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-ORIZO- 異世界の英雄  作者: 小浦すてぃ
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ーラインッシュターリアの伝承ー

 フライター暦二二六年。火の国初代国王フランシング・フライターが全土統一を掲げ二世紀余りが経過し、争いの歴史を紡いできた火の国は今や大陸のおよそ七割を支配下に置いていた。

 かつてこの大陸には無数の小さな“クニ”が乱立していたが、火の手に呑まれた土地にかつての面影はない。現国王フランシング・スコリエルが城を構えるランドグラーシャの街及びその近辺が“葉のクニ”と呼ばれていたのはわずか十数年前のことだ。今その街並みは火の国による大整備が進んだことで、大陸有数の大都市へと変貌していた。それでも故郷を奪われ火の国の文化を上塗りされた者達は、肌の色や些細な言葉の違い、そして苦い記憶から来る心の焼け爛れを拭い去れないでいる。火の国の兵士達にとっては、遠方の雪国のような最前線こそ生死を分かつ激務だが、人種や信仰、かつての国籍が異なるもの同士が入り混じった街の治安を守ることもまた激務と言っていいだろう。

 ハイトランズが水の国を後にして一ヶ月が経った夜。灰色の装束に大きめの黒い軍服を羽織ったアンニィはぼんやりと照らされた城内の一室に入ると、将軍の位を示す腕章を取り外し年輪の霞んだ机上に放り投げた。どの部屋も煌びやかな装飾が埋め尽くす城内において、将軍の意向が反映されたこの部屋はある種の侘しさを漂わせている。金に縁取られた深紅の壁は木の板で覆われ、本棚や物入れは白い塗装の名残が不規則に模様を描く。石畳が敷き詰められた床は磐石だが、椅子は座れば大きく軋む。戦火に呑まれ打ち捨てられた民家のような内装に、一人で寝るには少し大きい寝具が唯一、将軍が使うに相応しいものに見える。昼間であれば雄大な海原を望める窓から吹き込んだ風は部屋の空気を洗い、姿を変えず将軍の帰りを待つこの部屋には舞い上がる塵の一つもない。

 アンニィはクシミア不在の間将軍代理として部屋をあてがわれ、彼の代わりに任務をこなすこととなった。しかしその内容は最前線を押し上げることではなく城下付近の治安を守ることであり、彼女は力を持て余していた。それでいて、近頃ライズと名乗る何者かによる騒動が相次ぎ、民への対応に追われながらも本人とは一度も対峙できないことに不満を募らせていた。

 椅子に腰を落とすと、彼女の毛先が揺れて火の粉のようにちらつく。戦場でクシミアと共に目にしたであろう襲撃の色は、彼女の瞳に憂いを宿らせる。映るのは持ち上げられたペンダントの飾り。無色水晶中の赤い砂が、上の球から下の球へとこぼれ落ちていく。


 コンコンコン――軽いノックに顔を上げた彼女は即座に身を起こし、勢いそのままに扉を開ける。しかしほころびかけていたアンニィの顔は即座に引き締まると同時に、落胆の影を窺わせた。

「あ、あのっ」

 茶褐色の制服は高官の印だ。それを身につけた来訪者の少年は驚くほどに貫禄がなく、おどおどとした態度で“王の命令で話を聞きに来ました”と告げた。体格は華奢で目尻が下がっており、焼き菓子の生地を薄めたような頬の色は堅苦しい城内より、緑に囲まれた湖畔の方が似合うだろう。背も低いために、事前に王からの紹介がなければ男女の区別は付かなかったかもしれない。名をジェイビーという。アンニィは彼を招き入れると、椅子に座るよう促した。

 おずおずと少年が踏み入る中再び吹き込んだ風は、彼の透き通るような銀色の髪をその耳元に揺らし、赤銅色の虹彩を瞼に覆わせる。その様子に溜息をつきながらアンニィはベッドに腰かけ、装束を整えるように何度か腹部を撫で下ろした。

