真夜中の海
海を恐がるのは、神を恐れるのと同じ畏怖の念からだろう。
わたしは、海が好きだった。
釣りをするのも好きだし、ただ波を眺めているだけでも満足できた。昼間の海もいいけれど、特に心を惹かれたのは夜だった。人の気配のない真っ暗な砂浜に立ち、潮騒に耳を傾けていると、不思議と心が落ち着いた。
「夜の海はおばけが出るよ」なんて子どものころからよく言われてきたけれど、実際にそんなものを見たことは一度もない。だからわたしは気にも留めず、夏の間は足繁く夜の海へと通っていた。
その日もいつもと同じように、釣竿とライトを持って浜辺に立った。近くの崖に潮風がぶつかる音、波が砂をさらう音、それが心地よかった。
ただ、最初に違和感を覚えたのは――「パタパタ」という音だった。
小さな羽音のような、軽く布をはためかせるような音。最初は「鳥だろう」と思った。カモメか何かがまだ飛んでいるのかと。けれど、もう一度、今度は少し離れた場所から「パタパタッ」と響いた。
あっちで鳴ったと思えば、次は背後で。落ち着かず、さすがに気味が悪くなってきた。わたしはヘッドライトを点けて辺りを照らしたが、砂浜にも波打ち際にも、もちろん空にも、何もいない。
ふっと胸をなで下ろしてライトを消した、その瞬間。
――香水の匂いが鼻を突いた。
潮の匂いに混じって、フっと甘ったるい香りが漂った。それはまるで、目の前を香水をつけた誰かが横切ったように鮮やかに感じられた。その瞬間、背筋に氷を流し込まれたような寒気が走る。
「……今日はもう帰ろう」
そう心の中でつぶやいて、わたしは急いで荷物を片付け始めた。だが、その間も遠く近くで「パタ、パタ」とサンダルで歩くような音が続く。視線を向けても、砂浜は真っ黒に沈むばかりで誰もいない。
焦る気持ちを抑えきれず、釣竿も半ば乱暴にケースへ突っ込み、わたしは駆け足で車へと向かった。
そのときだった。
――パタパタパタ……
――バタバタバタバタッ!!
砂を蹴り上げるような激しい音が、わたしを追いかけるように背後から迫ってきた。心臓が喉に詰まり、呼吸が荒くなる。走る足はもつれそうになりながらも必死に車へ飛び込み、ドアを閉めた。
ガチャリと鍵をかけ、シートに背を預ける。
ドクドクとうるさい心臓を落ち着けようと、深く息を吐いた。
――ツン。
甘ったるい香水の匂いが、車の中で濃く香った。
わたしは、そこで初めて声をあげた。
数日後のことだ。
ふとした雑談で、あの海の近くで昔から“出る”という噂を聞いた。
「ほら、あそこの崖の上だよ。ちょっと前に、女の人の転落事故があったんだって」
心臓が一気に冷えた。
続いた言葉には、もっと。
「消防士の友達から聞いたんだけどさ、その人足から落ちてね……両脚がぐしゃぐしゃに折れ曲がったまま、浜辺まで転がり落ちたらしいんだよ。だもんだから、風が吹く度に――足が揺れてパタパタって音がしたんだってさ」
わたしの耳に、あの夜の羽音のような足音がよみがえる。
潮の香りと混じった、あの甘ったるい匂いも。
あれは、鳥でも、風でもなかった。
死んだはずの誰かが、いまも砂浜を歩き回っている音だったのだ。
――パタ、パタ。
あの夜からずっと、その音はわたしの耳の奥にこびりついている。
もう砂浜にはいない