一分でも一秒でも
お兄ちゃんは、まとわりつく私を引きはがしストーブを消して、沸騰するヤカンを台所まで持って行った。
やっぱり、ダメなの? この人は妹を拒否して、何食わぬ顔をして東京へ帰るつもりなのだろうか。一抹のあきらめが、空虚な心に広がって行く。
うつむく私の腕が突然、強くつかまれた。つかまれたと思うと、ぐいぐいと引っ張られ自室まで連れていかれる。お兄ちゃんは後ろ手で襖をしめた。
ぱしんと閉まる音が合図だったのか、お兄ちゃんは私の唇をふさぐ。口内に侵入してくる生暖かいものを受け入れ、私の体は喜びに打ち震える。
とうとう、墜とした。
そう思った瞬間、後ろのファスナーが乱暴におろされ、ストンと喪服のワンピースが床の上に落ちた。
わたしはあっという間に一糸まとわぬ姿にさせられ、冷たい肌が熱を欲し目の前の人の唇をむさぼりながら、衣類を夢中ではぎ取っていた。
快楽に身をゆだね、のぼり詰めていくはしたない自分の声を聞きながら、どうしようもなくかなしかった。この幸福な時間が終わってしまうことが。
*
心地よい温もりに全身を覆われていた。いつも朝は寒くてなかなか目が覚めないのに、今朝は布団の中にひとりではなく二人分の熱がこもり温かい。
瞼をあけると、むき出しの背中が視界を塞いでいた。ひとりぼっちの目覚めではない。目の前の人が幻ではないかと、そっと手を伸ばす。
指先がちょこんと背中に触れただけで、背中はびくりと波打ち緊張が走る。私の体は冷たいから、起こしてしまったのだろう。余計なことをしなければ、このまどろみの中にまだいれたのに。
「ごめん――」
誰に対してか、私は謝っていた。大きな背中がゆっくりと、反転する。
寝乱れた前髪がたれ、形のいい額を隠した。六花が見たくて見れなかったお兄ちゃんの寝起きの顔。
お兄ちゃんは、左手を伸ばし私の頭に触れ何かを探るように、髪をかき分ける。大きな手が気持ちいい。この手が散々昨日私の体の上を這いまわったのかと思うと、うれしさできゅっと心臓が小さくなる。
「頭の傷、ないんだな」
小さくなった心臓が一瞬で凍る。頭の傷というフレーズで、お兄ちゃんが何を言いたいのか察した。
「私が土の中で、気が付いた時にはもう傷は修復し――」
私の言葉を聞き終わる前に、お兄ちゃんはそれ以上聞きたくないというように目をぎゅっとつむった。
「そうか……。やっぱり、おまえは六花じゃないんだな」
……私はひどく落胆していた。
その感情の理由はよくわからない。さっき、私のことをイツキさまだと納得したのに、まだ六花にこだわるお兄ちゃんにか。
それとも、私では六花の代わりになれないとつきつけられたからなのか。感情を言葉にするのは、難しい。
この体に入って七年になるけど、まだ私は人間らしくないのかもしれない。でも今、私はかなしいと思っていることだけは、わかる。
「お腹すいたな、朝ごはんつくるわ」
本当はお腹なんかすいていないけど、そういうことにしておく。
今日まで、仕事は休みをもらっている。一日時間があるけど、お兄ちゃんといっしょにいられる時間は限られている。
この一日でどうか私を好きになってほしい。好きにならなくても、六花の代わりに愛してほしい。
布団から出た体は、あっという間に熱が奪われ冷えていった。
*
食卓にあり合わせの、朝食を並べる。トーストに目玉焼き、サラダ。それをふたりで黙って食べる台所の空気は、ストーブがついていても寒い。
先ほどの布団の中の温みが、もうすでに恋しかった。
「さっき、会社に電話して有給伸ばしてもらったから」
お兄ちゃんはそう言うと、トーストにかぶりついた。
「えっ――」
予想だにしない、お兄ちゃんの行動に短く声をもらした。
お兄ちゃんは、明日帰る予定だった。今朝の態度を見れば、私を抱いてもそのまま東京へ帰るものだと思っていた。それなのに……。
「このまま、帰ろうかとも思ったけど。やっぱりおまえのことが、気になる」
『気になる』とは、どういう意味が含まれているのだろう。
人を好きになる時も、最初は気になるという言葉を使う。未希ちゃんからむかし借りた少女漫画に、そう書いてあった。
それとも、わたしのことが心配という意味だろうか。
いや違う。期待してはいけない。
たぶん、ここに私を残していったら、何をするかわからないという意味かもしれない。お兄ちゃんは、まだ私を疑っている。
それは、ある意味正解だ。
六花の体を獲得した当初は、人間としてどう振舞っていいのかもわからなかった。
様子のおかしい私は、神隠しにあったせいだと都合のいいように解釈された。
唯一、おばあちゃんだけは私が六花と違うものにすり替わっていると、理解していたようだ。なにかしら霊感のようなものは、あったのだろう。
そんなものがなければ、いらない忠告をお兄ちゃんにして死なずにすんだものを。
おばあちゃんが死んだと聞いて、耳を疑った。まさか、そこまでするとは思っていなかったのだ。ことは、私が寝ている間にすべて終わっていた。
私が起きていれば、コントロールできていただろうか。いや、わからない。お兄ちゃんが目の前に現れてから、私の一部は暴走を始めた。
私もそれに、引きずられている。
せっかく、人間らしくこの生活になじんでいたものが、徐々に崩れていく予感がする。今の生活を守るには、お兄ちゃんと一刻も早く離れた方がいいのだろう。
でも、もうこの人の熱を知ってしまったから。一分でも一秒でも長くいっしょにいられることは、とてもうれしい……。
うれしいのなら、素直に顔に出さなければ。それが、人間らしいというもの。




