ーカッサルスレイルの街並みー
長旅の果てに小型艇ユーカクが小さな船着場に着岸したのは、空を制した陽が大地を遍く照らす時間帯のことだった。この時期の太陽の仕事熱心ぶりは民が母なる海を恋しく思うのに十分で、海沿いの街は海の見える避暑地や輝かんばかりの美しい砂浜をもって遠方の民を集めていた。この港街、カッサルスレイルも例外ではなく、近海で獲れる多様な海産物を使った料理を売りに賑わっている。そんな時節だからこそ、船着場でのひと悶着はすぐに人だかりで覆われた。
「イズだかオズだかしらねぇが、どこのクニから来たってここはウチの船着場なんだ。ここに停めるってんなら金を払ってもらわねぇと。こっちだって生活がかかってんだ」
海原に向けて草の根のようにかけられた桟橋。ちょうど茎に当たる受付の長屋台の前には、ツンと尖った耳と紫色のモヒカンが特徴的な大柄の男が困ったような顔で立ちはだかっていた。ユーカクから降りて来た男も体つきがいいとは言え、彼でさえ見上げなければならないほどの巨体はまさに壁と言っていいだろう。
「悪いけど持ち合わせがなくて……なんとかまけてくれません?」
「馬鹿言っちゃいけねぇよ。タダで停めたとあっちゃ兄貴に怒られちまう。金がないならモノでもいいからさ。とにかくタダはダメだ」
黒髪の男は棒に布を包んで作った杖を屋台の柱に立てかけ、青いマフラーを緩めた。そして記憶を探るように俯き、目を細めながら人差し指の付け根を唇の下に押し当てる。しかし彼自身船に何かを運び込んだわけでもなく、積み込まれていた食料も既に底を付いており、いくら考えようが彼の持ち物は今身に纏っている衣服と杖のほかにはない。
「そこをなんとか。本当に無いんですって」
「わかってないねぇ。ダメだって言ってんだろ。何もないならここを通すわけにはいかねぇよ!」
大男の後ろで、あるいは対峙する二人を見られる対岸で、暴力の火種を嗅ぎつけた人だかりは物騒な野次を飛ばす。気の早いのんだくれが“おれは大男に二百出す”と喚き、その場は程なく博打会場に変わった。
「あの体格差じゃ客人に勝ち目はないな」
「いやわからんぜ。実はとんでもねぇ体術を究めた流浪の戦士かも知れねぇ。おれはあいつに三百だ!」
「おいおいなんだよ、そう言われると悩むじゃねぇか。おーい二人とも! おれが賭けるまで手を出すんじゃねぇぞー!」
ガヤガヤと囃し立てる外野に釣られたのか、始めは困惑していた大男も話にならない相手を前に鼻息を荒くしていた。
「騒がしいな。何の騒ぎだ」
言いながら屋台の奥から出てきたのは、大男よりも更に一回り大きい男だった。彼はあくびを一つすると不機嫌そうに眉をしかめながら二人に近づいた。
「パイク、一体なんだってんだよ」
「すまねぇ兄貴。こいつが船停めるってんのに金払えねぇっつうんでさ」
なおも囃し立てる外野を一喝した兄は、静まり返った空気をひと呼吸すると見知らぬ顔を見下ろした。それを合図にマフラーの男も見上げて愛想笑いを浮かべる。
「どうも、信じてもらえないかもしれないけど、俺はここからずっと遠い水の……」
「どっから来たかなんて関係ねぇ。俺が知りたいのは何をしに来たかだ」
きっぱりと言い放った兄の態度に面食らいつつ
「あー、城まで行きたい。ただそれだけなんですけど」と男が答えると、兄は顔を上げて目を細めた。果てしなく遠い水平線に何を探しているのか視線を巡らせること数分、突然目下の男の肩に手を置き、道を譲るように身体を避けた。
「城ならここからピニヤク軌道で数日って所だな。乗合所は享楽市を抜けたとこにある。いいか? あの坂が享楽市だ」
身体を屈ませた兄が遠くの坂道を指さす。
「いいんですか?」
「ああいいとも。ようこそカッサルスレイルへ。さ、行った行った」
