5 彼女は初めて死を知った
「え……こっちの道じゃないんですか?」
旅の行商人は「違うよ〜」と売り物の中にあった地図をくるくると開きながら、今いるとこを指してくれた。
本来ならば、ジーヒス機械都市に着いていてもおかしくない距離を車で走ったはずなのに、いつまで経っても森と草原の繰り返しで、おかしいと思って立ち寄ろうとした小さな町に行く道の途中で、衝撃の新事実に出会う。
「買う?」
「買います」
「三〇銅貨だよ」
「これで」
「毎度あり〜」
車のある方向にいくと、ヒューイが車に寄りかかりタバコをふかしながら「どうだった?」と聞いてきた。
ユリシャは買ったばかりの地図をヒューイの目の前に突き出して、迷子になった原因となったヒューイに責任を押し付けるかのように「今ここ!」と指で現在地を指し示す。
それには深い理由があって。
あれは今から二日前、ユリシャが全身筋肉痛で荷台に寝転んでいる際、車のハンドルを握っていたのは言わずともわかるヒューイだったのだ。
ユリシャはたびたび起きて小さな窓から外の景色を見ていたのだが、途中、え……ここ曲がるの? というような道や、どう見ても山の方に続いている道を何度も選び、何度も引き返したせいで、すっかり方向感覚が狂ってしまったのだ。
「神官って、星読みの勉強するって聞いたよ?」とじろっと睨みつけながら、ユリシャよりも上にある男の顔見たら、「昼間に星が見えるかよ?」ととぼけた顔にイラッとする。
「もしヒューイが本物の神官だとしても、絶対落ちこぼれ神官ね!」と嫌味を言うと、「俺は百年に一度の天才と言われたぜ」と嘘っぽいことを得意げに言ったムカつく顔がそこにはあった。ユリシャがその減らず口を黙らせるように、ギロリとさらに強くヒューイを睨みつけると、「……後輩は二百年に一度の天才と言われてたけど」とユリシャの顔を見ないようにスーっと目を逸らして付け加えた。
ユリシャはため息をつきながら、運転席の前の扉にいるヒューイにわざとぶつかるように扉を強く開けた。ヒューイはそれをひょいと軽く躱して馬鹿にしたようにくくくと笑いながらユリシャを見る。さらに「あーあー怖いね〜」なんて戯けたように言いながら、タバコを地面に捨てて火を消した。
全然、反省する気もないヒューイの態度に腹が立ち、今日のユリシャの運転はすごく荒れた。
日が暮れる頃にたどり着いたのは、バタジュールよりも一回り小さい町だった。
車を城門から見えないような所に駐車して(なんせ、兵士から奪った物なので、バレたらまずい)城門の方へ近づいていくと、ユリシャは門番の兵士と目があった。
ユリシャは思わず、目線を逸らすと兵士は不審に思ったのか、「ちょっと待って」と声をかけてきた。そのまま何も言えずに立ち止まっていると、シャウラと手を繋いで後からゆっくり歩いてきたヒューイが「どうした?」と声かけた。
兵士のターゲットがユリシャから、ヒューイに移ると「君たちは旅人かい?」と聞いてきた。
「俺はハンターです。この人は俺の恋人」
シャウラと繋いでる手を少し上げながらサラリと答えた後に、目線をユリシャに向けて「そいつは俺の小間使い」なんてしらっと言ってきた。
「ハンター証出して」
「はい」
「ホントだ。君って結構若いのにすごいね」
「ありがとう。通っていい?」
「どうぞ。ようこそウィンデンへ」
門をくぐった瞬間に、ユリシャはヒューイの正面に立ち塞がる。
「小間使いなんてあんまりじゃない!」と怒った声で言った。
「なんだよ事実だろ」
「私はもう小間使いなんかじゃない!」
「どうしたんだよ急に」とヒューイが困った顔をしていたが、ユリシャは道を間違えたヒューイの全く反省にない態度の時に生まれた怒りが、ふつふつとぶり返す。
「私、今日はあなたたちと違う宿に泊まるわ!」と言い残し、ユリシャはそのまま駆け出した。
