三月の煙
「家行くよ」
十数分前に送ったメッセージにはまだ既読すら付いていなくて、普段なら何とも思わないはずなのになぜか、それが辛く感じてしまうのはきっと、今日が私の誕生日だからだろう。そして、嫌な予感が止まないのも。
と、そんなことをインターホンを見つめながら漠然と考えていた。
家に来たのは当然ここに入るためなのだけれど、私がこのインターホンをどうしても押せないでいるのは、その嫌な予感、というよりはほとんど確信に近いようなもののせいだ。
扉一枚を挟んで彼がひとりでいるはずの部屋からは聞きなれない声色で会話するのが聞こえて、その相手を想像すると吐き気がする。
その瞬間、私の耳につんざくような軽快な機械音が届いた。
震える指をインターホンにかけていたせいで、そのボタンを押し込んでしまったらしい。
隠れないといけない、なんて考えながら、扉の向こうの声に耳を傾けるまでもなく、男の焦るような声と、女の嬌声。
強烈な眩暈に思わずしゃがみこんだのが幸いして、扉を開けて顔を出した彼には、私の存在は気付かれなかった。
うずくまったままで膝が笑い出して、動けないまま十分程度はそこにいたと思う。
必死に耳を塞ぐ手をすり抜けて、扉を開く音が頭上から降り注いだ。
まずい。早くどこかに行かないと。
そんなことを考えようとした刹那。
「うわ」
デリカシーのない声が聞こえて、それが彼のものでも、それに伴って聞こえていた女のものでもないことに安堵した。
顔をあげると、そこには一人の女性が、彼の隣の部屋から出てくるところだった。
目が合うと、心配そうな色を見せるその瞳がやけに綺麗に映った。
「君…学生さん?どうしたの、こんなところで」
「あ、いや、すいません。なんでもなくて」
急いで立ち上がりながら、逃げるように言った私の腕を優しく掴む。
「待って。何かあったんだろ。話、聞かせて」
私を掴んだ腕の、もう片方の手には、今この人が出てきた理由であろう、煙草が握られていた。
手を引かれるまま、マンションの共用スペースに連れられた。私がベンチに座るのを待ってから、彼女が隣に座る。
春未満の風の冷たさに身震いすると
「寒い?」
「あ、えっと、少しだけ」
「ここ、変に風通し良くて、嫌なもんだよね」
そう言って笑いながら彼女は、着ていたジャケットを私に被せた。
微かに漂う煙草の匂いと俄かな白檀の香り、僅かに感じられる体温が溜息を誘発する。
「それで、何があったのか、教えてくれる?」
微笑みながら尋ねられた。優しい声色。
それが果てしなく温かくて、今に至るまでの一部始終を吐き出してしまった。
「それで、あそこでうずくまってました」
「そうか」
一瞬だけ険しい顔を、私に見えないようにしてからこちらに向き直る。
「君の恋愛だから、あんまり口出ししたくはないんだけど、一つ聞いていいかな」
少し前髪のかかった目線が、まっすぐ私を捉える。
「はい、なんでしょう」
「別れるつもりは、あるのかな」
「別れる…つもり」
そうだ。
浮気されていたという事実に気が動転して、それ以上のことを何も考えられていなかった。
別れるつもり。あるのか?