背中を押された男は立てかけていた杖を掴むと、兄の方を向きお礼を言いながら駆け出した。笑顔で手を振る兄の姿に、弟であるパイクは口をあけて間抜け面を晒している。
「珍しいね兄貴。どうしてタダで停めてやったりしたんだい?」
「タダぁ? とんでもねぇ。お代ならきっちり貰ったじゃねぇか」と顎で差した先には、数人は乗れそうな大きさの灰色の船体が、穏やかな波のリズムに乗って揺れていた。
船着場を抜けた魚田峰ホノカは、先程の弟に負けず劣らずの顔で真四角煉瓦の街並みを駆けていた。過酷な船旅は、踏みしめ走り回れる大地を愛おしく思わせるには十分過ぎたのだ。事実彼が陸地に上がるのは出港直後に知識の祭壇へ立ち寄ってからおよそ三十日ぶりのことである。
ホノカの海路は壮絶たるものだった。初めの数日は手当たり次第に機器をいじってマニュアルを解読しようとしたものの、文字の読みがわからないために投げ出した。それからは積み込まれた食料の関係で毎食同じものが続いたり、すっかり見えなくなった水の国を眺めては物思いにふけったり、ついには気の迷いから髪を全部切ってみたりと、孤独との戦いの例を挙げればいとまがない。
ユーカクが嵐の壁に差し迫った際、その猛々しさにホノカでさえも死の恐怖に顔を引きつらせた。誰かの抱擁を模するようにマフラーを口元まできつく締め、震える身体で舵にしがみ付き、船周囲の水の流れを強引に変えながら数日を耐えた。そうして嵐の壁を抜け、穏やかな天候が続き彼の髪も見るに堪えうる長さになった頃、ようやく遠くに陸地を見つけたのだった。
ホノカが人ごみに紛れたカッサルスレイルの市場街は、足場も建物も茶色い真四角の煉瓦で建てられている。道の脇には天秤と色褪せた布を敷いて果物や機械の部品を売る商人が声をあげているが、人だかりがあるのはごくわずかであり、天秤と敷き布が無ければ売れない商人と乞食の区別は付かない。決して理想的な街とは言いがたい光景だが、およそ二ヶ月ぶりに見る金銭による取引はホノカにとって懐かしいものであったに違いない。実際活気溢れる民の流れに、彼は期待満面の笑みで身を任せていた。
「ほら見てお兄さんこの煉瓦の破片さぁーいい断面してんだろ」
真っ青な顔は具合が悪いのか元からなのか、前歯の欠けた細い男が煉瓦くずを見せびらかす。
「イチマイ……イチマイ……」
腰巻一枚の皺だらけの老人が道行く人のズボンの裾を掴んでいる。
「ねぇ、お兄さん。わたし迷子になっちゃったみたいなの」
ボロボロのワンピースを着た桃色の髪の女の子が若者を捕まえて路地裏へ連れ込む。数分してズボンを履き直しながら慌てて逃げる若者と、それを鬼のような形相で追いかける老いた女性。金を得るため、欲望を満たすため、そして生きるためならなんでもやる。そんな日常が転がっているのを眺めながら、ホノカの顔は次第に蒼ざめてゆく。金が全てと言ってもいいこの街において、今彼は無一文なのだ。
享楽市の通りは入り口から覗く限り、ユーカク同士がすれ違っても余りあるほどに広い。しかし左右に聳える家々に加えて窓と窓の間にかけられた洗濯物の竿に陽を遮られるせいで近づきがたい閉塞感がある。そのじめっとした雰囲気はいささか過剰な量の通行人によって更に湿度を増していた。
通りの坂道へ一歩踏み出し、彼は口を覆った。むせ返るような熱気が、強すぎる香水や食べ物やなにやらの匂いをかき混ぜながら運んでくる。わいわいとした雑踏の中の声で硬貨と重りが天秤の皿を叩く音のほか、陽気な音楽や黄色い声も入り混じり、壁越しには桃色のものもある。月夜のような闇が広がるわき道の入り口でホノカに手を振る誰かがいたが、彼はすぐに目をそらした。きわどい衣装で踊る女性や機械の部品でジャグリングをする子供などパフォーマーが通りを華やかにしているが、気を抜いてわき道を覗いたりすると目のやり場に困るような光景が広がっていることもあり、彼はできるだけ遠くを見つつ足を速めた。