ヒューイから姿を隠すように適当に角を曲がってみるとメインストリートについたらしい。小さい町だと思っていたがなかなか活気のあるようで、可愛い小物や洋服を扱っているお店もあれば、武器や甲冑などのお店もあって、ウィンドウショッピングが捗りそうな細い路地もあった。しかし、頭に血が昇っているユリシャはそれらに目もくれず、真っ直ぐに宿の看板の方に向かっていく。
宿に入るとカウンターには太った女将さんがいて、ユリシャが「一泊させてください」というと、「お嬢ちゃんお金あるの?」と言ってきた。
子供一人で旅してるわけじゃないよね? 保護者はどうしたの? と色々聞かれ、答えられずにいると、保護者同伴で来なと追い返されてしまった。
まだ十五歳(もうすぐ十六歳だけど)なのに世知辛さに気づいてしまった。
とぼとぼ歩いていると、顔面に刺青の入った厳つい兄ちゃんに絡まれる。泊めてあげるよお嬢ちゃんと甘い言葉で囁かれたが、今までの経験からして、行ってはいけないことだけははっきりわかった。
「すいません、やめてください」とハッキリ言ったのに、「いいじゃん。ちょっと遊ぼうよ」と男が手首を握ってきたので、ユリシャは相手をキッと睨みつけ、空いてる方の手で強く叩いた。
「やめてって言ってるでしょ!」と大きな声で言ったことが良かったのか、「彼女、嫌がってますよ」と明快な声が後ろから聞こえた。そのあと誰かに呼ばれたらしい兵士が「何かあったのか?」と近づいてきたので、刺青の男はそそくさとどこかに言ってしまった。
「君、大丈夫?」
優しく声をかけてくれたのは、ヒューイよりはちょっと身長が低いけど、それでもユリシャから見たら見上げるほどの優しそうな顔の青年だった。ユリシャが彼を気に入ったのは雰囲気ではなくて、ユリシャと似たような茶色の髪が緩い癖っ毛だったことが決定打である。
「ありがとう。あなたが兵士を呼んでくれたの?」
「そうだよ。僕だけじゃ太刀打ちできないからね」と彼はふんわりと笑った。
「あの、出会ったついでで悪いんだけど、この辺にある宿を教えてくれない?」
「あぁ、あっちにあるよ」とその青年が指したのは、先ほどユリシャが追い出された宿だった。
「……他にない?」
「あるにはあるけど……あんま治安が良くないとこにあるから、やめたほうがいいよ」
「……実は私さっきそこの宿から追い出されたの……」
ユリシャはちょっと俯きながらガッカリした態度を見せたら、彼はやっぱりふんわりと笑いかけた。
「そうなんだ。じゃあ、よければ僕の家きなよ」
ありがたい申し出にすぐさま反応しユリシャは顔を上げて目の中に星を瞬きながら「いいの?」と聞いた。そんな様子が面白かったのか、彼は、ユリシャといつも一緒にいる憎き男のヘラヘラとした笑いとは全然違う優しい笑顔を振り撒いた。
「いいよ。その代わり僕の他に妹がいるけどね」
「妹さんだけ?」
「両親はハンターで今、森の中で魔獣狩ってるよ」
「そうなんだ」
「妹さんは何歳?」
「妹は十歳でアーニャって言うんだ。僕はフィオ。ほんとはフィオナって名前なんだけど、女の子見たいで嫌だからフィオって呼んで。よろしくね」
「ユリシャよ。よろしく」
ユリシャは、今は憎き敵であるヒューイ以外の友達ができて嬉しくなった。
フィオの家に行く途中で、宿を探してウロウロしている様子のヒューイとシャウラに会ったが、ユリシャは渾身の無視をした。
フィオの家に着くと、そこは結構狭かったけど居心地のよい部屋だった。最初の方は妹のアーニャと二人っきりになった時、始終無言だったけど、いつのまにかアーニャはユリシャのことをお姉ちゃんと呼んでくれるようになるぐらい打ち解けた。
「いつまでいるの?」
「えっと……車が壊れちゃって、直ったらまた旅に出るんだ。だからそれまではいるよ」と居心地のいいこの家に居たいがために嘘を吐く。
