鎮魂
リズは馬車の中でエイデンと向き合っ座っていた。隣ではアンナが手を握ってくれている。アンナの顔はいつになく険しく、目の下には隈が出来ており、健康的で滑らかだった肌はボロボロだった。
御者のザビエルは、この二日でげっそりと痩せてしまったが、しっかりとした足取りで歩き、落ち窪んだ目を前に向けて、今も馬車を操っている。
リズは自分ばかりが辛い目にあっていると思っていたが、家族を失ったのはアンナもザビエルも同じだった。
独り身のエイデンだって仲間を亡くしている。突然のことで辛くて仕方がないはずなのに、皆一番にリズのことを心配してくれた。
リズはアンナの手の温もりを感じながら、しっかりしなければと思いつつ、どうしたってこの喪失感と孤独は埋めることが出来ないとも思っていた。
馬車が三角谷へと到着すると、三角谷の入口にはリチャードを含む金烏騎士団が三名と、ダールベック騎士団が集まっていた。
馬車から降り立ったリズ達を、先に到着していたダールベック辺境伯夫妻が出迎えた。他にも、三角谷に出入りしていた商人や、三角谷出身のダールベックの領民達、三角谷と関わりのある大勢の人が集まっていた。中には見知った顔もあって、皆がリズのことを心配するように見ていた。
「さあ。こちらへ」
ザックに呼ばれて、リズは瘴気を吸わないように、ストールを頭から被って口元を覆った。
入口まで歩いて行くと、瘴気にまみれた三角谷を見渡した。以前見た時と変わらず、霧のような瘴気に覆われて廃墟の町と化していた。
リズはアンナの手を強く握りしめた。
しばらくすると、金烏騎士団の一人が動き出した。馬を走らせて三角谷へと入って行ったが、銀杏並木の真ん中まで進んだところでピタリと歩を止めると、方向転換して帰って来た。
「瘴気が濃いですね」
騎士の声は、思ったよりも若かった。目を凝らして見ると、騎士服をピシリと着込んだ男は、まだ少年と呼べる程若く、他の騎士よりも一回り小さく見えた。
ふと、少年がこちらに顔を向けた瞬間、リズは息を呑んだ。
淡く優しい色味の襟足までの金髪、ぱっちりとした二重の目は優しげで青く輝いている。すっきりとした高い鼻に、綺麗に弧を描いた唇。少年は均整のとれた綺麗な顔をしていた。
「行けますか?」
「一緒に行きます」
「大丈夫です。ここで待機していてください。三角谷の奥の方から浄化してきます。馬は身体に障るので置いていきます」
「気を付けてください。何かあればすぐに報せを」
「分かりました。では」
降り立った少年は馬の背をさらりと撫でると、リチャードに手綱を渡して、三角谷の中へ駆けて行った。
「この瘴気の中、入って行って大丈夫なのですか……?」
リズが不安げに尋ねると、いつの間にか隣に立っていたエイデンがそれに答えた。
「大丈夫です。オリヴァー様は強い方だ」
「オリヴァー……」
「王弟のヘイワード公爵の子息にして、昨年最年少で金烏騎士団に入団した方だ」
瘴気を祓う力を持つ者は限られている。厳しい修行に耐えて力を得た神官か、力を持つ王侯貴族の血を受け継いだ者。中でも王族の血を継いだ者は、魔物に対抗する力が強いといわれていた。オリヴァーも王族の血を継いでいる。
「彼が必ず三角谷を救ってくれる」
リズはエイデンの真剣な眼差しを追って、灰色に染まった銀杏並木へ視線を移した。灰と瘴気に覆われたこの谷を、どうやって救うというのか。
リズは無意識のうちに息を殺していた。周囲の人々も何かに耐えるように、ぐっと口を引き結んで待っていた。
どれだけ待ったろう。リズは三角谷の坂の上で何かが光ったのを見た。
「あれは……」
アンナが果樹園のあった方を指差した瞬間、空に向かって一筋の光が突き上げていくのが見えた。あっと思った瞬間、光は花火のように弾けて、そこから波紋が広がるように光が広がっていく。それと同時に、瘴気を吹き飛ばすように強風が吹いた。
坂の上から湖や樹海、民家、商店と風が流れていくと、三角谷の入口までやって来て、霧のように立ち込めていた瘴気や灰全てを、光と風が勢いよく吹き飛ばしていった。
リズは強風に煽られてよろめいた。隣のエイデンが腕を掴んで身体を支えてくれた。強いのに柔らかくて暖かみのある風を全身に浴びていると、不思議と安心感を覚えた。
風が弱まってきたのでうっすらと目を開けると、景色は一変していた。霧や瘴気はどこにも見当たらない。三角谷を包んでいた瘴気は、ものの見事になくなっていた。
リズは呆然として周囲を見渡すと、驚き戸惑う人々と顔を見合わせた。何が起きたんだとザビエルが掠れた声で呟いた。これにエイデンが答えた。
「オリヴァー様がやってくれたんだ」
あの少年がたった一人で?
