懇願
急いで音のした玄関へ向かうと、引き戸のガラスが割れ散乱していた。そのガラスにまじって落ちていた、こぶし大の白いものを拾い上げる。
石に紙が巻き付けられていて、紙をはがして見ると『出てけ!』と太いマジックで殴り書きされていた。
「なんやねんな、もう!! うちらが悪いんと違うのに、狂ってる。狂ってんで!!」
母の絶叫が、耳に痛い。狂ってるのは、俺だ。得体の知れないものを生み出し、犠牲者を出してもなお、それと未来を望んでいる。その代償がこれか……。まあ、当たり前といえば、当たり前だ。
手の中の紙がするりと床に落下して、かさりとむなしい音がした。
「ここ、片付けるし、向こう行ってて」
冷静な俺の声に母はすこしだけ落ち着いたのか、無言でうなずき台所へ消えて行った。箒と塵取りでガラスを片付け、割れたガラス戸には応急処置で板を貼っておく。
台所に戻ると湯がわいていたが、母は椅子に座り爪をひたすら噛んでいた。コンロの火を消し、急須に茶葉を入れて湯を注ぐ。
「まあ、これでも飲み」
母の前に湯呑をおいた。
椅子の背に手をかけ、俺も座ろうとすると。母が顔を上げ、俺をよどんだ目で見上げる。その顔にはしわがふえ、皮膚に張りがない。明らかに疲労の色が浮かんでいた。
「涼太、今すぐここ出ていき。ここにいたら、何されるかわからんで」
俺は椅子を引き、崩れるように腰を下ろした。
「六花が目を覚ましたら、出ていくつもりや」
「もう、りっちゃんのことは、ええやろ。今すぐ出て行かんと」
母の声に力はなく、肩がブルブルと震えている。母は老いた。息子としてなかなか認めたくない思いにとらわれる。しかし、素直に従うことはできない。
「六花もここにおいとけん。目を覚ましたらふたりで、ここから出て行くから」
母は目玉が零れ落ちそうなほど、目を見開いた。
「何あほなこと、言うてんの。ここからあんたといっしょに出て行くのは、母さんや」
「はっ? なんで、母さんと――」
あまりにも意外なこと言われ、言葉が続かなかった。
「こんな、恐ろしいド田舎、いてられるかいな。もういやや。出て行きたい」
母は子供のように頭をかかえ、いやいやと頭を左右に激しく振った。
「父さんはどうするんや。おいていくんか」
「離婚するわ。そうや。それが、一番ええわ」
うなだれていた顔がぱっと上がり、母は憑き物が落ちたようにすっきりとしていた。
「離婚ていきなりなんや。別に、仲悪そうでもなかったし。いきなりそんなこと言われても」
「仲なんか、最初からいいわけないやろ。あんたのために、あの男と結婚したのに」
そうだった、最初から父と母は仲などよくなかった。表向きなんの問題もない再婚家族を演じていて、うっかり忘れていた。
それにしても薄々感づいていた母の結婚の理由を、このタイミングで突き付けられるとは。
「でも、そんな突然、ここが怖いからって理由で離婚するなんて」
母に東京へこられると都合が悪い。六花と母には距離がある。三人でいっしょに東京で住めるわけがない。
「離婚する理由ならある。涼太が大学卒業して生活に余裕が出来たら、パチンコにのめり込んで。どんなけ勝手に家のお金持ち出されたか」
たしかに父はパチンコに足しげく通っていたが、小遣いの範囲内だと思っていた。
「もういい加減にしてくれて言うた。それで現金家におかんようにして通帳も暗証番号変えたら、あの人どうしたと思う?」
続きを聞くのが怖かった。しかし、ずっと帰省もせず父と母をふたりきりにしていた息子としては、義務感から訊かない選択はない。
「どないしたん? 借金とか」
母は、醜く顔をゆがめ鼻をならした。
「他人にそんな恥さらすようなこと、あの人がするかいな。外面だけはいいんやし。あんなあ、母屋にお金盗みに入ってたんやで」
母屋に入った泥棒とは、父だったのか。
「でも、父さんが盗みに入るのに、家荒らしたりせんやろ」
六花の話では、家が荒らされお金を盗まれたと言っていた。
「そらそうや、わからんようにこっそりしてたんや。でも、おばあさんにはバレてた。もうこれ以上悪させんように、おばあさんがわざと部屋荒らして通報したらしいで」
「なんで、そんなこと知ってるんや」
「あのおばあさん、自分の子育てが悪くてあんな人になったのに。私をせめはったんや。こんなことすんのは、あんたの監督が悪いて。ほんまどの口が言うねん。自分の息子やろ」
母の口から、ため込んでいた呪詛のような心の澱がとめどなく流れ出す。それと同時に、涙も流し始めた。母の涙など見たことがなく、俺は動揺する。
「涼太、あんたが東京の大学いけて、就職できたんは母さんのおかげやろ。なんで母さんやのうて、りっちゃん連れて行くの」
泣きながら息子の情に訴える母を拒絶などできない。でも、この状況で母と六花を同時に東京へつれていくなど無理だ。
「とにかく先に、六花を連れて行く。それから母さんと暮らす準備するし。もうちょっとがまんして――」
なんとかこの村に留まってもらおうと、問題を先延ばしにしたのだが。母は涙でぐしゃぐしゃの顔を大きくゆがめた。
「母さんより、りっちゃんとるんか! いままで自分のこと犠牲にして、あんた育ててきたのに。裏切られたわ」
さっき木村巡査に言った俺の台詞そのままを母が言うと、テーブルにつっぷしておいおい泣き出した。
その光景を茫然と見つつ、心の底が凍り付いていくのがわかった。
しょせん、母さんは自分のために俺を育ててたってことか。母さんが俺のためにしてきたことは、エゴでしかなかった。
今まで育ててもらったことは、それは感謝している。六花を殺した時も、死のうと思ったが母さんひとりをおいていけないと、この世に踏みとどまったのだ。
それなのに、少女のようにおいおいと泣く背中をさすりながら、この母を地獄のようなこの村に置き去りにしたいと思う自分に、驚きはしなかった。




