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リズの瞳  作者: 朋永実久
序章
3/50

瘴気



 日蝕が起こったその日、安全のためにとダールベック城に泊まるように言われたリズは、眠れない夜を過ごした。

 夜が明けて、ダールベック伯爵に無理を言って三角谷の入口へと戻って来たリズは、馬車を降りるなり目の前の光景に絶句した。


 目前に広がるのは、細かな灰と霧のような瘴気が降り注ぎ、草木は枯れ果てて色を失い、建物は炎に焼かれて煤にまみれていた。人の姿は影も形もなかった。


「我々が駆け付けた時にはすでに瘴気に包まれて入れる状態ではなくて……」


「みんなは……」


「蝕貘に飲まれたのではないかと……」


 ダールベックの騎士が言うには、蝕貘は太陽や月をも喰らう力を持っているとされ、蝕貘に襲われた者は飲み込まれて姿も残らないという。


 リズは言葉を失い、頭を振った。

 ロキの屈託のない笑顔が脳裏に浮かび、厳しくも心配性のセス、優しくて穏やかなリューナ、そして三角谷の人々の顔が、走馬灯のように次々と浮かんでは消えた。


 ……こんなの、嘘だ。嘘だ。嘘だ!!


 走り出そうとしたリズを、エイデンが腕を掴んで止めた。リズは腕を振り回し、踵でエイデンの靴先を踏み、それでも離さないエイデンの腕を掴むと、背負い込んで放り投げた。


 小柄な少女が屈強な男を投げ飛ばすのを目にして驚いた騎士達は、駆け出したリズを捕まえるのに遅れた。リズは迷わず瘴気の中へと飛び込んだ。


「お嬢様!!」


 アンナの悲鳴は、リズの耳には入らなかった。


 蝕貘や強力な魔物の吐き出す瘴気は、人間や獣、植物には毒でしかない。長時間吸い込めば、肺を侵されて呼吸器系統が病むといわれていた。

 それでもリズは、構わなかった。家族や谷の者達の安否を確認しなければ気が済まない。皆が死んだなんて、消えただなんて、信じたくない。


 瘴気を吸い込まないように、首に巻いていたストールで口元を覆うと、三角谷の入口に並ぶ銀杏並木の道を駆け抜けた。谷の民家は見事に炎で焼かれて崩れ落ち、瓦礫の山になっていた。すでに火は沈下していたが、焦げた匂いがそこら中から漂っていた。


 灰が降り積もって白くなった通り。踏み付けた草がしゃりしゃりと音を立てて朽ちた。瓦礫となった民家の並ぶ路地を越えて、静まり返った商店街を走り抜けた。緩やかな坂を上がっていくと、倒壊したガーランド家の屋敷が目前に現れた。


 屋敷はほぼ全壊していた。隣接されていた私兵や使用人達の寮は一階部分が押し潰されて、二階部分の一部と屋根は残っていた。庭には灰が降り積もり、草木は全て枯れ果てている。


 屋敷より向かって左手には果樹園を囲む石塀が見えたが、何かがぶつかったかのように所々崩れていた。坂の斜面には冬に実る蜜柑の木々が並んでいたはずだが、燃え裂けて炭と化し、果実は燃え尽きて見る影もなかった。


 人の姿はなかった。獣の鳴き声も、魔物の気配も、風に揺れて草木が擦れる音さえしない。谷全体は沈黙と瘴気に包まれていた。


 リズはかつて屋敷の正門があった場所に膝を付いた。瓦礫に混じって、矢や折れた剣、槍、そして革の鎧や破れた衣服の一部などがあちこちに転がっていた。きっと、蝕貘に立ち向かった人達の物だ。


 リズは灰にまみれた剣を拾った。炎のせいか刃先はひしゃげており、木で出来た柄の部分は炭のように黒く、熱を持っていた。リズは手が白くなる程柄を握り締めた。


「リズ!瘴気を吸うといけない!早くここから出るんだ!」


 追いかけて来たエイデンが、リズの腕を掴んで立たせた。リズは弾かれたように顔を上げて、叫んだ。


「誰もいないんです……!何もかも……蝕貘に飲まれたというのですか?!」


 エイデンの静かな眼差しが返ってきた。それを肯定と取ったリズは、血が逆流して身体中を駆け巡るような激情に襲われた。

 それが怒りなのか、悲しみなのか、絶望なのかは最早分からない。リズは折れた剣を地面に叩き付けると、エイデンの両腕を掴んで揺さぶった。


「ねえ先生!誰もいないんです!皆はどこへ行ったのですか?!」


「蝕貘に飲まれたんだ……」


「蝕貘はどこへ消えたのですか?!」


「日蝕が終われば姿を消す。もう次の蝕までは現れない」


「どうして?!今すぐこの手で皆を取り戻さないといけないんです!早く追いかけないと!!」


「いないんだ。皆……死んだんだよ」


「……嘘よ」


 リズは口の中で呟くと、力を失って手を離した。よろりと半歩後退して、嘘だと心の中で繰り返すと、靴先に視線を落とした。灰にまみれた靴とスカートは、元の色がどんな色だったのか分からない程白くなっていた。