「そっか。まだ時間あるんだね。ねぇ明日ハンター登録しない?」
「ハンターって誰でもなれるの?」
「そうだよ」
それは知らなかった。てっきり試験とか色々あってからハンター証をもらえると思っていたので、少し驚いた。
(ハンター証があればヒューイなんかに頼らなくても一人で旅ができるじゃない)
ユリシャはその事実に胸をときめかせ、「明日、絶対行こう!」とフィオと約束をした。
今日、ヒューイと色々あって胸の中がモヤモヤしてた気持ちが、明日のハンター登録のわくわくに変わって、ユリシャはなかなか寝つけなかった。
◆
ヒューイは目があったのに無視してきたユリシャに腹が立った。
(一体誰のおかげで生活できてんのか、全然わかってねーなあいつ)
今まではユリシャがいたからパブに行くことはなかったが、今日はひさびさに羽を伸ばそうと考えた。
ヒューイは久々に酒を浴びるように飲んで、泥のように眠りについた。
◆
ハンター組合にいくと、身分証を見せることもなく、名前と生年月日を登録だけですぐに証が発行された。
真新しい薄い銅板に自分の名前と生年月日と星が一個刻まれていた。
「ユリシャの見せて」
「はい。フィオのも見せてよ」
「はいこれ。ユリシャって僕と同い年なんだ」
「え、そうなの?」
なんか似たポイントが増えてちょっと嬉しくなった。
さっそく一番簡単な森で薬草を取りに行くクエストを受けてみると、なぜか掲示板を見ているヒューイがいた。「あ」って声が出てしまった後に、お互い目があったが急いで視線を振り切った。
「ユリシャ。あの人、知ってる人?」
「ううん。知らない」とユリシャは言いながら、フィオの手を引いてハンター組合から急いで出て行った。
どうやらフィオにとってはこの森は庭のようで、野生のスモモの木がある場所とか、よくキノコを取りに行く場所とかいっぱい知っていて、歩くだけでも楽しかった。
しかし、こっちに綺麗な川があるよと連れてってくれた場所にヒューイがいて、今までの楽しい気持ちが全部パチンと弾けてしまった。
あまりにもしつこいヒューイの登場に「ねぇ! なんでついてくるの?」とユリシャは言ったが、ヒューイは「はぁ? ついてってるわけねーだろ」と切り返す。続けて「なんでクエストなんか受けてんのよ」と喧嘩腰で言うと、「お前がバクバク飯食うから、こっちの金がなくなったんだよ!」と言ってきた。
これ以上、憎きヒューイの顔を見たくなかったユリシャはフンと顔を背いて、ヒューイのいない方向に踵を返した。
「おい、待てよ小間使い」
嫌だと言っているのに繰り返すその呼び方に腹が立ってヒューイの方を振り返る。
「その呼び方やめて!」
「誰に向かってそんな口の利き方してんだよ? 俺はお前のご主人様だろ?」
「おめでたいやつ……行こうフィオ」
ユリシャはそう言ってフィオの腕を掴んで歩き出す。
しかし、ヒューイが「止まれ」と言った瞬間、ユリシャは一瞬にして動けなくなった。
「ちょっと小腹が空いたから、あの木に生えてる果物とってこい小間使い」
ユリシャは必死にヒューイの指した木とは逆方向に進もうとしたが、どんなに足掻いても身体が勝手に木の方向に進んでいく。
フィオが「行くのやめなよ。ユリシャ」と言ったが、ユリシャの身体は勝手に木に登り始めた。
ユリシャは涙が出てきて「もうやめてよっ!」と言ったが、ヒューイはどこ吹く風のような顔で「早くしな」と吐き捨てた。ユリシャが木から降りて果物を渡すと一口食べて「不味い」と吐き捨てた。まだ全然熟れてない果物も地面に捨てた。
ユリシャはゆっくり涙を拭いた。
「この変態‼」と言い捨てて、「死体が恋人なんて笑っちゃう。あんな女さっさと土に埋めたらいいのよ‼」とユリシャは怒鳴った。
ユリシャが考えうる最大の罵倒を投げかけられたヒューイは、一瞬沈黙する。
途端に冷たい風が吹き、表情の消えたヒューイが「その言葉は取り消さなくていい」と呟いた。
