まどろみの中で
頭と身体が、ふわりと浮いているような感覚。
朝、夢から覚める時のような薄ぼんやりした意識の中、なにやら温かくて柔らかいものが唇に触れたような気がした。
なんだろう、これは。
微かに聞こえる荒い息遣いと共に、その温かいものは離れてはまた私の口を塞ぎ、何度も繰り返し海の波のようにやってくる。
うっすらと目をあけた。
見慣れた顔が目の前にある。幼馴染のコウの顔だ。
どうやら私は、コウにキスをされているようだった。
…………。
何、この夢。
再びそっと目を閉じる。
目が覚めたと思っていたのは、どうやら私の勘違いだったようだ。
そういえば、昔はよくこういう夢を見た。朝、目を覚まして、普段どおり学校に行く準備をする夢。おかしなことに夢の中の自分は、目を覚ました気になっているのだ。
今のこれも、目を覚ましたつもりでいる夢なんだな、と私は妙に納得をした。
だって、コウが私にキスなんてする訳がない。
コウには、可愛い彼女がいるんだもの。
再び、私の唇に覆いかぶさるように、温かいものがやってくる。
やけにリアルな夢だ。
そういえば夢を見るのも久し振りだ。夢とはこうもリアルなものだったのか、久し振り過ぎて、夢とはどういうものなのか、イマイチ良く分かっていない。
私、どうしてこんな夢を見ているんだろう?
ふと疑問に思う。
コウと私は、家が隣で、子供の頃からずっと一緒に過ごしてきた。
お互い中学生になり、高校生になり、なんとなく腐れ縁のまま今に至る。似たような学力だったせいか、なぜかずっと同じ学校のまま、大学生になった今も同じ所へ通っている。
ここまで一緒にいると、当然のように周りからは囃し立てられたが、私とコウとの間に、そういうロマンス染みたものは一切ない。
高校生の時に、聞いてしまったのだ。
『コウって、咲の事好きなの?』
あれは高校2年の春。忘れ物を取りに教室へ戻った私の耳に、コウと陽哉の会話が響いてきた。
『ただの幼馴染だよ。そんな目で見た事一度もねーよ』
私もコウを男の子として見た事はなかったけれど、なぜか心臓がざわざわとしだし、気まずい空気のまま教室には入れず引き返した。
コウは背が高く、サッカー部所属で運動神経も良かったせいか、女子に人気があった。
陽哉もあんな質問をしなくていいのに。
可愛い女の子が周囲に沢山いるのだから、私よりもそちらに目が行くのが普通だ。
サッカーの方が楽しかったのか、高校生の頃のコウに浮いた噂は聞かなかったのだけど。
それから月日がたち大学生になった頃、ふと見かけるコウの隣には、ショートカットの可愛い女の子がいつもいる事に気がついた。コウは私に何も言ってはこないけれど、彼女が出来たのだろう。
幼馴染の私に一言も無かったのが悔しかったのか、モヤモヤしたものが沸き起こってきたのだが、そっと飲み込み、逆にコウにも気づいていない振りをした。
幼い頃から知っているコウの匂いが鼻につく。
匂いは徐々に形を変え、幼い頃と比べると今はすっかり様変わりしているのだけれど、なんだか落ち着く温かい所は、相変わらずだと思った。
匂いつきとか、本当に良くできた夢だな。
私は心底感心してしまった。
私、どうしてこんな夢を見ているんだろう?
