対先生
「リズ・マーシャル、君の論文は読ませてもらったよ」
生徒会室から出てきたウォルターは、リズを連れて生徒会室の隣にある会議室へと入ると、資料棚の鍵を開けて言った。棚の中をガサガサと漁り始めたウォルターの背中に向かって、リズは呆れ混じりに言う。
「あれはただ資料や独自の見解をまとめただけで、論文とは言えないと思いますが……」
「それでも、中々よく出来ていた」
「そうでしょうか」
ああと返事をして、ウォルターは棚から一冊の本を抜き出した。パラパラと頁をめくって中を確認すると、棚に鍵をかけてから、リズに向き直った。
「何よりこの一年少々で、君が蝕貘についてよく調べ、自分なりに考えた痕跡が見て取れた。魔物研究家として、胸にくるものがあったよ。君は研究家に向いている。……まあ、魔物に興味があるというわけではないだろうが」
「先生、それでもまだ情報が足りません。蝕貘について知っていることを教えてくださいませんか?蝕貘の生態、目撃談、蝕貘信教のことや先生独自の見解でも、なんでもいいんです!」
「蝕貘を倒すためにか?」
「そうです。先生にいくら無理だと言われても、諦めるつもりはありません」
リズがきっぱりと言うと、ウォルターはそう言うと思ったよと、苦笑した。
「君の熱心さに負けた」
ウォルターは手にしていた本を掲げてみせた。
「この棚に隠しておいた。生物学準備室に置いておくと、どこにいったか分からなくなるからな」
だからって、会議室の棚の中に私物を入れておくなんてと思ったが、リズは言葉を飲み込んで本に手を伸ばした。
「これは……」
「蝕貘とは、の続きだ」
「読んでもいいのですか?」
「構わないが、君が期待しているようなことは書かれていないと思うがね」
リズはそれでも本を受け取ると、礼を言って頭を下げた。
「読んだら返しにくるように。それを君が持ってると処罰の対象になる。私も君もね。……それから忠告しておくが、蝕貘信教には関わるなよ。彼らの中には過激な連中も存在する。だから、信者を探し出して話を聞こうだなんて、間違っても考えるな」
先に釘を刺されてしまったが、リズはそれでも食い下がった。
「しかし、だからこそ蝕貘について詳しいのではありませんか?蝕貘の過去の記録を持っていたり、独自の見解があったりするのではありませんか?」
「蝕貘の過去の記録ならば、国が管理している。それこそ、君は三角谷で一緒だったエイデン・フォックス卿と知り合いだろう?今年に入ってから軍に戻ったと聞いた。蝕貘信教を探るよりも、彼を頼ったほうが早いな」
「軍人ならば蝕貘の記録を調べることが出来るのですか?」
「彼らは魔物に対抗するために作られた組織なのだから、当然だ。玉兎騎士団や金烏騎士団は蝕貘だけではなく、倒してきた魔物に関することは全て記録してある」
言われてみるとウォルターの言うとおりだった。なぜそこに考えが至らなかったのか。
しかし、リズは何度もエイデンに蝕貘について質問をしてきたが、過去の蝕貘の話を聞いたことは一度しかない。だから、何も知らないのだと思い込んでいた。
「でも……先生はそんなこと、一言も話してくれませんでした……」
なぜだという思いが強くなる。
協力しようと言ってくれたのに、肝心なところは教えてくれないエイデンに苛立ちさえ覚えた。そんなリズを察して、ウォルターはなだめるように言った。
「蝕貘の情報は口外無用なんだ。軍人ならば当たり障りのないことしか言えないだろう。それに、君を思ってのことに違いない」
だとしても、リズは納得がいかずに唇を噛み締めた。わなわなと本を持った手が震える。勝手にエイデンに裏切られたような気になって、リズはいてもたってもいられなくなってきた。
すぐにでもエイデンと話をする必要があると思った。いや、話さないと気が済まない。
