母屋と離れ
ますます雪が降りしきる中、沈下橋を渡り切り集落へ続くゆるい坂道をのぼった。右手にキャリーケースの重みが、ずしりとかかる。
山のすそにそって横長にのびるこの美山地区には、二十世帯六十人ほどが住んでいる。それも三年前の記憶だから、今はもう少し減っているかもしれない。
道沿いに立つ民家は坂をのぼっていくにつれ、敷地が広くなっていく。立派な山門をかまえる来迎寺をすぎ、この地区で一番山際にたつ、我が家にようやく到着した。
手足は寒さでかじかんでいたが、背中にはうっすら汗が浮いている。
石柱だけが建つ門をぬけると、広い敷地には二軒の家が建っていた。右手には立派な鬼瓦がにらみをきかせている平屋の日本家屋、すぐ横に立つ納屋を挟んで今風のスレート葺きの住宅。古くさい屋敷が母屋で、新しい家を離れと呼んでいた。
俺の足は迷わず、離れの方へ歩いていく。玄関のチャイムを鳴らしたが、返事がない。不審に思ったがハッと思いつく。
母親には、夜に帰ると一週間前に連絡していて今日の急な変更を伝えていなかった。
うっかりした。たまに、こういう失敗を俺はやらかす。仕事ではほとんどないが、気の緩む日常生活の些末なことは、おろそかになりやすい。
スマホを取り出すと、時刻は三時をまわったところ。父は当然仕事で、母も村の診療所で働いている時刻だった。
門のすぐそばにある駐車場に車が一台もとまっていない時点で、気づくべきだった。この家の車は三台あるのに。
アルミ製のドアの前で、逡巡する。母親が帰ってくるのは二時間後だろう。帰りに買い物のためスーパーへよると、もっと時間はかかる。それをじっとこの吹きさらしの玄関で待つのは無理だ。今すぐにでも、暖かい室内に入りたいというのに。
そうなると、納屋の中ならばいくぶんましかもしれない。土壁にトタンを張り巡らした納屋へ、視線を向けた。しかし、その思い付きを実行には移さなかった。
目の前の玄関のドアノブに手をふれる。田舎のことだ、鍵は閉まっていないかもしれない。手のひらにドアノブの冷たさを感じ、思い切って回してみたがドアは開かなかった。
ならば、裏の勝手口なら開いているかもしれない。キャリーケースをその場に残し家の裏手に歩いて行くと、犬の鳴き声が聞こえてきた。
俺の足取りは、自然と早くなる。勝手口の横におかれた犬小屋の前で飼い犬のカイが、盛んに吠えていた。
「おーい、俺だよ。忘れたのか」
カイを安心させるため声をかけると、すぐに近づいてきた。カイは吠えるのをやめ、スラックスに黒い鼻を押し付けにおいをかぐ。
じっとそのくすぐったさに耐えていると、カイはみるみるちぎれんばかりにしっぽを振り始めた。
しゃがみ込み、カイの頭をわしゃわしゃとなでてやるとぺろぺろと顔をなめられた。生臭い生き物特有のにおいとぬくもりを感じると、この小さくも可愛らしい生き物に愛しさがつのってくる。
その湧き上がる気持ちに、一瞬躊躇する。袋を捨てる前にあのおばあさんは、大事そうに抱きしめていた。いったいどんな気持ちで、動物を川へ捨てたんだろう。
「俺は、おまえのこと捨てないからな」
ありえないことを口にする。さっきの残酷な行為から目を背けようと、柴犬特有のピン立った耳ごと頭を抱きかかえた瞬間、背後から怒声が聞こえてきた。
「そこにいるんは、誰や!」
俺とカイの体は同時に硬直した。ごくりと唾を飲み込みゆっくりと振り返ると、濃紺の絣の着物を着た祖母が雪の中、傘もささずに立っていた。
雪のせいなのか顔色は青白く、真っ白な髪と相まって、幽鬼のような姿をしている。
「犬がうるそうて、泥棒かと思たら涼太か」
しゃがれた声でそう吐き捨てると、あわてて立ち上がった俺の頭からつま先までじっくりと見聞するように視線を落ろしていく。
「なんや、帰ってきたんか。ひさしぶりやな」
小柄な祖母の体から、目に見えぬ圧力を感じる。昔からこの祖母を前にすると俺は萎縮するのだった。とうに祖母の身長を追い越し、見下ろすほどに大きくなった今でもだ。
「はい、ただいま帰りました」
かしこまった帰宅の挨拶が震えているのは、寒さのせいだけではない。
「こんなとこで、何してんねや。晴子さんは、まだ帰ってへんで」
「あの、本当は夜に帰る予定で、雪のせいで帰宅を早めたんですけど、母に言い忘れて」
もう自立したいい大人なのに、幼児のようなたどたどしい説明しかできない。
「家に入れんのか、しゃあないなあ」
それだけ言い残し、くるりと背を向け母屋の方角へ消えて行った。このまま戻ってこないことを祈ったが、祖母は数分後にまた姿を現し俺に向かって腕を突き出す。
「離れの鍵や。これから客がくるさかい、母屋に入れるわけにはいかへん」
鍵を受け取り、客という言葉に反応した。祖母のところに客として訪れる理由は、ひとつしかない。
「誰か亡くなったんですか」
「ああ。先週、田所の昭一さんが山で倒れてたんや」
田所という苗字と、姫橋の上のおばあさんが頭の中で一致した。
「田所のおばあさん、さっき橋の上にいましたよ」
あのおばあさんがした行為のたしかな答えを知りたくて、わざわざ田所さんの名前を口にする。
「なんや、迷てたみたいやけど、やったんやな」
『やった』ことが、祖母の突き放した言葉で確定された。おまけに、その行為をすすめたのが祖母だということも理解する。
「山で死んだなんて縁起悪い言うから、動物を川に流して祓ったらどないやて助言したんや」
「あの風習は、もうやってなかったんじゃないんですか」
俺の声に非難がまじっているのを、祖母は聞き逃さなかった。
「うちはそういうやり方も昔はあった言うただけや。やったんは、田所の奥さんや」
はるか昔から死の穢れを忌むこの村では、家族に死者が出ると家で飼っている生き物を川に流して穢れを祓った。死の穢れは動物に移り災いをもたらすと信じられてきたのだ。
俺がここに引っ越してきた時、同級生が都会からの転校生を脅かすつもりでこの話を得意そうな顔して語っていた。
田所さんが抱えていた袋の大きさから、川に流されたのは田所さんの家で飼われていた猫だろう。
また、耳の奥を爪でひっかかれた。