隣にいてもいいの
七日の土曜日は午前中だけ仕事だった。その日の夕方はおばあちゃんの初七日の供養があり、また母屋に人が集まる。
「もしもし、お兄ちゃん? 仕事終わって村に帰ってるけど、車にガソリン入れてから帰るわ。すぐやし」
「掃除と準備は終わってるから」
電話の向こうのお兄ちゃんに、声を落としてたずねた。
「あんな、私の部屋も片付けてくれた?」
今朝の寝乱れた布団を思い浮かべ、顔が赤らんだ。ふたりが愛し合った痕跡を消しておかないと。
「布団もほしたし、大丈夫や」
お兄ちゃんが、地元の言葉をしゃべるのが耳に心地いい。六花が愛したお兄ちゃんにもどっているようだけど、今のお兄ちゃんは私だけのもの。
「それより、体調大丈夫か? 今朝、体ダルいて言うてたやろ?」
朝、お兄ちゃんの腕の中で起きると、体が鉛のように重かった。
最近、体がそうなることが多い。
「大丈夫や。仕事もちゃんとしたし。おにぎりも食べたで」
お昼にと、お兄ちゃんがおにぎりを持たせてくれた。
「それならええけど」
そう言いつつも、声はまだ心配そうだった。
お兄ちゃんの気づかう声が、この上もなくうれしい。私は、心配されるような存在になったのだと。お兄ちゃんの隣にいてもいいのだという、確かな安心感を噛みしめていた。
村にある唯一のガソリンスタンドはセルフで、車を止めると操作をするため外へ出た。
機械にカードを入れようとすると、声をかけられた。
隣に止められた軽トラの窓から、野辺送りの時に鉦持ちの役をしてくれた山下さんが顔を出していた。
「りっちゃん、ええとこで会うたわ。ちょっと話あんねん」
そう言うと、山下さんはチラリと車の後ろを見る。土曜日の午後になると、ガソリンスタンドは混む。後続の車が順番を待っていた。
「ガソリン入れ終わったら、そこの休憩所に来てんか」
山下さんはガソリンスタンドに付随している休憩所を、指さした。
私は早く家に帰りたかったけど、このあいだお世話になったのだから、無下にも断れずうなずいた。
ガソリンを入れて、車を移動させ休憩所に入ると、すでに山下さんは椅子に座っていた。
「なんか、飲むか」
自販機を見て山下さんは言ったが、私は断った。
「今日初七日なんで、早く帰らんとあかんから」
お年寄りの話は長い。あらかじめ、時間がないことを知らせておかないと、長居することになる。
「そうか、初七日か。そら忙しいな。ほな、手短に言うわ。あんな、野辺送りの時にサンマイでイツキさまの話になったやろ」
私は野辺送りについて、サンマイへ行っていない。山下さんは未希ちゃんと私を勘違いしているのだろう。
しかし、訂正はせず話を聞くことにする。サンマイは私が目覚めたところ。お兄ちゃんは、私をイツキさまだと勘違いしている。
なぜか、山下さんの話に嫌な予感がした。
「あの時、みんなイツキさまは斎皇女や言うてたけど、どうもわしの記憶と違うなあ思て、史料館や図書館行って調べたんや」
山下さんは、むかし中学校の先生を勤めた人だった。今は郷土史会に所属していて、村の伝承や歴史を調べている。
おばあちゃんのところにも、巫女聞きの風習について聞きにきたことがある。
「わざわざ調べたんですか」
私の声には、すこしあきれた雰囲気が滲んでいた。山下さんは、怒ることなくにやりと笑う。
「わしなあ、頭使うんが好きなんや。なんせ、昔先生してたやろ。せやから、ボケてまうのだけは勘弁やな。年とっても、いろんな知識頭に詰め込んどいたら、ボケへん。一番怖いんは、頭から知識がぬけていくことや」
とんとんと、人差し指で自分の眉間をたたき自慢げに山下さんは言った。
「そんでまあ好奇心からいろいろ調べたら、江戸時代の文献にはイツキさまっちゅうんは、鬼やて書いてあるんや」
「鬼ですか……そんな、お姫さまとえらい違いですね」
お兄ちゃんは、私のことをイツキさまというお姫さまだと思い込んでいる。土中に追い込まれたような焦燥感に叫び出したくなるのをグッとこらえたら、奥歯がぎりりと軋んだ。
「縊れ鬼て書いて縊鬼いうんや」
「縊鬼? 縊るてなんか怖い鬼ですね」
私がハハっと乾いた笑いをもらしてたずねると、山下さんは大きくうなずく。
「そや、その鬼はな人をそそのかして首をくくらして自死をするように、そそのかす鬼やそうや」
『恋を捨てるわけにはいかないわ。捨てるぐらいなら、死んだ方がましよ』
脳内に、どこかで聞いたようなセリフが再生された。これは六花が聞いたセリフで、私が言ったんじゃない。言ったのではなく、聞いたのだ。
「でも、私がおばあちゃんに聞いた昔話のイツキさまは都のお姫さまやったけど」
鬼なんかより、お姫さまの方がいい。弱くはかないお姫さまであって、人をたぶらかして殺す鬼なんか絶対にいやだ。
「たぶん、明治以降に同じ名前の斎皇女にすり替わったんやろうなあ。まあ、民俗学的にそういうことはあんねん」
私が異を唱えても、山下さんは自分の主張をまげない。
「そしたら、イツキさまって怖い鬼やったんですか」
お兄ちゃんは私がお姫さまだから、受け入れてくれたのだ。鬼ならば、結果は違っていただろう。そんな禍々しいものを抱いたりしない。六花の代わりに愛したりなんか、絶対しない。
「鬼というか死に対する恐怖、つまり死の穢れが鬼という形をとっただけやと、わしは思うんや。まあ、学者先生の見解はちゃうやろうけどな」
この老人は何を言っているのだ。けっきょく、鬼なのかそうでないのかどっちなんだ。




