家族
結局、母が帰ってきたのは雪が激しくなってきた二時間半後だった。エコ袋を担いでリビングに入ってきた母の肩には雪がつもっていた。師走の京都の錦市場を映しているテレビから視線をはずし、俺は「おかえり」と言う。
「おかえり、言うんはこっちや」
母は細い首に巻いたマフラーを外しながら、柔和に笑った。三年ぶり見る母は中年らしくふくよかになるわけでもなく、スリムな体形を維持していた。
「よかった、雪が激しくなる前に帰ってきたんやな。どないすんのやろて、心配してたんや」
息子を心配する母の声が面はゆく、再び夕方の情報番組に視線を戻す。
「ごめん、飛行機の時間早めたの連絡しそこねた」
母は、俺の言い訳に「かまへん、かまへん」と連呼してエコ袋の中の食材をどんどん冷蔵庫に入れていく音が背後でする。
「今日は寒いし鍋にしよ。お父さんは新酒買うてくるて――」
ここで一瞬の間をおいて冷蔵庫は勢い閉まる音がした。俺は驚き、振り返る。
「涼太、この家にどうやって入ったん」
「おばあさんに、鍵を借りて――」
俺の台詞は尻すぼみに消えていく。
「そうか」
母の声音は、先程のテンションよりあきらかに冷たい声に変化した。その変化に、俺は声をひそめてするりと入り込む。
「おばあさん、まだ巫女さんしてるの?」
エアコンで温められた室温が、一度下がったような気がした。
「ああ、最近は訪ねてくる人はめったにおらんのやけどな。たまにな」
がちゃんと、大きな音を立てて母は冷蔵庫をふたたび開けた。
「まあ、昔みたいに死んだ人の声聞きにくる言うよりも、身内をなくした人のお悩み相談が多いみたいやで」
めったに祖母と会話しない母が、どうしてそんなことを知っているのだろう。
「今でいう、メンタルケアってやつや。診療所でもなあ、病気直しにくるより先生と世間話したくてみんなきてはんねん」
母は、それとなく祖母から会話をそらせた。
この村では葬式の後、恐山のイタコに死者の言葉を聞くように、巫女のところへ行く風習があった。これを巫女聞きという。
巫女聞きをすることによって、遺族は死者の弔いを無事終えたと肩の荷がおりたような気がするそうだ。
巫女は神社に所属するわけではなく、代々同じ家の女が死者の声を聞く仕事を担っていた。その家がこの後川家だった。
「それよりあんた、いつまでこっちにいれんの? 休みは二週間あんのやろ」
「ごめん、三日の昼にはここを立つよ」
飛行機のチケットはすでに取っていた。
「ほな、十日もおらへんやんか。せっかく久しぶりに帰ってきたんやし、もっといたらええのに」
落胆する母の声を聞いて、胸がグッときしむ。
「学生の時はバイトがいそがしくて、三日しか帰れなかったんだから。それよりはましだって」
落胆をかわす言葉に、母は「でも……」とまだ納得しきれない様子で言葉を濁した。
それから一時間後に今度は父が、一升瓶を二本かかえて仕事から帰ってきた。背の低いがっちりとした体は、三年前より一回り大きくなっているようだ。昔より飲酒の量が増えているのかもしれない。
リビングにいる俺を見て、父は「おかえり」と三年ぶりとは思えないほどあっさりとした挨拶をすると、二本の一升瓶をダイニングテーブルにおいた。
「えらい降ってきたわ。明日の仕事納めは、チェーンはかんと役場には行けへんな」
父は村役場に勤めていた。
「どないしよ、チェーンひとつしかなかったんちゃうかな」
母の勤めている診療所も明日が仕事納めだった。
「そや、六花が持ってるかもしれん。あいつの車あったし帰ってる。母屋にちょっと、行ってくるわ」
父は娘の名前を出し、いそいそとリビングから出て行った。シンクに向かって白菜を洗っている母の背中に向かって、俺は言葉を選んで話しかける。
「六花、今働いてるの?」
三年前に帰省した時、六花は短大生だった。
「りっちゃんは、宇土市の不動産会社で事務してる」
母は、手を止めずに答えた。
「宇土市ってけっこう遠いな」
この村から宇土市までは、車で一時間はかかる。
「お父さんの、役場の知り合いの紹介やってん。今どき珍しいホワイトな会社やて」
『そうなんだ』という言葉を口の中でもてあそぶ。他にいろいろ聞きたいことはあるが、どう聞けばいいかわからずあたりさわりのない台詞を選んだ。
「元気にしてるの?」
妹を気づかう兄として、自然な台詞だ。何も不自然なところはない。俺の問いに対して、母が口を開く前に父が帰ってきた。
「チェーンなかったわ。どないしよ。六花も明日仕事納めや。なんや会社の人は休んでもええて言うたはるそうやけど、雪ぐらいで休むのもなあ。社会人としては」
父は役場の人事課長をしていた。三年前に帰った時に、今どきの子はすぐ休むと愚痴を言っていたことを思い出す。
そして、大学生だった俺にも休むなと口酸っぱく言っていた。その父の言葉を守っているわけではないが、俺は有休もとらず淡々と三年間仕事をこなしてきた。
「俺が明日、みんなを順番に送ろうか」
ふたりは同時に俺を見て、ばらばらなことを言う。
「そんなん、ひさしぶりの実家やのに朝から送らせるなんて」
「そうや、涼太に頼んだらええわ」
この家で父の意見が優先されることを俺は知っている。
三年すぎてこの家も何か変わっているかと思ったけれど、あの頃のまま何も変化していない。この山奥の村で流れる時間は、東京のそれとは違う。むしろ時間など流れず、凍り付いているのかもしれない。
「困った時に助けるのは、家族として当然だよ。母さん気にしないで」
『家族』という言葉が、嘘くさく聞こえたのは俺と母だけだったのだろう。父はニコニコと機嫌のいい声を出す。
「ほな、六花に涼太が送ってくれるて言うてくるわ。そうやなあ、道順は役場が一番近いし、家を何時に出たらええかな」
明日の段取りをブツブツと言いながら、ふたたびリビングを出て行った。
家族なのに、妹だけ同じ敷地内とはいえ違う家に住んでいる。祖母が、父と再婚した母と連れ子の俺を嫌ったからだ。
そんな、いびつな再婚家庭であっても父親の中では普通の家族だった。