「話をするのは構わないが、お前はロゥゼロ――王が特別に選んだ側近だ。大人しく可愛がられていれば良いものを……こんなのは下っ端の仕事だぞ」

「いいんです。僕だって、何かお役に立ちたいって思っていましたから。王様に拾ってもらったお礼を返さないと」

 椅子に座り手元に小さな白紙の書物を用意した彼は、胸ポケットから金色の筆記具を取り出すと、幼い顔をアンニィに向けて言った。その声色もまた見た目相応で、ドレスでも着させれば貴族の箱入り娘と言われても信じてしまうだろう。アンニィはわずかに頬を緩め視線を窓の外に広がる暗闇へと移した。 

「拾ってもらったお礼か……何が聞きたい? 将軍との二度目の進軍のことならうまく話せる自信があるが」

「将軍代理の、故郷の話をしていただきたいのです。特に、どんな伝説があったかについて――」

 言いかけて少年は身体をすくませた。顔をしかめ書き手を捉える彼女の目があまりにも鋭く見張っていたためだ。普段の威厳に満ちたそれとはまた異なる厳しい視線。窓から入り込む風が冷や汗の浮き出た額を撫でると、彼の全身に鳥肌が走る。さながら戦慄が止めた時の流れの中。固まって張り詰める空気に息が詰まりそうな空間。しかし程なくしてアンニィが吹き出すとともに、時は流れ始める。

「王の戯れにも困ったものだ。こんなことに時間を使わせるくらいなら、君の身体の鍛錬に使わせた方がいくらか有為というものだろうに」

 呆れたような彼女の言葉にジェイビーは俯く。彼の純朴さはさながら子犬だ。

「まあいい。王に逆らったって寝床を失うだけだ。そうなると困るからな。さて、私の故郷についてだが……君はゴルデアを触ったことはあるか」

 ゴルデアは空気に触れると光を発する鉱石で、触れた部分は長い時間をかけて黒く変色する。照明の他にハイトランズ等大型機械の燃料としても使われるため人々の身近に溢れている物ではあるが、生活する上でわざわざ手にとることはない。ジェイビーは天井の無色水晶に隔てられた窪みにはまるゴルデア鉱石を見上げ、ふるふると小さく首を振った。

「だろうな。私の故郷はラインッシュターリア。昔は灯のクニと呼ばれていた。近くの山からゴルデアが取れたからな。男達は朝も夜も山にこもっていたものさ。君のような子どもでさえもな」

 笑いを含んだ言葉に、ジェイビーも見てわかる愛想笑いを返す。鉱山の仕事は、ジェイビーの身体では一日と持たないだろう。

「だからこそ、男達はあのクニの狂気に気が付かなかったんだ。殆どの男達は」

 アンニィが目配せすると、彼は慌てて視線と筆記具の先を書物に落とす。

「ゴルデアが見つかったときの話をしよう。昔々、私達が生まれるよりずっと昔のこと、クニの男達は畑を耕して暮らしていた。近くには果樹林もあったから、女達は協力して果物を集め食料に当てていた。誰も皆、とにかく平穏な毎日を送っていたそうだ。

 だがある日、灯のクニは酷い嵐に見舞われた。家屋はほとんど壊されて、畑も果樹もズタズタにされた。多くが死に、より多くが行方不明になり、生き延びた者も無傷では済まなかった。

 嵐が去って、人々は始めこそ友人や知人を心配していたが、なんと言っても食料がないからな。次第に自分達を生かすことに必死になっていった。傷んだ果実、汚れた野菜、果ては木の皮まで、食べられるものはなりふり構わず食べていたらしい。当然そんなものを食べて無事で済む筈もなく、ヒトリまたヒトリと体調を崩していった。近くの村に助けを求めたくとも、今とは違って片道だけで五日はかかる。助けてもらえるだけの見返りも用意できないとなれば、クニは惨めに消えていくしかなかった。

 だがそこで、近くの山へ食料を探しに行った男がゴルデアを見つけたんだ。嵐が地表を削ったせいで目に見えるところに出てきたのかもしれないが、ともかくこれさえあれば、助けてもらう見返りとしては十分だってことで、早速隣のクニに使いが出された。選ばれたのは、その男の妻だ。彼女はその時一番健康で、しかも国で一番足が速かった。使いにはうってつけだったということだ。