冷たい青い視線でユリシャを突き刺し命令する。
「おい小間使い。靴を舐めろ」
ユリシャは全身全霊で抵抗した。
膝がゆっくりと地面につく。
首が焼けるように熱い。
遠くでショックを受けているフィオの姿が見えた。
「嫌だ‼」とユリシャが言った時に氷柱がヒューイに向かって走ったが、ヒューイはそちらに目もくれずに、青い炎を出して氷柱を消し去った。
「もう見ないで! お願いフィオ!」と言った時には彼女の頭はヒューイの靴の二〇センチ程の距離があった。
フィオが目を背けた瞬間に、ユリシャはヒューイの靴の味を知った。
「ごめん、僕なんにもできなくて」
ユリシャは川の水で口をめちゃくちゃ濯いで、ついでに顔も洗って涙の跡を消した。
「いいよ。気にしないで」
「……あっちの方に薬草生えてる所あるから、早く行ってすぐ帰ろう」
「うん」
フィオの優しさが今のユリシャには辛かった。
薬草を黙々と集めていると、雲行きが怪しくなってくる。
「こっちに雨宿りできるところがあるから行こう。きっと通り雨だよ」とフィオが案内してくれる。
洞窟の手前でユリシャは何かを思い出したかのようにスカートのポケットを探っていると「穴が空いてる……」と言ってポケットを裏返した。
「ちょっと待ってハンター証探してくる」とユリシャが言ったら、フィオが「危ないよ、僕も行く」と言った。
しかしユリシャは「すぐそこだから大丈夫」とフィオを置いて駆け出していった。
雨が降ってきた。
雨は嫌いじゃなかったし、頭がリフレッシュする。それに今は一人になりたかった。
ハンター証は逆のポケットにちゃんと入っていて。
(ごめんフィオ)
心の中で嘘を吐いたことを謝った。
先ほど、薬草を取った所になぜかシャウラが立っていてどこか虚空を見つめてた。
もしかしてヒューイが近くにいると思って、周りを見ても誰もいないようだった。
(いっつも手繋いでるのに、はぐれちゃってバッカみたい)
ユリシャはシャウラを無視して川の方にいくと、シャウラがユリシャの袖を少しつまんだ。
ユリシャはシャウラがまるで意志を持って動いているのを初めて見たため、びっくりした。
(シャウラって死体じゃないの?)と思ったが、「触らないで」と言って手を振り払う、その瞬間、雪崩のような土砂が川から一気に流れてきて、ユリシャは叫ぶ暇もなく巻き込まれた。
ユリシャが、ゆっくりと目覚めた時に見えたのは暗雲立ち込める空だった。雨はまだ降り続いていて、水がペチペチと顔に落ちてきた。
(私死んだの?)と一瞬思ったが、全身がズキズキしてまだ生きてることを知った。
(ここ……どこだろ……)
ユリシャの下半身は土砂に埋まっていて動けなかった。
もう足の感覚はない。
(私ここで死ぬんだ)
そう思った瞬間、涙が出た。
きっと死んでも、呪いがかかっているせいで、まるでシャウラのようにヒューイの奴隷として扱われるんだ。
(私の人生ってなんだったんだろう……)
そう思っているとどこからかボジョっと泥の中から何かが出てくる音がした。
真っ白な腕が突然目の前に現れて、ユリシャの心臓は止まりそうになったが、次は白い頭髪が出てきてそれがシャウラだということに気がついた。ユリシャの足は動けなかったので、横になりながらシャウラを見ているとシャウラが必死に泥の中から這い出した。
這い出したシャウラの足は変な方向を向いていて、きっと今の私もそうなっているんだなと妙に冷静になってきた。シャウラが匍匐前進のように、腕の力でちょっとづつこちらに来る。その姿はまるで死体が墓からでて来たかのようだったが(それもそうか)と一人納得してしまう。
「シャウラなんでこっちくるの? 動けるんだったら、あんたのことがだーいすきな王子様の所に行けば、きっと治してくれるわよ」とユリシャはさっきされたイライラをシャウラにぶつけたが、シャウラは分かったのかわかってないのか相変わらず虚空を見つめたままこちらにずりずりとやってきた。