左手で杖をつき、考える時間を与えない享楽市の客引きをぞんざいにかわして進む彼の難しい顔が、突如として真っ赤に染まる。道端で喧嘩をしていた若者が投げた果物が当たったのだ。しかし喧嘩の二人はホノカを気にも留めず胸ぐらを掴みあっている。
「おいおい、喧嘩ならよそでやってくれよ」
ようやく二人は手で顔を拭うホノカの方を向いたが、その顔は決して友好的ではない。若者の一人が耳から下げた数珠のような飾りをちゃらちゃらと揺らし、睨みを利かせながら距離を詰めてくる。しかしそれで怖気つくホノカでもない。いつしか道行く民は若者二人とホノカを取り巻いて小さな闘技場を作っていた。
「んだてめぇ、やんのかおぉん?」
ホノカは黙って右手に水を纏い、顔についた果汁を流し集めて若者の顔にぶつけた。水風船のように破裂した果汁によって若者は顔が真っ赤になりながら後ろによろめく。
「くあっ! 目に入ったっ!」
「お返しだ」
「てめぇ! もう後悔しても遅いぞおぉん!」
もう一人の男が橙の髪を揺らし、雄たけびと共に勢いよく拳を突き出す。しかし正面から向かっていたはずの体が、いつの間にか相手の右隣にすれ違うように立ち、その拳は空を切っていた。傍目にはそう見えるが実際は拳が体に触れる寸前、その周囲に水の鎧を創り、表面の流れによって受け流したのだ。身体の前側を濡らした男は一瞬目が点となったが、すぐさま左肘の裏拳を勢いよくホノカの背中にぶつける。しかしホノカはまったく同じ方法で、今度は下向きの流れを創ると、男の身体は瞬きの間に正方形の煉瓦道に這いつくばった。
「くっそ、なんだってんで……おぉん?」
赤い顔の若者が目をこすりホノカに向き直る。すると若者の目はこの上ないほど見開かれた。無理もない。なぜか周囲は水浸しで、目の前には突然現れたわけのわからない男が立ち、その足元にはさっきまで喧嘩していた男が倒れこんでいるのだ。
「大丈夫か?」
ホノカが差し出した手に若者は悲鳴を上げ一目散に路地裏へと姿を消した。同時に周囲から歓喜と落胆の声が広がるが、通りは程なくして何事もなかったかのように民が行き交いはじめた。
「ほら、あんたの取り分だ」
呆然とするホノカの手に真っ赤な小太りの男が紙切れを握らせる。ランプの魔人に似た中年の男は福と金を呼びそうな人相に人を集めそうな笑みを浮かべている。
「えっ、いや俺は何も」
「二度も儲けさせてもらったからな。いいってことよ」
そう言われ、絵や文字の記された紙を両手でピンと張りながら、なおも納得のいかない様子のホノカ。彼の顔をしげしげと見つめていた中年の男はパッと火の中で実がはじけるように笑いだした。
「そうか、あんた旅人か。よく見りゃ右も左もわからねぇって顔してるな。じゃあ教えといてやる。このカッサルスレイル、とりわけ享楽市では喧嘩なんて日常茶飯事だ。だが個人同士殴りあったって他の奴らにとっちゃ迷惑なだけ。そこでだ。俺みたいなのがその喧嘩を利用して周りの奴らに賭けの場を提供してるってわけよ。それで――港での賭けはあんたら喧嘩しなかったから無効試合になっちまった。だから掛け金は全部ウチのもの。さっきの喧嘩もあんたの乱入で掛け金はほとんどウチのもんだ。だからこれはほんの気持ちってことで、受け取ってくんな」
市で生きる民の気質というものだろうか。にんまりとした顔は温和に見えるがその話し方は野暮ったい。だがそれがかえって彼の裏表のなさを感じさせていた。そんな男の好意に、ホノカの頬が緩む。
「これってお札ですよね。いやぁ、お札なんて見るの久しぶりで……お札?」
「どうかしたかい?」