「先生、色々ありがとうございました。また蝕貘に関して相談に伺ってもよろしいですか?」
「どうやったら蝕貘を倒せるかの相談か……?難しい相談だが、私なりに考えてみるよ。それに、拒否すれば君は無茶をしそうだ。相談に乗る代わりに、約束をしようか」
「なんでしょうか?」
「私に相談せずに無茶なことはしないこと。私はその蝕貘とは、を書くにあたって熱心な蝕貘信教の信者から話を聞いたことがあるんだが、君は彼に近いものを感じるよ」
「私が、ですか?」
「そうだ。君は蝕貘に引きつけられている。気を付けないといけない」
リズは言葉を失ってウォルターを見つめた。静かな視線が返ってきて、リズは戸惑い自然と後退った。
「その本をよく読んで考えるように」
私からは以上だと、最後に教師らしく締め括ると、ウォルターが歩き出した。リズは本を抱きしめるように持つと、何も言わずに後を追った。
✴
その後学園を出たリズが向かった先は、王宮だった。
日が暮れ辺りは薄暗くなり始めていた。
制服のまま徒歩で王宮までやって来たリズは、門前でエイデンへの面会を申請した。待合室で待っていると、許可が降りたと連絡を受けて、衛兵が軍人の執務室や詰所がある左玲棟へと案内してくれた。
外部の人間が左玲棟へ入るには、門前で許可を得てから、もう一度左玲棟で申請を出さなければならないのだが、左玲棟の前まで来てみると、すでにエイデンが待ち構えていた。
エイデンは黒い軍服を身にまとっていた。リズは一瞬気圧された。三角谷やダールベック領にいた時とは違い、今のエイデンはぴしりとしていつも以上に隙がなく、気を張っていて鋭利な印象を受けたからだ。
案内していた兵士がエイデンに敬礼をすると、エイデンがご苦労と答えた。兵士は緊張した面持ちで頭を下げると、きびきびとした足取りで去って行った
それからエイデンがこっちだと言って左玲棟の中へと入って行ったので、リズもその後に続いた。
中に入るとロビーがあり、真正面には衛兵が控える警備室と受付があった。
エイデンはロビーの壁際に設置された長椅子へと向かうと、そこに腰を下ろした。
若い軍人と面会に来たであろうその家族四人が、受付の前にある四人がけのテーブルを囲んで談笑しているのが視界に入った。ロビーには他に警備の衛兵と受付係の姿しか見当たらない。
リズが突っ立っていると、エイデンがちらとリズを見上げて、低い声で座れと言った。しかしリズは座らずに、目も合わせなかった。
「突然来て、何を怒っているんだ?」
「怒っているように見えますか」
「ああ。見れば分かる」
「私がなぜ怒っているか、分かりますか?」
「分からないな」
リズは小さく息を吸い込み、腹の奥底にある怒りを少しずつ吐き出した。
「なぜ、私には何も話してくれないのですか?」
「なんのことだ」
「蝕貘のことです」
「聞かれたことは話しているつもりだが」
「金烏騎士団と玉兎騎士団は、過去の蝕貘の記録を管理していると聞きました。軍に所属していた先生ならば、知っていたはず。それなのに、どうして私にそのことを教えてくれなかったのですか?蝕貘のことは口外無用だからですか?」
ふつふつと怒りの泡が弾けていく。リズの声はどんどん鋭さを増していき、早口になっていった。
「それとも、聞かれてないから答えなかったというのですか?」
「そうだと言ったら?」
「子供のようなことを……」
「リズ。蝕貘のことは軍がしっかりとした調査と対策を考えている」
「だから、私は引っ込んでいろと?」
「本職に任せたほうがいい」
リズはぐっと奥歯を噛み締めた。身体が細かく震えだした。怒りからくるものだと気付いた時には、もう叫んでいた。
「今更、なぜそんなことを言うんですか?!」