 彼女は幸い獣や夜盗の類にこそ遭わなかったものの、その旅が過酷だったことには違いない。なんと彼女は一睡もせず走り続けたそうだ。そして隣のクニに付いた彼女は事情を説明すると、すぐに来た道を引き返した。彼女が帰ってきたのは、村を出て七日が過ぎた頃。飲まず食わずで力を振り絞った彼女は、皆に迎えられるとすぐに気を失った。

 隣のクニから援助が届いて、復興の兆しが見えてきた頃、彼女は目を覚ました。医者には“生きていることが奇跡”とまで言われたらしい。

 その後調べてわかったのは、彼女のお腹には新しい命が宿っていたということだ。そう、“宿っていた”……彼女は無理をして、お腹の子を失ってしまったんだ。

 クニが十分立ち直って、彼女とその子供の像が建てられた。クニのために命を賭して力を尽くした母親と、母親を守るために死期を引き取ったお腹の中の子供を称えて――というのが、灯のクニで伝わっていた話だ。これがただの昔話だったら良かったんだがな」

「ただの昔話じゃないんですか?」

 筆記具の紙を擦る音が止み、ジェイビーは語り手の方へ目を上げる。それまで涼しい顔で話していたアンニィは窓の外に広がる闇を眺めたまま、眉間に皺を寄せて頷いた。

「ああ。クニではこの話がやたら神聖視されていてな。私が物心ついた時にはすっかり根付いていたんだよ。種を盾に変える忌まわしい伝説が」

 言葉の意味を察するにはまだまだ青いようで、彼女はジェイビーの不思議そうな顔の傾きを直すように言葉を付け足した。

「灯のクニでは、女は早くて十、遅くとも十五で子を身ごもる。しかも自分からだ。それが自分の身を守ることだと信じて疑わずにな」

 紙に落とされた筆記具の先は、しかし文字を記さなかった。彼女の言葉が氷の呪文のように、彼の動きを止めている。アンニィが足先で床を叩くと少年は魔法が解けたように身体を震わせ、ようやく手を動かし始めた。

「クニはゴルデアの産出で裕福だったからな。次から次へと子供が産まれても、育てることは重荷ではなかったらしい。それがますます皆の感覚を狂わせていた。生まれた子供はすぐに養育所に引き取られ、誰が親かもわからないまま育てられるんだ。男は炭鉱夫、女は家政婦としてな。まあそんな調子で、人口も収入も減らさずのさばってきた訳だ」

「何のためにそんなことを」

「ただクニを存続させたかっただけだろう。民が減ればゴルデアを掘り続けることが出来なくなるし、外から民を呼んで自由に掘らせてもゴルデアの価値が下がるだけだ。クニの民達だけで掘らせるのが一番管理しやすかったんだと思う……そうだな。子供の頃から管理しやすいように育てているものな。養育所はいわば部品工場だ」

 書き手は眉をひそめ悲痛に顔を染めながらも紙を擦るペースを落としていない。どうやら書記として十分な素質を持っているようだ。貧富の差が激しい中で天職に就けるというのは幸運なことだが、まず自らの天職が何かを判断すること自体難しいものだ。そこを経ぬまま幸運を掴んでいる彼は、理想と現実の狭間で喘ぐ人々にとって羨ましいことこの上ない筈だ。もっとも、天職が何かを判断する経験がないという点は灯のクニの炭鉱夫達にも言えることではあるが。

「十歳になると、自分の家が割り当てられる。土で固められた、ヒトリで過ごすには広すぎる家だ。そこには既に生活に必要な食料や衣服、家具一式が用意されている。二人分だ……何故だかわかるか?」

 困惑の表情を浮かべつつも、いつ同伴者が現れても不都合のないように、と答えるジェイビーに、アンニィは重く頷く。

「そうだ。加えて孤独を感じさせるためというのもある。もし衣食が足りていなければ、生きることに必死で孤独を感じる暇などなかった筈だ。手元にあるものが奪われることなど考えず、更なる豊かさを求める、というのは、この辺りにいれば嫌でもわかるだろう」

