浴室のざわめき
お風呂場は、いつもと違う何かを隠している――。
給湯器のボタンを押すと、グジュグジュと奇妙な音が響いた。
いつもならただのお湯の準備音なのに、今夜は不思議に思える。まるで機械の奥で何かがうごめいているみたいに、音が少し生き物めいていた。
湯が蛇口から流れ出すと、白い湯気が小さく揺れ、浴室全体を包んでいく。湿った空気の中で、自分の息が白く見え、その陰に何かが隠れたような気がした。
裸足でタイルの床を踏むと、足の裏にぞわりとした感触が伝わった。冷たいタイルに違和感はないはずなのに、まるで虫に撫でられたような微細な刺激がある。
それを流すようにお湯をすくって足元へこぼす。そうすると、吸盤のように足の裏へと吸い付いた。思わず足を引っ込めたが、すぐにまた冷たい感触に戻る。心臓が「トクトク」と、少し早く打った。
浴槽に浸かる。お湯は体を包み、重力のある温もりに安心する。だが、不意に栓がぬける。何かがおかしい。お湯が体の下で引きずり込まれるように流れ、肌がつまり、次第に身体が引きちぎられるように吸い込まれる感覚がした。
思わず手で水面を押さえるが、逃れられない。目の前のお湯は、まるで生き物のように、私を飲み込もうとしていた。鼻に入ったお湯は、ツンとした痛みをじわじわと拡げる。
ようやく栓を戻し、浴槽から立ち上がる。
全身が震えているのがわかる。浴室の空気は変わらず湿っているのに、どこかが違う。湯気の奥に、何かが潜んでいる。見えない何かが、私をじっと待っている。
お湯に浸かることを諦め、シャワーを浴び、シャンプーで髪を洗う。
決して振り向いてはいけない。頭ではわかっているのに、肩越しに視線を感じた気がして、泡が流れ落ちる「しゅくしゅく」という音だけが耳に残る。
誰もいないはずの浴室で、肩をとん、と叩かれたとき、私は思わず泡だらけのまま風呂場を飛び出した。わたしを追って伸びる腕を閉じ込めるように、荒々しく戸を閉める。ドッドッドッ――動けない体の変わりにわたしの小さな心臓が脈打つ。
息を呑む。息を止める。
湯気の向こうに、誰もいないはずの影が揺れる。タイルは自我を持ち、蛇口からは無機質なお湯が流れ出る。肩のとん…という感触、すべてが繋がって、現実の境界をぼやけさせていく。目を閉じると、音と感触だけが強くなる。
髪の泡はついたまま。それでも振り返る勇気はない。きっと見られているから。そしてまた、次にお風呂に入るときも、あの感触は消えず、私を呼ぶだろう――。
本当に、見てはいけない