黙り込んでしまった私を見て、再び優しい顔に戻った。
「やっぱり、ちゃんと話し合った方がよさそうだね」
「そう、ですか」
「辛いかもしれないけど、さ。少しでも迷うんだったら、ゆっくり話し合って、直接会って、それから決めるべきだと思うな。後悔できなくなってからじゃあ、遅いから」
そう言う彼女の瞳は、どこか寂しげな光を具えながら、遠くの空を眺めていた。
「あ、そういえば、お名前、教えてくれませんか」
少し目を大きくしてから、やはり優しい微笑みでもって答えた。
「私の名前は、櫻井彌生だよ。君は?」
「わ、私は、佐藤、充希、です」
「みつき、か」
彌生さんは、早咲きの桜の花弁を摘み上げてから、優しく吹いて飛ばした。
ひらひらと舞う花弁が痛いほど孤独に見えて、思わず桜が絨毯のような道路を祈った。
「…うん。春らしくて、いい名前だね」
充希。みつき。三月、か。
彌生さんの桜に向けた目線が、烏の濡れ羽みたいな色をしている。
「さ、帰ろっか」
「はい」
彌生さんと二人で、煉瓦で舗装された遊歩道を歩く。駅までの道だ。
「あの、今日はありがとうございました」
「いや、気にしないでよ。ただの自己満足だからさ」
そう言って私の頭に乗せた手を、ジャケットのポケットに滑り込ませた。
「煙草、いい?」
「…少しだけなら」
無言で頷いてからくわえた煙草に火をつけた、どこか画になる彌生さんの横顔をぼんやり見つめる。
しばらく切っていないのであろう伸びきった前髪はヘアピンで無理やりにまとめられ、染められた金髪の根元には地毛の黒色が顔を出していた。
「興味ある?」
私の視線をひらりと躱した彌生さんが冗談めかして言った。
「だめだよ、煙草なんて。身体に悪いからね」
「じゃあ、何で彌生さんは…」
私が呟くと、彌生さんは口を閉じたまま深呼吸して、ゆっくりと一度、瞬きしてから
「さあね、教えない。それよりもほら、駅に着いたよ」
と返した。
あからさまに誤魔化してそれを隠そうともしない少し伏しがちのその目は、悲しい記憶を思い起こすように、儚げに煌めいていた。
「…ありがとう、ございました」
彌生さんの痛みがほんのり察せられた私は、見て見ぬふりをすることを選んだ。いや、選ぶしかなかった。そうせざるを得ない美しさが、確かにあったから。
彌生さんとは改札で別れ、それから五分くらいで終電に乗り込んだ。座席はがらがらで、窓から見える都会の景色にはミスマッチだった。
ちゃんと話し合ってから。
彌生さんの言葉を反芻して、確かにその通りだと思う。私も気が動転していたし、冷静な判断ができていなかったようにも思える。
それに。
勘違いだったんじゃないか、なんていう淡い期待を捨てきれずにいた。
そんなことを考えていると、流れていく街明かりの中に彌生さんを見つけた。
星が見えないくらいの夜空の明るさに向かって、終わりかけの春の、寒空交じりの白い煙を吐く彼女に対し、湧き上がる衝動にも、見ないふりをした。
「話がある」
メッセージを送って、彼を呼び出したのは共用スペースのベンチ。昨日、彌生さんと並んで座ったところだ。
私が到着すると彼は既に着いていたようで、そこにひとりで座っていた。
「お待たせ」
「ああ」
義務的な挨拶ののち、私は単刀直入に言う。
「浮気、してるよね」
昨日、部屋に来ていたことを伴って告げた。
彼は大きく目を見開いてから何度か瞬きをして、やがて観念したというふうに答えた。
「…ああ、してるよ」
