恋の手本
「赤ちゃんを、おろす?」
高校生の妊娠ならそれが普通の判断だけど、わたしはその選択肢を考えていなかった。というよりも、産んで育てるという考えもなく、ただただ自分のお腹の中にいるものが怖くてどうしようもなく、思考を停止していた。
「昔はなあ、みんな貧乏でそのくせ、子供はどんどんできたんや。せやから、子供を産む前におろしたり、産んでから間引いたり」
子供をおろすはわかるけど、間引くというのがわからない。
「間引くって何?」
「ああ、産まれた子供をすぐに殺すことや」
おばあちゃんは、こともなげに言い放った。ひどいと思ったけど、口を閉ざす。今のわたしに赤ちゃんがかわいそうなんて、他人事みたいに言えない。
網戸の向こうから、泣けないわたしのかわりに虫が盛んに鳴いている。わたしの沈黙した感情をおばあちゃんは、くみ取ってくれた。
「かわいそうなんて思わんでええ。子供はなあ、七歳までは神の内て言うて神さまのもんなんや。せやから、神さまに返すだけや」
おばあちゃんは、わたしの震える背中をなで続ける。おばあちゃんの手は骨ばっていて、とても冷たい。まるで、死んだ人の手のようだ。
「内緒やけど、おばあちゃんも昔赤子を流したことあるんや。産婆さんに取りあげてもうて、そのまま川に流した」
おばあちゃんの告白に息をのむ。捨てられた赤ちゃんがまるで自分のように感じ、冷たい水に突き落とされ流れていく幻覚が脳裏にひらめく。
「今はそんなことできひんから、病院いかなあかんけどな。おばあちゃんと、今度宇土の産婦人科いこ。そうしたら、何もかもお終いや心配することない」
おばあちゃんにそう言われても、気持ちが楽になることはなかった。
楽になる選択を聞かされて逆に罪悪感が芽生え始め、止まっていた思考は急激に回り始める。
わたしは、わたしとお兄ちゃんが愛し合ってできた赤ちゃんを捨てる。
本当に、そんなことができるの?
わたしの赤ちゃんはひとりぼっちで、死んで行く運命なのだろうか。その運命を宣告するのが、わたしだなんて。
お母さんに捨てられたわたしが、また自分の子供を捨てるなんて。そんなことができる人間は、もう人間じゃないのかもしれない。
*
おばあちゃんと産婦人科に行くのは、夏休みに入ってからと決まった。わたしは、産みたいとも産みたくないともおばあちゃんに伝えていない。
それでも、どんどん赤ちゃんを捨てる日にちは近づいていた。
「六花、うち寝るし、後で感想聞かせてな」
そう言うと未希ちゃんは、まだ開演前のホールの椅子に座って目を閉じた。今日は宇土市の文化センターで行われる芸術鑑賞会の日だった。
受験生以外の一年生と二年生が集まったホールの中は、同じ服装の高校生で埋め尽くされている。みんな、人形浄瑠璃なんて興味がないという表情で一致していた。
わたしだけ、この場から浮いている。高校生の集まる場所で、その場に似つかわしくない感情に支配されている。
すうすうと寝息を立てているのんきな未希ちゃんを、うらやましく思う。いったい何日わたしは寝ていないだろう。
夜になると、捨てる予定の赤ちゃんのことばかり考えて眠れなくなる。わたしとお兄ちゃんの愛の結晶なのに、捨てるなんて。お兄ちゃんとの恋を捨てることになるんじゃないかと、夏の短い夜の間にさんざん思い悩む。
会場が、暗転した。今日の演目は、人形浄瑠璃の曾根崎心中。あらすじは、事前に配られたプリントで読んでいた。
愛し合う若い二人が心中するストーリーだけど、高校の芸術鑑賞会にふさわしい内容ではないなと思った。どんな理由にせよ、自ら命を絶つなんて信じられない。
会場にブザーが鳴り、照明が落とされた。舞台にスポットライトがあたり、三味線の物悲しい音が会場中に響き渡る。
「此の世のなごり。夜もなごり。死にゆく身をたとふれば、あだしが原の道の露」
暗闇の底から聞こえてくるような声で唄われる有名な歌詞が、最近眠れない朦朧とした頭の中に直接訴えかけてくる。
ゆったりとした唄をバックに、二体の人形が舞台に出てきた。これから心中しようという徳兵衛とお初だ。
話の内容なんて入ってこないけど、三味線の空気を震わす音がお腹に響く。その振動は胎動のようで、生きたいけど死を選んだふたりの鼓動にも聞こえる。
最後に徳兵衛は短刀でお初を刺し、自分は剃刀を喉に突き立て果てた。
「未来成仏うたがいなき恋の手本となりにけり」
と朗々と唄われて終わりを迎え、長い芸術鑑賞会は終わった。
一斉に動き出す生徒のざわめきで、未希ちゃんは目を覚ました。
「ああ、よう寝た。どうしたん、六花。泣いてんの?」
場違いにも泣いているわたしに度肝をぬかれた様子で、未希ちゃんの声は裏返っていた。
「なんかな、心中は恋の手本って言われたら、ほんまにその通りやなあって、泣けてきてん」
虚ろな目でつぶやくわたしの顔を未希ちゃんは一瞥すると、ふんと鼻を鳴らした。
「あほらし、死んでしもたら、何にもならへんやん」
未希ちゃんは、本当の恋をしたことがないからそう言いきれるのだ。わたしはあいまいにほほ笑んだ心の底で、見下していた。
自分が一番大好きな未希ちゃんと、わたしは違う。わたしの一番大切なものは、お腹の赤ちゃんとお兄ちゃんとわたしの未来。
この世でかなえられない恋は終わりじゃなくて、来世で生まれ変わってかなえればいいのだ。わたしの赤ちゃんはこの世では生きられなくても、次の世では生きられる。でも、ひとりではさみしいから、あなたのお父さんとお母さんがいっしょにいってあげる。
そう、わたしとお兄ちゃんが心中すれば何もかもうまくいくのだ。
でも、本当にそんなことができるだろうか……。そんな勇気が、徳兵衛とお初のように持てるだろうか。