再び疑問が沸き起こる。
私、コウに対して、そういう感情は持っていないと思っていたのだけれど。
コウと私は、幼馴染で。
腐れ縁で。
大学までずっと同じで。
アイツは私の事なんとも思っていなくて。
――温かい笑顔をしていて。
普段はくだらない事で騒いでいて、でもふと見せる真剣な表情にどきりとさせられて。
いつも自信たっぷりに、真っ直ぐ前を見つめていて。
日に焼けた肌をしていて。
サッカーボールを掴む手は大きくて。
背はいつの間にか軽く越され、今ではもう見下ろされるようになり。
温かい笑顔に良く似合う、温かい声をしている。
私は、夢の中で涙が出そうになった。
なんだかこの虚しい夢からもう、離れたくなってきた私は、全力で覚醒を求め、目を開ける努力をした。
意識がはっきりとする。
私の腕が伸び、それと同時に柔らかい感触が消えていく。
瞼が上がる。
夢からようやく覚めたようだ。
ぼんやりと天井を眺める。
見慣れない風景。半身を起こし、頭を傾げながら首を横に向けると、見慣れた景色が目に入る。
「やっと起きたか」
相変わらず自信たっぷりに、でも温かそうに微笑むコウがそこにいた。
ああ思い出した。
ここは、コウの部屋だ。
昨日、二十歳になった私のお祝いと称して、コウと陽哉の3人で、コウの部屋で一緒にお酒を飲んでいたのだった。
一番最後に二十歳になった私に、これでやっと一緒に飲めるな! と笑いながら、取っておきらしい瓶を空けてくれた。
飲みやすいゆずの風味の美味しいお酒。
度数は高く無いと言っていたのだけど、初めて飲む私の体にはきつかったのかも知れない。どうやらすぐに酔い、寝てしまったようだ。
「陽哉は?」
「もう帰ったよ。明日早いんだってよ」
時計をちらりと眺めると深夜の0時を回っている。
明日は平日だ。私は幸い午前の講義が無いので平気だけど、コウは大丈夫だろうか。
「ごめんね、遅くまで寝てて。コウは明日平気なの?」
「気にすんな、俺も悪かったよ。ちょい飲ませすぎたな」
気のせいか、眼差しが優しい。
「気分はどうだ。吐き気しないか?」
「大丈夫。…なんだか久し振りに、夢を、見ちゃった」
「へえ…、どんな夢?」
「ん――、なんだか、あったかい夢」
温もりだけははっきりと覚えている。
私はきっと、それをとても心地良く感じていたのだ。
+++
『咲って、コウの事好きなの?』
あれは高校一年の冬。
昼休憩の時間にサッカーをし、教室へ戻ろうとすると、中から咲とクラスの女子の会話が聞こえた。俺の話をしているようだ。
妙にドキドキしながら、扉の前で立ち尽くしていると、咲のあっけらかんとした声が耳に響く。
『ただの幼馴染だよ。コウを男の子として見たことないな』
俺も咲をそういう目で見た事は無かったのだが、咲の口から改めてそう言われると、なぜだか悔しいような感情に襲われた。
その日から妙に咲の事が気になりだし、目で追うようになり、俺はやっと、ある事に気がついた。
陽哉も、咲を見ている。
陽哉は、中学からの親友だ。俺と仲良くなると同時に、俺の近くにいる咲とも、当然のように親しくなった。
『コウって、咲の事好きなの?』
俺が陽哉の視線に気づいたように、陽哉も俺の視線に気づいたのか、ある日突然、こんな事を聞かれた。
肯定をすると、陽哉を失ってしまいそうで。
咲への感情がはっきりしない俺は、迷わず陽哉を取る事にした。
『たたの幼馴染だよ。そんな目で見た事一度もねーよ』
苦笑して、それきり陽哉は何も言ってはこなかった。
今思えばこの時、陽哉は気づいていたのだ。
俺の、咲への想いに。
陽哉は咲と付き合い始めるのだろうか。
不安に駆られる俺を余所に、2人の関係は相変わらずのようだった。
俺に遠慮をしているのかも知れない。
大学生になり、陽哉に対してもどかしい気持ちを抱えていた俺は、丁度その頃告白してきた同じ学部の子を彼女にする事にした。
これで陽哉も行動に移せるだろう。
咲には――なんとなく、この事が言い出せないでいた。
それから3ヶ月が経ち、しかし陽哉と咲の関係は変わらず昔のままで。
俺は、なんとなく作った彼女と味気ないキスまではしたものの、それ以上先に進む気にもなれず。
そんな俺の、心ない様子を感じ取っていたのか、あっさり彼女には振られて終わった。
ああ、そう言えば来週、咲の誕生日だったな。
振られた瞬間に感じた事がそれなのだから、彼女の行動は正しかったのだろう。
陽哉から、俺の部屋で一緒に、咲のハタチの誕生日を祝おうと提案され、俺はぼんやりとそれに頷いた。
そういえば、先月旅先で買ったゆず酒があったな、と部屋で放置されていた酒の存在を思い出す。飲みやすいお酒だと店員は言っていたし、咲も喜ぶだろう。
『ジュースみたいだね、甘くて美味しい』
弾けるような笑顔で喜ぶ咲は、しかし余り強くはないようで、たったコップ2杯分の酒を飲んだきり、酔い潰れて眠り込んでしまった。
取り敢えず俺のベッドの上に寝かせ、陽哉と顔を見合わせる。
陽哉は、突然真面目な顔をして、こう言った。
『おれ、帰るよ』
何故。
お前、咲が好きなんだろう?
