早くきて
「六花、ちょっと待って!」
お兄ちゃんの声が、わたしを呼び止めた。振り返ると、お兄ちゃんがへんな英字がプリントされた黒いTシャツにデニムのパンツをはいて肩を上下にゆらしていた。
ここまで、走ってきたのか息が乱れている。
「ちょっと、忘れ物。コンビニ行ってくるわ」
「じゃあ、あんまり遅くならないでね。暗くなるから」
「どこで、待ってる?」
お兄ちゃんは、口の端をあげてのんびりと訊いた。
「サンマイで、待ってる」
わたしが答えると、お兄ちゃんの口がすぐさまひきつる。
「サンマイて、なんであんなとこ」
あそこは、死体が埋まっている埋葬地。昼でも薄暗い不気味な場所だった。
「あそこやったら、誰もこおへんし邪魔されんやろ」
わたしの台詞に、お兄ちゃんはまだためらっている。わたしは、お兄ちゃんを懐柔しようと甘えた声を出した。
「最初だけいて、暗くなったら場所変えたらいいやん。夢幻峡の公園でもええし、電車乗って街に行ってもええし」
ようやく、お兄ちゃんはうなずく。
「ほな、待ってて」と言って、坂道を駆けおりて行った。家の前の道は通らず、川に早く出られる獣道を行くのだろう。
わたしはお兄ちゃんの後ろ姿が見えなくなっても、その姿を目で追いかけていた。本当に、これでいいのだろうかという迷いを抱えて立ちすくむ。
ためらうわたしを、蝉の声が早くしろと追い立てた。踵を返し、サンマイをめざし歩き始める。
しばらく行くと、墓石が並ぶ詣り墓に着いた。その脇にもっと奥へ続く細い道を見つける。あの先に、サンマイがある。ゆっくり、ゆっくり足を進める。
木立がとぎれ、草深いサンマイにたどり着いた。草が生い茂る隙間に、木の墓標が乱立していた。最近は土葬が減っているので塔婆は古いものばかり。
半分朽ちかけているものや、傾いている塔婆もある。足元には、大きな石がゴロゴロしていた。埋葬する時遺体の上におく石が、掘り返されて地表に出てきたのだろう。
土葬は、何年かたったらまた同じ場所を掘り返して埋葬するのだ。そうしないと、埋める場所がなくなるから。その時に、前の埋葬者の骨が出たり石が出たりする。
わたしは、草をかき分け一番奥を目指す。そこにはイツキさまの石塔があった。
元は角張った長方形の形だった石塔は、長い年月をかけ角がとれ丸くなっている。そっと、石塔にふれるとボロボロと細かな石の粒が零れ落ちた。
わたしは、しゃがみ込みイツキさまの石塔に手を合わせた。本当にこのまま心中をしていいのかと惑う心を抱えたまま、石塔を見つめる。
イツキさまは恋に殉じたお姫さまで、この石塔の下に眠っているのだ。
『恋を捨てるわけにはいかないわ。捨てるぐらいなら、死んだ方がましよ』
苔むした石塔からそう語り掛ける声が、聞こえたような気がした。そのやさしく誘うような声を聞いたら、迷っていた心が嘘のように晴れやかな気持ちになってきた。
恋に生きたイツキさまなら、わたしたちの恋を見守ってくれますか?