「ここでは硬貨しか見てないですけど、お札使えるんですか?」
驚いた様子の男はその場で固まったように動かず、ホノカもまた笑みを携えながらも刺すような視線を相手の顔から離さない。二人の間の沈黙は通りの賑わいの中にあって異質であったが、やがて男が溜息をついてホノカの肩に手を置くと、彼らを取り巻く空気の緊張が解けた。
「……へっ、たいしたもんだ。確かにここじゃあ使えねぇ。それはメィカっていう、スクリィモヤ地方の金だ。スクリィモヤは半端なく寒いところでなぁ、今でも火の国の軍勢が、併合を受け付けない小さなクニの連合軍とドンパチやってるよ。そんな歩いてるだけで命落としちまうような物騒なところにゃ誰だって行きたくねぇ。けどよ、金ってのはあったら使いたくなっちまうもんで、ずっと持て余してた。この紙切れが、金の形したあの世行きの切符にも思えてしかたねぇんだ。だから、こいつはお前にやるよ。うまく換金できりゃその紙切れ一枚で五千レタウにはなるはずだ。五千レタウっつったら三十日はここで暮らせる。まどうせ大きいところでしか使えねぇから紙切れ同然だがな、無いよりマシだろ」
「レタウ?」ホノカは首をかしげる。
「本当に何も知らねぇんだな。いいか、火の大陸にゃ四つの地域がある。ここみたいな暑いばっかりの一帯を“オーレスウサ地方”って言うんだ。大事なのは、地方によって金が違うってことだ。めんどくさいかも知れねぇが、この取引で食っていく奴もいるんでなぁ……まぁ、ここでは“レタウ”っていう硬貨を、あんなふうに天秤で量って取引する。覚えときなよ」
男が太い指で差した先では、敷き布の上に装飾品を並べた商人が、女性から受け取った何枚かの硬貨を天秤の右皿に乗せている。つりあって間もなく商人は硬貨を掴み取り、女性に首飾りを渡した。
「ま、あんな感じだ。じゃ、また縁があればよろしく頼むぜ」
通りの流れに再び加わり五回ほど客寄せに足止めをくらった後、ホノカは享楽市を抜けて巨大な建物の前に辿りついた。看板にはユーカクのマニュアルに記されていたような文字が書かれているが、渡航中に文字の読み書きを投げ出してしまった彼には理解できない。それでもここが街の何かしらの要所であることは誰の目にも明らかだった。
「ここが、ピニヤク軌道……なのか?」
開かれた門をくぐると、表の雑踏より礼儀が正しそうな、整った服装の姿があちらこちらと足早に行きかっている。この均一の取れた慌しさはちょうどホノカの世界における駅に近い。動かない人影といえば小屋の中で座っている雲色の髪を頭の上で団子にした老婆くらいのものだ。
「すみません」
小屋に近づいたホノカが問いかけると、老婆は返事も無く顔を上げた。皺だらけの顔に浮かぶいかにも機嫌が悪いといった表情と目つきに彼は言葉を詰まらせたが、彼はやんわりと笑顔を作って続けた。
「すみません、ここから十日ほどで城に行けるって聞いたんですが、初めてなもんで……何をどうすればいいですかね?」
言い終わるや否や溜息をついた痩せ身の老婆は身を乗り出し、首から下がった小さな細い筒を揺らす。枯れ枝のような細い腕をもったりと上げ、隅の下り階段を指した。
「あそこに階段があるだろ! まず下りたところに乗り場があるんだ! 金色の目印があるからすぐわかるさね! そこのオレインス号がラングドラーシャ行きさ! ワッサンデリ号は反対行っちまうから気をつけな!」
その身体のどこに力を隠していたのか、駅中に響き渡らんほどの大声と勢いで老婆はまくし立てた。しわがれていて聞き取りづらいその声に誰もが老婆とその前にいる男に注目する。ホノカは耳を押さえながら老婆の差した方を見やり、苦笑いを浮かべながら礼を言って下り階段へと歩き出した。
「切符は入り口の男に言えば売ってもらえるからね! 三千六百レタウだよ!」