「そっ、か」
ほとんど確証を持っていたとはいえ、はっきり言葉にされると、事実として明示されてしまうと、やはりきついものがある。
「う、浮気はしてたけど、でも…」
そこまでを耳に入れてから、次の言葉を遮るように立ち上がった。
「別れよっか。私たち」
怒りを孕んでいるはずなのに、憐憫の要素が強まってしまって、口調は自然と柔らかくなる。それから、返事を待つことなく歩き出す。
「待って」
辛うじて聞こえる程度の声と私を掴もうとした手を振り払い、彼の姿が見えなくなるところまで早足で向かった。
私を掴もうとした、ほとんど力の篭っていない腕を思い起こすと、目の奥から一滴、理由のわからない涙が零れて、それ以上がないように歯を食いしばりながら共用スペースを飛び出した。
その瞬間、横目に見えた白い煙。
「お、やっと来た」
壁に寄りかかって斜めに立った彌生さんが口元をほころばせている。
「ちゃんと話せた?」
またしても早足になる私の横を、大股で歩きながら言った。外れかけた遊歩道の煉瓦が、かたかたと音を立てる。
「…条例違反ですよ、歩き煙草」
「誤魔化すなよ」
にこやかな顔を保ちながらも、それに似つかわしくないほど低くて重い声。
昨日の彼女にはなかった迫力に気圧されて、口が勝手に言葉を漏らす。
「…恋、って、なんなんですかね」
「恋、ね。どういうこと?」
私の言葉にほんの少し眉を内側に寄せたように見えた彌生さんは、おおよその事情を察しているのであろう口調で言った。
「告白したの、私からだったんです。今でも覚えてる。気持ちを伝えるとき、心臓がうるさかったのとか、暑い空気に包まれながら、顔の周りだけに感じた熱とか。その前の覚悟、緊張。夜、全然寝られなかったなあ、って」
浅く息継ぎする。
「なのに、好きだったはずなのに、今じゃあなんで好きになったのかも、全然わからなくて。好きだった時のことを考えても、思い出すのは行動ばっかりで、感情はなんにもわからない」
「…ああ」
「別れようって言ったときも、何にも悲しくなんてならなくて、それ自体の方がよっぽど辛かった」
「そう」
彌生さんは口元を手で覆って、目を逸らしている。そんな様子を無視する。そうでもしないと、多分私は躊躇ってしまうから。
「…でも、彌生さんになら私、その気持ちを、いくらでも思い出せるんです」
彌生さんは相槌を打たず、目線だけをこちらに向ける。
「ねえ、彌生さん。私、彌生さんのこと…」
と、そこまで言ったところで、彌生さんは私の唇に人差し指を立てた。先程までと同じ笑みを浮かべたまま。
「それ以上は、言っちゃいけないな」
もう片方の手で自分の唇にも人差し指を当ててから、私の方に伸ばした手を下ろす。
「それは呪縛だからね。相手の心を自分に、自分の存在を相手の心に、縛り付けて消えない、呪いの言葉」
それから彌生さんは大きく一回息を吐いて、ぱっと明るい口調になった。
「恋は盲目、と昔から言う。相手のことをちゃんと見られるようになったときには、もう恋は覚めてるのかもしれないね」
口調に対して、それを言う彌生さんの瞳は仄かに伏し気味で、昨日見たあの黒と同じように、どこか切なげに映った。
彼女が纏う空気が、ひりつき、震えている。春の夜の寒さの中で、その冷たさが際立って、肌よりも目で感じられた。
ねえ、彌生さん。
恋は盲目。そんな言葉が真実だなんて言うのなら。
私のこの感情は、きっと、恋なんかじゃあないんでしょう?