 彼女は胸元に下がる飾りを持ち上げ、中の砂を揺らして続ける。

「それまで養育所で揃って暮らしていたのに、急にヒトリで暮らせと言われれば、途方に暮れるのも当然だ。そうやって、あくまで自分から同伴者を求めるよう仕向けるんだ……クニで暮らす民というのは、比較せずにはいられない生き物だ。一度ヒトリで寂しく惨めな時期を味わっていれば、相手が見つかったときに“もう二度とあの頃には戻りたくない”と思うものさ。どんなに酷い相手でも、ヒトリよりマシ。そうして女達は適当に相手を見つけていく」

 場違いなほどに爽やかな風のおかげで、空気はいつまでも新鮮だ。それでも身の毛のよだつ話というのは身の回りの心地よさを遮り、ほんの些細な気味悪さを増幅させる。

「まぁそれだけなら、あるいは孤独に耐えてヒトリで生きていこうとする民がいてもおかしくない。そこで灯のクニを牛耳る養育所の面々は、さっきの話を使って子供たちの記憶の闇に歪な光を焼きつかせるんだ。身に降りかかる不幸は、お腹の中の子供が引き取ってくれるとな。どうだ、狂っているだろう?」

書き手は落ち着いた風に俯いて手だけを動かしていたが、おもむろに顔を上げて発したその声は震えていた。

「それではアンニィ様も」

「いや、私は孤独を紛らわすために、他の民ではなく伝説そのものに頼ったんだ。伝説に出てきた彼女のように、いつか自分にしか出来ないことを成し遂げたい。その思いを胸に、まずは彼女の真似をしようとしてな。毎日クニの周りを走ることから始めた。クニの慣習から外れた私に近づく物好きなんている訳もなく、結局十五まで私はずっとヒトリだった。孤独を煽り相手を見つけさせるための昔話が、孤独の逃げ道そのものになるなんて、奴らにとっては想定外だっただろうな」

「寂しくはなかったんですか」

「勿論、寂しいという思いはあった。だが歪んだ伝説が組み込まれたクニの仕組みに気づいていた私には、相手を見つけることが奴らの策にはまったように思えて堪えられなかった。それに、私自身がお腹の子を身代わりにしてしまうんじゃないかと思うと恐くてな……私にとってこの伝説は、呪いのようなものなんだ」

 アンニィは目を細め、切なげな表情で間を取る。少しして紙を擦る音が止むと、彼女は苦い過去に眉をひそめ、顔を強張らせた。

「十五となる夜のことだ。いつまでたっても相手を見つけようとしない私に業を煮やしたのだろうな。奴らはいきなり家にあがり込んできた。養育所で見た顔が十数人。皆裸だった。驚くかもしれないが、その中には女や子供もいたんだ。幼い頃から教えられてきたことを信じて疑わなかった女たちの腹は当然膨れていて、私のことを神に逆らう魔物を見るかのような目で見ていた。それも神事を始めるかのような神妙な表情を崩さないままだ。一方男はというとどいつも酷い顔をしていた。今にして思えばあれほどに下卑た笑みには出会ったことがない。

 三人の男が私の身体を掴んで固定し、他の奴らはそれを取り囲んだ。必死にもがいても三人相手に勝てる筈もなく、悲鳴を上げようとすると口に布を押し込められた。それでもまだもがきつづけていると、男のヒトリが私の腹を殴った。私は泣きながら、魔物とはお前達のことだと言葉にならない叫びを上げた。そのときだ。奴らが背にした入り口に紅い揺らめきが見えたのは」

「その日ってもしかして」

「そう。“火の国の英雄が目覚めし夜”だ。当時一兵卒に過ぎなかった将軍は中に入るなり槍を振り回して奴らの身体を裂いた。いやらしい顔の男も毅然と振舞う女も、そのままでも遠くない死を控えた老人や部品として生を受ける筈だったお腹の中の子供達まで、無差別に殺した。

