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匂い

 翌朝、雪はやみ晴れた冬の空が顔を出した。夜の間に雪は数センチつもり、この山間の小さな村の色彩をすべて消し去り、まるで水墨画のような景色が眼前に広がっている。

 昨日の鬱々とした俺の気分を一掃してくれたような美しい世界に、朝からすこしだけ気分が高揚する。休みの日の早起きであっても、何か得をしたような気がした。


 父親のセダンにチェーンを巻き、車内に乗り込みこれから出勤する三人を待っていると、コンコンと窓をノックする音がする。助手席に視線を向けると、妹の六花がのぞき込んでいた。


 一瞬、六花の後ろから照らす朝日に目がくらむ。目を細め視点を合わせると、ガラス越しの六花の姿がはっきりと見えた。

 髪をきっちりひとつにまとめ、チャコールグレーのコートをまとい、首元にはピンクのマフラーを巻いている。


 俺は運転席から身を乗り出し、助手席のドアを開けた。

「おはよう」と何気ない挨拶をすると、六花はニコリと笑い助手席に乗り込んできた。


 雪にとけていきそうなほど白い六花の肌は、すこし上気しているのか頬が赤い。大きな二重の目は、俺の顔を見て目尻が下がっていた。

 三年前の正月に顔を合わせて以来の、妹との対面。普通の兄妹なら三年ぶりの対面になんの意味も見い出さない。


「暖かい、ありがとう。お兄ちゃん」


 やわらかい関西弁のイントネーションで言うと、首に巻いているマフラーをくるくるとほどき膝の上においた。たったそれだけの動作に空気が撹拌かくはんされ、妹の匂いが狭い車内に充満した。


 フロントガラスから視線を外さず、甘い女の香りを浅く吸い込む。横目で見ると、六花のあらわになった首筋はすらりと伸び、おくれ毛がうなじに張り付いていた。


「暖房効きすぎだな」


 俺はエアコンの温度を下げずに、窓をほんの数センチ開けた。


「すごい、関西弁ちゃうやん。すっかり東京の人って感じやなあ」


 妹に無邪気に感心され、いくぶん照れくさい。


「まあな、もう七年住んでるから。言葉も変わるよ」


「ええなあ、東京。わたし一回も行ったことないわ」


 ここで、ふと疑問に思う。俺も通っていた六花の高校の修学旅行は、東京だったはず。


「修学旅行、行かなかったのか? たしか、東京だっただろ」


 笑っていた六花は、ちょっと困ったような顔をした。


「あれ以来、体の調子崩してて。修学旅行は行かへんかってん」


 あれ以来の『あれ』に該当する事実にすぐさま思い至り、喉の奥がつまり言葉が出てこない。

 低くうなりをあげるエンジン音が、耳につく。

 黙り込んだ俺を気づかったのか、六花はことさら明るい声を出す。


「今はもう、大丈夫や。すごく元気やから」


 小首を傾げていう姿は、小動物のように愛らしい。柴犬のカイの頭をなでたように、染めていない艶のある六花の頭をなでてやりたくなる。

 組んでいた腕をほどいたと同時に、後部座席のドアが開いて父親のはしゃいだ声が甘い空気を濁らせた。


「なんやみんなで出勤て、遠足みたいや」


 父が乗り込み、母もそのあとに続いた。


「じゃあ車、出すよ」


 アクセルを踏むとガガガっと騒々しいチェーンが雪を削る音を立て、車はゆっくりと走り出した。

 車中では父親だけが一方的にしゃべり、車内の空気は一応《《家族》》の体裁を保てていた。しかし役場で降りるさい、笑えない冗談を言い残した。


「六花、また神隠しに会わんように涼太に送ってもらえよ」


 温かい車内の空気は、一瞬で外気と等しく冷たく凍り付いた。俺は慌てて車を発進させ、役場から十分ほどの診療所へ急いだ。その間誰も口を開こうとはしない。母は

「気をつけて、帰りや」とひとこと俺に言ってから車を降りた。


 車内に残されたのは、六花と俺のふたりだけ。宇土市の不動産会社へはあと四十分の道のり、また沈黙が流れるのかと思っていたら六花が大きなため息をついた。


「はあ、未だに晴子さん苦手やわ」


 父と母が再婚したのは、俺が中学一年生で六花が小学五年生の時だった。もう十三年たつが『晴子さん』と名前で呼んでいる。とくだん、父親もとがめてこなかった。


「まあ、ずっと違う家に住んでるんだから母親って感じしないよな」


「違う家に住んでても、お兄ちゃんはお兄ちゃんや」


 ちらりと横目で六花を見ると、下唇を突き出してむくれていた。

 六花は今、二十三歳のはずだがこんな幼いしぐさを見せられると、はじめて会った小学生の時の姿を思い出させる。


 俺は大阪のアパートで母とふたりで住んでいた。父親の記憶はない。母にたずねたら死んだと教えられた。たぶんどこかで生きているような気がする。母に死んだと言われるような男は、ろくな男ではなかったのだろう。


 母は看護師をしていて、夜勤もこなしていた。アパートの部屋でひとり、布団の中でよく思ったものだ。せめて、兄妹がいたらさみしくないのにと。


 だからある日、ファミレスで会ったおじさんと女の子が家族になるよと言われた時は、おじさんはいらないけれど女の子はほしいと思った。


 女の子は半袖の淡いピンクのワンピースを着た、ポニーテールの似合うとてもかわいい子だったからだ。こんな妹となら、きっと仲のいい家族になれる。そう思ったけれど、いざ生活を始めるとそのかわいい妹だけ、意地悪な老婆に取られてしまった。


「お父さんの冗談、気にせんといてな」


 違う理由で沈黙していたのだが、また妹に気をつかわせた。






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