ユリシャはそんなシャウラを無視してどうにかこうにかここから出る作戦を考える。
一番はシャウラがいなくなったことに気づいたヒューイが助けてくれる確率が高かったが、今は死んでもヒューイに会いたくはなかった。
(でも私には魔法があるじゃない)
ユリシャにできるのは水を氷に変えたり霧に変えたりすることだけでしかも、遠くの方に飛ばすなんて高等なことは出来なかった。
(考えなきゃ……)
いつの間にか近くにシャウラがいた。シャウラの視線がユリシャを見ているような気がする。
しかし、視線は合わずにシャウラはどこか虚空を見つめたまま、ゆっくりとした動作でユリシャの頭に手を触れて、ゆっくりと撫でられた……。
その姿はお姉さんが小さい妹を慰めるかようだった。
そんなことされても全然なんの役にも立たないのに、なんだか悔しくなってきた。さっきあれ程の暴言を吐いた相手なのに、まるで度量が広いシャウラがユリシャのことを許しているかのような気がして、胸の中でムカムカしてくる。
「何よ! 大人ぶっちゃって。いいわよ。自力で出てやるんだから!」とユリシャは言って、一気に生きる気力が湧いてきた。
◆
ずどおおおおおという山が崩れるんじゃないかというような、大きな地響きが近くから聞こえた。
フィオはユリシャのことが心配になって先ほどの薬草が生えている場所に行こうとしたが、その手前で土砂崩れがあったことに気づいた。
「ユリシャーーー!」と大声で叫んだが誰からも返事はない、雨が止まない中どうすればいいんだと絶望に暮れていると、「シャウラーーー!」という声が聞こえた。
声のする方へ顔を向けると、先ほどユリシャに酷いことをした黒髪の男が立っていた。
「あ、あの……」
声をかけたが無視されたので、フィオは男を見なかったことにしてまたユリシャを探し始めた。
◆
雨が止んだ頃には辺りは真っ暗になっていた。
ユリシャはどうにかこうにかシャウラと同じ作戦で、上半身の腕の力だけで泥の中から抜け出そうとして、ようやく全身が泥から出た所であった。その間ずっとシャウラがユリシャの頭を優しく撫で続けてくれたが、泥からでたユリシャはシャウラの手をバチんと叩いてはねのけた。
「自力で抜け出したんだから、馬鹿にしないで!」
そう怒鳴り込んだが、シャウラはこくんと頷いただけで、全くもって言葉が理解できてるのかどうかがわからなかった。
オォーーン……
近いところでオオカミの鳴き声が聞こえる。
早くここから帰らなきゃと思ったが、歩けない少女が二人いるだけで全くもって何の役にも立たなかった。
ヴァウ!ヴァん!ヴォン……
血の匂いを嗅ぎつけたのか、たくさんのオオカミの鳴き声がした。
思わず縮こまると遠くの方から「ユリシャー!」と自分を呼んでいるフィオの声がする。
ユリシャはその声に「ここよーー! フィオーー!」と思いっきり返事をした。
ヴァオォーーン! と一際大きなオオカミの鳴き声が聞こえて、周りを見るともうあと三メートルも無い距離に黒くて目が赤いオオカミがいた。
オオカミはヨダレを撒き散らし、「ヴァン! ヴォオオオン!」と鳴きながらユリシャの方へ走ってくる。
(もうダメだっ……)
思わずユリシャが目を瞑ると、突然上に何かがのしかかるような衝撃がはしった。そのまま身を縮こませ守っていると、ぐちゃぐちゃという汚い咀嚼音がすぐ近くで聞こえ、冷たいどろりとした液体がユリシャの頭にぶしゃりとかかった。
しかし不思議と痛みは全く無くて、ゆっくりと目を開けると、オオカミが食べているのはユリシャではなく、覆い被さるように守ってくれていたシャウラの方だった。
「ヴァオオッーン」と他のオオカミが来た時にすぐ近くで「ユリシャ!」と呼ぶフィオの声がする。
(みんな殺される!)