リズはいてもたってもいられなくなって走り出した。その後を、エイデンやアンナ、駆けつけた人々、騎士達も続いた。
銀杏並木を抜けて、商店や民家をすり抜けて、緩やかな坂を必死になって駆け上がる。後ろを振り返って、坂の上から湖を見下ろせば、湖は瓦礫こそ浮いたままだったが、鮮やかな水色をした湖面は輝いていた。
リズは荒い呼吸を繰り返しながら、信じられない思いで辺りを見渡した。三角谷を包んでいた瘴気は、全て取り祓われていた。
呼吸をする度に、新鮮な空気が肺に入り込む。土の香りや、鳥の鳴く声が聞こえてきて、三角谷で過ごした楽しくて美しい幸せな思い出が蘇ってきた。
父と母、ロキ、使用人や友人に三角谷に住む人々はもう二度と戻ってくることはないけれど、失われた美しい景色は取り戻すことが出来るのかもしれない。
耳の奥で皆の笑い声が再生されると、リズは縋るような気持ちで坂を登りきった。必死に呼吸を整えてから、よろよろと歩を進めていると、後からエイデンとアンナ、ザビエルが続き、他の人々も次々と坂の上に到着した。
リズは吸い込まれるように、かつて屋敷の庭があった場所まで歩いて行った。そして、庭の真ん中でぽつんと佇んでいるオリヴァーを見付けた。
まっすぐに背筋を伸ばして、空を仰いでいたオリヴァーの瞳は、金色へと変化していた。
リズは声をかけられずに、息を飲んでその場に立ち尽くしていた。
ふと、オリヴァーが視線を落として剣を鞘に収めると、瞳の色が元に戻った。そしてようやくこちらの様子に気付くと、ゆっくりとした足取りで歩み寄って来た。リズは反射的に後退った。いつの間にかリズの周りには、人々が集まっていた。
「皆様。瘴気は祓いました。でも、ここで命を落とした人々の魂は、まだ自分達の死を認められずに彷徨っています。今から彼らの魂を天へと導きます」
凛とした声で言い放つと、オリヴァーは柄に手をかけた。鞘から剣を引き抜いて空へと掲げると、刃先が金色に輝く。オリヴァーは刃に手を添えて、凛とした声で呪文を紡ぎ始めた。
人々はオリヴァーに見入った。
オリヴァーの瞳が金色に輝き、刃先から光が放たれると、地面から光の玉が浮かび上がってきた。それは三角谷のあちこちから現れると、ゆっくりと天へ向けて登っていく。
リズは目を見開いた。様々な色をした光の玉は、三角谷の人々の魂だと直感した。周囲を見渡して、明るい緑色の光の玉を見付けた瞬間、それがロキの魂だと悟った。
リズの脳裏で、ロキの声が蘇る。
辺りが眩い光で包まれて……。ああようやく救われるんだと思ったら、身体が軽くなるんだ。よかった。助かったと安心して、それで目が覚めておしまい。
……ねえロキ。あなたの見た夢は、今この瞬間の予知夢だったんじゃない?
突然蝕貘に飲まれて命を落として、暗闇に突き落とされたロキを、オリヴァーが天へと導いてくれる夢。きっとそうだと、リズは確信した。
緑色の魂は他の無数の魂と共にゆっくりと浮上していった。その美しい光は幻想的で儚く、リズは知らぬ間に涙を溢していた。
ロキや両親、三角谷の人々が忽然と姿を消してからというものの、皆が死んだという実感はリズにはなかった。どこかで生きているのではなんて想像ばかりしていたが、皆蝕貘に飲まれて死んだのだ。
リズは魂を目の前にしてようやく、この残酷な事実を受け入れようと思った。死んでしまった人々の魂が死を受け入れて天へと還ろうとしているのに、自分だけがいつまでも認めないわけにいかない。
それでも、悲しくて悔しくて寂しかった。一人にしないで。私も一緒に連れてってと心の中で叫んだ。
しかし、リズはまだここに生きている。これからも生きなければならない。
皆、何も出来なかった私を許して。
ごめんね。ありがとう。
さようなら。私は生きていきます。
そして、いつか皆を奪った蝕貘を討ってみせる。
――必ず、この手で。
はらはらと涙を流しながら固く決意したリズは、光に満ちた空に手を伸ばした。
光の玉が雲の向こう側へと消えると、雲の切れ間から太陽が顔を覗かせた。三角谷に太陽の光が降り注ぐ。柔らかな日射しがリズの目に染みて、ただただ眩しかった。
オリヴァーは剣を鞘に戻して呼吸を整えると、黙って見守っていた人々を見渡した。
「これで、この谷の人々は蝕貘から解放されて無事に魂は天へと還りました」
オリヴァーの言葉が、リズの胸に静かに響いた。皆が救われたんだと思うと、涙が止まらなかった。
涙で濡れた瞳をオリヴァーへ向けると、左胸に光が灯っているのに気付いた。暖かみのある金色の光は、見ているだけでほっとして安心感を与えてくれる。
リズは食い入るように見つめた。それはきっと、オリヴァーの清らかな魂だと思った。しかし涙を拭って再び目を開いた時には、不思議と光は消えていた。
「これで、三角谷の人々は救われたのでしょうか」
「救われたよ。魂は天へと還ったんだ」
アンナとエイデンの会話を聞きながら、リズはゆっくりと歩き出したオリヴァーに頭を下げて、心の中で何度も何度も感謝した。
ありがとうございます。三角谷を、そして三角谷の人々の魂を救ってくださって、本当にありがとうございます!
そう伝えたかったのに、リズは泣きじゃくってうまく言葉に出来なかった。ただひたすらに、感謝して頭を下げ続けた。
今日の日のことを、そしてオリヴァーのことを、リズは一生忘れることはないだろう。