彼の背中に再び大声が飛び、人々の注目が再び二人に集まる。ホノカは照れくさそうに振り返って頭を下げると、入ってきた方へと駆け出した。
少し離れた壁には、大きなカバンを肩にかけた、軍服のような真っ黒な服を着たのっぺり顔の男が呑気にも大あくびをしている。そこへ二人の子供がやってくると男は小銭を受け取り、かばんから紙切れを手渡した。
ホノカも続いて男に事情を話し、中年の男から貰ったメィカ札を渡すと小さな紅い紙切れを受け取る。まさしく切符なのだが、そこに書かれている文字はやはりホノカには読むことが出来ず、しげしげと見つめて突っ立っていた。再び彼が視線を上げると、切符売りの男がそそくさと駅の中へ戻ろうとしており、ホノカは慌てて追いかけた。
「あの、すみません」
「あい?」
語気を強めたホノカの声に、相手はなんとも気の抜けた返事を返し、まるで今始めて話しかけられたかのようなとぼけ具合でのっぺりとした顔を向ける。
「お釣りを貰ってないんですけど」
きょとんとした顔で見つめ返す切符売りは、突如吹き出すとおどけたように、
「馬鹿言っちゃいけませんよ。こんな遠くのお金で切符を買えただけでもありがたいと思ってもらわないと。ここじゃ紙切れ同然なんですから……ま、差分は両替の手数料ってことで! えー切符のお取扱いは~、こちらで行っております~」
などとのっぺり顔は自らの言い分を通すと、今日始めての客寄せの声を張り上げた。
再び無一文となったホノカはお尻のポケットに切符を仕舞い、駅の中で先程の老婆とは違う民を捕まえ、あとどれくらいでオレインス号が到着するかを尋ねた。やたら大きな鞄をパンパンに張らせた紳士は「なあに、享楽市を見ていたらすぐさ。到着したら合図の煙が上がる。それを見てからでも十分間に合うさ」と答えた。この辺りの民は金が絡むとどんな手をも使うが、そうでない場合大半は手を差し伸べてくれる。同じ土地に暮らす民同士の助け合いの精神が生きているのだ。
享楽市を下る彼は隅の人だかりを見つけ足を止めた。集まっているのは子供ばかりで、なにやら一際楽しそうな声が響いてくる。
「ほらほら! 紙劇場がはじまるよ! 今日のお話は『ヘイゼン水路と八本足の怪物』だよー!」
子供たちの目線の中央に、金髪で細身の青年が絵の描かれた大き目の紙束を持って軽快にステップを踏んでいる。聞いている子供たちもついつい身体でリズムを取っていた。様子を窺うホノカもわずかに頭を振っている。
途端、びたっとホノカの身体が止まった。バランスを崩し後ろに倒れこんだ頭は、敷き詰められた煉瓦の固さによって当然迎え入れられるはずであったが、この時ばかりは事情が異なっていた。すぐ後ろの、マフラーの端をつかんでいる長身の女性、その豊満な胸部が受け止めていたのだ。
「わるいねぇ! 大丈夫かい!」
快活なその声にホノカは目線を上げる。さっぱりとした顔立ちに悪びれた様子はまったくなく、むしろにっかりと清々しい笑顔を浮かべていた。
「あ、大丈夫……なんともないですよ」
「いやいや! 何かあったら大変だ! ちょいとこっちに来な!」
マフラーの端を引っ張られ、ホノカは否応なくわき道へと引きずり込まれる。その力強さは再び首が絞まりそうな勢いだ。
「珍しい服着てっからつい引っ張っちまってさぁ。悪い癖だってわかっちゃいるんだけど」
照れたように笑う彼女の胸元で小さな細い筒が揺れる。彼女はホノカを地べたに座らせると、しっかりとした左手で彼の右肩を壁へと押さえつけ、もう一方の手をマフラーの隙間に滑り込ませる。何度か首を掴んだり撫でたりするうちに軽く一つ頷いた。
「ふんふん、これなら大丈夫か……それにしてもあんた結構逞しい体してんだね。見ない顔だし、旅人かい?」