 視線を持ち上げると同時に風が吹いた。風に流されて束の間霧が晴れた。湖の方へと目を凝らすと、湖畔に建っている教会は全壊していた。瓦礫と化した建物の一部が、湖に浮かんで揺れている。灰の浮かぶ湖は、暗く淀んだ色をしていた。


「信じ、られません……」


「事実なんだよ」


「だって、こんなのって……」


「リズ」


 名を呼ばれてキッと顔を上げると、リズはエイデンの胸に飛び付いて、拳で胸を叩いた。


「嘘だと言ってよ!先生!!ねえ!!」


 リズは泣き叫んだ。リズの声が、静まり返った三角谷に響き渡った。


 嘘だと言って。エイデンでも誰でもいい。

 これは悪夢で、もうすぐ夢から覚めるから安心しなよと、脳裏にロキの声が再生された。それは、そうであって欲しいという、リズの幻想でしかなかった。


 何度も何度もエイデンの胸を叩いた後、リズは立っていられなくなってエイデンの胸にしがみ付いた。喉の奥からは、言葉にならない嗚咽しか出てこなかった。


 エイデンは無言でリズを抱きかかえると、元来た道を引き返して走り出した。



 ✴



 それからダールベック城の客室へと帰ったリズは、二日間寝込むことになった。瘴気を吸い込んでしまったせいで、熱を出してしまったからだった。


 目が覚めたら全てが元通りになっていないだろうかという願いも虚しく、三日目の朝、目が覚めたリズを待っていたのは、王宮から来たという神官だった。


 神官といってもまだ二十代半ばと見られる青年で、背中の真ん中まである、明るくて暖かみのある金髪を後頭部の低い位置で一くくりにして結んでいる。

 金糸の刺繍の入った白に近いライトグレーの軍服を着込み、胸には剣と太陽に烏の入った紋章を付けていた。

 格好からして軍人だろうが、青年からは穏やかで人の良さそうな雰囲気が漂っていた。


「私は金烏(きんう)騎士団に所属しているリチャード・メルバーンです。騎士でありながら神官でもあります」


「金烏騎士団……」


 騎士団と聞いて、リズの脳裏にロキの顔が浮かんだ。


「瘴気を放つ魔物を討伐するために編成された騎士団です。瘴気を浄化することの出来る騎士のみが所属しています」


 リズは何も答えなかった。ロキのことを思い出してしまって、涙が込み上げてきたからだ。リチャードは静かに涙を流すリズの手を取った。リチャードの暖かい体温を感じて、余計に泣けてきた。

 泣いて答えないリズの代わりに、扉の前で控えていたダールベック城の女中が口を挟んだ。


「ご家族を亡くされたのです。混乱していらっしゃいます。幸いお嬢様は出かけられていてご無事だったのですが」


 ……幸い、幸いとは何だ?

 一つも良かったことなんてない。家族や三角谷の者は忽然と消えてしまい、たった一人取り残されてしまったというのに。


 リズはピタリと涙を止めると、女中に目を留めた。リチャードが二人で話したいからと言って、女中を退室させた。


「悪気はないよ。彼女なりに気を遣ったんだ」


「……あの、私にご用が?」


「ダールベック伯爵の要請で、君の瘴気を祓いに来たんだよ。君が眠っている間に体内の瘴気を綺麗に浄化しておいたから、呼吸をするのが楽になったと思うんだけど、どうかな?」


 言われて気が付いた。瘴気を吸い込んでから、呼吸をする度に胸がぜぇぜぇして辛かったのだが、今は何ともない。試しに深呼吸してみると、肺いっぱいに空気を吸い込むことが出来た。額に手を当ててみると、熱もないようだ。


