湖の月は青色に映える Ⅲ
果たして、マシロとホオジロはクレセンテの後をついて、隠された、いや、意識を逸らされていた通路へと歩を進めた。
暗い。
そこには何も飾られておらず、やはり最初の見立て通りに薄暗い道だった。それによって、壁紙の透き通った色使いの明るさと、灯った蝋燭のぼんやりとした明るさがより際立っている。
こつ、こつと、床材を踏む靴音だけが響く。
奥まで進み、見えてきたのは、壁一面を額縁に見立てるように飾られた一枚の大きな絵画だった。ドアらしきものも、それに類するものも、そこには見受けられない。マシロとホオジロは、絵画をまじまじと見る。
その絵は、一人の女性が両腕を広げて、湖に体を向けている様子を描いたもので、そこに在るのは女性の後ろ姿と青い水面、そして月だった。表情と言えるものは一つとして描かれていなかったが、マシロは、何故だか女性の後ろ姿から希望に満ちた雰囲気を感じていた。
「夫人の絵ですか?」
問うと、クレセンテは笑って、否定した。
「私の妻も負けず劣らず美しいが、残念ながらこの子は違いますよ。これは、私の娘でね」
「娘さんなんですね」
「ええ。まあ、もうこの世の人ではないのですが…。さあ、行きましょう」
さらりと重要な事実を口にして流し、クレセンテは女性の絵が描かれている場所に手を触れた。何をしているのかと見ていると、絵が、まるで両開きの大扉のように、真ん中から割れ、奥に向けて開いた。その先には別の薄暗い通路が見えている。
「娘が、ここを守ってくれているのですよ。こちらへ」
「…有難う御座います」
誘導に従って扉の向こう側へと向かうと、敷居をまたいだ瞬間に一気に明るくなった。どうやら、敷居のあちらこちらで人に反応する仕掛けが組まれているらしく、出入りに反応して、中の人物周辺のみ光度が調整される奇妙な絡繰りになっていた。
それにより、外から見ると、今三人が居る通路は薄暗いが、中に足を踏み入れた人物には、今居る通路内は明るく見えているという摩訶不思議な現象が起こるのだそうだ。
「こういった高度な機能を見るたびに、この城を建てた職人達の拘りを感じます。昔の暮らしと言うものがどのようなものだったのか、気になりますな」
クレセンテはそう言って笑い、前を歩いていく。マシロもまたそれに肯定的に応じ、ホオジロはお客様を御持て成しするための機能は常識でしたからつけたのだろうと、絶妙に当時を知っている立場からの意見を述べて見せた。
そのまま、他に扉の無い通路を進むと、再び行き止まりに行きついた。そこには、周囲の壁紙とは明らかに色が違い、金属質のようにさえ見えた。マシロは首を傾げ、ホオジロはにこにこと笑顔を浮かべている。
「ええ、これは金属の壁で間違いありませんよ」
クレセンテは、マシロの疑問に先回りして答えると、壁の一部に備えてある小窓のような扉を開き、中の仕掛けを操作し始めた。
ガコンと音が鳴り、静かに、下の方から何かがせり上がってくるような音が、前の壁向こうから聞こえ始める。そこから数秒。待つ。
音が止み、直ぐ後に、金属質の壁が開いた。中には小規模の、小奇麗な空間が広がっている。
「お先にどうぞ」
クレセンテが、開いた壁の縁を手で押さえながら、マシロ達を促す。それに礼を言い、言葉に従って中へと入る。二人が入ったことを確認すると、クレセンテは縁から手を放し、二人の前に入った。先ほどまで壁だった扉が閉まる。
ガコンと音が鳴り、何かが動く気配。そして、空間が下に向けて落ちていく感覚を、体感への浮遊感として三人に届けた。
一、二、三と、秒針の進むように待つ時間が流れ、それが十を数えた時に、見える風景に変化が起こった。
突如、周囲の壁が消失したように消えて、床と天井以外の全てが、濃い青一色に染まってしまった。
それはまるで、水中をガラスの箱の中から見ている様な状態だった。泡も立たず、魚の影も見えなかったため、そこが海の中だと気づくまでに十数秒の時間を要した。
「う、わぁ…!」