二人の顔は今にも触れあいそうで、ホノカの頬が紅潮する。助けを求めるように目を方々へめぐらせているが、彼女の身体に散りばめられた色香からは逃れられず、目は自然と留まってしまう。
「あー、水の国から」
「へぇ! 水のクニ! はるばる遠いところから来たんだねぇ」
彼女の反応はホノカの理性にとって助け舟となった。頬の赤みが薄れ、ぐいと上体を起こし、
「知ってるんですか?」
「全然。でも聞いたこともないから遠いんだろうなって」
という返事に多少ガッカリした面持ちで、彼は再び身体を背後の壁に預けた。
「ところでこれ、暑くないの?」
疑問を呈する女が弄ぶマフラーの端を、ホノカは丁寧ながらも手早く取り上げる。
「大事な人から貰った大切なものですから」
「ヒト?」
首を傾げた彼女だったが、やがて悪戯っぽい笑みを浮かべつつ
「じゃあ、あたしにこーいうこととかされると困っちゃうわけだ」
と舌なめずりをした直後の手際は見事なものであった。ホノカの耳に息を吹きかけながらマフラーの隙間を広げ、首筋を食む間に片方の腕で身じろぐ身体を押さえつける。もう片方の手はズボンの上から尻を愛撫し、しだいに彼女の唇は喉を辿って彼の唇へと近づく。彼女とホノカはさながら楽園に住む狡猾な蛇とその毒牙にかからんとする処女のようで、二人の顔はイチジクのように真っ赤だ。かすかに緩んだホノカの穢れなき唇を艶々しい舌先がなぞりかけた刹那――
「見つけたぞオンナぁ! 今日までのツケきっちり払ってもらうからなぁ!!」
響き渡る怒声。通りを遮る巨体。羊に似た角を生やした男が腕まくりをしながら、大きな肩をずいずいと揺らし近づいてくる。鼻息は荒く目は血走っており、前世は闘牛だったに違いない。
女はホノカの頬に軽く口付けて飛びのくと、路地の奥へと駆けてゆく。ホノカには目もくれず男は肩を大げさなほどに揺らしながら、路地の影に姿を消した。
残されたホノカは塵を払いながら立ち上がり、マフラーをぎゅっと締めなおす。杖を掴んで通りへ出た彼は、ぼんやりと彼女が最後に触れた頬に手を当てる。そしてすぐさま大きく頭を振ってその頬を叩いた。
路地に入る前にあった子供たちの人だかりは既になく、彼は出来るだけ目線を高くして歩いた。ベランダでは洗濯物を取り込む姿のほかに、花に水をやったり絵を描いたりする姿、あるいは玉乗りの練習をしている子供の姿もあり、意外にも芸術に親しみ深い。見上げて歩くホノカの顔も朗らかになる。
「おぅあんた! 楽しんでるみてぇだな」
そんな彼に声をかけたのは先程メィカ札を渡してきた中年の男だ。右手には灰色の紙で取っ手を作った骨付きの肉が香ばしい匂いを漂わせている。
「あぁどうも! おかげさまで、切符もこの通り買え……」
お尻のポケットに手をつっこんだホノカの言葉が途絶え、身体が硬直する。ポケットの中にあるはずの切符がない。何度も確認するように他のポケットを探り始めるが、無いものは無い。
「まさか」
ホノカの顔は蒼ざめた。ついさっき路地裏で別れた女が、尻を愛撫した時に掠め取ったのだとようやく理解したのだろう。享楽市に入る前、桃色の髪の女の子が若者を路地裏へ連れ込み、そしてズボンを履きなおし追っ手から逃げる若者を目にしておきながら、彼は自分には関係ないとどこか高をくくっていたに違いない。そのツケがここで回ってきたのだ。駅の老婆いわく切符は三千六百レタウ。そのまま転売すれば二十日そこらを食いつなぐには十分な金額だ。あるいは女を追いかけていった男もグルで、今頃仲良く山分けをしている最中かもしれない。ともかく切符を失ったホノカは虚空を見上げふらふらとその場にへたり込んだ。
「おいおい大丈夫かい? どうやら、ヤられたようだな。はっはっは!」