「とても、楽です……」


「それなら良かった。君と同じく瘴気を吸ったフォックス卿も回復したからね」


「フォックス……?」


「エイデン・フォックス卿だよ」


「エイデン先生……」


 そうだ。エイデンもリズと同じく瘴気を吸い込んだのだ。リズが無茶をして瘴気の中へと飛び込んで行ったせいで。

 突然のことで混乱して周りが見えていなかったとはいえ、エイデンのことを忘れて、自分だけが取り残されたと悲しみに明け暮れて泣いてばかりいた。

 侍女のアンナや御者のザビエルもいたのに。彼らは無事だろうか。今どこで何をしているのだろう。

 リズは我に返って、少しだけ冷静になった。


「先生は大丈夫ですか?他の使用人の皆も……」


「皆大丈夫だ。別室で休んでいる。フォックス卿は屈強な騎士だからね。それよりも、君のことをとても心配していた」


「先生をご存知なんですか?」


「彼は玉兎騎士団の団長だった方だからね」


 えっとリズは顔を上げた。リチャードはにこりと微笑んだ。


「知らなかったのかい?」


 はいと頷いた後、ロキがやたらにエイデンを尊敬していたことに納得がいって、リズはまた泣きそうに顔を歪めた。そんなリズを気遣って、リチャードが優しく声をかけた。


「大丈夫。泣いていいよ」


 そう言われると、しっかりしなければいけないと涙は引っ込んだ。泣いてばかりいても状況は変わらない。

 リズはなんとか自分を諌めると、ずっと目を逸らしてきた事実と向き合おうと思い立った。


「三角谷の皆は、やはり死んだのですか……?」


 震える声で尋ねると、リチャードはうんと頷いた。


「蝕貘のことは知ってるよね?」


「はい」


「蝕貘は日蝕や月蝕が起こると、どこからともなく現れて、人や獣を飲みこむ。飲み込まれたら最後。戻って来れない。また、蝕貘の放つ瘴気も、他のどんな魔物よりも強い毒だ。長時間吸えば死に至る」


 そうとは知らずに瘴気の中へと飛び込んでしまった。リズは取り乱していたとはいえ、危険なことをしたのだと反省した。


「そして、瘴気はそのままにしておくとその場に残り続ける。やがて土地は枯れてしまう。特に蝕貘の瘴気は根強い」


「そんな……それじゃあ三角谷はもう……」


「大丈夫だよ。私達は瘴気を祓うために来たんだ」


「私にしてくださったように、三角谷も浄化してくださるのですか?」


「そうだよ。とはいっても、今回は範囲が広いし、私は君とフォックス卿の浄化で魔力を使ってしまったから、他の騎士にやってもらう」


「金烏騎士団の方がしてくださるのですか?」


「そうだよ。君にも立ち会ってもらいたい。そうしたら君の心も少しは救われると思うから……。フォックス卿にも同席してもらおうか。呼んでくるよ」


 リズが戸惑っているうちに、リチャードはさっさと部屋を後にした。次いで入ってきたのは、ダールベック辺境伯だった。


「大丈夫かね?」


 気遣うように問いかけたのは、エイデンと同じ年頃で、襟足までの赤毛に立派な髭を蓄えた、大柄な男だった。彼がダールベックの領主であるザック・ダールベック辺境伯である。


「はい。何から何までよくしてくださってありがとうございます」


 客室を貸してくれて、王都から浄化治療のために金烏騎士団の要請までしてくれた。蝕貘が現れてから今までお世話になっておいて、リズはなんのお礼も言ってなかったことに気が付いて、頭を下げた。ザックは慌ててリズの肩を掴んだ。


「礼なんていいんだよ」


「ですが……」


 ザックは無言で首を振ると、リズの両手を握り締めた。


「あんなことがあったばかりなんだ。これからは私が力になる。何も心配はいらないからね」


 未だに混乱の中にいるリズは、なんと返していいか分からずに黙って頭を下げた。何もかも失ったばかりで、今後のことなど考えられるはずがなかった。


 それからザックは、リューナの実家であるマーシャル家に連絡したことを教えてくれた。明日にはリューナの兄、スコット・マーシャル子爵が来てくれるそうだ。リズは感謝の気持ちを述べた。


 何も考えられないと思っていたが、頭の隅では冷静な自分がいて、いずれはマーシャル家に引き取られることになるんだろうと、現実的なことを考えていた。

 かと思うと、家族や三角谷の人々は、本当に蝕貘に飲まれたのだろうか。本当はどこかで生きて姿を隠しているだけではないのかと、可能性の低いことを考え出す。

 何もかも現実味がなかった。ただただ夢であって欲しかった。


 しかし、迎えに来たエイデンの神妙な顔を見た瞬間に、やはりこれは現実なのだと痛感して、リズは静かに涙を流した。


「リズ、行こう。この目で見届けてこよう」


 エイデンが大きな手を差し出した。リズはその手を取って、よろよろと歩き出した。



 

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[良い点] 先生萌えの予感が強い [気になる点] あらすじが詳細な分 今までよりは少しだけ1話の引き込みが弱い印象ですかね? [一言] 新作嬉しい限りです! まだまだプロローグか、あらすじかというレ…
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