ロビーにリズの声が響き渡った。周囲の視線が一気にこちらに集中したのが分かったが、すぐにどうでもよくなった。
エイデンは立ち上がると、リズの肩に触れようと手を伸ばした。リズはその手を振り払い、顔を真っ赤にして、更にエイデンに食ってかかった。
「そんなことを言われても、はい分かりましたと引き下がれるはずがないでしょう!先生は一番近くで私のことを見てきたはずです!」
「リズ、落ち着け」
「落ち着けるはずがありません!」
リズは顔を背けたが、エイデンがリズの両肩を掴んで向き直させた。エイデンが聞け、と肩を揺さぶり無理矢理視線を合わせてきた。リズはその目を睨み返した。
「強い復讐心に囚われるのはよくない」
「それこそ今更です!私に戦い方を教えたのは先生ではありませんか!」
「確かにそうだ。始めはそうすることがリズのためになると思った。しかし……リズはどんどん蝕貘にのめり込んでいってるように思う。学園にいる時や休みの日も蝕貘について調べているようだと、マーシャル卿から聞いた」
脳裏に、君は蝕貘に引きつけられているというウォルターの言葉が過ぎったが、リズは頭を振ると、エイデンの胸を押した。エイデンはよろりと後退した。
「それの何がいけないというんですか?!」
「普通の十六歳ならば、もっと学園生活を楽しんでいるはずだ。それなのに、蝕貘のことばかりを考えて復讐心に囚われていては、前に進むことは出来ない。リズには未来があるんだ」
「……故郷を奪われたことを忘れて、十六歳らしく楽しく過ごせと?」
「そうは言ってない……」
エイデンはため息を吐いた。それだけで、なぜ分かってくれないのだと、頭に血が上った。
「私は納得出来ません……!だって、先生は言ってくれたじゃないですか?!……協力するって!そう、言ってくれたのに!あの言葉は嘘だったんですか?!」
感情的になってエイデンの腕を振り払うと、今度はリズがエイデンの腕を強く掴んだ。エイデンは唇を引き結んで静かにリズを見下ろした。
何も言わずとも、エイデンの目を見ていれば、何を考えているのかはすぐに分かった。ただリズのことを心配してくれているのだと。分かっていなかったのは、自分も同じだった。
リズは途端に勢いを失って手を離すと、一歩後退した。そして、エイデンの胸に淡い光が灯っているのを見付けて、涙が込み上げてきた。
それでも決して泣くまいと自分に言い聞かせ、リズは震える唇を開いた。
「先生……今更私を突き放さないでください。私は誓ったんです。絶対に、蝕貘を倒すと……。故郷を奪われた時の気持ちは絶対に忘れることは出来ないし、立ち止まることはしたくないんです」
ぽろりとリズの瞳から堪えきれなかった一筋の涙が流れ落ちた。
エイデンがリズを心配してくれる気持ちはよく分かった。それでもリズは、蝕貘を倒すという目的を捨てることは出来ない。
「先生が協力してくれないというのなら、一人でも蝕貘を倒す方法を探します」
信頼していたエイデンに遠ざけられることは辛い。一人で蝕貘を倒す方法を探すとなると心細くて仕方がないけれど、リズの覚悟は固かった。
涙を拭おうとすると、突然目の前に白いハンカチが差し出された。エイデンではない白い小さな手だ。
「フォックス卿、女の子を泣かせるものじゃありませんよ」
突然の第三者の声にハッとして顔を上げると、すぐそばに少女が立っていた。
腰まである淡い金髪を後ろで一つに編み込み、大きな紫色の目がじっとリズを捉えている。少女は薄紫色のふんわりとしたドレスに身を包み、美しくも可愛らしい笑みを浮かべていた。
エイデンが驚きの表情を浮かべると、素早く膝を付いて頭を下げた。その場の空気があっという間に変わる。
ロビーは静まり返り、リズは呆気にとられて棒立ちになった。
「セシル殿下……」
少女は、第二王女のセシルだった。