明晰夢
夢を見ることを止めたら、その先になにがあるのか。
小さいころ、わたしはよく「明晰夢」を見ていた。
夢だと気づくことで、夢の中を自由に動き回れる――そんな不思議な体験を、日常のようにしていたのだ。
例えば学校の校庭に大きな水たまりができていたら、ためらいもなく飛び込む。そして魚のように泳いで、やがて空へと飛び立つ。現実ではできないことを、思いつくままに楽しむことができた。怖い夢に出くわしたときも、「これは夢だ」と認識すればすぐに目を覚ますことができたから、わたしにとって夢は恐れるものではなく、むしろ秘密の遊び場のような存在だった。
けれどいつの頃からか、その感覚が一変するようになった。
わたしの夢に赤いワンピースを着た女が現れたのだ。髪は長く、乱れた黒髪が顔の大半を覆い、表情は一切読み取れない。目があるのかないのかも分からず、ただ漆黒の闇のような空洞に吸い込まれそうな気配だけが残る。
彼女の纏ったワンピースは血を塗ったかのように不気味に鮮やかで、不自然な位動かない。まるでそこだけ時が止まったかのようだ。彼女が迫るとき足音はなく、空気を切るような微かな布擦れの音だけが聞こえる。走っているように見えるのに、足音がまったくしない。むしろ地面から少し浮かんで、すーっと滑るように迫ってくる。わたしの夢に、いつからか必ず現れるようになった。
それまでの楽しい感覚は一気に凍りつき、えもいわれぬ恐怖が背中を押す。夢だと理解しているのに、なぜか目を覚ますことができない。逃げようと必死に足を動かしても、距離は縮まってくる。理由は分からない。ただ、本能で「捕まってはいけない」と感じて、全力で逃げ続けるのだ。
捕まったことは、一度もない。
だが、どれほど逃げたかも分からないころ、突然ガバッと目が覚める。シーツは汗でじっとりと濡れ、喉はからからだ。息を荒げながら水を飲もうと部屋を出ると、センサーライトが足元を照らす。その瞬間、視界の端に赤い何かが映った気がして、心臓が跳ねた。怖さに突き動かされるように、一目散にキッチンへ走った。
夢の女は、こちらの世界にやって来ようとしているのかもしれない。
もしそうなったとき、わたしの身に何が起こるのだろう。考えるだけで、胸の奥が凍りつく。
不思議なのは、この話を誰かにすると、決まって同じことを言われることだ。
「昨夜、夢に赤いワンピースの女が出てきた」――と。
ただの偶然なのかもしれない。
けれど、もしそうでなかったら。もし、あの女がわたしの夢を越えて広がっているのだとしたら――。
彼らの身に何も起こらなければいいのだが。
今夜逢いに行きます