「ほっほぉー!」
マシロとホオジロは驚き、覇気の抜けた感嘆を漏らし、クレセンテはそれを見て、悪戯が成功した時の児童っぽく笑った。
「さあ、下をご覧ください」
「?」
言われるままに下を見ると、深く青い水底に、巨大で透明な半球体に守られる整然とした都市があった。中央には、周辺の光源代わりとなるほどの光量を持つ巨大な菱形水晶が鎮座しており、周囲は、その全てが画一的な構造をした建物群が円形に囲んでいる。
その統一された様は、広大な箱庭を見ている印象をマシロとホオジロに与えた。
今三人が居る空間はその都市に向かっており、どんどん近付いてきている。
「あれは、何です?古代の都市ですか?」
「ええ。あれは、海の民の元入植地ですよ」
「海の民…。文献でも記録がわずかしか残っていない、地の民の派閥。このようなところで生活していたのですね」
「ええ。最初、父から話を聞いたときは驚いたもので、思わず何回も足を運んでは、危ないと怒られましてな。制止も聞かず、目を盗んでは遊びに出かけたものです」
驚きと感嘆で上手く感想が述べられないマシロに対し、クレセンテは簡潔かつ饒舌に思い出話を語る。
「それにしてもー」
様子を大人しく見ていたホオジロが、何かに気付いたように首を傾げた。
「会長さんの一族は、海の民の都市の上にお住まいなのですねー。これは、会長さんの先祖さんも、海の民ですかー?」
そして、楽しそうに思い出を語っていたクレセンテへ質問を飛ばした。クレセンテは、調子に乗って話し過ぎたと一言お詫びを入れたうえで、ホオジロに向き直る。
「いいえ。確かに私の一族は地の民ですが、海の民ではないのです。少々、事情がありましてな」
「ふむー、なるほど。それで、あの都市と上のお城は、どのような関係性なのです?」
軽く流すように頷くと、ホオジロはすぐさま次の質問へと移る。マシロは少し苦笑を浮かべた。
風景や食事などには感動する一方、興味の薄い対象については淡白な反応を返す。こういう部分においての感慨や拘りの無さは、彼女が自動人形だからなのか、それとも彼女に与えられた独自の思考回路によるものなのか、マシロには今一つ判断が出来ないでいた。
「それは、あの都市に到着すれば、自ずと解るかと思います。今は、混乱するだけかと思いますので」
幸いなことに、クレセンテはそう言った流れにも慣れているらしく、特に気にした風でもない様子に、マシロは密やかに胸を撫でおろした。
「…だそうですので、楽しみにしましょうね。マシロ様」
そう言って、ホオジロはにっこりと笑って見せた。
「え?今の質問って、私のため?」
「そうですよ?景色に呆けておいででしたのでー」
「いや呆けてないから…」
いつの間にか復活している敬語遣いと様付けに、マシロは思い切り嘆息した後で苦笑を浮かべる。ホオジロはにこにこと笑っており、クレセンテもまた微笑ましそうに、二人の様子を見ていた。
そうしているうちにも海中都市は近付き、気が付けば、出入り口と思われる場所の前にたどり着いていた。
半球状の端に設けられた空間にマシロ達の居る空間が重なるように入っていく。次いで、排水作業のような音と、空気が移動する時の音とが聞こえ、全てが終わった後、目の前にあるほぼ透明な壁が、右へとずれるようにして開いた。
「さあ、お先にどうぞ」
開いた向こうへと手を向け、クレセンテがマシロ達を促す。
「有難う御座います」
「有難うございまーす」
促されるままに外に出ると、そこには、先ほど上から見ていた建物群が、実は見上げなければならない程の高さを持つ物だったことを誇示している風景が広がっていた。加えて、通路が直線的に繋がっているからか、今居る位置からでも都市の中央に鎮座している菱形水晶がはっきりと見えていた。
「では、行きましょう。この都市の意味と、上の城との関係性の秘密へ」
「はい。案内、宜しくお願いします」
「ええ、もちろんです」
こうして三人は、都市の中央部に向けて歩き始めたのだった。




