赤色がゆっくりと広がっていく。
参列者たちが息を呑んだ。
神官長の顔が強張る。
「それは、何です」
リナリアは答えた。
「錆だそうです」
その瞬間。
大聖堂の左奥から、鈴の音がした。
ちりん。
次に、その隣の壁。
ちりん。
さらに隣。
音は礼拝席に沿って、一つずつ前へ進んできた。
療養院の夜と、同じ順番だった。
誰もいない病室を渡ってきた音が、今度は王族と貴族と神官たちの間を通っていく。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
参列者が振り返る。
壁には、鈴も紐もない。
音は祭壇まで進み、そこで止まった。
静寂。
神官長が口を開く。
その前に。
大聖堂のすべての壁から、一斉に呼び鈴が鳴った。
ちりん、ちりん、ちりん、ちりん。
百年前、誰も来なかった病室で鳴っていた音だった。
今度は、誰も聞こえなかったとは言えない場所で。
赤い洗礼盤を囲む者たちへ向けて。
いつまでも鳴り続けた。
夏のホラー2026参加作品です。
今回のテーマが「音」だったので、呼び鈴、水滴、軋む床、頁をめくる音など、姿よりも先に音が届く話を書いてみました。
誰かが呼んでいるのに、聞こえなかったことにする。
何かが起きているのに、別の名前で呼び替える。
そうして百年前に消されたものが、今度は誰も無視できない場所で鳴り始める話です。
お読みいただき、ありがとうございました。




