散歩
結局、自分の部屋に行くと眠気は覚めていて、とりあえずスマホを取り出した。母からの着信があり、六花からのメッセージも入っていた。
『今日の夜、会わへん?』
猫が手を合わせて、お願いしているスタンプが添えられていた。
まだぼんやりする頭を上げ、窓の外を見る。山間部の夕暮れは早く、西の空はほのかに残照を映しているが、すぐそこに藍色の夜が迫っている。
スマホに視線を戻し、ゆっくりと人差し指を動かす。
『ごめん、今日はなんだかつかれた。明日の夕食の後、カイの散歩に行くから、その時でいい?』
すぐにメッセージに既読がつき、OKと大きなスタンプが返信された。
次の日は、朝から大掃除だった。しかし父は「今年は涼太がいて男手あるし、俺はちょっと出かけてくるわ」と言って、いそいそと出て行った。
「父さん、まだパチンコにハマってるの?」
ガラス窓をふきながら、それとなく母に切り出す。父の出かけた先が隣町にあるパチンコ屋だと、だいたいの見当はついていた。
「そやろなあ。まあ、あの人が、どこで何してんのか興味もないわ」
突き放した冷たい言葉に「どうして、結婚したの?」と問いかけたくなったが、やめておいた。
夫婦のことに子供は口出しすべきではない。二十五歳にもなれば、それぐらいの配慮はできるようになる。ひるがえって、俺が発した問いの答えが「あなたのため」と言われないために、口をつぐんだとも言える。
俺の考えすぎかもしれないが、母は今の父と結婚したのは俺のためだったのではないかと、心の底で思っている。
成績のよかった俺を東京の大学にやるのが、母の願いだった。
シングルマザーでは、かなり無理をしないと東京の大学へはやれない。大阪にもいい大学があるけれど、母はなぜか東京の大学に固執していた。
きっと大阪にいい思い出がなかったのだろう。自分が出て行けないかわりに、俺を行かせたかった。
大人になって幾ばくかの人生経験をつみ、それが俺のみつけた父と母の結婚の理由だった。
離れの掃除は母とふたりで終わらせ、母屋の様子を見に行くか玄関で迷っていると、母が俺をひきとめた。
「母屋には、おばあさんが世話してる人たちが手伝いにくるから」
祖母の巫女という仕事は、死者の声を聞くだけではないようだ。時に予言めいたことも言い、それに引き寄せられるように人が集まってくる。まるで、新興宗教に似てると母がこぼしたことがある。
後川家の巫女の仕事は、その家の娘や嫁がついできたようだ。しかし祖母は母のことを嫌っているので、六花にその仕事を継がせようとしている。
厳密に巫女になるにはどんな修業をするのか知らないが、六花は巫女になることを嫌がっていた。今どき、巫女なんてありえないと言って。
今も、その思いはかわっていないだろう。
父は結局、すべてが終わった夕方に上機嫌で帰ってきた。夕食の後、普段は父の仕事であるカイの散歩を俺はかって出た。
父は一日留守にしていたばつの悪さから遠慮したが、俺はかまわず外に出てカイの散歩に出かけた。歩きながらコートのポケットからスマホを取り出して、メッセージを送る。
川へ向かう道に出るとカイは一目散に走り出そうとするが、リードを短く持って落ち着かせた。あとから六花が追ってくるのだ、先にどんどん行くわけにはいかない。
ゆっくりとした歩調でくだっていくと姫橋が見えたところで、六花が背後から俺を呼んだ。
立ち止まり振り向くと、それまで大人しかったカイが突然六花へ向かって激しく吠え始めた。
「おいおい、どうしたんだよ。昔は六花もいっしょに散歩してただろ」
俺がなだめても、カイはなかなか吠えるのをやめない。六花は近づいてこれず、困った顔をして突っ立っていた。
「お兄ちゃんが東京に行ってから、わたしほどんどカイの散歩してへんし、嫌われたんかな」
六花の声を聞いてカイはようやく吠えるのをやめたが、しっぽはピンと立ったままだった。しょうがないので、俺とカイの後をちょっとはなれて六花はついてきた。
夜のとばりが落ちた暗闇に、冴えた月がコンクリート製の冷たい姫橋を輝かせていた。民家の灯りも街灯もあまりない田舎では、月の光がことさら明るく感じる。
六花の持って来たライトに足元を照らしてもらい、欄干のない姫橋を渡った。
「散歩、どこまで行くん?」
後ろから、六花が聞いてきた。声がすこしだけ、ふてくされている。
「ちょっと歩くけど、夢幻峡まで行かないか」
川を渡って県道沿いに二十分ほど下流へ歩いたら、御津川と名木川が合流する渓谷がある。そこは夢幻峡と呼ばれ、この村の数少ない観光スポットだった。
山間から流れてきたふたつの川がぶつかり、川幅が倍になりとうとうとと流れていくさまは都会ではなかなかお目にかかれない景観だ。
その合流地点を見下ろせる高台に公園があり、そこには一晩中街灯がともっていた。俺が昔カイの散歩をしていた時、たまにそこまで足を延ばしていた。その時も六花はいっしょだった。
県道沿いを黙々と歩いていると、小型バイクのエンジン音が聞こえてきて俺たちの横で速度を落とした。