意気消沈するホノカを前に豪快に笑う男にはデリカシーの欠片もないが、その笑い声には彼を馬鹿にした響きもなかった。むしろ小さなミスだと笑い飛ばしてさえくれる、懐の深い笑い方だ。
「そうふて腐れなさんな。チャンスはいくらでもある。そしてあんたは今最高のチャンスを前にしてるんだぜ……俺はラジーマ。あんたは?」
魚田峰ホノカ。彼がそう名乗るとラジーマは肉を食いちぎり骨を落としながら“愉快な名だ”と笑った。
「なぁホノカ、取引といこうぜ。城まで連れてってやる代わりに、それまで俺らの用心棒にならねぇか?」
行く当てのないホノカにとってその誘いは願ってもないものだった。彼は差し出されたラジーマの手を取ると、感謝の言葉を重ねて立ち上がる。
「いいってことよ。さ、こっちだ」
路地へ入っていくラジーマを追い、ホノカは周囲を見回す。薄暗くじめじめとしてカビ臭い道は所々に更なるわき道があり、まるで迷路だ。おそらく初めて訪れた観光客が一度足を踏み入れれば、日の目を見ないまま一生を終えることだろう。実際所々で風化した骨が散らばっている。
虫が集るトンネルをくぐり、刺すような腐臭が漂う角を曲がって、ラジーマの身体では通れそうにない建物同士の間を無理やり抜けると、二人の前を細身の青年が駆け抜けた。程なくして見るからに荒くれといった風貌の男三人が怒鳴り声を上げて横切った。
「てめぇこの野郎! 待ちやがれ!」
「俺たちの大事なモン奪っておいてただで済むと思ってんのかぁ!」
二人のいる場所から既に豆粒に見えるほど遠くへ逃げる青年。しかしホノカが指先ではじいた水滴は更に速く、小麦色の後頭部を見事に射当てた。
すぐさま青年を捉える三人の荒くれ。一人が青年の胸ぐらを掴み上げ、前後に揺らしながら怒鳴りつける。
「うちの大事なガキどもをどこへやった!」
「誰が答えるか! お前達のような下衆に!」
「てめぇ!」
囲む荒くれの一人が殴りつけようとした時、ラジーマとホノカが追いついた。荒くれ達は足音に振り向くと、ラジーマの姿を見て姿勢を正す。捕えられているのは少し前に紙劇場で子供たちを集めていた男だ。
「お、親分!」
「まぁ待て。殴るのはよせ。客人の前だ」
ラジーマは荒くれ達に起こさせた青年の肩を軽く二度叩くと、側の扉を開けてホノカに手招きをした。ホノカはそっぽを向く青年に目を向けていたが、やがてラジーマの後に続いた。
薄暗く細い廊下の床がミシミシと二人分の音を立てる。そのわずかな隙間にチョロチョロといった水音が混じるのは、土地代も払えない民達がこの建物を公共の水路の“上”に建てたためだ。また天井や床に煉瓦ではなく木材を使うことで費用を抑えている。その代償に床が腐ったり、そこら中が雨漏りだったりと欠陥は多い。説明するラジーマは“この辺りじゃ別に珍しいことでもない”と言いながら階段を下る。
「それにしてもさっきは捕まえてくれて助かったよ。流石だなぁ」
「…… “返せ”って聞こえたからつい反射的に」
ひんやりとした壁に手を伝い降りるホノカ。足元の段差はいつの間にか木から煉瓦に変わっている。地下一階の脇に小さな川が見える部屋は、ここがかつて日の当たっていた場所とは思えないほどにジメジメとして薄暗い。そしてさらに下へ向かう階段を二人は進む。
「それにしても、城まで何しに行くつもりだい? ここだったらあんたなら食っていけるだろうに」
「ある人を探しにね」
「アルヒト? なんだいそりゃあ。高値で売れるのか?」
この世界では様々な種族が文化的に共生しており、そのために“人間”や“ヒト”といった言葉は存在しない。ラジーマの問いにホノカが“人”を“民”と言い換えると、ラジーマは大きく頷いた。
「あぁ民探しか。随分と身分の高いお知り合いじゃねぇか……あぁ着いた。紹介するぜ。うちの“家族”だ」