 お腹の子供にまで手をかけたことは衝撃的だったようでな。この一件があって将軍は良くも悪くも名を上げた。見境なく襲う火槍の魔物と揶揄する者もいたが、私にとっては最初から、呪いから解放してくれた英雄でしかなかった。

 将軍は私にも矛先を向けたが、何を思ったのか手を下さずに去っていった。後を追おうと外に出て、家という家が火や煙を上げていたがそんなことはどうでもよかった。むしろこの土地を離れる良い口実にさえなった。遠くに火の国の一団が見えて、私はそれを追って、いろいろあって将軍に拾ってもらったんだ」

 灯のクニの戦いで戦果を挙げたクシミアは、褒美として女を要求した。当時の王は寛大にも生意気な一兵卒の要求を飲み、彼の連れてきた灯のクニ出身の女性を与えた。『火の国の英雄が目覚めし夜』と題される口承ではそのように締めくくられる。彼の戦いは本人の知らないところですっかり英雄譚として広まっているのだ。

「すまないな。わかりづらかっただろう。だが私は詩人ではない。多めにみてくれ」

 ようやく表情の和らいだ彼女に、ジェイビーはとんでもないと慌てて手を振った。右の小指の付け根は黒く汚れているが、本人は気にも留めず道具を片付け始める。その動きの美麗さは見る者の目を留めるものがある。

「なるほど、王が放っておかないわけだ」

 声に手を止めた彼は問うように首を傾げ、くりくりとした瞳に将軍代理の笑みを映す。

「どうして王が君をロゥゼロとして迎えたのか、わかった気がしてな……男である以上武術の心得はあった方がいい。恩人を守ること以上の恩返しはないだろうしな。その気があるなら私が君を戦士にしてやる」

 コンコンコン――軽いノックに二人が顔を向ける。扉が開くと、二人は立ち上がって姿勢を正した。訪れたのは火の国の宰相、ナンシー・フィクツだ。端整な顔立ちで頬には銀髪がかかり、性格を表したかのような品のある微笑みを浮かべている。身体の露出を押さえる空色のローブは宰相に相応しい礼節を持つと共に、非の打ち所がない身体の起伏がみせる包容力をより深くする。

「フィクツ様!」

「“お姉様”でしょ?」

 悪戯っぽい声音と仕草にたじろいで言い直すジェイビーは、まとめた荷物を抱えると頬の赤いままにそそくさと部屋を後にした。

「ずいぶんと可愛がっておられるようですね」

「ええ。見ましたか今の愛らしい顔。私のロゥゼロだったらどんなに良いことか」

 頬に手を当てて扉を見るフィクツの顔は慈愛に満ちているが、よく観れば目に恍惚の色が混ざっているのがわかるだろう。さながら純粋に小動物を愛でる処女だ。

「それにしても、貴女がこうもすんなりと昔のことを話すなんてね」

 唐突な言葉の矛先にアンニィの目が大きく開かれ、口は開いては閉じを繰り返し、視線は言葉を捜すように忙しなく動いた。ようやく言葉を発した時には、フィクツは既に先程まで書き手が使っていた椅子に腰を落とし、机上の腕章を弄んでいた。

「どこから聞いてらしたのですか」

「“王に逆らったって寝床を失うだけだ”の辺りかしら。私が聞いても頑なだったのに。もしかして、あの子気に入っちゃった?」

 責めるような口ぶりだが、声音はどちらかといえば悪戯っぽい。しかしアンニィは涼しい顔で「彼が聞き上手なだけです」と返すと、宰相は穏やかな顔を窓の外の暗闇に向けた。

「よかった。そうよね。貴女は将軍一筋ですものね」

 こうして臆面なく二人の関係を言ってのけるのは彼女くらいのものだ。アンニィも相手が相手故に黙って頬を染めているが、部下がからかおうものならこっぴどく打ちのめしていただろう。