「ダメェえええええ!! 来ないデェえええ!!!」
ユリシャが叫んだ瞬間に、ぐジャっっっ!と言う何かが潰れたような音がした。
同時にユリシャの背中の方で今度は生暖かい液体が飛び散るのを感じ、鉄の臭いが香る。
そして、耳鳴りのような沈黙が辺りに広がった。
◆
ユリシャの悲鳴が聞こえた。
(あっちか……)
ヒューイは真っ暗な森で、いつも通り道に迷っていた。
ユリシャとは喧嘩するし、シャウラはどこにもいないし、ユリシャのボーイフレンドには会うし、散々な一日だと思った。
なんとなく位置はわかったものの、ここからどうやって行こうと考えた。
きっと自分一人では多分どう足掻いても行けそうになかったので、仕方なく他の人間の力を借りることにする。
「――師匠、お願いします」と呟きながら、ヒューイは水色の結晶を取り出した。
◆
先ほどまでの煩さが嘘かのように、森の中に静寂が訪れた。
ユリシャはゆっくり目を開けて空の方向を見上げると、オオカミに無惨に食い散らかされたシャウラと目があった。シャウラの真っ白の肌とは対照的に、真っ黒な肉が見えていて、肋骨の隙間から、ぽっかりと満月に近い欠けた月が見えた。
シャウラがゆっくりユリシャの上から退くと、血溜まりの中にユリシャはいた。
周りにいた複数のオオカミは、ユリシャを囲むように点々とあった水溜まりから伸びた複数の氷柱に貫かれ、絶命していることがすぐにわかった。
近くで声が聞こえたはずのフィオの姿が見えなくて、ユリシャが上半身を可能な限り起こしゆっくりと周りを見渡す。
まるで墓標のように大きな氷柱がフィオの体を貫いて、その血がユリシャを赤く染めていた。
◆
ヒューイがユリシャのいる場所に着いたときには、もう全てが終わっていることに気がついた。たくさんの魔物の墓標の中にひとつだけ、人間がいることに気づきヒューイがその身体に触れてみたが、見た目通り絶命しているようだった。
ヒューイは血溜まりの真ん中で泣いている少女に近づいて、小さく「……遅くなってごめん」と呟いた。その声に反応してユリシャは顔を上げた。
「何が遅くなってごめんよ!」とヒューイに怒鳴った。
ヒューイが何も言えずにいると、ユリシャは小さい声で「フィオを助けて……ヒューイは回復魔法使えるじゃない……」と泣きながら言った。
「もう、死んでる」もっと優しい言い方がないか考えたが、他に思いつかなかった。
すぐさま「じゃあ生き返らせてよ!」とユリシャは叫んだ。
ヒューイはまた「ごめん」と言って、ユリシャの頭を撫でようとしたが、ユリシャはその手をはたき落とす。
「ごめんじゃっ……ない……ごめんじゃないの……」
ユリシャは嗚咽しながら言った。
「だって……一番……悪いのは私なんだからっ!」
その瞬間にまた氷柱が水溜まりから生えてきて、ヒューイの頬に掠ると、頬からじくじくと血が出てきた。
「もうやだ……魔法なんか嫌い……私、死にたいっ……死にたいよぉ…………」
ヒューイは目の前で泣いている少女になんて声をかけるか逡巡していると、シャウラが小さい子をあやすようにユリシャの頭をゆっくり撫でた。まるで意思を持って動いているかのようなシャウラの行動にヒューイは驚きを隠せなかった。ただ、その驚きはすぐに消え、目の前の泣いている少女になんて言おうかぐるぐる考えていたが、少女を慰める魔法の言葉は何一つ見つからなかった。
そのままずっとユリシャは泣いていたが、泣き疲れてしまったのか、地面に横たわったまま寝てしまった。
ヒューイはとりあえず少年の身体と同化している氷を溶かして、少年の亡骸を地面にそっと置いた。瞼を指で閉ざしたあとに、せめてもの救いとして腹にぽっかりと空いた穴を消し血に塗れた身体を綺麗に魔法で修復した。
修復したのは身体の組織だけの問題で、彼が生き返ることは多分もうない。
けれどもその少年はまるで眠っているかのように表情だけは安らかだった。
◆
ユリシャは朝日の眩しい光によって、閉ざした目をゆっくりと開けた。
いつの間にか眠っていて、いつの間にか朝になっていた。
何やら寝心地がよいと思っていたのは、シャウラが膝枕をしていたからのようだった。朝日がシャウラの銀の髪を明るく照らし、まるで女神のようだった。
ユリシャは、ぼーっとした寝起きの頭を持ち上げると腰の辺りから痛みを感じた。
(昨日、土砂で……)
全てを思い出したユリシャがハッと周りを見渡すと、ヒューイが土砂の上で膝を抱えて座っている。