心中して今の生を終えても、来世で結ばれればいい。新しい世界へ生まれ直したらいい。
曾根崎心中のお初と徳兵衛みたいに。
お兄ちゃんにどうやって殺してもらうかも、ちゃんと考えてきたんだし。それを実行に移さないと。
曾根崎心中では、短刀でお初は命を散らしたけれど、それはちょっと無理だと思った。誤って、お兄ちゃんがわたしのお腹を刺したら大変だ。赤ちゃんが死んでしまう。
赤ちゃんはわたしの中で永遠に生きるのだから。
やはり赤ちゃんを傷つけずに死ぬには、首を絞めてもらうのが一番だ。まず、お兄ちゃんにわたしの首を絞めてもらい、その後お兄ちゃんがこのサンマイの木で首をくくる。わたしはしゃがんだまま、まわりの木立へ目を向けた。
あそこでお兄ちゃんが首をくくったら、わたしと離れ離れになってしまう……。
それはちょっと嫌だな。抱き合ったまま、お互いの首を絞めるというのはどうだろう。そういうことが、できるだろうか。お兄ちゃんがきたら、相談してみよう。
お兄ちゃんは頭がいいんだから、きっといい死に方を考えてくれる。ふたりが手を取り合って死ねる方法を。そうですよね、イツキさま。
ああ、楽しみだな。
そう思えるようになると、急につわりもおさまり重かった頭もすっきりしてきた。きっと、赤ちゃんもわたしたちの旅立ちを喜んでくれている証拠だ。
あの世で三人で暮らせることを楽しみにしてるんだ。待っててね、もうすぐだから。
わたしは、お兄ちゃんがくるまでずっとイツキさまの石塔の前でうずくまり、語り合っていた。
だんだん辺りが暗くなり、あれほどやかましかった蝉の声も小さくなっていく中、お兄ちゃんを今か今かと待っていた。
背後で、草をふみわけ歩いてくる気配を感じた。お兄ちゃんだ!
わたしは勢いよく立ち上がるとくらりとめまいがして、お兄ちゃんの胸の中に倒れ込んだ。
「大丈夫か。なんや最近、顔色も悪いし、痩せてきたやろ。なんか心配事でもあんのか」
わたしはお兄ちゃんのすこし汗臭い胸に顔を押し付け、首をふった。
「大丈夫や、もう心配事は解決したし」
わたしはパッと顔を上げカラリと笑い、お兄ちゃんの切れ長のきれいな目をじっとのぞき込む。
「あんな、いっしょに死んだら、何もかもうまくいくねん」
「はっ? 何言うてんのや、六花」
お兄ちゃんは、きょとんとした顔でわたしの顔を見下ろしている。どうして、わたしの言ってることがわからないんだろう。
「だからな、いっしょに死んでって言うてんの」
お兄ちゃんの顔に、困惑の色がひろがっていく。わたしの言うことを理解してくれないお兄ちゃんに、だんだんイライラしてきた。
「いや、意味わからんから。とりあえず、落ち着こ」
お兄ちゃんの体はこわばり、わたしの肩に手をおき力を入れた。わたしは体をはなしたくなくて、お兄ちゃんの黒いTシャツにしがみつく。
「落ち着いてんで、わたし。ずっと考えててん。どうやったら、楽に死ねるかなって。おばあちゃんの腰ひも持って来たから、これで首絞めて」
わたしはうつむきポケットをさぐり、腰ひもを取り出すとまたお兄ちゃんの顔を仰ぎ見る。
そうしたら、お兄ちゃんの顔は恐怖にひきつっていた。
「何が怖いん? 今から死ぬんやから、何にも怖ないで。わたしといっしょやねんから。ほら」
わたしが腰ひもをお兄ちゃんの首にかけようとした瞬間、思い切り突き飛ばされた。数歩よろめき後ろ向きに倒れそうになる。寸でのところで、受け身をとろうと身をよじり横向けになったけど、とっさに両手でお腹をかかえた。
そのままお腹をかばい地面に倒れ込むと、こめかみに激しい痛みが走り、視界が急に真っ暗になった。
どうも、硬い石が当たったようだ。右のこめかみのあたりでドクドクと音がして、顔がどんどんぬれていくような気がする。
どうしてぬれてるのか、たしかめたいけど手が動かない。体も動かない。夏なのにどんどん寒気が襲ってくる。
……死ぬ時って、寒くなるんや知らんかった。
遠くでお兄ちゃんがわたしを呼んでいる。
「六花! 六花!」
耳鳴りがひどくて、ハッキリ聞こえなかったけど、最後にお兄ちゃんの声が聞こえてよかった。お兄ちゃんも早くきてね。
ひとりは、さみしいから。