けらけらと乾いた笑いを紡ぎながら、私の思いを煙に巻く彼女を横目で見つつ、そんな我儘を飲み込んだ。
コンビニの駐車場。都会だとはいえ、深夜に出歩く人間は間違いなく少数派で、私と彌生さん以外には、商品の入荷をするトラックがいるだけだった。
久々に吞みたい気分になった、とか言って、酒を買いにコンビニに行こうとした彼女に着いてきてのことだった。
「どうして急に、お酒なんか?」
「言っただろ、そういう気分なんだ」
吐き捨てるようにそう言って、トラックを眺めながら缶ビールをすする。その一口で、彼女の頬がほんのり上気した。
「…彌生さん。今日は、というか昨日から、ありがとうございました。彌生さんのおかげで、後悔することはなさそうです」
少々過剰に恭しく言う。大した意図はない。
「それは良かったよ」
彌生さんが深呼吸をして、下を向いたまま私を見た。
「…私には、恋人がいたんだ。大昔の話だけど」
「恋、人…」
その目が縋るような視線に見えてしまって、上手く返事ができなかった。
「毎日毎日、一緒にいて、話すことなんてそこまでなかったけど、愛の言葉だけは尽きることがなかった」
そんな彼女の視線は、ちょっとだけ、痛い。
「それで、なのに。三月も終わる頃、あいつは、みつきは、急にいなくなった。後から聞いた話だけど、いじめられてたらしいんだ。それで、私と離れることを選んだ」
みつき。多分、というより、ほぼ確実に、私のことではなくて、その恋人のことだろうな、と、考えたくもないのに考えてしまう。
同時に、あの表情の正体も理解できた。
「忘れられないんだ。あいつのことが。それから一日だって、あいつの顔を思い出さなかった夜はなかったさ」
自嘲的に笑う彌生さんを、ただ見ているだけではいられなくて、衝動を抑えつける。
「…煙草、どうして吸い始めたんですか?」
捻り出した言葉が、彼女を傷つけないとどうして言えるだろうか。それでも、私は彼女に纏わりつく、その煙の正体を知りたくて、堪えられなかった。
「大した理由じゃない。ただあいつが、嫌いだったからな。これ」
左手に持った煙草を指の上で回しながら言う。
いつまでも残り続ける幻影を振り払おうとした彌生さんは、どれだけ辛かったんだろう。私では幼すぎて、知る由もない。
「充希、さっき言ったよね。恋ってなんなんだ、って」
彌生さんが私の名前を呼ぶ。心臓に針を刺されたように感じた。
「私には、そんなもの、とてもいいものだなんて思えない。そうだろ?大切な人が。側にいて、守りたいと思える人が、ぼやけて見えなくなって。後悔すらできなくなって始めてそれに気付く。どうしようもない大馬鹿」
彌生さんの頬はいつの間にか艶を帯びていて、その発生源は両の瞳。
その表情は私にはあまりに綺麗で、つい目を細めてしまいそうになる。でも、それじゃあ盲目なのと変わらない。だからその光の源を、私自身のそれでぴったりと捉える。
言葉はいらないな、と思った。
「彌生さん。空、見てみて。綺麗だよ」
「空?空なんて…」
「いいから」
半ば無理矢理に、彌生さんの顔を上に向けて、私も同じ方向を見上げる。彌生さんの咥えていた煙草が、ぽとりと音を立てた。
柄杓形に並んだ七つの星と、間に煙みたいな星団が光っている。視界の下の方から、白くなった空気が途切れ途切れに流れた。
「ね。綺麗でしょ」
「…ああ、本当に」
みつきさんはきっと、彌生さんと一緒にいる間だけは、他の何もかもを忘れたくなるくらいに幸せだったんだろう。そして、知ってほしくなかったんじゃないか。彌生さんのことが、好きだから。大切だから。
そしてそれは、その愛の言葉は、呪縛なんかではなくて。いつか突然の別れが来ても、自分を忘れないでいてもらうための、永久の存在証明。白檀の花と同じように。
でもこんなことは、今の彌生さんには、言う必要のないことだ。彌生さんの頬に当てた指先から伝ってくる熱と、鼻をすする音を聞けば、きっと誰だってそう思う。
遠ざけようとして吐き出した煙で覆い隠されて、見えなくなっていただけの空洞の内部。
今の彌生さんには、きっと見えてる。
「なあ、ミツキ。本当に、綺麗だ」
彌生さんが呟いたのが聞こえた。
返事はしない。でもそれは、私に向けた言葉なのか、不安になったからではない。
両手を彌生さんの背中に回して、身体を密着させて。彌生さんの鼓動を感じながら、心に空いた孤独を、幻想の煙を共有するように抱きしめた。
きっと明日からは、昨日までの優しくて格好いい彼女に戻っているだろうから。
私の力で、彼女にしてあげられることなんて、ほとんどありはしないだろうから。
だから今夜、三月の終わりの、寒さの残る、この澄み渡った星空の下でだけは。
どうか、このまま。