窓から吹き込んだ風が銀髪を揺らす。アンニィはぱたぱたと顔を仰ぐと、

「ところで、私に用があったのでは?」と露骨に話題を変えた。その様子にフィクツも小さく上品な笑いをこぼすが、やがて穏やかながらも真剣な様子で言った。

「昼間、はるか遠くで大きな力がぶつかり合うのを感じました。一つはメキュハクヒの力も加わっていたけれど、水の国にはあれほどの力を持つ者がいるのですね」

 クシミアの念願叶い、彼は再びオリゾと相見えたと知ったアンニィの顔を一筋の汗が伝う。ぐいとフィクツに詰め寄る彼女はいても立ってもいられないらしい。

「クシミア様は、勝ったのですか? それとも」

「そこまでは。でも、確実に片方は消えました……万が一のことは覚悟しておいたほうがいいわ」

彼女の鬼気迫る形相とは対照的に、宰相は落ち着き払って答える。しかし彼女を面と見つめ返す顔の思案に余る様子は拭えない。命が没するのを真似るように水分が彼女の顔を伝いそうになって、アンニィはするりと姿勢を正し宰相に背を向けた。

「ご忠告、感謝します。ですがその必要はありません。私のクシミア様が、負ける筈ありませんから。それより、私に何か用があったのでは?」

「そうでした。ライン・ダスターゴという名に聞き覚えはありませんか」

 ダスターゴ。その響きにアンニィの眉が不快に歪む。彼女はベッドに腰かけつつ「ラインッシュターリアの鉱山にしがみ付く寄生虫ですか」と言葉にするや否や、宰相は「貴族よ」と訂正する。

 灯の国が襲撃された後、先代国王とわずかに残った灯の民の間で、諸々の権利に関する協定が結ばれた。多くの土地や民は火の国直轄の財産となったが、どんな手を使ったのか鉱山の利権だけは死守した金の亡者がいた。その民こそ、灯のクニの生まれではないにも関わらず当時灯の国で養育所を取り仕切っていた男、ダスターゴである。

「彼が今ゴルデアの値上げを検討しているらしいの。今こちらに向かっていて、四十日程で着くんじゃないかしら」

「いよいよ生活が苦しくなったということですか」

「私達のせいと言われれば言い逃れは出来ないわ。ゴルデアは今や生活に欠かせない資源。それを管理する彼に一般市民の数百倍の税率をかけていることは知っているでしょう?」

「だからゴルデアの値を上げるか税を下げるか選べって言いに来るわけですか。道中でくたばってしまえば頭を悩ませずに済むというのに」

「アンニィ」

 悪態を窘める宰相の声に、アンニィは溜息をつきながらも従順に態度を改める。

「ダスターゴ氏は大事な取引相手。彼の案内を貴女にしてもらいたいの。将軍代理がわざわざ出てくるとなれば、私達がどれだけ向こうを買っているかわかってくれる筈」

 宰相はアンニィの蒼ざめてゆく顔に気を留めることなく、机の角を指でなぞりながら淡々と任務を告げる。部屋の主が立ち上がってなお、宰相は指を動かすのをやめない。

「私に奴の給仕をやれと言うのですか!?」

「ええ。失礼のないようにね。ちゃんと最後までお世話するのよ?」

 臆面のない答えに言葉を詰まらせた部屋の主は、逡巡の後諦めたように息をついた。立場上、どんな命令であっても彼女は断ることはできない。

「結局前線には出してもらえないんですね」

「この取引がうまく行けば、すぐにでも。それにこの仕事は、貴女にもそう悪い話じゃないと思うけど」

 せめてもの口答えが利いたのか、悪くない報酬の言質を引き出すとアンニィは窓を閉め、

「手が滑っても知りませんよ」と一言呟いた。

「ふふっ、そうね。頼りにしてるわ……そういえば、ミナリ様を見ていないかしら。この頃毎晩尋ねてもいらっしゃらないの」

 急に話題を変えた宰相に目を丸くしながらも、アンニィは横に首を振りながら答える。客人の行方がわからないなど本来あってはならないことだが、宰相の様子には焦り一つ見られない。

「そう。まるで風みたいな人よね。彼もなかなかだけど、ジェイビー君の方が初心で可愛いわ」

夜風の進入路は絶った筈だが、彼女は呆れたような溜息に似た風の冷たさを背筋に受け、えも言われぬ感触に顔を強張らせるばかりだった。



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