その咲をこんな状態のまま、俺と2人きりにさせてもいいのか?
『陽哉は、咲の事好きなんだろ?』
驚き呆ける俺を、くすりと優しげに陽哉は見つめる。
『そうだよ。でも咲は、おれに興味ないから。ずっと見ていたから分かるんだ』
『でも……陽哉はそれでいいのか?』
『コウこそ……このままでいいの?』
陽哉の視線が突き刺さる。
身動き出来ないでいる俺を置いて、陽哉は部屋を出て行った。
静まる空間で、カチコチと時計の音だけが響く。
『このままでいいの?』
陽哉の言葉がぐるぐると回る。
俺と咲は、幼馴染で。
腐れ縁で。
大学までずっと一緒で。
あいつは俺の事何とも思っていなくて。
――笑顔が可愛くて。
さっぱりしていて、でもふと見せる表情が妙に女の子らしくて。
いつ見ても生き生きとしていて。
ちらりとベッドの上に横たわる咲を見る。
細い肩をしていて。
綺麗な長い髪をしていて。
サッカーをしていた俺の褐色の肌とは違う、白くて滑らかな肌をしていて。
柔らかそうな唇をしていて。
俺は、もう止まらない。
咲の、栗色の長い髪を手で掬い、口づける。
相変わらず寝息も立てず、咲は赤い頬をして静かに眠っている。
咲の柔らかい頬をそっと撫でる。
3か月付き合った彼女とはまるで違う、吸い付くような感触に、俺は指を、頬から首筋、そして肩まで移動させる。
躊躇いもなく、咲の潤んだ唇に俺の唇を重ねる。
咲の甘い匂いと絡み、柔らかな感触がまるで麻薬のようだ。
そのまま、何度も何度も夢中で口づけを続ける。
一瞬、咲の目が開いた。
思わず俺も動きを止めたのだが、すぐにまた、咲の目が閉じられる。
目を閉じた咲の姿はもう、誘っているようにしか見えない。
疑いようも無かった。
俺はずっと、咲が好きでたまらなかったと気付く。
そのまま夢中でキスをしているうちに、漸く咲の腕が動き、俺も体を離す。
咲の目が開き、半身を起こし、ぼんやりとした瞳で俺の方を向いた。
「やっと起きたか」
「陽哉は?」
「もう帰ったよ。明日早いんだってよ」
『このままでいいの?』
陽哉の言葉が俺の胸を突く。あいつはずっと――全てを解っていたんだ。
「気分はどうだ。吐き気しないか?」
「大丈夫。…なんだか久し振りに、夢を、見ちゃった」
「へえ…、どんな夢?」
「ん――、なんだか、あったかい夢」
両腕を伸ばし、咲を抱きしめた。
「こんな感じ?」
「……コウ?」
俺の心臓の音を聞かせようと、咲を抱く腕の力を強くする。
気のせいか、咲の心臓の音も重なって聞こえ、なにやら合唱のようになっていた。
「俺、咲が好きなんだ」
「……コウ…」
俺の声は震えている。咲の声も震えて聞こえる。
「咲にそのつもりはないって知ってるけど……俺は、ずっと咲が好きだったんだ。今やっと気づいた」
「コウ、彼女、いるんでしょ」
「知ってたのか。――もう別れたよ」
「私、私は―――」
見上げる咲の大きな目が潤んでいる。
その姿がなんだか可愛くて、思わず微笑んでしまう。
俺の笑顔を見て少し余裕が出たのか、咲も潤ませた瞳を細め、笑い出した。
「私も、やっと気づいたよ。コウが好きだって」
嬉しくて思わずおでこをくっつけて笑い、そして再び、夢の続きをするのだった。