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第7話 春のマンドリン

作者: halico

 千鳥ヶ淵の桜並木を歩いた後、私は北の丸公園へ向かった。


 公園の芝生に腰を下ろし、目の前の池をぼんやりと眺める。公園には桜の木はそれほど見当たらないのだが、暖かな陽光と肌寒い風に揺られる木々と水面を眺めていると、春の訪れをゆるゆると感じる。散歩にやってきた幼稚園児たちが、まるで止まっていられないかのように芝生を駆け回っている。


 ふと、聴き覚えのある旋律が流れてきたので、私は音の源を目で追った。


 少し離れたベンチに腰掛けた女性が、マンドリンを奏でている。ウーゴ・ボッタキアリの『岸辺に立ちて』だ。


 その音に引き寄せられたのか、駆け回っていた園児たちが一同に女性とマンドリンのもとへ集まり、輪を作っていた。女性はそれに気づくと、にっこりと笑い、『森のくまさん』を弾き始めた。好奇心の強い園児たちが女性と一緒に歌い出す。警戒心の強い児たちもじっとマンドリンに見入っている。

 私は目を閉じ、ぼうっと彼女らの歌声を聴いていた。


 引率の先生が女性にお礼を言い、園児たちは公園を去って行った。私は少し逡巡したが、意を決してその女性の座るベンチへ歩み寄り、声をかけた。

「あの、大変失礼なのですが、あなたは円城さなえさんではありませんか?」

女性は顔を上げ、たくさんの皺を作って笑いながら、

「ええ、そうです。お若いのによくご存じですわね」と答えた。


 知る人ぞ知る高名なマンドリン奏者を目の前にして、自然と私の背筋が伸びた。

「はい、僕も幼い頃にマンドリンをやっていて。弾くのはもうやめてしまいましたが、聴くのは今でも好きで。去年も、京都であなたの演奏を聴きました」


「それはどうもありがとう」女性はマンドリンを膝に抱きかかえると、私を隣に座るよう誘った。私は腰を下ろすと、彼女のかかえるマンドリンに目をやりながら尋ねた。


「ここではよく弾かれているのですか?」

「最近になってからね。不思議なもので、ホールの観客の前ではそんなに緊張しないのに、こういう所で弾くほうがなんだかソワソワしてしまうものね」

「少し、意外でした」

「意外?」

「ええ、あなたはすごく上品な演奏をされるので、そんな方が公園で幼稚園児の前で演奏されているのをみて・・・あ、お気に障ったらすみません」


 女性は目尻を下げてほほえむと、雲のない空を見上げた。

「私も、あの子たちだったのよ」

「え?」

私が尋ねると、女性は私の方を見て、

「私が子どもだった頃、よくこの公園に両親と遊びに来てね。ちょうどこの場所でマンドリンを弾いているおじさんがいたの。私や他の子たちが興味をもって近づいたら、さっきみたいに童謡を弾いてくれたりしてね。その音色がすごく幸せで、それが私のマンドリンを始めたきっかけだったのよ」

「そう、だったんですね」


「この年になって、少し仕事もコントロールできるようになって、やっとここに来れたなって感じがするのよね。ホールにはほとんど子どもがいないでしょう?」


 ふと目の前の気配に気づいて、私たちが目をやると、3人の園児たちが立っていた。新しい散歩のグループだ。

「おばちゃん、それ何?」

園児がマンドリンを指さして尋ねる。女性はクスリと笑って、マンドリンをストロークした。


「これはね、マンドリンと言ってね・・・」

そう言いながら女性がマンドリンを奏で始めると、わあっと子どもたちの目が一段と輝いた。他の児たちも走ってやってくる。

 私はベンチから立ち上がると、女性に会釈をしてその場を離れた。園児たちの嬌声とマンドリンの音色を背で受けながら、私はあることを考えていた。


 女性が会ったというマンドリンのおじさんは、おそらく私の祖父だ。


 祖父はお世辞にも上手いとは言えなかったが、趣味でマンドリンを弾いた。私がマンドリンを始めたのも、祖父の影響だった。母が言うには、祖父は休みになるといつも自転車でこの公園へでかけて、マンドリンを弾いていたそうだ。


 私はなんだかとても嬉しい気分でいっぱいで、こんど、あの女性に会ったら、このことを伝えてみようと思った。

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