「ユリシャ」
ヒューイは小さい声で「昨日はごめん」と謝った。
「ねぇ、フィオは? フィオはどうなったの?」と聞くと、ヒューイは顎でフィオの亡骸を指し示した。
フィオはまるで眠っているようで、昨日の惨劇は嘘だったかのように思えた。
「ユリシャ。最後まで聞いて欲しいことがある」
ヒューイはユリシャが今まで聞いたことのないほど穏やかな声で言った。
「――人間はね、死ぬと生き返らないんだ。
肉体は物質でできているから、修復することはできるんだけど、魂は……そうだなー、まるで時間のようなもので、過ぎ去っちゃうと二度と戻らないんだよ。
シャウラの魂も、フィオの魂も、もう別の次元に行っちゃって、俺たちのいる世界とは違う時空で生きているんだ」
ユリシャは思わず動けない身体を無理矢理起こして、「この前は、私、肉体を奪われて! あの時は死んだんじゃないの⁉」と叫ぶ。
ヒューイはユリシャの方を見ながら、実際は何も見ていないような顔で、淡々と言葉を繋げる。
「あれは俺の魔法で一時的に魂と肉体を綺麗に分離しただけで、魂はまだこの世にいたんだよ。でも別の次元に行っちゃった魂を連れ戻すことができる魔法もあってね。俺はそれを探してるんだ」とヒューイは寂しそうにシャウラの方に顔を向けながら言った。
「シャウラは一人じゃ生きていけないだろ。俺が魔法で必死に動かして、毎日髪を梳かして、汚れたら拭いて、傷ついたら修復して……それだけしないと魂の入ってない人間の肉体はすぐに腐って滅びちゃうんだ」
「なんでそんなことをするの?」
ヒューイはサラリと「好きだから」と言った。
「ユリシャはできる? 同じこと」
「私にはできない……できないよ……」
ユリシャは人間の死がこんなに不幸なことに気がついて、ただただ泣くことしか出来なかった。
(そっか、ヒューイはふざけてるけど、心の奥では苦しんでるんだ……)
今まで大切にしたいと思える人にも出会えず、その人が死ぬことも考えたことがなかったユリシャには、その事実がいかに残酷なことなのかということを知った。
「ごめんなさいヒューイ……、シャウラ…………フィオ……」
ユリシャは今までのどんな言葉よりも心を込めて謝った。そして、泣くことができないシャウラとフィオのために泣いた。
「ユリシャ、覚悟しろよ」
泣き止んだユリシャは「何を?」と聞いた。
「これから、ユリシャの傷を修復する」
前は頑なに回復魔法をしてくれなかったのに、今日はしてくれるらしい。
「回復魔法っていうのは、二つあってだな。ひとつは痛みや苦しみを麻痺させて感じさせなくする方法。もうひとつは切れた血管や組織を、代替物質を使って修復させる方法だ。
――これからユリシャにやる魔法は後者だ。
ちなみに傷を直す方法は、まず内臓とか骨とかの組織を作って繋いだあと、神経が通るように修復するんだが……その時がめちゃくちゃ痛いらしい……。本来なら痛みを消しながら修復させるのがセオリーなんだが……」
「なんでそんなことを今から言うのよ……」
ユリシャはまた泣きたくなった。
「俺は学生時代、肉体蘇生の授業をサボってて……。俺とペアになったやつは実験体って呼ばれてた」
(なんでサボんのよ!)
「ユリシャ……歯食いしばれ!」
ユリシャは今日一番の悲鳴を上げた
ヒューイは俺も一緒に行くよと言ったが、ユリシャは首を横に振った。
(これは、私への罰なんだ……)
ユリシャはこの世で一番重たい扉をノックした。
「はーい」という声とともに幼い女の子が扉を開く。「あ!ユリシャお姉ちゃん」と何も知らないアーニャが嬉しそうな声を出す。
「ごめんなさいアーニャ」
ユリシャは泣かないように必死になりながら、声を震わせながら謝った。
「どうしたの? お姉ちゃん……」
「実はね……私がフィオを殺したの……」
ポカンとしている十歳の女の子は、言葉の意味をよく理解できないようだった。
「恨むなら私を殺しにきて……」
そう言って、ユリシャは薄い銅のカードを渡す。
アーニャに渡したカードには、フィオと一緒に作った思い出と、ユリシャの名前が刻まれていた。
「さようなら」とユリシャは言って、アーニャの前から逃げ出した。
ユリシャがなんでそんなことをいうのか不思議に思ったアーニャが、扉を開けたまま家の中を振り向く。家の中には、さっきまでいなかったはずの優しかったお兄ちゃんが家の壁にもたれて、目を閉じていた。