ラジーマが扉を開けると、常夜の賑わいが二人を迎え入れた。等間隔にあいた壁の窪みでゴルデアがぼんやりと光を発し、ユーカクの二倍はあろうかという、巨大な芋虫のような移動機械と十数人の民を照らしている。それぞれ肉を食い、酒に酔い、笑い、殴りあっているその誰もが無骨で、荒々しく、豪快だった。その中には青年を追っていた荒くれたちの姿もある。
「親分!」
民の一人がラジーマに気づくと、荒くれたちはわらわらと二人の前へ集まった。どの男もホノカより二回りほど大きく、なんとも威圧的だ。
「紹介しよう。今日から少しの間用心棒として雇うことになったホノカだ」
「よ、よろしくお願いします」
男達の刺すような視線がホノカに集まる。品定めをしているのか物珍しさからか、しかし如何せん彼らの目つきが悪すぎて、傍からは目で凄んでいるようにしか見えない。
「親分、用心棒にしては細くないッスか? これじゃいざと言うときポッキリいっちまいそうっスよ?」
「こう見えてお前の十二乗は役に立つ。さあ、ここもそろそろ引き上げるぞ。準備しろ」
ラジーマが言うと軽口を言いながら笑っていた荒くれ達はどっと散らばり、広げていた椅子や机や食料を機械に積み込み始めた。
「もう出発するんですか?」
「ああ、奴が来ないうちにな」
ラジーマ曰く、この空洞は“ヘイゼン水路”という数百年前に使われていた地下水路であり、オーレスウサ地方中に繋がっているらしい。彼らはこれを利用して独自の移動ルートを確保し、個人の流通業で生計を立てているという。
「だが、ある時俺たちは見ちまった。真っ暗闇の向こうから俺たちを見つめる、ギラついた緑色の眼を……この水路にゃ何かがいるんだ」
恐怖を煽る物言いに息を呑むホノカだが、同時に前のめりになって聞き入ってもいた。
「でも、このアクバーで跳ね飛ばしてやったのさ」
機械の車輪をコツンと叩いて言うラジーマはガッと笑い出す。拍子抜けしたのかホノカもつられて吹き出し、空洞に二人分の笑い声が響いた。
それだけではない。二人の視線の先、アクバーの遥か後方からドドドという音が響く。それは次第に大きくなったかと思うと、ラジーマは眼をかっと開いて大慌てでアクバーに飛び乗った。
「早く乗れ! 振り切るぜ!」
言われるがままホノカが飛び乗った時、それは目に見えるところまで近づいていた。ギラついた巨大な一対の眼が緑色に光り、濁流のごとき勢いでアクバーに迫る。その大きさにホノカは顔を引きつらせた。
「こんなの跳ね飛ばしたんですかっ!?」
「前はもっとちっさかった! これでも食らえっ!」
ラジーマが投げた爆弾は緑色の眼からやや距離を開けたところで爆発した。火球と黒煙が広がる中、アクバーの大きな車輪がようやく動きだす。
「ほら、あんたも投げろ! 振り切れる速さに加速するまでとにかく投げるんだ!」
そうラジーマが叫ぶ頃には既に黒煙の中でギラつく眼の輝きが蘇りつつあった。ホノカは手渡された爆弾を言われるがままに投げるが、怪物は爆発をものともせず走ってくる。その眼はあっという間に目の前だ。
「こんなに早くちゃ振り切れねぇだろうがぁ!」
ラジーマの叫びと同時に、ギラつく眼の下に開いた大きな口が氷塊を咥える。足を踏ん張って立つホノカが怪物に向けているのは、布が解けたメキュハクヒの槍だ。その先から、怪物の顎が外れるほど大きな氷の塊を口の中に直接作り出していた。
動きを止めた怪物は恨めしそうにラジーマを見ながら涙を流していたが、その姿もみるみる小さくなって暗闇に消えた。もう追っては来ないだろう。
「助かった……次はもっと早く使ってくれよ」
ラジーマは言いながら肩を叩いてアクバーの中へと入っていく。ホノカは槍を布で包みなおし、アクバーに入りかけてもう一度後方の闇を眺めた。