「お兄ちゃん、こんなところで寝ると風邪ひくよ」
アーニャが肩を揺さぶると、バランスを崩したフィオがそのまま、ぐでんと地面に落ちた。
土気色の肌と冷たい感触がアーニャの心に刻まれて、生まれて初めての感情が幼い心に芽吹いてくる。
「このっ!!!ひとごろしーっっっっ!!!」
アーニャの憎しみが、町に響いた。
◆
ユリシャがアーニャの憎しみを背中に感じながら逃げるように城門を通り抜け、車の置いてある場所に行くと、そこで待っててくれた様子のヒューイがタバコを吸いながら、車の荷台にある扉の前に寄りかかっていた。
「大丈夫か?」
全然、大丈夫ではなかったがヒューイに何かできることもなかったので「大丈夫」と短く応えた。
きっと町の中は騒ぎになっていて、またユリシャは追いかけられるのだろう。
(もう、疲れちゃった……)
ユリシャは自由を手にしたかっただけなのに、行く先行く先で自分が誰にも歓迎されていないことに気づいた。
ヒューイが荷台の中にシャウラがいることを確認してからゆっくり扉を閉めて鍵をした。
その様子をぼーっと見てると、ヒューイは運転席側の扉を開けて車の中に入る。
(私、置いてかれるのかな)
なんだか、ずっと追いかけられ続けたこの旅に疲れてしまったユリシャは、それでもいいと思っていると、ヒューイが窓からユリシャのことを振り返り「早く乗れ」と言った後に「俺だけじゃたどり着けないから、ユリシャも一緒に来てよ」と言い直した。
ユリシャがのろのろと助手席の扉の方に向かってゆっくりとした動きで乗ってくるのをヒューイはずっと見守っていた。
ユリシャが椅子に座り、車の扉を力なく閉めたのを確認したヒューイは、エンジンをかけて、三人はまた旅を続けた。
暫く二人はずっと無言でいて、どこまでも重い沈黙がこの場を支配していると、ヒューイは意を決してポツリと「……実はさ、シャウラが死んだのは、俺のせいなんだ」隣の少女に聞こえるだけの声で呟いた。
ずっと俯いていたユリシャは、少し驚いたようにヒューイの方にゆっくりと顔を上げる。
「魔法って便利だから結構頼っちゃうことがあってさ。しかもその時、俺は国一番の神官だったから、調子に乗ってたことも多分あって、騎士気取りで部屋の中に閉じ込められてるシャウラを外に連れ出したんだ」
ヒューイが淡々と昔の話をしてくれる。
「国の外で大勢の盗賊に襲われて、シャウラと俺は殺された。
その後、俺の剣の師匠が駆けつけてくれて、盗賊の親分みたいなやつと戦ってくれた。そんでシャウラが俺のこと助けてくれて、傷を治してくれたんだけど、俺にはシャウラを治すほどの力がなくて……。
あん時程、肉体蘇生の授業サボるんじゃなかったなーって思った」
ヒューイは、乾いたように少し笑った。
「俺が生き返ったら、盗賊がこっちきたんだけど、もう何の力が残ってなかった俺は殺されるってとこで師匠が助けてくれたんだ。
魂になった師匠が空っぽになった俺に取り憑いて、この前のユリシャみたいに盗賊は倒したんだけど。
……俺以外、みんな死んじゃった。」
ユリシャは水色の結晶の中に入っている男の顔を思い出そうとしたが、もやに包まれたその顔を思い出すことはできなかった。
「なんでそんな話をするの?」
その話を聞いて悲しくなったユリシャは聞いた。
「その時の俺に言ってあげたい言葉があるから……」
そう言ってヒューイは横目でユリシャのことをチラリとみる。
「フィオは多分、ユリシャを守れてよかったって思ってる」
氷の墓標に貫かれたフィオを思い出す。
「何でそんなことわかんの」
「だって、ユリシャを守ろうとしたし、死んだ顔もホッとしたようだった。……フィオも、シャウラも、師匠も、俺よりずっと大人だった。
あん時の俺はシャウラを守ることよりも、魔法を使って力を示すのが楽しかったんだから。……俺って馬鹿だよなー、あん時から全然、成長してないのかも」
ヒューイは運転に集中して前の方を見ながらハンドルを左に切る、少し時間が経った後ポケットを手で探り「これ一応渡しとく」と言って薄い銅でできたハンター証をユリシャに渡してきた。
受け取るとハンター証には、フィオの名前と生年月日以外に、フィオが死んだ日づけが新しく刻まれていた。
ユリシャはまた胸が熱くなり鼻がツーンとしたが、「ありがとう」と涙を堪えたような声で呟いた。
そして先ほどよりかは多少明るい声で、「ヒューイ、そっちの道じゃないよ……」とユリシャは言った。